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かざす花  作者: ななえ
番外編
65/68

君の主導権・前編

本編読了推奨。終章より一年半後、壮司・巴が大学一年の冬。

「「修業!?」」

 居酒屋の喧騒に負けないぐらいの勢いを持った芙美花と健一郎の声が響く。巴は無言でうなずいて、杯の中の日本酒をあおった。

 今日は金曜日だ。明日は休日で、飲んで騒ぐには絶好の曜日だ。学生街の隅にあるこの飲み屋はかなりの学生でにぎわっていた。

「修業ってお坊さんの?」

 芙美花が座卓に身を乗りだして聞いてくる。巴と同じくらい飲んだのに、彼女に酔った様子はまったくない。

 本当に腐れ縁だ。なんとか医学部に合格して大学に行ってみたらそこには芙美花がいた。彼女は巴と同じ大学の家政学部に在籍していた。

 二駅先の教育大学には健一郎がいて、なんだかんだで立志院を卒業した後もつきあいが続いている。

「そうだ。すっかり坊主頭になってたぞ」

 おつまみに手をつける気にはならなくて、かたわらのビンをつかむ。自分の杯に酒をまたなみなみとついだ。

 その澄んだ表面に不意に壮司の顔が浮かんだ。

 行って参ります、と玄関で頭を下げ、壮司が古賀家から出かけて行ったのは三日前だった。正式に僧侶になるためだ。

 僧侶となるには得度という儀式を済ませなければいけない。本山へ赴き、短期間修業に励む。その十一日間は家族であっても一切連絡がとれない。携帯電話などの修業に不必要なものは持ち込みを認められない。

 あと八日間はまったく壮司と会えないどころか声すら聞けないのだ。

「修業って何やるの? 滝に打たれたり、火の中歩いたりするの?」

 芙美花がおそるおそる聞いてくる。健一郎は半信半疑といった具合で苦笑していた。

「いや、それはさすがにしないな。お経読んだり、勉強したりするだけだ」

 寺の娘である巴には別段めずらしくないことでも、芙美花や健一郎には未知の世界のことだ。

 巴はよく知ってるからこそ、その修業がどれほど厳しいものかを知っていた。自由時間はあまりに少なく、一日中正座をしていなければならない。

 正座と聞くと楽に思えるかもしれない。しかし長時間の正座で感覚がなくなった足を無理矢理動かそうとして腱を切ることや、転倒して骨折することもある。そもそも正座自体長く続けると脂汗が出るほどの苦痛を伴う。修業というだけあって過酷だ。

「壮司くんはいつ帰ってくるの?」

 近くにいるはずの芙美花の声が遠くで聞こえる。その問いかけに曖昧な返事をして、無意識に杯へ手を伸ばす。

「古賀、もうやめとけよ」

 健一郎の制止を無視して杯を空ける。熱が喉にすべり落ちてくる。

 無茶なペースで飲んでいると自覚している。けれど飲まなければやっていられなかった。

 壮司は自らの役目を果たすために修業へ行っている。この寒い中、苦行に耐えている。

 だから言えない。決してさみしいなどと。

 熱気が体へたまっていく。頭の芯がぼんやりする。体を揺さ振られているような気がする。

 もうこのまま何も考えずに眠りたい――。巴は机につっぷした。

「巴、大丈夫?」

 芙美花の声にすぐに答えられない。深酒しすぎた。巴はあまり強くないのだ。

「……壮司が家を出ていくと言うんだ」

 大丈夫、と答える代わりに違う言葉が口をついた。酒で自制心が弱くなっている。こんな弱音言うつもりはなかった。

「え? 家を出ていくってどういうこと?」

 芙美花の声が壁一枚隔てたように聞こえる。言葉を返そうとしても、頭が働かない。意識が白くなっていく。まずい、と思ったが、もう後の祭りだ。酔っぱらいたちの喧騒が遠のく。

 巴はろくな抵抗もできずに意識を手放した。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 春になったらこの家を出ていこうと思っています。壮司は数日前、そう切り出した。

 この冬が明ければ巴と壮司は二回生になる。誕生日が来れば二十歳だ。もう子供ではないのだと。だから世話になるわけにはいかないと、彼は淀みなく言葉を並べた。

 何の相談もなしに打ち明けられた壮司の胸の内に、巴もおそらく祖母も動揺した。祖母はそれでも冷静に壮司を説得した。あなたの一番すべきことは勉学です。他のことは気にしなくてよろしい、と。それでも壮司は首を縦に振ることはなく、修業へと行ってしまった。

