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かざす花  作者: ななえ
番外編
66/68

君の主導権・中編

「ただいま帰りました」

 壮司は心地よい疲労感を感じながら頭を下げた。

 身を起こして前へ視線を向けると、巴と祖母が板の間に座している。その姿に十一日間の修行をやり終えたという実感が改めてわいてきた。

「お帰りなさいませ」 

 今度は祖母と巴が頭を下げた。

 鈍色の渋い着物をまとう祖母に対し、巴は象牙色の地に梅花が描かれているものを着ていた。若い娘らしいそれは祖母と好対照をなしていた。

 祖母と巴が視線を交わす。祖母の瞳に込められた意を汲み取ったように巴は小さくうなずいた。その無言のやりとりを最後に祖母は廊下の奥へ消えた。

「壮司、荷物を……」

 巴が恭しく手を差し出してきて、ああそういうことかと納得する。巴と祖母の意味深長な視線のやりとりの意味を知った。

 祖母は巴に壮司の世話をしっかりするようにと念を押していったのだ。この家では男の――というより夫の身の回りの世話は女がする。祖母は早くも壮司を巴の夫と見なしているのだ。なんとも面映ゆい気分になる。

「や、いい。重いだろそれ」

 手をかけようとする巴を制し、バックを肩にかけ直す。

 壮司に拒絶され、所在なげな巴の腕を引いた。祖母の意図が何であれ別によかった。結果的にこうして巴とふたりっきりになれたのだから感謝すべきことに違いない。

「ただいま」

 巴にだけに向けた砕けたあいさつをし、その髪に顔を寄せる。巴は落ちつかなげに身じろぎした。

「……疲れただろう。風呂をわかすから入るといい」

 甘いモーションをさらりとかわされ、壮司は肩透かしを食らった気になる。十一日ぶりに会ったのだから、もう少し触れ合いたいと思うのは壮司だけなのか。しかし巴は壮司の心中など察した様子もなく、すたすたと浴室へ歩いていってしまった。

 巴の去った方へ何気なく視線を向けると、不意にあるひとつの感覚をとらえた。壮司は廊下の端から感じる気配にため息をつく。そこで様子をうかがっているのは家政婦の女性か、それとも祖母か。まったく壁に耳あり障子に目ありだ。

 お預けを食らって気を落としつつも、巴の準備してくれた風呂へ入る。まだ入浴には早い時間だったが、巴が言った通り疲労を感じていた。ひさしぶりに大きな浴槽につかって疲れをほぐす。

 修行中はゆっくり風呂に入れなかったのでついつい長風呂してしまった。体をふきつつ上がると、脱衣場のかごにはいつの間にか着替えがおいてあった。まったくもってかいがいしいことだ。

 用意されていたのは藍の着流しだった。巴の父が――古賀家の養子となっている壮司にとっては今は義父だが――の若い頃に着ていたものだった。少し前にいくつかもらい受けたのだ。

 修行の最中は和服生活だったので、もう洋服よりもこちらの方が落ち着く。着物が置いてあることはありがたかった。

 丁寧に畳まれているそれに袖を通し、鈍色の角帯を締めた。

 風呂から上がるとすぐに食事だった。いつもより早い時間なのは修行帰りのこちらを慮ってのことだろうか。ありがたいがくすぐったかった。

「どうも、風呂先にもらいました」

 膳を持って居間に入ってきた祖母へ声をかける。せわしげに動いていた足を止め、祖母が壮司へ視線を寄越した。

 めったに感情を表に出さない祖母の目がわずかに見開かれる。

 祖母の反応に何か変なところでもあるのかと、自分の体を見回す。視界に飛び込んできた藍に、ああと納得する。

 壮司は巴や祖母と違って洋服派だ。だから巴の父からもらった和服を着るのはこれが初めてだ。昔息子が着ていたものを今、孫が着ている。祖母の心へ去来しているのは懐かしさなのだろう。

「……夕食にいたしましょう」

 何事もなかった顔をして、祖母は再び歩みを再開する。顔を引き締めすぎてその口がへの字になっているのがおかしかった。

 夕食の席につき、料理が豪勢なのは壮司の気のせいだろうか、と思う。いや尾頭付きの鯛に赤飯という組み合わせはどう見ても慶事のものだ。壮司は出家したというのにこのほがらかな祝いようはなんなのか。仏教とはあらゆる苦行のもとに悟りを開くものだ。その苦境に足を踏み入れたというのに、家族はそれをよろこんでいる。

