何でも叶えて差し上げます
「レイ! こっちに来て!」
ヘレナ様が私を呼ぶ。キラキラと輝く、太陽のような笑みだ。眩しさに目を細めつつ、私はヘレナ様の元へと向かう。陽だまりの中にいるかのように、胸がポカポカと温かかった。
ヘレナ様に連れられ、侯爵家にやって来て今日で一週間。私はまるで貴賓が如く、丁重な持て成しを受けていた。
ヘレナ様のご両親は、優しく穏やかな人で、いきなりやって来た私のことを温かく迎え入れてくれた。聞けば、こういったことは初めてではなく、その度に侯爵は新しい家や仕事を世話してやるのだという。
「あの子が連れてきたなら、良い人に違いないからね」
侯爵はそう言って朗らかに笑う。言外に『君も含めてね』と言われ、胸がむず痒くなる。「そうですか」と返して、私はそっと俯いた。
彼等は私の事情を無理に聞き出そうとしなかった。かといって無関心というわけでも無く、まるで家族のように優しく接してくれる。当時の私にとって、それはとてつもなく有難いことだった。
とはいえ、焦りがなかったわけではない。
(早く仕事を探さないと)
いつまでも侯爵家の世話になる訳にはいかないと、当時の私は思っていた。何の縁もゆかりもない私を、まるで本物の息子のように扱ってくれることは嬉しい。急ぐ必要はない、ここに居てくれて良いともヘレナ様のご両親は言って下さったが、何の役にも立たない人間を屋敷に置くメリットは皆無だ。穀潰しにはなりたくなかった。
「……? レイはわたしと遊んでくれているじゃない。勉強もすっごく分かりやすく教えてくれるし。役立たずだなんて、誰が言ったの?」
そんな私に、ヘレナ様は唇を尖らせた。
「それは……私自身がそう思っただけですが…………」
「だったら、何も気にせずここに居れば良いじゃない! レイが居なくなったらわたしが寂しいもの」
そう言ってヘレナ様はシュンと肩を落とした。不用意に本心を漏らしたことで、ヘレナ様の心を煩わせてしまった自分が恨めしい。「ありがとうございます」と口にして、私は小さくため息を吐いた。
ヘレナ様は幼い頃からとても聡明な方だった。聖女としての務めのみならず、次期王太子妃としての教育も受けなければならない。けれど、彼女は文句ひとつ言わずにそれらを熟していた。早朝、起床してすぐにお祈りを捧げ、昼には登城。夕方帰宅前に神殿で再度お祈りを捧げ、ようやく帰宅出来る。
遊ぶ時間も好きなことをする時間も殆ど取れないタイトなスケジュール。そんな日々の中、ヘレナ様は時折ふと寂し気な表情を浮かべる。そんな時にそっと外へ連れ出すと、ヘレナ様はとても楽しそうに笑ってくれた。
「レイが来てから、ヘレナは本当によく笑うようになったな」
そう口にしたのはヘレナ様の兄上――――後のマクレガー侯爵だった。私と同い年の彼は、まるで友人のように気さくに声を掛けてくれる。
「――――初めてお会いした時から、ヘレナ様はずっと笑っていらっしゃいましたが」
答えつつ、私はそっと目を伏せた。
私は決して嘘は言っていない。ヘレナ様はいつも笑顔だった。ただ時折、笑顔の中に複雑な感情を滲ませていただけで。
「そりゃ知っているさ。だけどレイと居ると、本当に嬉しそうに笑うんだよ、あいつ」
そう言ってマクレガー侯爵は笑った。何ともむず痒い気持ちにさせてくれる。
私が何故ヘレナ様の些細な変化に気づけるか――――それは、彼女が私とよく似ているからだ。
ストラスベストの第二王子として育てられた私は、幼い頃から自分を殺して生きてきた。国のため、周りの期待に応えるために聡明でなければならなかった。子どもであることは許されなかった。いつしか自分の考えというものは無くなり、周囲の望みが自分の望みに変わった。
ヘレナ様はきっと、私と同じようなプレッシャーの中生きている。温かなご両親、優しい兄や使用人に囲まれていても、どうしても埋められない溝があるのだろう。甘えたくとも上手く甘えられない――――そんな風に感じられて、手を差し伸べずには居られなかった。
事件が起きたのはそれから数日後のことだ。
「――――ヘレナ様が?」
ヘレナ様の行方が分からなくなったと、従者の一人が慌てて帰って来た。何でもヘレナ様はいつものように神殿で祈りを捧げた後、突然どこかへ駆け出したらしい。数人の従者が付いていたというのに、皆が彼女を見失ってしまった。必死になって探し回っているものの、一時間が経った今でも見つかっていないのだという。
私は居てもたってもいられず、屋敷から駆け出した。
「聖女様っ!」
従者がヘレナ様を見失ったという辺りで、私は声を張り上げた。全身が汗だくで気持ちが悪い。けれど、そんなことに構っている余裕は無かった。神殿や泉の周辺、路地裏と街の隅々まで走り回り、必死に声を張り上げる。
(一体何処にいらっしゃるのだろう?)