 壮司は家から一時間半ほどかかる宗門大学に通っている。決して短くはない通学時間の上、彼はバイトにも明け暮れていた。

 壮司は学費を払い、家へ毎月現金を入れている。毎日ただ何の心配もせずに大学に通うだけの自分とは大違いだ。

 それに壮司は大学入学を機に古賀姓に改めた。古賀家の養子たる彼は養家の姓を名乗ることを義務づけられている。壮司はいずれそうなるんだから別にいいだろ、と笑っていたが、長年親しんだ名字を捨てるということは複雑なのではないか。不動の姓を断絶することは、彼の父親の存在を消すことにつながるのではないかと、巴は思った。

 しかし壮司の決断はいつもいさぎよくて立派だった。

 今回ももう住むところまで決めてあり、家電まで大学の先輩に譲ってもらうことになっているそうだ。祖母や巴の口の挟む暇を与えない素早さだ。

 壮司の決断はいつもいさぎよくて立派で――だから巴は何も言えなくなる。行かないでくれ、出ていかないで、ずっと目の届くところにいて欲しい、とは言えない。

 壮司の大人びた考えを前にすると、自分の考えがひどく自分勝手で、子供じみたものに感じる。事実その通りだ。

 三日いないだけでこんなにさみしい。なのに、家から出ていかれてしまったらどうなるのだろう。壮司はあんなにもしっかりしているのに、自分は――……。

 頭が痛み、それを合図に全身の感覚が戻ってくる。本能的に目を開けた。

 真っ白な天井におもちゃのようなシャンデリアがつりさがっている。こんな妙な組み合わせの部屋を巴は今まで一回しか見たことない。芙美花の部屋だ。

「あ、おはよう。気分はどう?」

 考えを裏づけるように、キッチンからエプロン姿の芙美花が現れた。窓からは朝日が差し込み、部屋には味噌汁のいい匂いがたちこめている。

 巴は痛む頭を押さえつつ、起き上がる。ベッドがきしんだ。

 どうやら昨夜、飲み過ぎてつぶれた巴は芙美花の部屋へ運ばれたらしい。芙美花は大学の側で一人暮らしをしている。

「お家には連絡しといたよ。あ、お風呂わかそうか?」

 昨日のアルコールの余韻など感じさせず、芙美花は朝から元気だ。

 壮司と健一郎はそこそこ強く、芙美花にいたってはザルだ。いつも集まる中で巴が一番酒に弱い。

 だからこのメンバーで集まるときは、他につられて飲み過ぎないように気をつけていたのだが、昨日はどうにも自制が効かなかった。

「……ごめん。迷惑をかけた」

 壮司がいないからこそ、なおさら自重しなくてはならなかったのに、このざまだ。おそらくここまで運んでくれたのは健一郎だろう。その上自分は芙美花のベッドまで占領してしまった。

 芙美花はにっこり笑って、お風呂入れるねーとキッチンの方へひっこんだ。

 巴が風呂から上がるまで、芙美花は朝食を待っていてくれた。

 芙美花の手料理。風呂上がりにも関わらず、巴は体温がすっと下がっていくのを感じる。芙美花の創作料理はひどい。いっそのこと芸術的といってもいいくらいだ。甘いものと辛いものを躊躇なく混ぜ合わせ、独創的すぎる一品をつくる。

 ここまできて朝ご飯を食べずに帰るわけにはいかない。覚悟を決めて食卓につくしかなかった。しかし巴の予想に反し、テーブルに並ぶ品々はいたってまともだった。鮭の塩焼き、卵焼き、ほうれん草のおひたしにお味噌汁。彩りもよくておいしそうだ。普通すぎて逆に不安になるほどだった。