 もっとも、連綿と続く住職の家系である古賀家にとって出家は形骸化されたものだ。後継ぎである壮司がこの歳になって得度とは遅すぎるくらいだった。

「巴」

 食事も終盤に差し掛かった頃、義父が巴へ呼び掛ける。ちなみに壮司は義理の息子であることに加え、今や巴の父とは仏教上での師弟でもあった。

「はい、お父さま」

 隣に座った巴が箸を置き、答える。頭頂近くで結わえられた黒髪が透明な音を立てて揺れた。

「あれを持ってきてくれ」

 具体性を欠いた指示語に巴が首をかしげる。義父はわずかに顔をしかめ考え込む様子を見せた。

「あれとはどんなものでしょうか」

 なかなか思いさせない様子の義父に、巴は心なしか表情を緩めたようだった。歳のせいか義父はものの名前を思い出しづらくなっているのかもしれない。普段は表情ひとつ崩さない義父のこの“おやじくささ”はおかしかった。

 巴はもちろん、壮司や祖母までも見つめる中、義父は思い出したのか眉間のしわを広げた。

「般若湯。杯はひとつ」

 般若湯は酒の隠語だ。義父は淡々とした指示の後に、最高級の日本酒の銘柄を付け加えた。それを持ってこいということだろう。

 未成年である壮司と巴は言うに及ばず、祖母も義父も晩酌などしない。一体なんのための酒で、誰のための杯なのだろうか。めずらしく義父は飲酒したくなったのだろうか。

「ただいま持って参ります」

 巴が流れるような動きで中座し、まもなく朱塗りの杯と徳利を盆の上に用意して現れた。

「……お酌をいたしますか?」

 巴がためらいがちに義父に尋ねた。その瞬間祖母が元々険しい顔をより一層強め、義父を見た気がした。それは咎めているようだった。

「いやいい」

 その答えに祖母は当然でしょう、といった具合に食事を再開する。巴のような若い娘に酌婦の真似事をさせるなどとんでもないことなのだろう。

「壮司くん」

 巴が義父のかたわらに盆を置き、自身の席に戻る。場の空気が整ったのを見計らったように、義父が口を開いた。

 壮司は湯呑みに伸ばしかけていた手を膝の上に戻し姿勢を正した。

「はい」

 答えるや否や、杯をつき出された。

「一献」

 その行動にも言葉にもとっさに理解が追いつかず、一瞬目を丸くする。わずかな時のあと、壮司はああ、と合点した。

 滅多に開けられることのない上等の日本酒も、この仰々しい朱塗りの杯も自分のために用意されたものだったのか。

 壮司は立ち上がり、義父の前に腰を下ろした。

「頂戴いたします」

 頭を下げ、杯を両手で受け取った。捧げ持ったそれに、義父の手によって澄んだ酒が注がれる。杯を満たす酒に写る自分を見ながら、壮司は一息にそれを飲み干した。

 熱が喉を滑り落ちていく。だが後には上品な甘さが残った。壮司にすら上等さが伝わってくる酒の旨みだった。

 壮司は作法に従い、義父に杯を返す。義父もそれをどことなく品のある動きで一気にあおった。

 この酒の酌み交わしはおそらく祝いであり、誓いであるのだ。義父と自分の師弟の契りであると同時に、壮司はやっと半人前だと認められたのだ。とはいっても、一人前になるにはこれから途方もない時間がかかるだろう。

 その長い時間を思い、壮司は晴れがましい席にも関わらず、ため息をつきたくなった。早く、一刻も早くきちんとした大人になりたい。

 子供だという無力感はもうたくさんだ。叶うことならば一足飛びに大学を卒業し力を得て、巴を堂々と迎えられるだけの男になりたかった。結婚という証を立てたかった。

 今の現状に不満はない。平和で満ち足りて、恵まれた毎日。だからこそ自分の甘さが否応なく掻き立てられるのだ。整えられた日常の元で、壮司は巴を愛し守るにはまだ未熟で早いと言われている気になる。

 だから壮司は家を出ることに決めたのだ。家に依存しきったこの状況を払拭し、少しでも自分の足で立てるようになりたかった。

 壮司はこの家から出られない。そしてこの家へ彼女を引き込んだのも壮司だ。自分のために巴はこの家に居てくれる。それに応えるために壮司はすべてを懸けて巴を守らなければいけなかった。

 ところが今の自分はどうだろう。守るどころか共倒れがオチだろう。なにせ自分だって大人に守られているのだ。そう思うとどうしても焦らずにはいられない。

 壮司は顔をしかめる。さきほど飲んだ酒が苦みとしていつまでも舌に残った。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 夜、部屋で荷物の整理をしていると、板張りの廊下を軋ませながら近づいてくる気配を壮司は感じた。

