レイでございます
私がヘレナ様と出会ったのは今から十年前――――十三歳の時のことだった。
祖国ストラスベストから隣国の王都へと連れて行かれた私は、一人途方に暮れていた。土地勘も無ければ、こちらの国には一人も知り合いがいない。
(さて、これからどうしていこう)
幸いなことに、ある程度の金子は持たされている。食うには困らないだろうし、しばらくは宿に泊まることも可能だろう。立ち止まっていても仕方がないと思い、私は人の流れに沿って歩いて行った。
(思いのほか小さな街だな)
それが私が抱いた、この国の第一印象だった。一時間もあれば王都の隅々まで巡ることができるし、城は強固に護られているが、ストラスベストよりは小さく、どこか歴史を感じる建物だ。人と人の距離感が近く、どこかアットホームな雰囲気がする。
そうしている内に、私は街の中央に位置する神殿へと辿り着いた。古く、荘厳な建物だ。観光がてら入ってみると、中には沢山の参拝者が訪れていた。
(なんというか――――心が洗われるようだな)
ストラスベストにも神殿は存在するが、圧倒的に空気が違う。凛と澄んでいて、かといって急かされるような感じではなく、不思議と心が落ち着く。元々信心深くはない私ですら、神の存在を感じてしまう。これから先、己に待ち受けるであろう困難を忘れてしまう程、温かな気持ちに包まれたその時だった。
「見て、聖女様よ! なんて可愛らしいお嬢様なのかしら」
参拝者の一人が小声でそう口にするのが聞こえた。思わず女性の視線の先を追った私は、次の瞬間小さく息を呑んだ。
一人の少女に向かって、太陽の光がまるで祝福の如く降り注ぐ。少女は幸せそうに微笑みながら、神に向かって一心に祈りを捧げていた。星色の髪、神に愛されたような美しい顔。幼き日のヘレナ様だ。
あの時の衝撃は今でも忘れられない。ヘレナ様を見ているだけで涙が浮かんでくる。そこだけ時が止まってしまったかのように私には感じられた。
「しっ! お祈りの邪魔しちゃ悪いわ。……でも、本当に素敵な方ね。あの年で毎日お祈りを捧げていらっしゃるんでしょう? 聞けば、最近王太子の婚約者に内定したとか」
「まぁ……! これでこの国も安泰ね」
そんな会話が耳に届く。その間ずっと、私は完全にヘレナ様に魅入られていた。
こんな風に胸が高鳴るのは初めてだった。足りなかった己の一部が見つかったかのような充足感。縋りつきたくなるような衝動。胸を搔きむしりたくなるような切なさに襲われ、私は大きく息を吸う。
どのぐらいそうしていただろう。ヘレナ様はゆっくりと立ち上がった。気づけばすっかり陽が落ちて、神殿はオレンジ色の光に包まれている。参拝者たちも皆、足早へ家へと帰る所だった。
(私も行かなければ)
そんなことを考えながら、踵を返したその時、「こんにちは、お兄さん」と背後から可愛らしい声が響いた。心臓がトクンと高鳴る。振り返れば、そこには予想通りの人物――――ヘレナ様がいた。
「――――こんにちは……聖女様」
「はい! 初めまして、ですよね? お兄さんみたいに綺麗な人、一度見たら忘れられないもの」
そう言ってヘレナ様はニコニコと笑う。お祈りをしていた時はひどく大人びて見えたが、この時のヘレナ様は年相応の可愛らしい笑みを浮かべていた。生まれて初めて経験する胸のざわめきを、私は咳払いをして誤魔化した。
「仰る通り、お会いするのはこれが初めてです。
……申し訳ございません。もしかして、私がじっと見ていたせいで落ち着かなかったですか?」
「ううん、そんなことないわ。何となくお兄さんとお話がしてみたかったの。神様に『そうしなさい』って言われている気がして」
