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かざす花  作者: ななえ
第2章
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第2幕

 自分の手からシャーペンがこぼれ落ちた音で目が覚めた。

 どうやら知らぬうちに意識を手放していたらしい。

 携帯のディスプレイを見ると零時過ぎ。うたたねをしている間に日付をまたぎ越していた。

 不自然な格好で寝ていたため伸びをして凝り固まった体をほぐす。

 体全体に少しのだるさ――疲れを感じた。

 ここ数日間、本当に多忙だった。

 六時四十五分に登校し、七時から朝練が始まる。寝ないように授業をやり過ごし、放課後は昼休みに終わらなかった生徒会の仕事をする。部活では試合前でピリピリとした雰囲気の中に身を投じる。

 疲労困憊の体を引きずるようにして門限ギリギリに寮へ滑り込み、これまた食堂と大浴場の利用可能時間に追われながら手早く済ます。

 壮司の一日はこれで終わりではない。就寝時間を丸無視して膨大な課題と予習に夜を費やす。

 特進A、一組は部活に入らず、その余剰を勉強時間に回すことを望まれる。

 そういった背景からか毎日の課題も放課後すべてを使わなければならないようなおびただしい量であった。

 夜しか時間がないため必然的に睡眠時間を削らざるえなかった。

 タフだと自負している壮司もこれらの毎日に加えて休日もなく部活をしていれば疲労が溜まるのはどうしようもないことだった。

 といっても誰のせいにもできない。オーバーワーク気味になるとわかっていて部活も勉強も生徒会も己自身が選んだのだから。

 幸いにして今日、厳密に言えば昨日出された課題は少なめで既に終わっている。予習も週末にやり溜めした分が残っているので必要なかった。

 後は生徒会の仕事を終わらせればベットに入れるのだが、激しい睡魔に襲われて思うように進まない。

 どうにかこの眠気と、ついでに疲労感を解消したくて頭を巡らせれば談話室の自販機に栄養ドリンクが売っていたのを思い出す。

 通学用のエナメルバックに突っ込んである財布を取り出し無造作にポケットに入れて、いまだ段ボールが点在する部屋を出た。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 珍しく夜半に目が覚めた。

 体を起こすと月のさやかな光が褥に差している。

 灯りの消えた室内にはひんやりとした空気が漂っていた。

 山中なのでもう朝晩は寒いくらいだ。空気にも湿気がない。そのせいか喉が非常に乾いていた。

 巴は寝床から抜け出し、手櫛で髪を整える。

 寝間着代わりの小花が絞り染めしてある藍の襦袢。その乱れを正して部屋を出た。

 消灯時間はとうに過ぎて廊下は静かだった。

 もともとこの特別寮七階は個人の部屋より会議室や倉庫といった臨時でしか使われない部屋のほうが多い。平静から割合静かな階ではあった。

 病的な白さで光る蛍光灯の下を歩いていく。

 消灯時間以後に自室外へ出ることは原則禁止されているが、実際にはトイレなどの問題もあり不可能だった。

 それに灯台もと暗しというやつだろうか。同じ建物内にいるということと、廊下の監視カメラからか特別寮での教師の目は甘かった。

 共同洗面所へ行き、冷水器で喉を潤す。

 冷たい水を体内に入れたためか急激に体か冷えてきた。

 上を羽織ってくるのだったと後悔していると不意にカランと近くで何かが落ちた甲高い音が耳朶を打った。

 人気のない廊下に突如生じた音に驚きはしたが、もうお化けを信じる歳でもない。何だろうと思いながら音のした方向――談話室に向かった。

 談話室からコーヒーの缶が転がってきた。

 その先を見ると壮司がテレビ前の机に突っ伏して爆睡していた。

 必死になって眠気に逆らっていたのだろう。空の缶コーヒーと栄養ドリンクが彼の周りに散乱している。

 足元の缶と合わせてそれらをゴミ箱へ捨てた。

 ゴミ箱内で缶同士が触れ合う結構大きな音がするが彼が目覚める気配は一行にない。

 よほど疲れているのだろう。正体もなく眠る横顔には疲労が色濃く表れていた。

「壮司、起きろ」

 たくましい肩を揺さぶるがぴくりとも反応しない。寝息も依然として規則的であった。

 ふと彼の下敷きになってい紙に気づく。

 何気なくそれを引っ張り出した。

 ざっと目を通すと陸上記録会のグランドにおける各競技の配置を考えていたとわかる。ご丁寧に去年の反省を記したファイルまで出してきて。

 ――馬鹿が。

 どこまで真面目なら気が済むのか、と心中で悪態をつく。

 壮司が忙しいのは重々承知していた。

 どんなに忙しくてもどこまでも真面目な彼の性格からして何事にも手を抜くことはなかったのだろう。

 気の遠くなるような課題の答えを写すことも、恐ろしいスピードで進む授業の予習をクラスメイトに見せてもらうことも考えたことすらなかっただろう。

 生徒会の仕事だって少しは巴に回せば楽になるだろうに、全部自分で抱えこんでそれがさも当然のような顔をして……。

 真面目さは美徳だが、要領が悪いのは考えものである。

「壮司。風邪を引くぞ」

 先程より幾分か強く揺さ振ってみるがすっかり夢の住人で現実に戻ってきそうもない。

 困ったものだ、と手持ちぶさたな手で彼の頭を撫でた。

 昔はよく大人ぶって母親ごっこをしてはこうして彼の頭を撫でたものだった。

 他にも泥団子を愛情のこもった手料理だと言って食べさようとしたり、――おしゃまな子供だったので彼が当時幼稚園で仲が良かった女の子との交際を『母』の権威を振りかざしてぶち壊したり、実にまぁくだらないことをしていたのだった。