 手を止め、耳を済ます。母亡き後、この離れに住むのは自分だけだ。ある程度夜が更けると、母屋との行き来は皆無になる。

 気配は濃くなってきても、足音はあまりしない。それはすり足で歩いているせいだろう。祖母と巴は日舞をたしなんでいるので、すり足で歩く。そして祖母ならば気配すら消すはずだ。となると考えるまでもない。

 襖の前で、その人物の気配が凝っていた。

「……壮司、入っていいか?」

 襖ごしに声をかけられ、予想通りの事態に壮司は煩悶する。これが昼なら大歓迎だが、今は夜だ。とはいっても断るわけにもいかない。この家は古いため廊下は身をすくめるような寒さなのだ。その寒さの中、わざわざやって来た彼女を暖かい部屋の中へ招き入れないのは鬼のような所業に思えた。

 壮司は軽く息をつき、答えるよりも早く立ち上がって襖を開けた。巴が冷たい廊下に正座していた。

「そこは寒いだろ。早く入れ」

 壮司が腕をとり、部屋に引き入れようとすると、巴はやんわりと身を退き、かたわらに置かれた漆塗りの盆をとった。注ぎ口から湯気をたてる急須とふたつの湯飲み、それから小さな皿に水仙を模した和菓子が楊枝を添えて行儀よく置いてある。

「たまにはお前とゆっくりお茶でも飲もうと思ってな」

 巴は言ってからしまった、という具合で口に手を当てた。壮司は「どうした?」と尋ねながら押し入れから座布団を出して畳に並べる。

 巴は相変わらず流れるような動きで座布団に座し、それからばつの悪そうに口を開いた。

「お祖母さまに『壮司さんのことを呼び捨てやお前呼ばわりをしてはいけません』と言われたんだ」

 至極真面目に巴が言うので、壮司は返す言葉がとっさに出てこなかった。

 古賀家は完全なる男系の家だ。よって男の力が強く、一族の女は男に従うという形を何代にもわたってとってきた。その気質が呼び方ひとつにも表れる。

 壮司はそれ以上に、ただ得度しただけで自分の扱いがこんなに変わるとは思わなかった。後取りという自覚は充分にあったつもりだが、驚きとまどう。

 壮司の動揺のかたわら、巴は淡々とき急須から湯飲みに茶を注いでいた。彼女は寝間着の白い単衣の上に、濃い紅の羽織を着ている。対する自分はといえば巴とは色違いの藍の羽織だ。寝間着という危ない格好もさることながら、この対称的でありながらも共通点のある装いがどうも恥ずかしい。要は夫婦茶碗のような気恥ずかしさなのだ。

 巴は壮司のそんなとまどいなど気づいた様子もなく、湯飲みの底を丁寧に拭いてから茶托の上に置き、こちらへ渡してきた。壮司は礼を言いつつ受けとるが、なんとなく口をつけられずにいた。

 茶器のふれあう音が止むと、部屋には静寂が戻ってくる。ストーブの芯が燃える音が時おり空気を震わす。

 静けさが戻ってきたのを見計らうように巴が姿勢を正した。どうした、と聞き返す前に、巴が畳に手をつき、深々と頭を下げた。艶やかな黒髪が壮司に見せつけるかのごとく、巴の肩から涼やかな音を立ててこぼれ落ちる。壮司は面食らって手に持った湯飲みを落としそうになった。

「お勤めご苦労さまでした」

 壮司が絶句しているうちに巴がしとやかに言って見せた。いったいどこの時代劇だという様相に、壮司はうろたえて巴の両肩をつかみ、体を起こさせた。

「止めてくれ! 俺はお前に仕えられたいわけじゃない」

 みっともないほど取り乱した壮司に、今度は巴が目を瞬かせていた。なにが悪いかわからなくてきょとんとしているといった感じだ。

 無理もないか、と壮司は思う。なにせ巴はあの祖母に育てられたのだ。古賀家の風習にどっぷりと浸かっている。壮司が染まらなかったのはひとえに居候であるからだ。遠慮からつねに一歩引いた視点からものを見るように心がけてきた。

