夜天の霹靂
その日の夜分、ヘレナはレイと共に馬車の座席に座っていた。御者はおらず、馬車は静かに停まったままだ。闇夜に溶け込むようにして、二人は手を繋いでいる。遠くから街の喧騒が聞こえてきた。
「……わたし、知らなかったの。自分が居なくなることで、国が大変なことになるなんて…………」
ヘレナの手は震えていた。レイは小さく首を横に振ると、そっとヘレナを抱き寄せる。
「ヘレナ様のせいではありません。全ては愚かなカルロスが悪いのです。
だって、聖女が生まれたのは数百年ぶりのことでしょう? 常に存在するわけでも無いのですから、ヘレナ様が居なくなったこと自体が悪いわけではありません。恐らくは、ヘレナ様を不当に追い出したことが、神の怒りに触れたのだと思います」
「…………うん、そうかもしれないけど」
目を瞑れば、困ったり苦しんでいる人々の顔が目に浮かぶ。ヘレナはその間、レイに守られ、何不自由ない幸せな生活を送っていたのだ。どうしても申し訳なさを感じてしまう。
「本当に国に戻るおつもりですか? あの馬鹿の手柄にしてしまって、後悔しませんか?」
ヘレナ達は今、カルロスが現れるのを待っている。自主的に戻るのではなく、彼がヘレナを連れ帰ったという実績を作ってやるためだ。レイは相当渋ったが、ヘレナが説得した。カルロスに今後、侵略や変な行動を起こさせないためだ。
「だって、困っている人々を放ってはおけないもの。この国の人々にも迷惑を掛けてはいけないし」
「けれど……」
「――――もしかしてレイ、妬いてる?」
まさかと思いつつも、ヘレナは尋ねる。返答はない。図星のようだった。ランプの灯りに照らされたレイの顔が紅く染まる。ヘレナは唇を綻ばせつつ、ギュッとレイに抱き付いた。
「わたしが想っているのはレイだけよ。国に戻ったとしても、それは絶対に揺るがないわ」
「――――――――――殿下が再度婚約を申し出て、陛下がそれをお許しになったらどうなさるおつもりですか?」
自分でも女々しいと思いつつ、レイは尋ねずには居られない。ヘレナはふふ、と笑いつつ、腕に力を込めた。
「丁重にお断りするわ。こんなことがあったのだもの。その位は許してもらえる筈よ?
わたしには他に愛する人がいます! 殿下の元にはもう戻れません――――って」
その瞬間、レイがヘレナの唇を優しく塞いだ。ランプの灯りが、重なり合った二人の影を照らし出す。ランプの中でじりじりと揺れる炎は、まるで二人の心のように温かく、柔らかく、それでいて力強い。
「レイモンド様」
その時、馬車の扉がコンコンと鳴った。ニックの声だ。
レイは扉を開けると、「来たのか?」と尋ねた。
「はい。僕は顔を存じ上げないので定かではありませんが、恐らくあれがカルロス殿下かと」
その言葉に、ヘレナの緊張感が高まる。
「では参りましょうか」
レイはそう言って、穏やかに微笑みかける。コクリと首を縦に振り、ヘレナは馬車を降り立った。
***
「ふん――――国境近くの街だというから大して期待はしていなかったが、中々の場所じゃないか」
カルロスは我が物顔で街を闊歩しつつ、満足そうに微笑んでいる。彼が連れてきた近衛騎士達は辟易しながらも「はぁ」と気のない返事をした。
「ここが我が領土になるのか――――悪くない。とはいえ、この程度の街ならば、俺達だけでも制圧できるかもしれないな! おまえもそう思うだろう?」
「いえ……流石にそれは無理があるかと」
「――――ノリが悪い奴め。
俺が王太子で居続けるには、この方法しかないんだぞ? 苦しんでいる民に新しく土地を与え、富を得る。大体父上は、神だの平和だの聖女といった訳の分からないものばかりを尊んでいるが、俺は違う。土地も富も人も武力も、奪わなければ手に入らない。そうしてどの国も繫栄してきたのだ。護るだけでは意味がないのだ」
主人の言葉を聞きながら、騎士達は呆れてものも言えない。悪い夢なら覚まさせて欲しい――――この一ヶ月間、彼等はどれだけそう願っただろう。倫理観が欠けているだけでなく、状況すらまともに把握できない主人がため、自分達がどれ程肩身の狭い思いをしているか、カルロスには想像もつかないだろう。騎士たちがはぁ、と盛大なため息を吐いたその時だった。
