やっぱり、お嬢様で良いです
ヘレナは侍女用のお仕着せを身に纏い、グッと腕まくりをする。
場所は玄関ホール。金属製のバケツに水を張り、手にはモップを準備した。手ぬぐいを腕に巻き付け、気合は十分である。
「本気でやる気ですか?」
困ったような笑みを浮かべ、レイが尋ねる。あの後も、再三引き止めにあったが、ヘレナの意思は固かった。
「もちろん。だって、お妃教育はこなせるのに、掃除ができないなんて変な話でしょう?
それに、教会でお祈りの次に大事なお仕事は掃除だって聞いたもの。聖女のわたしが掃除をしたことすらないなんて、おかしいと思うわ」
よいしょ、とバケツからモップを取り出し、ヘレナは微笑む。すると、モップから水滴が滴り、床に小さな水たまりが出来た。あぁーー……と唸りつつ、レイは一から掃除の手順を教えてやる。
「そうです。水は固く絞ってください。滑って転ぶと危ないですから」
「そっか……そうよね。うん」
相槌を打ちながら、ヘレナはメモを取っていく。まだ何も始まっていないというのに、既に額に汗が滲んでいた。レイはハンカチでそれを拭ってやりつつ、眩し気に目を細める。
「それからお嬢様――――」
「待って、レイ」
ヘレナはレイのレクチャーを遮りつつ、そっと顔を覗き込む。
「……如何しましたか?」
「あのね……今のわたしは侍女の格好をしているし、お掃除をしているじゃない? だから今は『お嬢様』って呼ばれるのは嫌だなぁと思って」
そう言ってヘレナは悪戯っぽく笑う。
ここに移住して以降、ヘレナは再三再四『お嬢様と呼ぶのはもう止めて欲しい』とレイに伝えていた。けれど、ヘレナに負けず劣らずレイも頑固な性質だ。
『お嬢様はお嬢様ですから』
と言って、頑なにヘレナの名前を呼ぼうとしない。
(わたしはもう、お嬢様じゃ無いんだけどなぁ)
ヘレナはレイと同じ平民な上、正式には雇用関係を結んでいない。完全に対等な関係の筈だ。
(……レイにはまだ受け入れられないのかもしれないけど)
ヘレナはこれから平民として生きて行く。元の地位に戻ることは無いだろう。ならば、平民として生きていく力を身に付けるべきだとヘレナは思っていた。
だからこそ、ヘレナは二人の間に存在する見えない壁を乗り越えたい。けれど、レイはヘレナが壁を乗り越えようとする度に、境界線を新しく引き直してしまう。そのことが、ヘレナはとてももどかしかった。
「今ぐらい、名前で呼んでよ。ね、良いでしょう?」
ヘレナは朗らかに微笑みつつ、レイのことを真っ直ぐに見つめる。袖を軽く引っ張ると、レイはグッと唇を引き結んだ。
「……本当に良いのですか?」
「……え?」
聞き取れないほど至極小さな声で、レイが何かを口にする。掃除のために開け放した扉から、秋風が優しく吹き込む。風に揺れたヘレナの髪を一房、レイは掬った。
「一度超えたら戻れなくなりますよ? ヘレナ様」
「…………ふぇっ!?」
その瞬間、ヘレナの肌がぶわりと粟立つ。身体の中心が熱くなり、鼓動が恐ろしい程に速くなった。
「如何したのですか、ヘレナ様? お顔が真っ赤ですよ?」
そう言ってレイは悪戯っぽく微笑む。いつにも増して距離が近い。彼の指がそっと頬を撫で、ヘレナの背筋がピンと伸びた。
「レッ……レイ、あの…………」
「さぁ、掃除を始めましょうか。こうして――――そう、床の形に沿う様にモップを動かしてください。ゆっくりと、丁寧に。……上手です」
レイはヘレナの背を覆う様にして、背後からモップを動かす。まるで抱き締められているかのような感覚に、ヘレナの身体が大きく跳ねる。鼓動は先程よりもうるさく、ドッドッと大きく鳴り響いていた。
「ヘレナ様」
耳元でレイがそう囁く。この屋敷には二人しかいない上、内緒話をする理由もない。おまけに名前を呼んだ理由もないらしく、レイの言葉はその後、どこにも続かない。
「レイ……あのっ、あのね?」
「はい、何でしょう? ヘレナ様」
レイはそう言って目を細めた。心臓を鷲掴みにするような、魅惑的な笑みだ。身体中の血液ががざわざわと騒いで、ヘレナはゴクリと唾を呑んだ。
「名前は呼んで欲しいけど、もう少し、その……いつも通りの距離感が良いなぁって思いまして……」
「何故です? あなたが私に名前を呼ばせたのは『壁を無くしたい』からでしょう? ですから私は、ヘレナ様との距離を縮めるために、一切の遠慮を止めたのです。ここまで踏み込ませたのは他でもない――――あなた自身ですよ?」
レイはずいと身を乗り出し、ヘレナの手を握った。熱い眼差し。ヘレナの頭の中が真っ白になる。
(えっ……えぇと…………つまり、どういうこと?)