 今ではもう巴の言うことにいちいち従っていた幼い男の子はもういない。

 頭が堅くて、何事にも筋を通したがって、でも巴にとってはかけがえのない男に成長した。

 固い髪をかき上げ、彼のこめかみに唇を落とす。

 これくらいは許婚の特権として許して欲しいものだと思った。

 もう一度軽く頭を撫で、毛布を取りに行くためにそっとその場を離れたのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 朝練の後、始業まで時間があったので壮司は二年A組を訪ねることにした。

 今朝、携帯のアラームで目を覚ますと談話室の机に突っ伏していた。

 秋先の外気に体が触れないようにすまきよろしく毛布でぐるぐる巻きにされ、念入りに首元にはタオルまで巻かれていた。

 その上、中途半端だった各競技の配置書は流麗な文字で細かに書き込まれ、クリップで留められた完成品としてそこにあった。

 その筆跡を見る前からこの一連の行為が巴がしてくれたことだと確信していた。疲れていたにも関わらず彼女の夢を見ていたのだ。

 それは過去の記憶をなぞった夢で、幼稚園のスモックを着た巴が分厚い子育て書を読んでいた。

 まだ子育てされる方が子育て書を真剣に読んでいる様はそこはかとなくおかしい。

 その頃の巴はさかんに壮司の母親になりたがった。

 ちょうど前後して精神を患っていた母の病状が重くなり、入院したのが原因かもしれない。

 巴とて実母を亡くしているのに、幼心に母親を病院に取られた壮司を不憫に思ったらしい。そこで母親代行の考えに至ったわけだ。

 現在の抜け目ない英邁さから比べると、その幼い思考は微笑ましかった。

 人とぶつかりそうになって意識を現実に戻す。

 理系棟は男子の比率が高いためか全体的に男臭く、砕けた雰囲気がある。壮司自身はこちらの方が性に合っているが、如何せん進学希望学部が文系なのだった。

 二年A組は理系棟三階最奥にある。他クラスの教室移動の際に生じる喧騒を少しでも受けにくくするためであった。この学院の学力至上主義はどこまでも徹底している。

 教室内で必死に提出物に奮闘していたり、雑談に興じるA組生徒たちの横を抜け、窓際の一番後ろという優良席で外を眺めている巴に歩み寄った。

「巴」

 呼びかけると、視線だけで応じた後、ゆったりとこちらへ顔を向けた。

「ああ……おはよう、壮司」

 壮司が理系棟まで足を運んだ理由を察しているらしく、彼女の顔に怪訝さはなかった。壮司もあいさつを返す。

 彼女と朝のあいさつを交わすなど何日ぶりだろうか。最近では昼の生徒会活動がなければ顔を合わせない日すらある。

「……昨夜は余計な手間を取らせたな」

 何だか気恥ずかしく、無意識に頭をかいた。

 まさに礼を言いに来たのだが、よく知った間柄ではどうも照れくさい。

 彼女の視線を真正面から受けとめる気になれず、視線を反らす。

 途端に華奢な腕が伸びてきて手のひらが壮司の顔を捕らえた。

 良かったことに朝のせわしさで自分たちを気にとめる者はあまりいない。

 背けた顔をむりやり正面に向けさせられ、再び巴と相対する。

 意志に反する方向に向かされて首が嫌な音を立てた。出しそうになる声を飲み込む。

「酷い隈」

 声にわずかな怒りがこもっている。漆黒の瞳の奥にも同様の色が見てとれた。

 両頬に添えられた手は冷たくて、逆に体温が常に高い壮司には心地よい。

「私にも少しは仕事を回さんか」

 澄んだ瞳が壮司の目を捕らえる。

「お前は真面目過ぎて要領も悪すぎだ」

 冷たい余韻を残して手のひらが離れていった。

 ぐうの音も出ない。昔から要領が悪く苦労をしてきたし、最近の生活は自らの許容量を越えていたのも事実だ。

 冷淡で利己主義に見えて巴は無理しがちな壮司を心配してくれていたりするのだ。

 ただわかりにくくはあるが。

「隈をこしらえているとさらにみっともない顔だな」

 言いたくてうずうずしてたと言わんばかりに巴が頬杖をついてくすくすと笑った。

 言っていることはよく考えると失礼なのだが、その表情は珍しく無邪気だった。

 冷笑や嘲笑などを除いて素で笑うと普段との落差も相まってか驚くほどあどけなく笑うことを壮司は知っていた。

「悪かったな。お前みたいにキレイな顔じゃなくて」

「いとこ同士なのにな」

 どうしてこんなに似ていないのか、という言葉がその台詞には省略されていた。

「似ていても困るだろ」

 壮司としても男の身で巴ほどの美貌が欲しいかというとそうでもない。逆に巴が壮司ほどゴツい女子でもそれはそれで複雑だ。

「――と、そろそろ行かねえと」

 腕時計は八時三十四分を差している。後少しで予鈴が鳴る。

 体を反転させかけた壮司を「ああ、そうだ」と、巴が呼びとめた。

 他愛のないことだろうと思っていたので、壮司は何の身構えのないまま次の言葉を聞く。

「試合、見に行くから」と。

 想定外の言葉で理解に時間を要する壮司をよそに「いい試合を期待してるぞ」と、いつもの意地が悪い顔で巴が笑っていたのだった。

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