息を切らしつつ、私は首を垂れた。
ヘレナ様の足ならば、そう遠くへは行っていないだろう。彼女が自分の意志で駆け出したのなら、この辺りに居るのは間違いない。けれど、段々と日没の時間が近づいている。これだけ探しても見つからないのだ。恐らくヘレナ様は、自力では出てこれない場所にいらっしゃるのだろう。
(早く見つけて差し上げないと)
焦燥感がじりじりと胸を焼く。その時だった。
「――――――レイ」
風に乗って、微かにヘレナ様の声が聞こえた気がした。気のせいだろうか。そう思いつつ耳を澄ますと、「レイ」と確かに私の名前が聞こえる。
「聖女様!」
私は大声でヘレナ様を呼んだ。少しの沈黙。ややして先程よりもハッキリと、ヘレナ様の声が聞こえて来た。私は急いで声の聴こえた方へと向かう。段々とヘレナ様の声が大きく聞こえるようになってきた。
「レイ!」
そうして辿り着いた場所にあったのは、使われなくなった井戸だった。
後になって分かったことだが、この井戸はヘレナ様が泉を浄化するようになるまで、雨水を溜めていた場所らしい。けれど、泉の水の方が安全で綺麗ということ、管理の難しさから使われなくなり、枯れたまま放置されていた。その蓋が何かの拍子に空いてしまったのだろう。
中を覗き込むと、暗がりの中にヘレナ様がしゃがみ込んでいるのが見えた。
「聖女様っ! ご無事ですか?」
私の問い掛けにヘレナ様は「うん」とすぐに答えた。けれど、言葉とは裏腹に微かに声が震えているのが分かる。私は急いで井戸の中へ滑り降りた。中は思いのほか深く、子どもの足で上ることは到底不可能だろう。私が降り立つと同時に、ヘレナ様は急いで立ち上がり――――それから何かを躊躇う様にしてその場に踏みとどまった。
「ごめん……ごめんなさい、レイ。自分でここに降りたのに、上れなくなってしまって……皆に迷惑を掛けてしまったわよね。本当にごめんなさい」
ヘレナ様はクシャクシャな顔をしてそう言うと、勢いよく頭を下げる。私は彼女の頭を上げさせて、ゆっくりと首を横に振った。
「迷惑だなんて全く思っておりません。けれど、とても心配しました。見つけられて本当に良かった」
私の言葉に、ヘレナ様はほんのりと瞳を潤ませる。余程不安だったのだろう。ヘレナ様はそのまま私の胸にギュッと抱き付いた。
「お怪我は?」
「したけど……自分で治したから大丈夫」
「――――――傷は治せたかもしれませんが、痛かったのでしょう? 私の前で強がる必要はありませんよ」
言えば、ヘレナ様は堪えきれなくなったらしく、小さく嗚咽を漏らした。どこまでも意地らしく、愛らしい。
私はというと、ヘレナ様を抱き返すでも、頭を撫でるでもなく、その場に静かに佇んでいる。幼い女の子の泣き止ませ方など、この時の私にはちっとも分からなかった。
(聖女様は王太子殿下の婚約者でいらっしゃるから)
過度なスキンシップは控えなければならない。とはいえ、ヘレナ様を突き放すことも当然できない。慰めなければとヘレナ様の背にそっと手を回した瞬間、何処からともなく「ミィ」とか細い声が聞こえてきた。
「――――あっ、いけない! 苦しい思いをさせてしまったわね」
そう言ってヘレナ様は私からそっと距離を取る。何故だかひどく残念な想いに駆られつつヘレナ様を見遣れば、懐からひょこりと仔猫が顔を出した。
「……もしかして、この子を助けるために?」
尋ねれば、ヘレナ様はコクリとバツが悪そうに頷く。ヘレナ様は仔猫の頭を撫でながら、そっと私を見上げた。
「神殿に行く途中にね、この子が井戸に落ちるのが見えたの。自力で這い上がって来れるかなぁって思ったんだけど、お祈りが終わって見に来てみたら、やっぱり自分じゃ上れなかったみたいで。助けるために降りてみたものの、思ったよりもずっと深くて。色々と試してみたんだけど……」
そう言ってヘレナ様は悲し気な表情を浮かべる。何度も何度も「ごめんなさい」と口にして、瞳いっぱいに涙を溜める。
(周りの大人を頼れば良かったのに)
彼女には数人の従者が付いていた。井戸の近辺にだって、探せば大人はいた筈だ。けれど、ヘレナ様はどうしても彼等を頼ることができなかったのだろう。