「教科書見て作ってみたんだけど、やっぱりなんか物足りないよね」

 温かな湯気を上げる食事を前に、芙美花はうーん、と不満げにうなっていた。

 彼女は家政学部の管理栄養士養成過程に属している。料理に関する知識も多いはずだ。変な創作意欲さえ出さなければまともな食事を作るのだと巴は初めて知った。

 味噌汁を飲み干し、箸を置き、少しためらったあとに巴は芙美花に尋ねた。

「……私、昨夜何かおかしなことを言ったか?」

 昨日のことはあまり記憶がない。だが何かまずいことを口にしたような気がする。その嫌な感覚だけ残っているのだ。

 芙美花は少し考えこむような素振りを見せてから、口を開いた。言うか言わないか迷っていたのがありありと見てとれる。わかりやすい。

「……壮司くんが家から出ていっちゃうって……」

 ためらいがちに芙美花の口に乗せられた言葉に、巴は頭がますます痛くなった。

 酒の力とは怖い。弱音をこぼすなどあってはならないことだったのに。厳しい修行に耐えている壮司に申し訳がたたない。巴は息を吐き出してから弱く笑った。

「そうか。つまらないことを言った」

 それはこの話はここまでにしようという合図だった。

 芙美花は何か言いたげな顔をしたが、それは一瞬だけだった。すぐに他愛もない話題を持ち出して巴を笑わせてくれる。

 いずれ、壮司のことは芙美花には話すことになるだろう。今はどこから話せばいいのかわからない。自分の気持ちをもてあましている。

 まだ芙美花といたい気持ちもあったが、朝食を済ますとすぐに巴は彼女のアパートを後にした。運悪くこれからバイトなのだ。

 家へ戻ると、祖母がじろりと見てきた。なにしろ朝帰りだ。しかも壮司が大変なときに自分だけ遊んできたのだ。不謹慎とは思わないのですか、という顔をして祖母は巴を見ていた。

「……申し訳ありませんでした」

 玄関先で待ち構えていた祖母に頭を下げた。祖母はふっとため息をつく。

「あまり羽目を外しすぎないように」

 板の間から立ち上がるとき、祖母が少しだけよろけた。

 いつも乱れとは縁遠い祖母がみせた意外な行動に、巴は目をみはった。祖母は足がしびれたのだ。

 祖母は普段から正座で生活している人だ。長時間の正座にも慣れている。その祖母がしびれるほど長く座っていたのだ。どれほどここに座って帰りを待っていたのか。まさか一晩中――。

「すみませんでした、お祖母さま」

 急激に申し訳なさが胸を占め、謝罪が口をついた。

「由貴也さんがお待ちですよ」

 祖母は巴の言葉には答えずにそれだけ言うと、さっさと廊下を歩いていってしまった。

 巴は祖母のこういう面を見るたび、祖母もいろいろな感情を宿しているのだと実感する。そしてその実感はなじみ深いものへと変わりつつあった。

 よろけた祖母の様子を思い出して少し笑いながら、由貴也の待つ部屋へ向かう。

 巴は今、由貴也の家庭教師をしている。これは由貴也が夏に陸上部を引退してから、突然ある国立大に行きたいと言い始めたことに端を発する。

 由貴也は引退試合であるインターハイの短距離で入賞を果たした。当然、スポーツ推薦の話がわんさかと来ていた。しかし何かにしばられることが大嫌いな由貴也がスポーツ推薦を承服するわけがない。スポーツ推薦で入ったら必ず陸上部に入らなくてはならないし、制約も多いはずだ。

 苦労を厭う彼なので、どこかの私大に適当に転がりこむのかと思いきや、いきなりの国立大志望宣言だ。誰一人として予想していなかった。

 そこで急遽、由貴也の両親は彼に家庭教師をつけたが、由貴也の奔放さに振り回され、誰も続かなかった。最終的に巴に白羽の矢が立ったのだ。

「おはよう、由貴也」

 襖を開けると、由貴也が丁寧にストレッチをやってクールダウンしていた。

「はよ」

 極限まで縮めた返事をし、由貴也はまたストレッチに没頭していく。由貴也は車で片道十五分の道のりをいつも走ってくる。いつだか「私がそちらに行くのに」と言ったら、「走っとかないと怒られるし」という言葉が返ってきた。その子供のような言葉に笑ってしまうて同時に、誰か由貴也を気に懸けてくれている人がいることに安心した。

「大学でも陸上を続けるのか?」

 テキストを準備しながら巴は何気なく問いかける。由貴也は近くの自販機で買ったのか、コーラをがぶ飲みしている。炭酸飲料を遠ざけるスポーツ選手が多い中、由貴也の食生活は相変わらずで、菓子とジャンクフードが中心だ。

 それでよく陸上選手をやっていられるな、と思う。

「さぁね」

 由貴也は気のない様子で答え、ランニングウェアの上からジャージをはおった。

「さぁねってお前、他人事みたいに……」

 巴があきれて言葉を返すと、「だって他人事だもん」という返事が返ってきた。ますます巴はわけがわからなくなる。あの規律に縛られるのが大嫌いな由貴也が陸上部という組織に中高通して所属し続けたのだ。陸上が好きなのは明白だ。それにいまだに走るのを怠っていないのは陸上を続ける意志があるからではないのだろうか。