 壮司は巴の肩に手を置いたまま続けた。

「俺はお前にたててもらいたいとは思ってない。呼びつけでもお前呼ばわりでも構わない。俺は別にお前より偉いわけじゃない」

 壮司は婿養子という立場から代々の当主のように威張ることには抵抗を感じる。それに男だから女だからという考えには素直に賛同できない。

 巴は医者として外で働くことになるだろう。たとえ彼女が家に入り、家政を担ったとしても壮司はそれを自分の僧侶の仕事より卑しいとは思わない。

 巴は壮司の言葉の意味を咀嚼するように目を伏せていた。

「……こういうところがお前が窮屈に感じるのかもしれないな」

 巴が独り言のようにつぶやいた言葉は小さくて、壮司にはよく聞こえなかった。

 巴は気をとり直したように微笑み、和菓子が乗った半月形の銘々皿を差し出してきた。欅の感触が指先に心地よい。

 再び沈黙が落ち、間が持たなくなった壮司は湯飲みを口につけた。

 口腔に広がった苦みにぎょっとする。ものすごく濃い煎茶だった。

「お前、なんだってこんな濃い……」

 温度も湯飲みもきちんと温められているが、いかんせん濃すぎる。渋みはないが、寝る前に飲むのには適していない。

「眠くなられては困るのでな」

 巴が茶に目を落としながら言った内容に、壮司はわけがわからなくなる。巴がこんな夜更けに訪ねてきた理由をいまいち把握できずにいた。

 巴は壮司の疑問など意に介さずに、綺麗に楊枝を使って和菓子を食べていた。

「由貴也はどうしてんだ。もう少しだろ、二次」

 何だか妙な空気を変えたくて壮司は話題を振った。このままだとどんどんまずい方向にはまっていきそうな気がする。

「ああ、相変わらずよくやってる。国立大に行きたいと言い始めたときにはどうなることかと思ったが」

 巴は苦笑しつつもその表情はやわらかかった。由貴也に対する親しみを感じる。壮司はわきあがってきた苦い感情を抑え込んだ。

 由貴也の両親が巴に息子の家庭教師の話を持ってきたとき、当然彼女は断ろうとしてくれた。家庭教師といえば部屋にふたりきりだ。しかも相手はかつての恋敵由貴也で、壮司は気にならないといえば嘘になった。

 しかし叔父と本家は、というより叔父と壮司は微妙な関係にある。壮司が小さな悋気でこの件を断らせたとあっては関係悪化は必至だった。彼女はそこを懸念して断りを入れるのに躊躇したのだろうし、巴自身も苦しい立場に追いやられる。加えて由貴也に「これくらいのことが許容できないとか男としての器が小さいんじゃないの」と言われ、壮司は最終的に家庭教師を許した。

 巴はなおも壮司に「いいのか」と控えめなうかがいを立ててくれたが、壮司は気にしていないという態度を貫いた。

「……壮司、由貴也はもしかしたら誰か好きな人がいるのかもしれない」

 静かに茶を一口含み、巴は切り出してきた。思いもよらない言葉に壮司は言葉が出てこない。巴一筋で他には見向きもしなかった由貴也に新たに想い人ができたというのか。

 今回の家庭教師の件でも、壮司はいい気分はしなくとも、由貴也が巴をどうこうするという心配は不思議なほどしていなかった。仮に由貴也が巴へ手を出そうというのなら、こんなまどろっこしい真似はしない。もっと堂々と、最も壮司にダメージを与える形で行うだろう。

 それ以上に、由貴也からはぎらついた不穏な眼光が消えていた。なにがなんでも巴を手に入れようという強い欲求が見えなくなっていた。

「好き、というほど強くないかもしれないな。けれどあの由貴也が『走っとかないと怒られる』と言うんだ」

「それは……」

 今までになかったことだ。巴の言葉を借りるなら『あの由貴也が』の事態だ。由貴也が誰かの目を気にしている。

 以前、巴が部活をするようになってから由貴也は表情が出るようになってきた、と言っていた。由貴也が失恋の痛手から立ち直るのに必要としたのはただ単に走ることだけではなかったのだろう。おそらく今回の国立大志望の理由もそのへんにあるのではと壮司は思っていた。

「お前のことはもういいんだな」

 ほとんど事実を述べるような気分で壮司は声に出す。いつか遠くない内にきっと由貴也にこんな日が来ると思っていた。巴のもとから旅立つ日が。

 巴はなんともいえない複雑な笑みを浮かべる。

「由貴也は私と用心深く接していたよ、とても」

 家庭教師をやっていた期間を指しているのだろう。どこか影を持って笑いながら続ける。

「ただのいとこだと確認するように私を見ていた」

 巴は由貴也の変化がうれしくもあって寂しくもあるのだろう。巴によくなついていた小さな由貴也はもういない。人を殺すことも厭わないような一途な恋慕もまた消えた。彼が消したのだろう。

「きっと由貴也が家庭教師なんかを甘んじて受けたのは、私を完全に消すためだったんだ。新しい誰かのために」

 由貴也はおそらく、家庭教師など頼まなくとも勉強できたはずだ。彼は誰かに指図されるより自分のペースで進める方がきっと一番性にあっている。

 本人そっちのけで騒ぎ立てる親を無視せず、おとなしく家庭教師をあてがわれたのは、彼には彼の思惑があったからなのだ。これが失恋から完全に立ち直るための、最後の仕上げだったのかもしれない。

