第4幕
「雨、止まないねぇ」
芙美花は頬杖をついて呟いた。
相変わらず外では雨が景気よく降っている。
昨夜から断続的に降り続く秋雨で生徒会室から見下ろせる中庭は池と化していた。
「芙美花の雨女もここまでくるとすげーな」
健一郎がからかいを込めて笑った。
「雨女?」
明日に迫った校内陸上記録会の挨拶の草案を練っていた巴が顔を上げて応じる。
ちなみに開会式の挨拶はやはり生徒会長である壮司で閉会式は巴となっていた。
健一郎と自分は司会やら開会・閉会の言葉など細々としたことをする。
「そう。こいついっつも楽しみにしてる行事になると雨降んの。小四の遠足なんか三回延期したもんな」
今、壮司は“明日雨が降った場合の対応”を教師に尋ねに行って生徒会室にはいない。
天敵がいないためか健一郎もいつもより饒舌で、室内の雰囲気もよかった。
「桐原らしい」
巴が軽く笑う。嫌な笑みではない。内輪ならではのあったかい笑みだ。
しかし、珍事ともいえる素直な笑みもすぐに意地の悪いそれにすげ代わる
「なんせ桐原は痔――」
「わあぁぁぁぁ!!ダメぇー!!」
巴の口をふさごうと彼女に駆け寄るが、それすらハエの襲撃のごとく軽くかわされる。
目標物に避けられたため、体勢を崩して転んでしまった。
巴にしては希少なあの素直な笑みは後に続く意地悪のためのカモフラージュであったことに言うまでもなく芙美花は気がついていなかった。
「この時期に台風を呼び寄せるとはな。なかなか桐原の不運も威力がある」
転んだ芙美花に手を貸しながら巴が喉を鳴らして笑った。やはりこういう油断ならない笑みの方が巴らしくてほっとするのは人のあり方としては正しくないと思う。
「九月の末なのに台風直撃なんて」
芙美花も立ち上がりながらため息混じりに呟いた。
自分でも運が悪いと思う。やや季節外れの台風。しかも大型。
ここまでくると不運を通り越して悪意じみたものすら感じる。
「桐原と貢は長いつきあいなのか?」
先程の遠足のくだりに反応したのだろう。巴が文章を考える片手間に聞いてきた。
よく二つの物事を平行してできるなぁ、と芙美花は妙に感心してしまった。
「健さんとは家がご近所なんだ。健さんのおもらしお布団が干してあるのもばっちり目撃したよ」
「芙美花!てめぇ」
芙美花にとっては恋人のかわいい思い出も当の本人には耐え難い恥以外の何物でもないようだ。健一郎が羞恥に顔を赤らめながら気色ばんだ。
「古賀たちはいつからつきあってるんだ?長そうだよな」
恥を取り繕って今度は健一郎が尋ねる。
彼は男にしては気が利く方で、場の空気を読み、第三者に話を振るなどの気遣いに長けていた。
健一郎の尋ね方に悪い点は特に見られず、中味も二人が交際していることを前提に考えればおかしなところなどなかった。
しかし、ほんの一瞬、まばたきするような刹那だが巴の顔に複雑な色がかすめたのだ。
「さぁ……いとこ同士だからな」
『いつから男女交際をしているのか』という健一郎の問いを『いつから親交があるのか』と誤認して巴が静かに答えを返す。
揺れ動いた感情はその恐ろしく整った顔の下に跡形もなく隠されていた。
取り沙汰するほど不審な点はなかっただろう。だけれど芙美花はぬぐいようのない釈然としない気分を感じていた。
前にもいつだか彼女に壮司のことについて尋ねたとき、曖昧に笑って済まされた。その笑みがあまりに彼女らしくなくて印象に残っていたのだ。
今回だって健一郎の問いを誤認したのではなく、あえて曲解して上手く何かを隠したようにも思えなくない。あの頭の回転が早い巴が勘違いなど考えてにくかった。
彼女がただ単に交際について触れられたくない気質だとしたらそれまでのことで、芙美花の穿ちすぎた見方なのかもしれない。
ぼんやりと大粒の雨を見ながら物思いに沈みかけたとき、ちょうど生徒会室の扉が開いた。壮司が帰って来たのだ。
「お帰り、不動くん。先生何て言ってた?」
壮司が帰ってきた瞬間、空気が険悪になる。おまけに健一郎の顔まで険しくなる。
