君の主導権・後編
壮司の見る限り、今宵の由貴也は不機嫌そうだった。
由貴也の高校卒業と大学の合格祝いを兼ねて古賀一族は馴染みの料亭にやって来ていた。
卒業式から一週間後、由貴也は見事第一志望の国立大の合格通知を受け取った。目を見はるような勉強ぶりで周囲を驚かせた由貴也だが、ついに一年前には誰一人として予想していなかったことをやってみせたのだ。
今日、合格を祝おうと彼の両親が嬉々として催した合格祝いの席に由貴也はお仕着せのような白いシャツに紺のニットベスト、ベージュのパンツにグレーのピーコートといういかにもお坊っちゃま然とした格好でやってきた。これは彼の趣味ではないだろう。くわえていつも無造作にあちこちへふわふわと広がっている髪も櫛が通され、真ん中できれいに分けられている。おそらく彼の母親の仕業だ。
いくら格好と場所が整っていても、肝心の主役がいかにも嫌々連れてこられました、という顔では仕様もない。盆も正月も帰ってこなかった由貴也がこういった古賀家の行事に顔を出すのは久しぶりだった。
「お前、そんなに嫌そうなのによく来たな」
食事を終え、帰宅の段になり、祖母・伯母・巴の女性陣は化粧室へ、義父・伯父は車をとりに行っていた。必然的に壮司と由貴也がロビーで彼らを待つ。
緋の毛氈が敷かれたロビーは広々とし、和と洋が上手く解け合っている。流れる音楽は箏曲だが、インテリアはレトロモダンとでもいうべきか洋風だった。
どこかの雑誌の撮影のように、格式高い料亭に違和感なく溶け込んだ由貴也が不穏な気配を発して壮司を見る。
「うるさい、ハゲ」
「はっ……!」
剣呑な表情で暴言を吐かれ、二の句が告げない。壮司は修行中のいわば学僧なのだから坊主頭なのは不可抗力だ。
世俗に関心がなさそうな由貴也が、唯一嫌いと公言して憚らないのが壮司である。それは今も変わらないらしい。壮司はありったけの忍耐力をかき集めて耐えた。
「お前は俺につっかかりにきたのか」
飛び出しそうな激情に声を震わせて、それでもなんとか怒りを抑えて壮司は言葉を発する。本当に憎たらしい従弟だ。
「アンタとおしゃべりなんて別にしたくないし」
由貴也は投げやりに言い放ち、心底うっとうしげにやわらかくセットされた髪をグシャグシャにかきまぜる。一瞬にしていつもの由貴也の無精な髪型になった。
「……来ないと大学の入学金払わないって言われた」
ぼそりとつぶやいた由貴也は不本意きわまりないという顔をしていて、壮司は目をまたたかせる。今までの由貴也なら入学金を払わない、といえばこれ幸いとトンズラしただろう。窮屈な古賀家の行事と面倒な大学のふたつがいっぺんに消えるのだ。入学金を払わないという文句は由貴也の首に縄をつけるものではなく、むしろよろこばせるもののはずだった。
由貴也の進学する大学は純粋な学問機関である国立大なだけあり、スポーツは二の次だ。陸上はそこまで強くない。そもそも陸上をしたいのならば彼には陸上の強い私立大への進学先が豊富に用意されていたはずだ。高校で部活をやっていた壮司にとってインターハイ入賞の影響力は身をもって実感している。
由貴也の国立大進学の目的が陸上でないとしたら、不意に巴の声が耳の奥でよみがえる。由貴也はもしかしたら誰か好きな人がいるのかもしれない――。
「お前、大学に誰か好きな人がいるのか?」
ぽろりと熟した果実が木から落ちるかのように自然と疑問が口をついた。触らぬ神に祟りなし。余計なことは言わないようにと思っていたにも関わらず、気がついたときにはもう後の祭りだった。
ほんのわずかな間、深い沈黙が落ち、それから由貴也は不敵に笑ってみせた。男だというのに、艶然といった表現がぴったりの、けれども油断ならない微笑だった。
「何、俺に誰か好きな人とができたら巴にちょっかい出さなくなるって安心なわけ?」