「もう一杯飲むか?」

 区切りをつけるように、巴が新たなお茶を勧めてくる。壮司は「いや」と断る。こんな濃いお茶をもう一杯飲んだ日には眠れなくなる。こんな日はもう、早く寝てしまうに限る。

「さて、寝るか」

 言外に意味をこめて壮司はひとりごちる。そろそろ、巴を部屋に帰さねばいけない。

「では布団を……」

 巴がすばやく立ち上がって布団をとりだそうと押し入れへ向かう。壮司は「それくらい自分でやる。お前もそろそろ休め」と制した。

 布団を下ろす壮司の後ろで、巴が所在なげにたたずんでいた。巴が主人に仕える古賀家の女として意気ごんでいるのはわかっていたが、とにもかくにもこんな夜更けに壮司の部屋を訪ねてこられるということ自体がそもそもまずい。

 あまりに静かで、巴が落ちこんでいるのかと壮司はそっと様子をうかがおうとする。そんなに肩肘を張ってがんばってくれなくともいいのだ。

 いると思っていた数歩後ろに巴はいなかった。思ったよりずっとそばにいて――。

 思考が止まる。細く冷たい腕がそっと壮司の体に巻きつく。おそるおそる、そろりといった具合で、巴に後ろから抱きつかれた。

「お前、何を……」

 声がつまる。情けなくも動揺した。こちらの神経を刺激する行動をとり、巴は何を考えているのか。

「……今日は琴を弾き間違えてお祖母さまにしかられてしまった」

 壮司の胸に手を回したまま、巴が話す。密着したところから話すたびに微かな振動を感じた。

 巴は立志院から戻った後、中学入学までやっていた種々の習い事を再開した。琴と花は祖母に直接習い、日舞だけは名取の免状をとりに外に習いに行っている。

 いったいその世間話がこの体勢とどう関係があるのかと壮司はますます混乱した。

「煮物は焦がすし、皿は割るし、本を読んでも内容が頭に入らなくてな。かといって他の何も手につかなかった」

 次々と彼女にしてはめずらしい失敗例を挙げていく巴に、壮司は過去の記憶に思い当たることがあった。巴は何か言いにくいことを言うとき――照れたとき、こういう迂遠な言い方をするのだ。

 次の言葉をためらうような間が空く。言葉を補うように、巴の腕にいっそう力がこもり、壮司を締めつける。

「……お前がいなくて、さみしかった」

 前に頭を倒したのか、巴の額が壮司の背中に当たる。どう考えても壮司から巴は見えないのに、その赤面した顔を隠そうとするしぐさが壮司の心臓を鷲つかみにした。

 もう限界だった。体を反転させ、巴の肩をつかむ。身をかがめて唇を合わせた。たった十一日、されど十一日。その間、どんなに巴の存在を切望しただろう。こんなに完全に巴と離れていたことはないのだ。

「……お前だけがさみしかったと思ってんのか」

 唇を離したわずかな間につぶやく。ためらいがちに下を向く巴の顔を上げさせ、ふたたび口づけを交わす。今度はより深く、長く。

「……じゃあ、どうして」

 額をくっつけあっていると、巴がささやくような声で答えた。

「どうしてこの家を出ていくんだ」

 巴は責めてはいなかった。ただ切実な哀願めいた言葉がこぼれ落ちる。

「この家がお前にとって居心地がよくないことはわかっている。自由が欲しいと思ったって無理ない。そう頭ではわかっている」

 一息に言って、巴は自らの姿を省みたかのように表情をはっとさせた。巴がこんな風に壮司のやることに反対するのは初めてで、素直に驚く。やはり巴は本質的には“古賀の女”で、女である自分よりも男の壮司の決断の方が重いと考えている。

 その無意識下の抑制を越えて、巴はこんなことを言ったのだ。よっぽど我慢させていたのだ。

 唇を噛む巴に触れようとして手を伸ばすが、その持ち上げた腕の下を抜け、巴はこらえきれないという風に再びきつく抱きついてきた。行かないでくれ、と無言で訴えているかのような行動だった。