彼らの場合このとげとげさは常備品であるが、実際にするケンカはせいぜい小学生並みだ。
要は彼らなりのスキンシップなのだ。ケンカは単なる会話代わりのコミュニケーションなのだ。
そんなことを芙美花が考えているとは露ほども知らず、壮司は巴の横にどっかりと腰を下ろした。
教師から渡されたと思しき書類を広げる。
「雨天中止の場合、起床時刻である六時半に各寮に放送が入る。ただし予備日――あさっても雨だった場合、延期とはせず記録会自体を中止にする、そうだ」
「中止!?」
思わず健一郎と声を合わせてしまった。
見事にはもったその反応に壮司は渋面で頷く。
普段だったら雨天時のことまで心配しなかっただろう。しかし今回は足の遅い大型台風接近で現実味を帯びているのだ。
「確かにしあさっては土曜だけどだったら別に来週やってもいいんじゃねぇか?」
犬猿の仲もどこへやら。ゆゆしき事態に提案したのは健一郎だった。
「来週はもうテスト週間だからダメだとよ」
よほどひどく教師陣につっぱねられたのか壮司は仏頂面を崩さない。
お楽しみの後にはテストを。この学院お決まりのパターンである。来週はテスト一週間前となり、学院中テスト勉強一色に染まる。
「要は悪天候にかこつけて都合よく中止としたいわけか」
ごく冷静に分析したのは巴だった。
悲憤こもごもの中、一人だけ落ち着き払っているのはさすがである。
「相変わらず勉強以外はやる気ねぇな、この学校は」
苛立ちすら込めて健一郎がため息をついた。
体よく中止としてしまえば授業時間を確保できる上記録会などという面倒くさいことをしなくてよくなるというわけだ。教師たちにとっては一石二鳥であった。
「でもまだあさっても雨と決まったわけじゃないよ」
重くたれ込めた雰囲気を払拭しようと努めて明るく言ってみた。
教師たちのあてすけな態度へのささやかな反抗の意味もあった。
しかし誰も答える者はなく、代わりに巴が自らの携帯をやおらに突きつけてきた。
飾り気のない深紅の携帯画面に映し出された文字の羅列を目を凝らして読みとろうとする。
「……なになに、金曜日の天気。降水確率九十パーセント。豪雨と強風に注意。お出かけは控えた方がよろしいでしょう」
気象庁発表の天候サイトだった。
その信憑性が高ければ高そうなほど一同の空気はさらに重くなる。
人知を越えた自然現象を前に、記念すべき新生徒会初仕事は脆くも潰えそうであった。
―◆―◆―◆―◆―
剣道部は週に一度、水曜日が休みである。
県大会上位のそこそこに強い学校である。これくらいの比率が当然らしい。むしろ休みがあるだけマシだと言うが、非体育会系の芙美花にはどうにも過酷ではないかと思ってしまう。
加えて言うと土曜は一日、日曜は半日も練習ある。
何はともあれ、今日はその水曜日だ。生徒会室で明日の確認をした後、健一郎と一緒に帰ることができた。
外灯が等間隔に灯った寮までの道を二人で傘をさして歩く。
話題は自然と明日とあさっての天候のことになった。
曇りでもいいから何とか記録会できるといいね、とひとしきり話したあと、芙美花は話題を転換した。
「古賀さんと不動くんは……」
そこまで言ってためらう。
むやみに二人のことを詮索するのは下世話な行為に感じたからだ。
たとえ相手が健一郎であっても、芙美花の勝手な憶測でものを話すのはどうも無責任に感じる。
話題を引っ込めようとしたところ、「あいつらがつき合ってるぽくないって?」と健一郎が言葉を引き継いだ。
「!……健さんもそう思ってたの?」
かなり自分の考えとリンクした答えが返ってきて驚いた。
驚く芙美花をよそに、メッセンジャーバックをかけ直して健一郎が続ける。
「俺が思ったつうより噂で聞いた」
「噂?」
巴は校内随一の美少女だ。生徒の口の端に登る回数は多い。
「後輩に古賀の崇拝者みたいなヤツがいて」
「崇拝者……すごいねぇ」
さすが押しも押されぬ極上クールビューティーである。
「そいつが聞いたんだよ、不動に。つきあってるんですかって」