由貴也の言葉にはいささか挑発し、試すような色が混ざっている。こいつが素直に答えるはずないよな、と尋ねたそばからすでにあきらめの境地に至った。聞いたこちらがバカだった。
「それより壮司さんこそ巴とヤッちゃいそうであの家を出ていくんでしょ」
あまりに直載に尋ねられ、壮司は前のめりに倒れ、机に頭をぶつけそうになる。
「おおおお前なぁ!」
顔の熱さを自覚しながら壮司は叫んだ。いい加減遠慮だのためらいだのを由貴也には学んでほしいと切に思う。いや、由貴也はわかっていながら直入に言うのだろう。
「何か語弊でも?」
壮司の動揺などまったく取り合わず、由貴也はつんと済ました顔をしていた。悪魔のように整っている顔だけに、憎たらしさが余計に募る。
そこを突っ込まれると痛い。少女から女性へと日毎開いていく花のような巴の変化が壮司には辛い。ひとつ屋根の下にいるのだ。よりその変わりようは直接、香りすらただようように壮司へ伝わってくる。猫可愛がりして、部屋から一歩も出さずに閉じこめておきたくなる。
壮司はうなだれて額に手を当てた。
「むっつりスケベだね、相変わらず」
「うるせえ」
自分は今、盛大に赤面しているだろう。まったく、これでは由貴也に返す言葉にも迫力が出ない。
「お前こそ一人暮らしできんのかよ。出るんだろ、家」
話をそらそうと、顔を上げて由貴也へと質問を投げる。彼は頬杖をついてぼんやりしていた。
由貴也の通う国立大は家から車で一時間ほどの場所にある。交通がいささか不便なため、彼の親は車を買うか、一人暮らしかの二択を由貴也に持ち出したそうだ。いかにも金持ちのお坊っちゃまに与えられる選択肢である。それに由貴也は一人暮らしで答えた。
壮司の質問に二、三回ほどまばたきをする間を開けてから、やっと由貴也は口を開く。依然として長いまつげの影を落として頬杖をつき、あらぬ方向を向いていたが、話は聞いていたらしい。
「俺、長く一人暮らしする気ないから」
目が点になったのが自分でもわかった。
年頃の男子が一人で暮らす気がない。それはつまり――。
「由貴ちゃん。帰りましょう」
壮司の思考を断ち切るように、少し離れたところで由貴也の母親が彼を呼んでいた。由貴也の母だけあって、ブランド物を多用していながらもそれに負けないほど彼女は艶やかで、金のかかった美女という感想を毎度壮司に抱かせる。ちなみに由貴也の父親の方も冷たく整った顔をしている。その双方のいいとこどりをして生まれたのが由貴也だ。
巴は言うに及ばず、祖母も義父も皆、美形という表現がぴったりの秀でた顔の造作をしている。自分だけが一族の中で容姿に関して凡庸だ。
それを特にどうこう思う気持ちはないが、一族そろって出かけるとき、まわりからの視線に慣れない。壮司を除き、彼らは実に華やかなる一行なのだ。
「由貴也、おい、待てっ!」
意味深長なセリフの意味を正確に計りかねて、ソファーから立ち上がる由貴也を思わず呼び止める。名前を呼びつつも内心彼が応えることはないと思っていたが、予想に反して由貴也は立ち止まった。
しかしそれは壮司の追及に付き合うためではなかった。由貴也が顔だけで振り返る。
「安心してよ。もう巴には手を出せないってわかったから」
顔は壮司を揶揄するような笑みなのに、由貴也の声は思いがけず真面目な響きを帯びていた。
「お前、それどういう……」
壮司はさらなる言葉を欲して思わず腰を浮かせかける。由貴也の言葉はいつも謎かけのようで足りないのだ。
由貴也は今度こそ振り向かなかった。仕立てのよい服ときちんと磨かれた靴をまとった姿が去っていく。母親が選んだそれらはおそらく、家に着けば即座に脱ぎ捨てられるだろう。
由貴也が完全にドアの外へ消えた後、壮司は今夜の食事の場面を思い出す。
