婚約破棄と追放
呼び出された部屋へと入ったその瞬間、聖女ヘレナは目を丸くした。
目の前には自身の婚約者で、この国の王太子であるカルロスと、最近王宮でよく見かけるようになった子爵令嬢キャロラインの姿。二人はギュっと身を寄せ合い、ヘレナのことを鋭く睨みつけていた。
「一体どうなさったのですか? そんな怖い表情をなさって」
尋ねつつ、ヘレナはそっと首を傾げる。彼等に睨まれるようなことをした覚えは、ヘレナには無かった。
ふと振り向くと、出口は既に騎士達が塞いでいた。更に、カルロスの背後には武装をした騎士達が数人控えていて、いつでも剣を抜き放ちそうな雰囲気を醸し出している。いずれもカルロス直属の近衛騎士ばかりだ。
「……全く、最後の最後までふてぶてしい女だな。自分が何をしでかしたか、ちっとも理解していないらしい」
カルロスは忌々し気にそう口にしつつ、キャロラインのことを抱き寄せる。ヘレナは思わず目を瞬かせた。
「カルロス様ぁ……わたくし怖いです。一刻も早くこの女を追い出してください」
カルロスの腕の中で、キャロラインがそう言って瞳を揺らす。庇護欲を擽る見事なベビーフェイスに、豊満な肉体。キャロラインはカルロスが守りたくなるのも頷ける、魅惑的な女性だった。
「まぁ待て、キャロライン。ヘレナには自分の罪を、正しく理解させなければならない」
カルロスはキャロラインに向けて微笑みつつ、クルリとヘレナに向き合う。
(追い出す……わたしの罪…………)
思わぬ展開に、ヘレナの理解は追い付かない。小首をかしげていると、カルロスは眉間に皺を寄せ、小さく舌打ちをした。
「相変わらず察しの悪い女だ。――――このままじゃ埒が明かないから教えてやろう。
おまえはここにいるキャロラインに嫌がらせをしたな? 俺が彼女と仲良くしていることを快く思わなかったのだろう。
侍女達に茶を用意させないよう根回ししたり、私物を盗んだり、挙句の果てに俺との関係を口汚く罵ったそうじゃないか」
カルロスは至極冷たい声音でそう言い放つと、侮蔑するような瞳でヘレナを見下ろす。
「いっ……いえ、キャロライン様と面と向かってお話をさせていただくのは、これが初めてのように思いますが」
「そうか。ならば侍女たちの件や私物を盗んだ件は認めるのだな!」
「いえ……そちらも全く身に覚えがございませんけれども」
答えながらヘレナは困惑していた。
カルロスの話のテンポは早く、どこかのんびりとしたヘレナとは嚙み合わないことが多い。彼の質問一つ一つに丁寧に答えていると、せっかちなカルロスは苛立ってしまうし、すぐに自分の主張を被せてくる。だから結果的に、こうして掻い摘んで答えることしかできないのだ。
「白々しい。既に全ての調べは付いている。違うというなら、貴様が何もしていないという証拠を今すぐ出せ。できないなら、そこでおまえの罪は確定する」
「今すぐ、と言われましても……」
侍女達ならば、ヘレナが何も指示していないと証言をしてくれるかもしれない。けれどそれでは、カルロスは納得しないだろう。そもそも最初から、ヘレナを許す気は無いのだから当然だけれども。
「そうだろう。そうだと思った。
ああ……長かった。これで俺は、心置きなく宣言ができる」
そう言ってカルロスは、至極嬉しそうに微笑む。感慨深げな表情だ。ヘレナはキョトンと目を見開き、小さく首を傾げている。カルロスはふっと笑い声を上げながら、ヘレナの前へ躍り出た。
「まだ分かっていないようだな。良いだろう……教えてやる。
ただ今を以て、俺は貴様との婚約を破棄する! そして、ここにいるキャロラインが、未来の王太子妃となるのだ!」
その瞬間、キャロラインは勝ち誇った様な笑みを浮かべ、ヘレナに向かって目を細める。ヘレナは未だ状況が呑み込めぬまま「はぁ……」と呟くことしかできなかった。
(婚約破棄……わたしとカルロス様が…………)
彼が言い放った言葉を一つ一つ嚙み砕きながら、ヘレナは己の置かれた状況を理解していく。
「貴様というやつは……反応の乏しい、本当につまらない女だな。だが、俺がおまえに伝えるべきことはそれだけじゃない。
貴様は未来の王太子妃を傷つけた重罪人だ。よって、国外追放の刑に処す」
カルロスはヘレナを真っ直ぐに指さし、高らかにそう宣言した。
「国外追放……ですか」
さすがのヘレナも、これにはすぐに反応を返した。
(国外追放ってあの国外追放よね? 国から追い出されるっていう……)
ヘレナが事態を吞み込むまでの間、苛立ちながらカルロスは待った。このままヘレナを城から追い出すことは簡単だ。だが、それでは彼女の傷ついた表情を見ることができない。悲しみ、嘆き、己に泣き縋るヘレナの姿をカルロスは見たかったのだ。
「あの……ですが、聖女のお務めは如何すれば宜しいのでしょう? 国外から祈りを捧げても、恐らく効果が無いように思いますが」
けれど、そんなカルロスの目論見に反し、ヘレナはそんなことを口にした。彼女の表情は悲しんでいるというより、いつも浮かべている困り顔に近い。チッと大きく舌打ちをしつつ、カルロスは眉間にぐっと皺を寄せた。
「聖女の祈りだと? そんなもの――――我が国には不要だ!
第一俺はおまえが本当に聖女なのか……そのこと自体が疑わしいと思っている。貴様が聖女として扱われている理由は、両親が神のお告げを聞いた――――そんな馬鹿げた証言のせいだろう?」
「そうですね。確かにそうなんですけれども……」
カルロスの言う通り、ヘレナには聖女の証が何もない。神の刻印がなされているとか、特別な宝玉を賜っているとか、そういった客観的なものは何もなかった。
『お前たちの子供は神に愛された子――――聖女である』
そんな神のお告げを聞いたヘレナの両親は一年前に他界してしまったし、彼女の正当性を裏付けるものは何も存在しない。ヘレナ自身にも『自分が聖女である』という確固たる自信は無かった。
(これまでお祈りを欠かしたことは無いけれど、もしかしたら私がいなくなっても、国には何の影響も無いのかもしれないわね)
王太子であるカルロスが平気と言うなら、多分そうなのだろう。安堵感を覚えつつ、ヘレナはそっと微笑む。けれどその時、ふとあることが気にかかり、ヘレナはカルロスを見つめた。
「ですが殿下……陛下はこのことをご存じなのですか?」
尋ねながら、ヘレナは小さく首を傾げる。
カルロスの父親――この国の国王はヘレナのことを、殊の外可愛がってくれた。聖女の力を信じ、重用していたのも他ならぬ国王だ。陛下は今、国内の視察に出掛けている。挨拶すらせずに勝手にいなくなって良いものか――――そう考えたのである。
「そんなこと、貴様が気にする必要はない」
カルロスは盛大なため息を吐きながら、騎士達に向かって手を振った。すぐに出口に張り付いていた騎士が二人、ヘレナの背後に回り込む。迫りくる威圧感にヘレナは小さく息を呑んだ。
「さっさとこの女を連れていけ!」
カルロスは騎士たちにそう命じる。促され、ヘレナはゆっくりと踵を返した。
(……そう言えば私、これからどうやって生きて行けば良いのでしょう?)
ふと、そんな疑問が頭を過る。騎士達に部屋から連れ出されつつ、ヘレナはそっと肩を竦めた。