うんうん、と傘の下で頷く。
「そしたらアイツらしくない煮え切らねぇ返事でよ」
「それは照れ隠しじゃないの?」
あのお堅い壮司だ。照れからなるべくなら隠し通しそうと考えそうだ。
「よく考えろ?あの白黒つけたがる不動ならキモい照れを浮かべながらきちんと認めると俺は思う」
「ううっ……確かに」
顔を赤らめながらぶっきらぼうに肯定する壮司の姿が容易に想像できる。
「じゃあやっぱりおつきあいしてないってこと?」
芙美花にはあの二人はつきあっている姿しか考えられないのでそれはそれでショックだった。
「いや、つきあってるとはいかねぇけどまんざらでもないってとこだろ。否定もしないんだから互いしか相手は考えられないんじゃねぇか」
逆も然りでつき合っていないならいないで壮司はきっぱりそう言いそうだ。
そうしないということは何らかの既成事実があるか、つき合っているも同然なのだろう。
「そう、だよね……」
ざっくばらんな言い方だったが、健一郎の言葉に安心した。
「不動も早く捕まえればいいのに。あの意気地なしが」
忌々しげに健一郎は吐き捨てる。
その意見には芙美花も賛成だった。収まるべきところに早く収まった方がよい。
それこそ巴を狙っている男など星の数ほどいるのだから。
「……それより芙美花、人のことより自分たちのことだろ」
「へ?」
間抜けな声を発した瞬間、肩に手を回され優しく健一郎の傘の中に誘われる。
思わず自分の傘を手放してしまった。水玉模様の傘がひっくり返って地面に落ちた。
「健さん……」
傘を持ってない方の大きな手で腰を引き寄せられる。
息がかかるほど間近に健一郎の顔があって心拍数がにわかに上がった。
「ひとが、くるよ……?」
熱に浮かされたように呟く。雨で暗いとはいえ往来の真ん中だ。
「部活が終わるにはまだ早ぇよ」
さらりと言われ芙美花の答えを待たずに顔が近づいてくる。
健一郎のワイシャツを軽く握りしめ、目を閉じた。
刹那、唇が重なる。
いつもより長いキス。試合やら何やらで長いことデートもしてない。その隙間を埋めるようにキスをした。
余韻を残して唇が離れてく。
息を吸う前にそっと健一郎の腰に両手を回した。
「健一郎……好き……」
言った途端に恥ずかしくなって健一郎の胸に顔を埋める。
健一郎の香りがしてかえって落ち着かなくなった。
「……俺も」
たっぷり間をあけて答えが返ってくる。
照れた彼の顔がかわいくていとおしかった。
その後、どちらともなく手を繋いで寮まで帰った。 終始無言だったが、意味のない言葉を発してこの穏やかな空気を壊すのがもったいなかったのだ。
秋の雨は冷たかったが、繋いだ手は言いようもなく温かくて幸せをかみしめたのだった。
―◆―◆―◆―◆―
翌日の記録会当日はやはりというか予想通りというかどしゃ降りの雨だった。
協議も何もなく早々に延期の放送が入る。
予測の範疇とはいえ、生徒会面々に意気消沈の気運が漂ったのは致し方ないことだった。
しかし一向に止まない暴風豪雨よりも壮司にダメージを与えたのは記録会中止の可能性に喜びをあらわにするクラスメイトたちだった。
特進クラスは部活動加入率も低い上、勉強以外のやる気にもいまいち欠ける。
必然的にスポーツ系の行事は振るわないのだった。
仕方のないことだ。すべてがすべて記録会を心待ちにしているわけではない。
それに楽しみだと思わせられなかった俺たちにも非はある――。
自らにそう言い聞かせ、ついでに余計な感情を顔から取り除いて放課後の生徒会室に向かう。
リーダーの自分がこんなしけた面をしていたらできるものもできなくなる。
顔を引き締めて生徒会室のドアを開けた。
しかし、鍵は開いているのに誰もいなかった。
拍子抜けしつつ、適当な椅子に腰かけた。
巴は今月、教室掃除だそうなので時間がかかっているのだろう。
健一郎のスポーツクラスでは毎週木・金曜は四時限までしか授業はない。午後は目一杯部活に費やすのだ。