『巴ちゃんはお家を出る気はないのかしら? ほら、由貴也も四月から一人暮らしでしょう、そばに住んでくれると安心だわぁ』
伯母のねっとりとした声色が耳によみがえる。それは明らかに由貴也と巴の仲をどうにかしようとする企みだった。
巴の壮司との交際を知っていてこの発言だ。壮司はとっさに口を開きかけるが、座卓の下で巴に制された。壮司が口を挟めばどんなことでも伯父伯母にとって火に油を注ぐだけなのだ。
『巴さんと俺の大学はまったく違う方向でしょう』
巴が伯母をいなそうと言葉を発しようとした瞬間、それまで他のどの会話にも我関せずとばかりに料理を食べていた由貴也が初めて口を開いた。それよりも彼が口にした『巴さん』という呼称が一同を大いに驚かせた。
目上の者には伏して従えという厳格な上下関係のある古賀一族では、歳上に対して、例えそれが歳の近いいとこであれ“さん”づけを用いることが暗黙の了解とされている。由貴也は壮司に対しては“さん”を使うが、巴は呼び捨てにしていた。巴との進展を望む彼の両親はそれを距離の近さの表れとして咎めたてはしなかった。
壮司にはよそよそしさをこめて“さん”づけを、巴には親愛をこめて呼び捨てをしていた由貴也が、呼び方を統一させた。これは伯母の言葉を退けた以上に、巴とは一線を画すという由貴也のけじめのような決意に見てとれた。
“ただのいとこだと確認するように私を見ていた”。“もう巴には手を出せないってわかったから――”。
巴と由貴也の声が頭の中で反響する。彼と会っていなかった空白の一年間になにかよい出会いがあったのだろう。立ち止まっていた過去に区切りをつけ、由貴也の世界は動き始めた。
「由貴也と何の話をしていたんだ?」
気がつくと巴が隣にたっていた。淡い鴇色の小紋が目に優しい。
巴の唐突な質問に呆けていると、巴は言葉を継ぐ。
「そこですれちがったとき、由貴也がどことなく晴れやかな顔をしていたから」
晴れやかな顔、と言われても壮司にはぴんとこない。壮司にとって古賀 由貴也とは大まかにわけると無表情か、ニヤリと効果音がしそうな意地の悪い笑みかどちらかしかない。巴と由貴也の間にはどこか、壮司にはわからない微細な表情まで読み取れるような繋がりがあるのは確かだった。
晴れやか、か。壮司は無意識にその言葉の意味を探る。少なくとも由貴也は今までと違って“巴のために”晴れやかになったわけではないのだ。それを彼女に伝えるのもはばかられて壮司は言葉を濁す。
「アイツも受験勉強を終えて晴れ晴れしてんのかもしれねえな」
由貴也がそんなありきたりな感情を抱くとは思えないが、当たり障りのない言葉にすり替える。巴への恋慕を完全に振り切ったと思っている由貴也をそっとしておいてやりたかったのだ。
彼はきっと、巴とすれ違ってももう立ち止まることもなく歩いていったのだろうから。
「ああ、由貴也もいなくなってしまうのだな」
巴が感慨深げに由貴也が出ていった出口へ目を向けた。由貴也“も”出ていく。壮司もまた祖母を説得し、新学期に間に合うように引っ越すことになっていた。
「女というのはつまらないな。お前たちのように出てはいけない」
一年前までは三人ともに同じ場所にいたのに、これから由貴也と自分は家を出ていく。巴だけ女ゆえに家を出ていくことはかなわず残されるのだ。
巴はさみしそうに笑っていた。
「お前が男だったら俺は困る。そっちの趣味はないからな」
巴が男だったらおそらく壮司と由貴也との三人でこんなからみあった複雑な関係になっていなかった。それでも巴が男だったら自分は間違えなく今とは違っていた。
「それに俺はお前が家にいてくれるから出ていける」
自分がいなくとも後顧の憂えなく出ていける。それはひとえに巴のおかげ以外の何物でもなかった。