ヘレナは決して察しの良い方ではない。半ばパニックに陥りつつ、レイの真剣な表情を見つめる。
「や……やっ――――――やっぱり、お嬢様で良いです」
逡巡の後、ヘレナはそんな結論に達する。レイは満足気に微笑み「承知しました」と口にした。
***
そこから先は、ヘレナにとっては順調そのものだった。
レイに言われた通りの手順で玄関、居間と床を磨いていく。ピカピカに光った床を見ると、何だか心が洗われる心地がした。汚れと一緒に、迷いや悩みまで消えて無くなるような、そんな感覚だ。
「ねぇ、レイ……東の方には『万物に神様が宿る』って信じている国があるのよね?」
ふとそんなことが頭を過って、ヘレナは尋ねる。それは幼い頃、レイがヘレナに教えてくれた知識の内の一つだった
「そうですね。海や空、木々や花々といった自然に始まり、家や食べ物といった無機物迄、あらゆるものに神が宿ると信じている国があると聞いています。
その国では、神の声を聞けるもの――――その子孫が代々国王になるんだそうです。他の誰にも無い特別な力ですからね。王は神そのもの――――そういう考えも存在するようです。
そういう意味で言えばお嬢様――――聖女であるあなたも、十分王になり得るのですよ」
レイはそう言ってそっと目を伏せた。
「お嬢様がこんな形で国を追われるなんて――――あなたはもっともっと尊ばれ、大切に扱われるべきお人です。
お嬢様は何も悪くないのに、あの馬鹿――――いえ、愚かな王太子のせいで、お嬢様がこんな憂き目に遭っていることが、私は許せないのです」
「それでこんなに良くしてくれたの? 国外追放されたわたしのために?」
そう言ってヘレナはそっと微笑む。
レイが穏やかな表情の下に、こんな想いを隠していたことを、ヘレナはちっとも知らなかった。
(だって、いつも『何でもお見通し』って顔をして笑っているんだもの)
今回の国外追放の件だってそうだ。レイはいつものように、淡々と事実を受け入れていると思っていたのだが。
「いえ、私はお嬢様が聖女でなかったとしても、同じことをしました。私にとってお嬢様は、大切なお嬢様ですから。
けれど、お嬢様が追放されたことについて、腹立たしいという思いは消えません。今だって、お嬢様にこんなことをさせている自分が許せないのです」
そう言ってレイは眉間に皺を寄せた。いつも冷静かつ穏やかな彼にしては、珍しい仕草だ。
「そっか……わがまま言ってごめんね、レイ?」
ヘレナは小さくため息を吐きつつ、そっと首を傾げる。
「だけどね……実際に自分で掃除をしてみて良かった。家を大切にすることで、神様と繋がれているみたいな……そんな気がしたから。
それに、レイが普段わたしのためにどれだけ頑張ってくれているか実感できたし」
そう言ってヘレナはニコリと笑う。レイの表情が少しだけ和らいだ。
「ねぇ……明日はレイと一緒に町に行きたいな。この国のことをもっと知りたいの。
これからわたしが生きて行く場所だし、もしかしたら聖女として何かできることがあるかもしれないから」
ヘレナが言えば、レイは目を丸くし、やがて困ったように笑う。
「……本当に宜しいのですか?
お嬢様のために試作中のお菓子も、新しい茶葉も、ティーカップやクロスだって、まだまだ沢山ご用意しておりますよ? 花のような香りがするキャンドルや、美しい絵画、本や雑誌も取り寄せていますし、お望みとあらば宮廷楽団を呼び寄せることも出来ますが……」
「ここに来て数日しか経っていないのに、手厚すぎじゃない? だけど……ありがとう。
わたしは多分、じっとしていられない性質なんだと思う。
それでも、レイにのんびりさせて貰って、すごく幸せだった。色々と用意してくれたから、楽しく過ごせたし。
だから、お屋敷にいる時間は短くなるかもしれないけど、これからも目一杯甘やかしてくれると嬉しい」
そう言ってヘレナはふふ、と笑う。レイは目を軽く見開き、それから穏やかに細めた。
「……もちろん。精一杯甘やかせていただきます」
レイはそう言って、至極満足そうに微笑んだ。