普段は極力この二日間には生徒会活動を入れないようにしているが、今日ばかりはそうもいかない。健一郎も心得て部活を抜けてきてくれるだろう。
しかし、いつもは早くに生徒会室に来ている芙美花が来てないのは珍しいかった。
加えて木・金曜は七時限まである普通科とは違い、彼女の家政科は六限の通常授業のはずだ。とうに放課になっている。
ちょっとどこかに行っているのだろう、とたいして気にも留めず、壮司は歴代のファイルを引っ張り出した。
記録会雨天延期が二回以上続いた例を探そうと思ったのだ。
もし存在すれば中止にしたがる教師陣を説得するいい材料になる。
色褪せたファイルを開いたとき、突然外からドアノブが乱暴に回された。
雨音に消されて近づいてくる足音がまったく聞こえなかったので思わずファイルを落としそうになるほど驚いた。
不自然なノブの回し方にどうやら乱暴にしているのではなく、回しきるのに苦戦しているようだ。おおかた手でもふさがっているのだろう。
壮司は作業を中断して内側からゆっくりドアを開いてやった。
「えっ!?わぁぁぁぁ!!」
耳をつんざく色気のない絶叫に思考がぶっ飛ぶ。
肩をドアに押しつけて開けようとしていたのだろう。体を預けていたドアの消失に体勢を盛大に崩した芙美花が倒れ込んでくる。
「あぶねっ!」
反射的に彼女を受けとめようとはするが、なんせ気軽にドアを開けただけだ。何の身構えもしていない。
受けとめきれずに芙美花もろとも床に倒れ込んだ。
二人の人間が勢いよく床に叩きつけられ、派手な音が生じる。
壮司も背をしたたかに打ち、目の前がチカチカした。
「……大……丈夫か?」
衝撃による痛みが去ったところで芙美花に尋ねる。
めまぐるしい出来事の後で雨の音がやけに大きく聞こえた。
「……へいき。不動くんは?」
あまりの衝撃にわずかな時間意識が飛んでいたのかもしれない。芙美花の声は弱々しくかすれていた。
「ああ。何ともねぇ」
答えて緩慢な動作で上半身を起こす。
まだ倒れたままの彼女はなぜか素焼きの鉢植えやら双葉が育っている園芸用ポットやらを細腕いっぱいに抱えている。
それらを落とせば大惨事になるとわかっていたのだろう。多少の土はこぼれているものの、しっかりと抱えられていて床に落ちたり割れたりはしていない。
植木鉢とポットで両手を占められているので起き上がるのもままならないようだ。壮司は彼女の背に手を回しその身を助け起こした。
「あ、ありがとう」
心底申し訳なさそうに礼を言い、彼女は重ねて怪我の有無を問うてきた。
至るところが鈍く痛んだが後に引く痛みではないとわかっていたので、そのように答える。芙美花は心からほっとした顔をした。
「急に開けて悪かった。一言言うべきだったな」
床に座り合ったまま自分の配慮が足りなかったことを詫びた。
なぜあそこで一言開けると言わなかったのか。あまりに記録会のことで頭がいっぱいだったのかもしれない。
「ううん。私が面倒臭がったからいけないんだよ。不動くんのせいじゃないよ」
芙美花はかえってこっちが恐縮するような態度であった。
手を振りながら否定する彼女から水滴が飛ぶ。
改めて凝視すると波打つ髪も水が滴るほどに濡れていて、家政科の制服であるグレーのスカートもワイシャツもぐっしょり濡れている。
いまだに抱えられている大量の園芸品。びしょ濡れの姿。どうにも頭の中で繋がらない。
「桐原。一体何をしてたんだ?」
壮司がそう問うのもごく自然な成り行きであった。
何しろ彼女は自他ともに認める不幸体質に加えてどこか抜けている。今回も何かに巻き込まれたかと思うと聞くのが恐ろしいほどである。
「……私、園芸部員なんだけど」
初耳である。でもいかにも彼女らしい。
芙美花が窓際に新聞紙を引き、その上に植木鉢を丁寧に並べていく。壮司は横から手を出してそれを奪った。
「やっとくから濡れたところ拭いとけ」
いい加減濡れそぼった体が耐え難かったのか、芙美花は礼を言って素直に従った。
「この台風だから部で育ててる植物を倉庫に避難させたんだけどね」