巴と視線を合わせてまなざしをゆるめあう。巴も微笑んでいた。まわりの雰囲気が花がほころぶようにほどけたかと思いきや、すぐそばで咳払いがなされ、一瞬にして甘さを吹き飛ばした。
「車が来ました。帰りましょう」
面食らって目をさかんにまたたかせながらその方向を向くと、蘇芳の着物を一分の隙なく着こなした祖母がそこに立っていた。
前にもこういう場面があった気がする。その時には古賀家の中だったが、カップルが身近にいるというのはそれだけで気を遣わせる。壮司の中で申し訳なさと、気兼ねなく巴とくつろげる空間が欲しいという望みが同時にわきあがる。由貴也は本当に嫌なところを突いてくる。巴と本当の意味で二人っきりになれる場所が欲しくて部屋を借りた。そんな理由も自立だの何だのの大仰な理由の裏に隠されている。
巴と二人して気まずさを感じつつ、「はい」と返事をして祖母の後へついていく。
いつも甘いムードになると絶妙なタイミングで表れる祖母にはやはり勝てないな、と思った。
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開け放した窓から風が吹きこむ。寒さの棘がとれた空気はもう春なのだと壮司に感じさせた。
よく日が射す六畳間は今日から壮司だけの城だ。ついに今日、新しい部屋へ越してきた。午前中に荷物を運びこみ、日が傾いてきた今、巴にも手伝ってもらいあらかた片づけは済んだ。
この部屋自体が剣道サークルの先輩がつい最近まで住んでいたところなので、会社の寮に入る先輩の大きな家具や家電製品はそのまま譲ってもらった。なので壮司は細々したものを持参するだけで済んだのだ。
「だいたい片づいたな」
水まわりの掃除をしていた巴がまくりあげた割烹着の袖を直しながら台所から居室の方へやってくる。手には急須と桜餅がのっている盆を持っていた。
「少し休もう」
盆を折り畳みの小さな机の上に下ろし、巴がそばに座した。壮司は衣服を整理する手を止めた。
何気なく手をついた床が固くて驚く。わずかに弾む畳の柔らかさはない。フローリングに安いカーペットを敷いただけの床だ。
何もかもが違う。日射しさんさんと降り注ぐ部屋、洋風の家具の数々、地面が遠い二階の景色――古賀家とはまったく違う。壮司は巴がいれてくれた茶をすすりながら眼前に広がる家々の風景を見ていた。
大学から徒歩二十分、住宅地にあるこのアパートはあまりにまわりを他の建物に囲まれすぎて落ち着かない。山奥の立志院と立派な庭園を持つ古賀家の二つしか壮司には居住経験がないのだ。
「いい部屋だな」
巴が急須を傾けながらしみじみとつぶやいた。「そうだな」と答えながら彼女を、暗くなる前に家へ帰さなくては、と今までは考えもしなかったことを思う。
巴はあの広い家に帰り、今夜から三人で食事を摂るのだろう。寂寥感が胸をつく。
わき上がってきた感情を振り払うように、ポケットに手を入れ、中身を巴につきだした。首を傾げながらも巴は手を差し出してくる。その手のひらに壮司の手からそれを落とす。銀色に光るこの部屋の鍵だった。
「……いいのか?」
巴は長いまつげをはためかせ、こちらを見ていた。壮司は無言でうなずく。
「いつでも来いよ」
そう言った瞬間、巴が鍵を握りしめてわずかに顔をほころばせる。春風よりもやわらかいその表情に、壮司はたまらなくなる。巴の腹に手を回し、引き寄せた。
「……頼むからこの部屋では迫るなよ」
壮司は情けなくも懇願めいた言葉を吐いた。壮司の腕に捕らわれながら、巴がふふっと軽く笑う。
「お前が家を出ていく腹いせに、襲ってやろうか」
不敵に笑う巴に、主導権を握っているのはどちらなのだろう、という気になる。巴に弱いのは自分の方なのかもしれない。
家から出ても、壮司の苦悩はまだまだ続きそうだった。