 非常にまずかった。かわいいと、壮司は十九年間めったに使わなかった、しかしこの二年間で頻繁に思うようになった言葉が今、この瞬間より強く感じる。かわいすぎる。

 真冬なのに汗をかいていた。足元がぐらぐらと揺れる。ストーブの熱気がうっとうしい。

 それらを意識的に固く封じ込める。巴の体を引きはなそうと、自分のものではないような腕を叱咤して動かそうとしていると、巴がかすれた声をもらす。

「お祖母さまがいいとおっしゃったんだ」

 意味がわからなくて聞き返すより先に、巴が言葉を補う。

「壮司さんの部屋に布団を敷きに行って差し上げなさい、と言ったんだ」

 体のすべての動きが停止したかのような感覚に襲われる。

 数年前、壮司が思春期に入ったあたりから夜になると母屋と離れの行き来を固く禁じてきた祖母が、自分の部屋に巴をよこした。例え額面通りの意味だとしても、裏を勘繰られても仕方ないだろう。

 自分は祖母に試されているのか、という可能性が急浮上する。ここで上げ膳据え膳を壮司が喰らってしまったら、祖母は壮司をそこまでの男だと見限るのかもしれない。

 祖母の意図を量りかねていたが、その線が一番濃厚な気がしてきた。いくら得度し、じきに成人するといっても、正式に婚姻していない状況で祖母が巴と夜を明かすことを許すはずがないのだ。

 それにしてもいくらなんでも酷すぎる、この状況は。若い男子を前にこんなことを平然と画策する祖母には一生勝てないような気がした。

 壮司はありったけの理性を総動員し、なるべく優しく巴の体を引き離す。巴は当然だが傷ついた顔をする。

 そんな顔をしないでくれ、と言いようもなく心が痛む。お前が嫌なわけでは決してない、と言おうとして口を閉ざした。今下手に口を開くと墓穴を掘りそうだ。とりあえず巴の両肩を押して座らせる。その肩の頼りなさに、触れた指先がしびれ、頭が変になりそうだ。

 動揺を鎮めるために冷めたお茶を一気に喉へ流し込む。渋味が口内に広がる。この異様な濃さは壮司に寝させないためだったかと思うと複雑極まりない心中だった。

 巴は行儀よく正座し、うつむいていた。頬に朱が差しているのは羞恥なのかいたたまれなさなのか、ともかく痛々しかった。

「俺がこの家を出ていこうと思ったのは今の境遇に不満があるわけじゃない」

 充分に心を落ち着かせてから改めて言葉を発する。自分と巴の間には大きな認識の違いがありそうだ。それを丁寧に取り除いていかなければばらない。

「ではなぜ……っ!」

 巴がすぐさま身を乗り出して壮司に迫る。ずいぶん過敏になっているようだ。彼女らしい落ち着きがない。

 壮司がなだめる前に巴が恥じ入るように口をつぐみ、目を伏せた。取り乱したことを悔いるような行動だった。自分を抑える巴に苦々しい気分になる。

 自立したいと強く願い、外ばかりを向いてその実、大事にすべき内側をこんな風にして、何をやっているのだろう。

「……私は――“私たち”は不安なんだ。お前がもう子供ではないから、この家に頼らなくても生きていけるから」

 そこで巴は膝の上に置いていた手を握りしめる。切った言葉を再開させるための助走のような動きだった。

「お前が家を出ていってもう戻ってこないのではないかと――……」

 修行から帰ってきてからの恭しい扱いの謎が解けた気がした。自分を丁重に扱うのは得度したことにより、この家の次期後継者として認められたからではない。古賀家から出ていかせないための方策だったのだ。

 幼く、ひとりで生きていくすべのなかったかつての壮司はこの家にしがみつくしかなかった。それが成長し、今や壮司の方が後継ぎとしてこの家に留まることを求められている。力関係という尺度で量るのは気が引けるが、それが逆転したのだ。

 巴は自嘲するように、顔を歪めて笑った。

「お祖母さまは私を餌にして、お前をこの家に留めておくつもりなんだ」

 祖母の思惑がすっかり見えた。精気が有り余っている若い男の前に、恋人を与えて溺れさせ、意のままに操るつもりだったのだろう。色に狂った男を好きに扱うことなど造作ないことだ。愚かだと心中で蔑みながら祖母は、骨抜きにした壮司に満足したのかもしれない。