「殿下」
ヘレナがゆっくりとカルロスの前に躍り出る。騎士達は驚愕に目を見開いていた。この一ヶ月、ずっと探し求めていた人――自分たちの手で追放した聖女ヘレナが今、目の前に立っている。
「聖女様……」
涙を流さんばかりに喜びながら、騎士達はヘレナに駆け寄った。カルロスはヘレナと騎士達を凝視しつつ、呆然とその場に立ち尽くしている。
「聖女様! 本当に、申し訳ございません! 私達は本当に、何と愚かなことを……」
「お怪我は⁉ ご無事でいらっしゃいましたか?」
「一体何とお詫びを申し上げたら良いのか……。私達のせいで今、国が大変なことになっているのです! どうか、我々と一緒にお戻りいただけませんか?」
口々に謝罪の言葉を述べる騎士達に、ヘレナは優しく微笑みかけた。実行犯ともいうべき彼等は、ずっと自分を責め続けていたのだろう。労いの言葉を掛けてやりつつ、ヘレナは小さく息を吐く。
「貴様が戻る必要はない」
その時、そこに居た全員が目を見開き振り返った。カルロスだ。憎しみの炎が燃え滾った彼の瞳が、真っ直ぐにヘレナを睨みつけている。ヘレナは身を竦ませつつ、キッとカルロスを睨み返した。
「どうしてですか? 今、王都で人々が苦しんでいるとお聞きしました。わたしが戻らなければ、病人は増え続けるでしょう。それでも良いと、そう仰るのですか?」
「ああ、構わない。おまえのインチキ臭い力で救われる人間がいるなんて、俺には信じられないからな。
大体俺は、お前のせいで王太子の位を追われようとしているんだ! 本っ当に腹立たしい……要らない人間を追放して、何が悪い? 王族ならば、当然に持つ権利だろう! それを父上は『お前が悪い、お前のせいで国が大変なことになった』と責め立てたんだ!」
カルロスはそう言ってヘレナへとにじり寄る。ヘレナは深呼吸をしながら、毅然とカルロスに立ち向かった。
「殿下がわたしの力を信じられないならば、それでも構いません! ですが、どうか今一度、わたしが国に帰ることを許可して下さい。わたしは祖国を救いたいのです!」
「ふざけるな! 何故俺がお前の帰国を許さねばならない? 二度と顔も見たくないと思ったお前が、この俺の前に現れること自体があり得ないのに!」
そう言ってカルロスは剣の柄に手を掛ける。けれど、それよりも前に、彼の首筋に冷やりとした感触が触れた。尖った剣先だった。カルロスが一ミリでも動けば、皮膚が破れ、血が噴き出す。ピタリと迷いなく押し当てられた剣の先を、カルロスは眉間に皺を寄せて見遣った。
「ヘレナ様には指一本、手出しはさせません」
凄みの利いた表情で、レイがそう口にする。ニックも一緒だ。ヘレナはホッとため息を吐いた。
「貴様! 俺を誰だと思っている⁉ こんなことをして、タダで済むと……」
「しかと存じ上げておりますよ。隣国の王太子、カルロス殿下でしょう? どこぞの女と浮気した上、無実の罪をでっち上げてヘレナ様との婚約を破棄、国外へ追放した、超がつく愚か者でいらっしゃいます。もうすぐ元、王太子になられるとか――――――」
「ふっ……ふざけるな! この俺を愚弄するとは――――――」
そう言ってカルロスはスッと身を引き、レイに向かって剣を振り下ろす。
「レイ!」
ヘレナが叫んだその瞬間、空に一筋の稲妻が走り、大きな雷鳴が轟いた。目が開けていられないような真っ白な光に包まれ、全員が思わず目を伏せる。ようやく明滅が収まり恐る恐る目を開けると、カルロスが地面に突っ伏していた。すぐにヘレナが駆け寄り脈を計る――――どうやら気を失っているだけらしい。
「良かった! 生きてはいるみたいです。でも、急いで治療をしないと――――」
「いえ、その人はもう、放っておいて良いと思います」
そう口にしたのはカルロス側の騎士だった。レイも含め、皆がしみじみと頷いている。
結局、その場に異を唱える者は誰もおらず、しばらくの間、カルロスは一人地面に横たわっていたのだった。
次話は本日(R3.11.15)18時に公開予定、最終回です。最後までよろしくお願いいたします。