ヘレナ様はそう言って満面の笑みを浮かべた。私は思わずヘレナ様の目の前に跪く。そうすると、先程よりもずっとずっと近くにヘレナ様を感じられた。仮にも私はストラスベストの第二王子。こんなことをするのは初めての経験だ。けれど、そうすることが当たり前のように感じられたのだ。
「でしたら私は、神に心から感謝いたします――――今日ここで、あなたに出会えて良かった」
そう言って私はヘレナ様の手を握った。本来ならば、断りを入れずに手を握るなど無礼な振る舞いだろう。けれど私は、言葉では表しきれない感謝と敬愛、感動をヘレナ様に伝えたかった。ヘレナ様は空色の瞳を丸くし、私のことを見つめていた。驚かせてしまったと分かっているが、どうしても止めることができない。
(これで私は、この国で頑張っていける)
ヘレナ様は私に力をくださった。祖国から捨てられ、本来の身分を失った私には何の価値もない。あとはもう、死んだように生きていくだけ――――そう思っていた私に、生きる気力や勇気、幸福を与えて下さった。そのことがあまりにも嬉しい。
「またここに来たら、あなたにお目に掛かれますか?」
私がそう尋ねると、ヘレナ様はコクリと小さく頷いた。
「ええ。殆ど毎日来ているから」
「――――良かった。では、私も毎日ここへ通いましょう。しばらくは時間が取れるでしょうから。またお話をさせていただけると嬉しいです」
そう言って私は目を細める。するとヘレナ様は小さく首を傾げて、私の手を握り返した。
「お兄さん、もしかして帰る場所が無かったりする?」
その瞬間、心臓がドキッと鳴り響いた。彼女にはそんなことまで分かってしまうのか――――そう思いつつ、私は小さく首を傾げ返す。
「…………何故そんな風に思われるのですか?」
「何となく。
これまでにもね、この神殿で何人かそういう人に出会ったの。皆、迷子みたいな顔をしていて……お兄さんもそうかもしれないと思って」
その瞬間、私は思わず自分の頬に触れた。
(迷子、か)
多少の気恥ずかしさを覚えつつ、私は苦笑を浮かべる。ヘレナ様はそんな私をグイッと引寄せると、朗らかな笑みを浮かべた。
「ねぇ、良かったら家に来ない?」
「…………え?」
私は自分の耳を疑った。ヘレナ様は屈託の無い笑みを浮かべつつ、私のことを見つめ続けている。
「来てよ! お父様やお兄様にも、お兄さんに会ってみてほしいし。
それに、お兄さんさえ良ければ、しばらくわたしの話し相手になって欲しいな。だって、侍女も執事も皆すっごく年上で、年の近い人がいないんだもの。ね、良いでしょう?」
「それは……願ってもいないことですが」
私の言葉に、ヘレナ様は「決まりね!」と満足気に微笑む。
「あっ、ずっとお兄さんって呼ぶのも失礼よね。わたしはヘレナ。お兄さんは?」
「……! 申し遅れました。
私はレイモ――――」
そう答え掛けて、私は口を噤んだ。既に私はストラスベストの王子ではない。二度と『レイモンド』の名前を名乗るわけにはいかないと気づいたからだ。
(どうしよう……なんとお伝えするべきか)
「――――レイ? あなたレイっていうの?」
けれどヘレナ様は、そう言って瞳を輝かせた。花が綻ぶような、可憐な笑み。思わず涙が零れ落ちそうになる。
「はい――――私はレイでございます」
答えながら、まるで自分が最初から『レイ』という名前だったかのような心地がしてくる。そのぐらい、しっくりと馴染んだ。
「よろしくね、レイ」
そう言ってヘレナ様が優しく微笑む。その瞬間、私は『お嬢様のレイ』になった。
いつもご愛読いただき、ありがとうございます。
仕事の都合もあって本編をバタバタ完結させたものの、どうしてもレイ視点のお話を書きたくなって、番外編という形で認めさせていただきました。
現状でこれとは別に三話ぐらい書きたいお話があるので、今後不定期に更新させていただくかもしれません。また更新した際は、よろしくお願いいたします。