 まったく、由貴也とはわからなかった。

 由貴也がおもむろにポケットの中からプリントを取りだして差し出してきた。それは前回やってくるように渡した志望大の二次試験の過去問だった。

 無造作にポケットに突っ込んでいたらしく、プリントはしわだらけで、それを丁寧にのばしながら巴は目を通した。

 すさまじいな、と思った。由貴也は部活を引退するまで勉強という勉強をまともにやっている様子はなかった。模試は丸投げし、定期テストは運と勘で乗り切っていたそうだ。よく留年しなかったものだ、と巴はあきれるのを通し越して関心すらしていた。

 まちがっても地道に努力を積み上げるタイプではない由貴也の、青天の霹靂のような受験勉強である。彼よりもまわりの方が動揺した。しかし由貴也は周囲の驚きなど見向きもせず、淡々と日々を過ごした。受験生の不安や緊張などをすべて超越して、いつも通り飄々と生活していた。

 もともと必要だと自身が判断したことであれば、異様な集中力を発揮する由貴也である。着実に成績を上げ、先日のセンター試験でも五科七科目まずまずの点数をとっていた。持ち前の運と勘が使いづらいと不満を言う二次の記述試験でさえ、日に日に解答の精度を上げている。

 それは目を見張るような進歩ぶりであった。

「ここがまちがってる」

 机に由貴也の解答用紙と過去問を広げ、丁寧に数学の問題を解説した。

 巴は彼の数学を中心に教えていた。由貴也はさすがに高一の時に留学していただけあり、受験の核となる英語はかなりよくできる。教えることがないばかりか、巴の方が教わるレベルだ。

 国語も教えるが、巴は理系なのでどうしても数学の方が得意だ。実際、由貴也に教えを乞われるのも数学が多かった。

「ねぇ、壮司さん家出てくの」

 由貴也が数学の問題解き、巴が解説をする。それを何回か繰り返したところで唐突に彼が尋ねてきた。

 巴はシャーペンを動かす手を止めた。相変わらず由貴也は鋭い。

「どうして知っている?」

 由貴也相手に下手につくろうことは無駄だとわかっていた。ならば開き直るしかない。

「コンビニで住宅情報誌読んでんの見た」

 問題を解きながら由貴也が答えた。墨を落としたような染みが巴の胸に広がる。こそこそと壮司は家を出る準備を進めていたのか。自分のあずかり知らぬところで、と嫌な気分になる。

 そしてそう思った自分を一番嫌悪する。

「壮司さんが出ていくのがイヤだって顔」

 気がつくと由貴也のシャーペンの先が巴の眉間に向いていた。彼に指摘されて初めて自分の顔がくもっていることに気づいた。

 ぐっと言葉につまる。そんな顔していないと反論することも、反対に愚痴に転じることもできない。

「聞き分けがよくて、都合のいい女でいたいならいいんじゃない、それで」

 手加減のない辛辣な言葉を吐いて、由貴也は解き終わった問題をこちらへ差し出す。またもや返す言葉もなく、巴はただ無言で苦笑して受け取った。

 巴は壮司の前では聞き分けがいい、つごうのいい女を崩せずにいる。今ひとつ肝心なことを言えずにいる。

 壮司が自分のことを大切にしてくれているのはわかる。だが巴の立場はもろい。壮司の気持ちひとつで古賀家にはいられなくなる。巴が今もこの家にいられるのは壮司の恋人だからだ。

 もしこの先別れたら考えるまでもなく出ていかなければならないのは巴の方だ。壮司はもうこの家に必要な人物だが、巴はそうではない。

 壮司に嫌われたくない。それにここで暮らしていきたい。あざとい保身かもしれないが、祖母の表情のやわらかい変化を、父と交わす一言を失いたくない。

 立志院から帰ってきてから一年弱。この生活をいとおしく感じていた。

「まぁあの人も巴とひとつ屋根の下っていうのはつらいんじゃない」

「え……?」

 壮司との交際はおおむね上手くいっていると思っていたので、由貴也の言葉に驚く。

「……それは壮司が私といるのが苦痛だという意味か?」

「さぁ? その先は自分で考えてよ」

 彼は答えがわかっていながら言おうとはしない。おもしろがっているようにも、何で自分が説明しなくてはならないのか、という不遜な態度にも見えた。

 壮司の話から離れようと息をつき、心を静めた。どうしていないときまでこんなにも彼のことを考えていないといけないのか。

 向かい合っているので、伏し目がちに問題を読む由貴也へ自然と目がいく。

「……髪、邪魔じゃないのか?」

 ゆるい癖のあるやわらかそうな髪が、由貴也の瞳まで伸びている。思わず手を伸ばし、前髪をかきあげるようになでた。ゆるやかにまぶたを上げて、由貴也の瞳がこちらを上目遣いに見る。

