私のものになっていただけませんか?
目まぐるしく日々が過ぎた。
あの夜、ヘレナはレイと共にストラスベストを出国し、祖国の救済に向かった。
神の怒りというのはどうやら本当に存在するらしく、ヘレナの帰国と共に、事態は急激に改善した。病に苦しんでいた人々も、怪我で苦しい思いをしていた人々も、見る見るうちに回復していく。全員を診るわけにはいかないので、ヘレナは神殿で必死に祈りを捧げた。泉にも足繁く通い、数日後には以前のような美しい水が戻って来た。
「ありがとう、ヘレナ! 君が居なかったらこの国は終わっていた。本当に……どれだけ感謝してもしきれない」
国王は涙ながらにヘレナの帰還を喜んだ。ヘレナは穏やかに微笑みつつ、ゆっくりと頷く。彼女と共に城に呼ばれたマクレガー侯爵も誇らしげに胸を張った。
「それから――――――カルロスのことは、本当に申し訳なかった。あやつがあそこまで愚かなことに、私は気づくことが出来なかった。王位を継がせる前に気づけたことは、不幸中の幸いだが……」
そう言って国王は深いため息を吐く。
カルロスはというと、雷に打たれたものの命に別状はなく、ストラスベスト側が用意した馬車に載せられて強制送還された。当然、彼の企みは全て明るみになり、国王はカンカンに怒った。廃嫡はもちろんのこと、然るべき処罰が検討されている所らしい。
(然るべき処罰って所が恐ろしいけれど……)
ヘレナが全容を知る必要はないだろう。ふぅ、とため息を吐きつつ、前を見据える。
「当然のことだが、君の名誉は私が全力で回復させてもらう。
聖女ヘレナ――――君の名前はこれから先、何百年にも渡って人々に語り継がれるだろう」
国王はそう言って恭しく頭を下げる。
名誉など必要ない――ヘレナ自身はそう思うものの、これまでずっと、ヘレナのことを支えてきてくれた人々がいる。彼等のことを想えば、褒美も名誉もありがたく受け取るべきなのだろう。「光栄です」と口にしつつ、ヘレナは大きく頷いた。
「ところで――――本当に行ってしまうのかね? 今まで通り、兄と……マクレガー侯爵と暮らせば良いではないか」
その時、国王が躊躇いがちに本題を切り出した。
今日、ヘレナは城に国を辞すための挨拶に訪れた。王都が落ち着きを取り戻し、泉の水も元通りになったからだ。
今後は、ふた月に一回程度帰国し、聖女として祈りを捧げる予定にしている。それで問題が起こるようなら頻度を見直す必要があるが、恐らくは大丈夫だろう。
「申し訳ございません、陛下。けれどもう、決めたことですから」
ヘレナは困ったように笑いつつ、小さく首を横に振る。決意に満ちた眼差し――――説得は不可能だろうと国王は悟った。
「ストラスベストに、君の幸せがあるのかい?」
尋ねながら、国王はどこか悔し気な表情を浮かべる。ヘレナは顔をクシャクシャにしつつ「はい!」と答えた。
***
「何だかすっごく久しぶりの我が家ねぇ」
ヘレナはそう口にしつつ、レイに微笑みかける。
祖国を出発して、真っ直ぐ屋敷に戻って来れたかと言えば、そういうわけにはいかなかった。ニックのお蔭で、レイの存在がストラスベストの王室にバレてしまったからだ。
ヘレナとレイは王室が寄こした馬車に乗って、ストラスベストの王都に向かった。そして、ヘレナはそこで、初めてレイの家族に会うことが出来た。
(なんていうか……あんまり似ていなかったなぁ)
再会の瞬間を思い出すと、ヘレナは思わず笑ってしまう。至極冷静なレイを除き、レイの父親である国王も、母親も、涙ながらにレイの帰還を喜んだ。見ているこちらの胸が擽ったくなるような、温かなひと時だった。
二人はレイの予想に反し、城に帰って来いとは言わなかった。ニックから、予めレイの気持ちを聞いていたのかもしれない。『何があっても、レイは自分たちの息子だから』と口にして、快く送り出してくれたのだ。
「お疲れになられたでしょう? 少しだけお待ちください。今、お茶をご用意しますので」
レイはそう言って穏やかに微笑む。ヘレナは首を横に振りつつ、自分の隣をポンポンと叩いた。
「……お茶より、レイがこっちに来てくれた方が嬉しいなぁ。今、すっごく甘やかされたい気分なんだけど」
上目遣いでそう訴えると、レイはほんのりと目を丸くして嬉しそうに微笑む。それから彼は、ヘレナの隣にゆっくりと腰掛けた。
「ヘレナ様……一か月間、本当にお疲れ様でした」
そう言ってレイは、ヘレナの頭を優しく撫でる。胸がドキドキと、甘く鳴り響いた。
「うん。レイもお疲れ様」
言いながら、ヘレナは穏やかに目を細める。レイは「ありがとうございます」と言って、大きく息を吸った。
「――――――正直、あんな風に出迎えられるとは思っていませんでした。もう、十年も会っていませんでしたから」
そう言ってレイは、複雑な表情を浮かべる。ヘレナはレイの手を握りつつ、ゆっくりと小さく頷いた。
「そうだよね。わたしももし、お兄様と十年間音信不通だったら、レイと同じことを思う気がする」
言いながら、ヘレナは兄、マクレガー侯爵の顔を思い浮かべる。彼はヘレナの帰還を心から喜んでくれた。郵便受けには既に、兄からの手紙が数通溜まっていて、これから先も疎遠になりようがない。
(二ヶ月に一回は帰るって言ったんだけどなぁ)
けれど、それが兄の愛情なのだろう。ヘレナはふふ、と小さく笑った。
「ところで、ヘレナ様。私に内緒で兄の……イーサンとお会いになったのでしょう?」
その時、レイが徐にそんなことを切り出した。ヘレナの心臓がドキッとひと際大きく跳ねる。チラリとレイを覗き見れば、彼は悪戯っぽい表情で微笑んでいた。
「酷いですね……もう浮気だなんて。この先が思い遣られます」
「ちっ……違うわ! 私だったらお兄様の病気を治せるかもしれないって思って、それで――――――あっ!」
ヘレナは口を開けたまま、目をパチクリさせる。
(しまった……! レイには言うつもり無かったのに!)