 壮司にとっては極上の“餌”とされた巴は、髪をかきあげるように額に手を当て、赤面する。

「私は、お祖母さまのやろうとしていることをわかっていながらも自ら進んでお前を嵌めるような真似を……」

 巴は女であることを利用したことがたまらなく下劣と感じているのだろう。

 こちらの視線を感じてか、巴は体勢を立て直すかのようにひとつ息を吸う。幾分か平生の色が戻っていた。

「……騒がせて悪かった。部屋に、戻る」

「巴、待て」

 言葉をはさませるのをこばむかのように、腰を上げて部屋を辞そうとする巴の手首をつかむ。ここで帰したら明日には何事もなかったようにされる。

「これ以上恥をかかせないでくれ!」

 張りつめた巴の声が部屋の四隅まで響き渡る。巴がこちらの手を振り払うように身をよじった。それでも壮司は手を離さなかった。

「俺の話を聞け」

 悄然とうつむく巴は痛々しかったが、もう刃向かう気もないかのように肩を落としていた。決して壮司と目を合わせようとしない。

「俺はまだ学半ばで、僧侶としても一番下っぱだ」

 言葉をひとつひとつ丁寧に選ぶ。

 壮司には愚かしくも巴に強烈に愛されている自覚がある。そうでなければ関係が恋人になる前に破綻していたはずだ。長い長い家族としての期間の積み重ねと、巴はどんなことがあっても見捨てずにいてくれるという自負から、自分は言葉での対話をどうも怠りがちだたった。

「この家にいたらお前も、ばあさまも、義父さんも半人前の俺のことを大事にしてくれるだろう。それはとてもありがたいことだと思う。だがな、俺にはその扱いはまだ分不相応なんだ」

 分不相応、半人前、その言葉が自分で言っておきながら痛かった。

「俺はそれに慣れきって堕落するのが何よりも恐い」

 巴の父が健在である間はともかく、いづれ壮司は檀家千軒を抱えるこの寺をとりしきっていかなければならない。そして息子である由貴也に巴を娶せようとする叔父を何としても退けなければいけない。これは祖母の手を借りず、自力でやらなければ意味がないのだった。

 このままでは壮司は遠からず錯覚する。家でこんなにも大事にされている自分は偉いのだと、自分にはそれだけの価値があるのだと。そう勘違いした暁には檀家衆には世間知らずの坊さまだと影で笑われ、叔父を相手にするなどとんでもないことだろう。

 この家を継ぐ男児で、後取りだからとその上にあぐらをかくような真似をするわけにはいかなかった。

「その扱いが相応しくなったらこの家に戻ってくる。必ず」

 言葉の余韻が去った後、巴の手をゆっくりと離す。拘束は何もなくなったというのに、それでも巴は動かなかった。しん、と冬の夜の静寂が冴え渡る。

「……お前は立派だな」

 巴の声が静けさの中に落ちた。壮司に届く前に床へ落ちていくようなそんな言葉だった。

「自分が情けなくなるくらい立派だよ」

 顔を隠すような髪の隙間から、透明な滴が流れていくのが見えた。どこかなげやりに笑う巴のあごから涙が落ち、畳に当たってパタッという軽い音をたてる。その涙に含まれている感情を思えば、軽すぎるほどの音だった。

「泣くな」

 そっと巴の頬を両手で包み、上を向かせた。涙に濡れた巴の瞳が壮司を見上げていて、心中で密かに祖母への恨みを連ねた。祖母はまったく自分の弱点を熟知している。やっぱり出ていくのは止める、と言いたくなってしまう。

 おそらく、後取りとして育てられてきた古賀家代々の当主の中に、一時的とはいえ家から出た者はいない。この家は狭く、堅固だ。壮司の一人暮らしは彼女らに衝撃を与えるのに充分だっただろう。

 いっそうのこと巴も一人暮らし先に連れていきたくなる。巴は女子ゆえに進学先まで自宅から通える範囲に限定されたぐらいだ。この家から出て、ましてや壮司が一緒に連れていくなど祖母が決して許しはしないとわかってはいた。

「……お前が帰ってくる日を待っている」

 そんな壮司の夢みたいな考えを打ち切るように、巴が言った。

 力のない壮司が自分の望みを押し通すとどこかに必ずほころびが生じる、今はまだ。

「待っててくれ」

 決意をこめてそう言い、壮司はそっと巴の目尻から落ちそうな涙に唇を寄せた。

 どのぐらいふたりで抱き合っていたのか、立っていた体勢もいつの間にか畳に座していた。巴は壮司の胴に手を回し、こちらの胸に顔をつけて眠っている。巴は泣いた後いつも急激な眠気に襲われるらしく、こうなってしまうのだ。

 無防備な顔で寝息をたてる巴に、壮司はなんともいえない気分になりつつも、そっと巴の腕を解く。さすがにここで寝かせとくわけにもいかない。彼女の体を一回畳に横たわらせ、抱き上げた。

 行儀が悪いと思いながらも、足で襖を開け、巴を彼女の部屋へ送り届けるために廊下を歩き出した。

 廊下は暗く、行き先に闇が固まっている。足裏から感じる寒さに身震いしそうだ。

 床板をきしませながら歩いていると、母屋へ続く廊下の先に突如としてぼんやりとした光が現れた。人魂だと思うほど壮司は子供ではなかったが、少なからず驚く。灯りは祖母が持っている手燭だったからだ。