コトリ、と植木鉢を置く。なるほど植木鉢に植わっている花は何とも可憐で外で吹きすさぶ風には耐えられそうにない。
「倉庫の扉が壊れちゃって」
「……ああ」
壮司は倉庫の分厚い扉を思い浮かべた。
ちょっとやそっとの風ではびくともしなさそうな強固な扉だったのに。やはりこれも運の悪さ故か。
「それでどこか避難させる場所が必要なんだけど教室ってわけにもいかないし、寮は遠いから」
「で、生徒会室ってわけか」
言葉を先回りした壮司を芙美花は不安そうに見てくる。
「迷惑かな?台風が過ぎたらすぐに運ぶから」
壮司としてはこの部屋にはこれらと似たような観葉植物だって置いてあるわけだしどうとも思わなかった。
「別に構わねぇよ」
そう答えてやるとあからさまに顔をほころばせた。
「ありがとう。困ってたからすごく助かる」
率直すぎるほど真っすぐな礼にどうもこそばゆい。
巴は直接過ぎる物言いをすることもあれば、皮肉を織り交ぜて婉曲な言い回しもする。おおよそ自らの感情を素直にさらけだすことはない。
他の女子は壮司の方も苦手意識があるせいかもしれないが、おおかた怖がられて会話らしい会話もできない。
だがら女子に花が咲くような笑みを向けられたことなどなかった。
「あー、桐原の育ててるのはどれなんだ?」
沈黙と照れくささに耐えきれずに適当な話を振る。
そのぎこちない問いかけにも芙美花は丁寧さを欠くことなく答えてくれる。
「不動くんのお隣のお隣の鉢のやつ。マーガレットの」
マーガレット壮司にもかろうじてわかる花だ。
白い花弁に黄色いおしべを持つ比較的よく見かける植物であったと思う。
なけなしの知識をもとに隣の隣の鉢を見やる。
ポットに慎ましく植えられたそれは雨に当たったことを差し引いても貧弱だった。青々と葉を広げていたり、大輪の花を咲かせている他の鉢と比べればどうしたって見劣りしていた。
「きれいじゃないでしょ?」
何とコメントしていいか困っている壮司に気づいたのだろう。彼女が眉をハの字にして弱く笑う。
「それね、お花屋さんで値下げされてたんだ。弱ってたからなかなか上手く育たなくて……」
数多の華麗に咲き誇る花には目もくれず、店の端に追いやられたマーガレットを手に取る芙美花が脳裏に浮かんだ。いかにもらしい。
「わざわざそんなの買ってバカだなぁって思ったでしょ?」
壮司が小さく笑ったのを見とがめて芙美花が口を尖らせた。
「思ってねぇよ」
貧乏クジは引いているけどな、と心の中でつけ加える。
不運でおっちょこちょいで、他の部員の鉢までびしょ濡れになりながら運んだり、あえて処分寸前のマーガレットを買ってくるあたり世渡りは達者でない。
しかし、常に賢く狡猾に生きている者にはない何かが彼女にはあった。
人を安心させる空気とでもいうのか、あの潔癖気味で人見知りする巴が心を許したのも道理だ。
コトリ、と最後の鉢を置く。
壮司の手で几帳面一直線に並べられた姿を見て芙美花が満足そうに笑う。
そうしてふと窓の外へも垂れ気味の目をやった。
壮司もつられて外を見やる。荒れ狂う空模様はいかにも台風らしかった。
「明日、晴れるといいね」
目を外へ向けたままポツリと芙美花が呟く。
独り言のような小さな呟きだったが、雫が一滴、滴り落ちて波紋を作るように壮司の胸の中に静かに広まっていく。
ここ数週間この行事のために少なからぬ時間を費やしてきた者同士に伝わる連帯感かもしれない。
「そうだな」
驚くほど胸の奥からするりと言葉が出てきた。
散々中止を望む声を聞いた身にはともに開催を求めてくれるのがうれしかったのかもしれない。
ささくれだった気持ちはいつのまにか去り行き、代わって穏やかな気分が壮司を満たした。
しばらくぼんやりと床に座ったまま二人で外を眺めていた。会話はなかった。なくてもよかった。
重たい雲が垂れ込め、大粒の雨が風に振り回されている。
だが土の香りがかすかに漂うこの部屋は穏やかそのものだった。
まどろむような優しい空気の中でしばし無為に時を過ごしたのだった。