幼い頃から大人であることを求められると、人に甘えることが下手糞になる。何でも自分でやらなければならない気がして、上手く頼れなくなってしまうのだ。
(人に頼られる立場にある聖女様は、自分から誰かを頼ることが出来ない)
けれど、彼女はまだたった七歳の少女だ。誰かに甘えたいだろう。頼りたいだろう。無理にしっかりしていなくても良い――――ありのままのヘレナ様で居られる、そんな場所が必要なはずだ。
「――――今度から、こういう時は私を頼ってください。聖女様の……いえ、お嬢様の願い事は、このレイが何でも叶えて差し上げます」
そう言って私はヘレナ様の前に跪く。ヘレナ様は目を丸くし、しばらくの間、呆然とした表情のまま私のことを見つめていた。
「……そんなこと言っちゃって良いの? わたし、結構ワガママだよ? いっぱいいっぱい甘えて、レイに迷惑掛けちゃうかもしれないのに」
「もちろん。寧ろたくさん甘えてください。そのために私は存在します。それが私の望みなのですから」
「~~~~~~っ! だったらレイ、わたしのお願い事を聞いて!
わたし、レイがお屋敷から居なくなっちゃうのは嫌だ! 他の場所に行っちゃうなんて嫌! どこにも行かないで、ずっとわたしの側に居てほしいの! ……ダメ?」
ヘレナ様はそう言って、私の手をギュッと握った。涙を湛えた瞳がユラユラと揺れている。
(私が側に居ることがお嬢様の願い事)
心が大きく震えた。
「お嬢様のお望みのままに。
このレイが一生、真心を込めてあなたにお仕えしましょう。何時でも、どんな場所でも、私が側に居ます。お嬢様の願いを叶えますから」
微笑みながら、私はヘレナ様の手を握り返した。ヘレナ様はコクリと大きく頷き、私のことを抱き締める。この瞬間、私はヘレナ様のものになったのだと思う。胸が一杯で、涙が滲んだ。
***
「レイ、大丈夫? 重たくない?」
背後から恥ずかしそうなヘレナ様の声が聞こえる。私はクスクス笑いながら、小さく首を横に振った。
「平気です。寧ろ軽すぎるぐらいですよ」
ゆっくりと、ヘレナ様をおぶって私は歩く。
長時間井戸の中に居たせいで、ヘレナ様の身体はすっかり凍えていた。馬車を呼んでくると提案をしたものの、『一人にはなりたくない』とヘレナ様が仰るので、こうしておぶって帰っている。
「レイは背が高いから良いわね。色んなものがよく見えるわ。少しだけ怖いけど」
そう言ってヘレナ様はクスリと笑う。私はヘレナ様を大事に抱えなおしつつ、そっと彼女を見遣った。
「ご安心ください。怖いこと等何もありはしません。私の命に代えてお嬢様をお守りしますから」
「高い場所が怖いってだけよ。レイのことは信頼しているわ。
…………あのね、井戸の中から出られなくなっちゃった時、わたし怖かったけど怖くなかったの。何でかは分からないけど、レイが絶対迎えに来てくれるって思ったから」
そう言って、ヘレナ様が微かに微笑む気配がする。やがて彼女の吐息は段々と規則的になっていき、穏やかな寝息へと変わっていった。背中越しにヘレナ様の温もりと、心臓の音を感じる。ひどく穏やかで幸せな気分だった。
(私はヘレナ様が自分らしくあれる場所――――甘えられる人になっていきたい)
ヘレナ様は私を望んでくれた。側に居て欲しいと言ってくださった。そのことがあまりにも有難く、光栄だと思う。
(ヘレナ様の居らっしゃる場所が、私の居場所)
これから先、どんなことがあってもそれは変わらない。私の全てで、彼女を守っていく。ヘレナ様が何処へ行こうと、彼女を迎えに行くのは私でありたいと思う。
「何処までもお供しますよ、お嬢様」
そう言って私は、一人静かに微笑むのだった。
このお話って、ちゃんと楽しんでいただけてるのでしょうか?(ドキドキ)
お気が向かれましたら、何かしらコメントを残していただけると大変嬉しいです。
次回の番外編は本編開始の少し前のお話となります。更新時期は未定ですが、是非是非このままお付き合いください。よろしくお願いいたしますm(__)m