おかしいな
それからヘレナは、屋敷の中を自由に見て回った。
広々とした居間には、座り心地のよさそうなふかふかしたソファが並んでいる。木のぬくもりが感じられそうな可愛らしいテーブルに、レースで編まれたクロスが敷かれ、大きな窓からはよく手入れされた庭が見渡せる。
(なんだか、いつまでも座っていられそう)
そんな感想を抱きつつ、ヘレナは次の部屋へと向かう。
ダイニングルームは白を基調とした部屋だった。エントランスや居間のアットホームで可愛らしい印象とは打って変わり、どこか背筋の伸びるような高級感が漂う。かといって、決して居心地が悪いわけではなく、美味しく食事をするための配慮が至る所に施されているのが分かった。
元々ヘレナがダイニングルームに長居することは無いし、生活にはメリハリをつけるべき――――そんなレイの考えが強く反映されたもののようにヘレナには思えた。
その後もヘレナはお風呂、トイレ、客室と屋敷探索を続けていく。
初めての場所というのは緊張するものだが、同時にワクワクもする。童心に帰ったような気持ちで、ヘレナはあちこちを見て回った。
(だけど不思議)
初めて訪れた気がしない程、親近感と既視感が湧く。とはいえ、ヘレナは生まれてこの方、国外に出たことがない。ここを訪れるのは間違いなく初めてのことだ。
(それに)
やはりお屋敷には、これまで誰も住んだ形跡が見当たらなかった。定期的に誰かがやって来て掃除等のメンテナンスをしているという感じもしない。つい先日出来上がったばかり――――そんな印象を受けた。
(本当にレイは……)
「気に入っていただけましたか?」
その時、背後から唐突に声が掛けられた。レイだ。尋ねている癖に、彼の瞳は確信に満ちている。
「もちろん」
ヘレナがそう答えると、レイは至極満足そうに笑った。
「良かった。お嬢様に気に入っていただけなかったら、何の意味もありませんから」
そう言ってレイは、閉じられていたカーテンを開ける。部屋が途端に鮮やかなオレンジ色に染まった。馬車に揺られ過ぎて時間の感覚がすっかり無くなっていたが、もうすぐ日没の時間らしい。
「こちらがお嬢様のお部屋です。どうぞ、このままお寛ぎください」
ヘレナを部屋の中へ誘いながら、レイはそんなことを口にする。広々とした部屋の中に足を踏み入れつつ、ヘレナはそっと目を伏せた。
(レイが来てくれて本当に良かった)
縁もゆかりもない隣国に追放されたヘレナにとって、レイの存在は僥倖だった。
何と言ってもヘレナは侯爵家のお嬢様だ。ヘレナの足では、今日中に人里に辿り着くことすらできなかっただろう。生まれてこの方野宿をしたことは無いし、あまり長い距離を歩いたことも無い。
そんな中、雨風を凌げるどころか、自分好みのお屋敷まで用意されていたのだ。レイには本当に、感謝してもしきれない。
(だけど)
ヘレナには色々と気がかりなことがあった。
「本当にありがとう、レイ。だけど……今のわたしにはこんな大きなお屋敷を維持するだけのお金はないのよ?
既に知っていると思うけど、わたしはカルロス様との婚約を破棄されてしまった上、二度と国に戻ることはできないの。今のわたしは聖女でも、侯爵家の娘でもない。ただの平民なのよ。
大体あなた、どうやってこんな立派なお屋敷を――――」
「お嬢様がお金の心配をする必要はございません。
それに、これから先どのようなことがあろうと、私にとってお嬢様は、掛け替えのない大切なお嬢様です」
レイはきっぱりとそう言い放ち、ニコリと微笑む。それからヘレナをソファに座らせると、テーブルの上にティーセットを並べ始めた。
(一体いつの間に準備したのかしら?)
ヘレナは目を丸くしつつ、程よく湯気の立ち上ったティーカップを見つめる。ふわりと果実の香りが漂う、美味しそうなフレーバーティーだった。カップを手に取ってみると、冷えた指先にじわりと温もりが広がり、それだけで旅の疲れを癒してくれる。ほぅと小さく息を吐きながら、ヘレナはお茶に口を付けた。
「――――――美味しい」
そんな言葉が自然と口を吐いて出る。心と身体がほんのりと温かく、安らいでいく心地がした。強張っていた全身から力が抜けて、ゆっくりと弛緩していく。
その時、ヘレナはふと、自分の頬が濡れていることに気が付いた。指先でそっと、生温かい液体を掬う。涙だった。目頭にも目尻にも、おまけにヘレナの心すら『泣いている』という感覚はない。けれどそれは、止め処なくポロポロと零れ落ちていった。
「あれ? ……おかしいな」
言いながら、ヘレナは指先で自身の目尻を何度も拭った。涙はちっとも止まりそうにない。
レイがヘレナにハンカチを差し出す。美しい刺繍の施された、可愛らしいハンカチだった。レイが使っている物とは考えづらいので、これもヘレナのために用意されたものなのだろう。
「ありがとう、レイ」
彼の優しさがとても身に染みる。ヘレナはそう言って、レイがくれたハンカチに顔を埋めたのだった。