「ばっ、あさま……」

 思わず声が裏返る。朝は早く、夜も早い祖母がどうしてこんなところに立っているのか。祖母は夜更けだというのにいつもと同じく渋い色合いの着物をまとい、きっちりと銀色の髪を結わえていた。

 手燭の炎に下から照らされた祖母の顔は能面のように動かず、いつも通り険しかった。その顔を前にして壮司の背中には冷たい汗がつたい、早口で弁解したくなる。巴とことに及んではいない、と。今の状況はただ巴を部屋まで運んでいく最中なだけだと。しかし、そうまくし立てることこそ余計にやましいことをしているかのように見えそうでこらえる。

 祖母は壮司の頭のてっぺんからつま先までじっくりと、体毛の一本すら分析するように見てから重々しく口を開いた。

「あなたの顔を見たら巴さんと契っていないことぐらいわかります」

 しれっと言う祖母に、顔だけといわず全身を見たでしょう、という反論は飲み込んでおく。

「暗くて足元が危のうございましょう。私が先を照らします」

 祖母は言うなりくるりと身を翻し、廊下をすり足で進んでいく。祖母の背中を追いながら壮司は巴の言葉を思い出す。

『お祖母さまがいいとおしゃったんだ』

 巴を壮司の部屋に送り込んできた張本人である祖母は、まさか考えたくもないが様子を見にきたのではないのだろうか。このタイミングの良さはそれしか考えられなかった。

 祖母が先んじて椿の描かれている巴の部屋の襖を開けた。部屋の灯りをつけると、壮司の部屋と同じような造りであるのに、紅いカバーがかかった鏡台、桐の衣装箱や花の彫りが施してある箪笥、書き物机の上に置かれた一輪挿しなど娘らしい巴の部屋が照らし出された。

「私が床を延べます」

 壮司がどうこう言う暇なく、祖母はすばやく押し入れから布団を下ろす。壮司が何もできないうちに完璧な形で布団が敷かれた。壮司がその早業を半ば呆然と眺めていると、祖母に目でうながされてしわひとつないシーツの上に巴を下ろす。彼女は深く眠っているようだった。

 風邪をひかないように布団をしっかりとかけてやる。涙のあとが残る寝顔に、申し訳なさが募り、小さく詫びてから傘から垂れ下がっている紐を引き、電気を消した。

 どちらからともなく動きだし、巴の部屋を出る。祖母が後ろ手で静かに襖を閉めた。

「夜中に騒がせてすみませんでした」

 時間を慮って、声を抑えて謝る。改めて成人するまで、いや結婚するまで不埒な真似はしないと誓った壮司だった。

「……あなたも疲れていらっしゃるでしょう。もう早く、お休みなさい」

 壮司を凝視の一歩手前のような強さで見つめてから、祖母はらしくなく途切れがちな言葉を発した。

「世話をかけました」

 そんな祖母の様子にどこか不思議さを覚えながらも、それを尋ねる明確な理由を持っていない壮司はただ無難なことを言うだけだった。祖母との奇妙な時間は終わり、それぞれの部屋にひきとる、それでこの長い夜は終わるはずだった。

「壮司さん」

 離れの自室に戻ろうとする壮司の名を祖母がやおらに呼ぶ。驚く半面、心のどこかで予想があったのか、「はい」と即座に答える。

 体の向きを変え、離れへ続く廊下から祖母へと向き直る。自分とは正反対の方向に歩き出していた祖母はまだ、背中を向けたままだった。そして頑ななまでに背中を向け続けていた。

「……この一年、私はあなた方を見て参りました」

 ややあって祖母の独白のような言葉が始まる。この一年、立志院から帰ってきてからの短いような長いような期間に、自分たちはぎこちなく家族になった。

「私はただ、あなたになら巴さんを差し上げてもよいと思ったのです」

 祖母の言ったことがすぐには理解できなくて、頭の中で何度も反芻した。あなたになら、巴さんを、差し上げてもよいと、思ったのです――文節に区切ってもまだよく飲み込めない。

 それってどういう、と尋ねる前に、祖母はわずかな足音だけを残し、廊下の先に消えた。

 なぜだか闇がやわらかくなっているように感じる。認められた、祖母に初めて。経典を広げて義父に教えを乞い、バイトで稼いだ給料を祖母に手渡したこの一年の記憶がよみがえる。

 壮司はただ、体が冷たくなるまでそこにたたずんでいた。この家の大黒柱である父と、内政を担う祖母。今は遠くともいつかは届いてみせよう、と決意した夜だった。

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