ダラダラと汗を掻きつつ、ヘレナはシュンと項垂れる。レイはそんなヘレナの頭を撫でつつ、クスクスと笑い声を上げた。
「どうして落ち込んでいらっしゃるんですか?」
「だって……お兄様にお会いしたことも、病気を治したことも、全部レイにバレちゃったもの」
「バレて困ることは無いでしょう? 良いことなんですから。もしかして私が浮気って言ったこと、本気にしています?」
困ったように笑うレイに、ヘレナは首を横に振る。
「それは……冗談だって分かってるわ。だけど――――――」
ヘレナは躊躇いがちにレイを見つめつつ、ほんのりと唇を尖らせる。レイは穏やかに目を細め、ヘレナを自身の膝に乗せた。
「何故兄を治したのか――――その理由を教えていただけますか?」
そう言ってレイはヘレナを見上げる。その途端、ヘレナは頬を真っ赤に染め、プイと視線を逸らした。
「――――――それ、わたしが聞かれたくないって分かってて言っているでしょう?」
「……と仰いつつ、本当は話したいんじゃありませんか?」
二人は見つめ合いながら、ドキドキと心臓を高鳴らせる。ヘレナは観念したようにため息を吐くと、レイの額に自身の額を重ねた。
「レイのお兄様が死んでしまったら困るから」
「ん?」
首を傾げつつ、レイは楽しそうに笑っている。ヘレナはギュッと目を瞑ると、再びレイの瞳を真っ直ぐ見つめた。
「――――――何だかんだ言っても、レイは義理堅い人でしょう? もしもレイのお兄様が死んでしまったら、口ではあんなことを言っていても王位を継ぐと思うの。だけどそうなったら……わたしが困るから」
ヘレナはそう言って、レイのことをギュッと抱き締める。
「だって、レイを独り占めできなくなるもの。――――レイはわたしのものなのに」
その瞬間、レイの唇が大きく綺麗な弧を描く。レイはヘレナのことを抱き返すと、そっと顔を覗き込んだ。
「それは――――ヘレナ様からのプロポーズと捉えても宜しいですか?」
レイの言葉にヘレナは唇を引き結ぶ。しばしの沈黙。どのぐらい経っただろう、ヘレナはやがてコクリと小さく頷いた。
「これから先どんなことがあっても、レイにはわたしの側に居て欲しい。わたしだけのレイで居て欲しい。だから――――――」
ヘレナの言葉はそれ以上続かなかった。どちらともなく唇が重なり、二人はきつく抱き締め合う。どのぐらいそうしていただろうか。二人の唇がゆっくりと、名残惜し気に離れた。
「どんなことがあろうと側に居る――――そう約束させていただいた筈ですが」
レイはそう言って微笑みつつ、ヘレナの頬に口付ける。
「それは分かってるんだけど、ちゃんと形に残る方が良いなぁって思って。……ほら、一応わたしは聖女兼侯爵家の娘に戻れたわけだし、レイだって表には出さないけど、ストラスベストの第二王子っていう身分があるわけでしょう? 実態だけじゃなく、形式上も本当の夫婦になれるんじゃないかなぁって……」
言いながら気恥ずかしさに襲われ、ヘレナの頬が真っ赤に染まっていく。
「もちろん。私は最初から、そのつもりでしたよ」
そう言ってレイは、ヘレナの左手をそっと握る。見れば薬指に、綺麗なエメラルドの指輪が光っていた。リングの部分は金でできており、どちらもレイの瞳の色を彷彿とさせる。彼の独占欲を垣間見て、ヘレナは思わず微笑んだ。
「これから先も私はヘレナ様だけのものです。
我が主君、聖女であるお嬢様に永遠の忠誠を。
そして、一人の女性としてのヘレナ様に永遠の愛をここに誓います。
ですからヘレナ様――――ヘレナ様も、私のものになっていただけませんか?」
レイはヘレナを見上げながら、泣きそうな表情で笑う。言葉では表せない程の幸福感がヘレナの胸を温める。ヘレナはコクリと頷いて「喜んで!」と答えたのだった。
本作はこれにて完結しました。
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改めまして、最後までお付き合いいただきありがとうございました。