「……平気」

 目を伏せつつつぶやき、由貴也はおもむろにジャージのそでをまくりあげて、むき出しの手首にはめていたゴムをとった。

 それは地味な何の変鉄もない黒いゴムである以上に、ぼろぼろで今にも切れそうで、巴は驚く。あまりに由貴也らしくない持ち物だ。

 由貴也は身なりに頓着していないように見えて、服などがくたびれてくると自然と着なくなるのだ。だからこのつけるのはみっともないとすら言えるゴムを肌身離さず持っていることが意外すぎた。

 何なんだろう、と思っていると、由貴也が妙に手慣れた仕草で髪を結わえようとし、巴の予感通りゴムがパチン、と軽い音をたてて切れる。

 由貴也は目をまたたかせて、木の立派な木目を生かした座卓の上に落ちたゴムを見ていた。その顔がうろたえて途方に暮れている子供のように見えた。

「直せないの、これ」

 次いで由貴也から放たれた言葉に巴は瞠目する。由貴也が、この由貴也がものに執着している。何度見返してもそれはすりきれてもはやゴムとしても役立たないもので、由貴也が固執する理由は見当たらない。

 おそらくゴムそれ自体が問題ではないのだ。ゴムの付加価値――思い出などを由貴也は大事にしているのだろう。

「切れたところを結び直せば直らないこともないだろうが……」

 由貴也が依然としてこちらを見続けており、巴は思案を後にしてとりあえずゴムを手にした。切れたところを固く結んでやる。結び目がふたつできたそれは見映えが悪かった。

 しかしそれを「とりあえず直したが、いつ他のところが切れてもおかしくないぞ」と断り、由貴也に返すとわずかにほっとした顔をした。それは春に花がほころぶのにも似て、一年でずいぶん変わるものだ、と彼の成長にさみしくも微笑ましく思った。

「……大丈夫、春になったら切ってもらうから」

 さらりとつけ加えられた言葉に、巴はまたもや目を瞬かせた。由貴也は誰かに触れられるのが大嫌いで、めったに髪を切りに行こうとしない。誰に切ってもらうのか、そのゴムはその人にもらったのかが気になったが由貴也はもう問題に没頭し、外の音が聞こえる様子ではなかった。

 問題をやらせ、それを解説するという行程を幾度か繰り返したところで、本堂の鐘が正午を告げた。由貴也との家庭教師の契約は昼までだ。

 時計の針が十二を指したとたんに由貴也のスイッチは切れる。問題が途中だとかそんなことにはまったく構わず、彼はペンを置く。こうなったらもうテコでも由貴也に勉強をやらせることはできない。

「終わろうか」

 巴は観念したように宣言する。由貴也は当然のようにその言葉を受けとめ、勉強道具をしまう。

 由貴也が走って帰るためにウォームアップするのを横目に、巴は自室に戻った。

 鏡台の引き出しから和紙が貼られた小箱を取り出す。その中にはいくつかのピンとゴムが入っていた。それらを適当にとり、千代紙で包む。由貴也のいる部屋に戻った。

 由貴也はもう部屋にはいなかった。すでに玄関でスパイクを履いているところだった。

「由貴也、これ」

 こちらに背を向けて靴ひもを結ぶ由貴也に後ろから声をかける。彼は首だけを動かしてこちらを見上げた。

「ピンとゴム。よかったら使ってくれ」

 それらが包まれた千代紙が乗った手のひらを、由貴也はじっと見ていた。やがて彼は流れるようににこちらの顔へ目を向けた。

「いい」

 すげなく断られ、巴は驚く。驚くと同時に自分の過保護具合にもあきれて笑ってしまった。自分はいつまでも由貴也を手のかかる子供のように思っている。

「じゃあね」

 こちらに一瞬だけ視線をよこし、由貴也は玄関から出ていく。走っていくその背中は巴の助けなど必要としない男のものだった。

 小さく息をついて、玄関から離れた。自分は知らず知らずのうちに由貴也に甘えていたのだ。壮司がいなくて寂しいのを、由貴也に世話を焼くことで紛らわそうとしていたのだ。そして由貴也はそれを見抜いていた。

 足が自室のある方ではなく、離れへ向いた。竹林の描かれている壮司の部屋の襖を滑らす。

 彼の部屋は綺麗に片づいていた。祖母の目があるので、巴は普段あまり堂々と彼の部屋に入ることはできない。だがその少ない機会に見た彼の部屋はいつもよく整頓されていた。

 立志院の寮にいたときの彼の部屋はそうではなかったと思う。その年頃の男子らしい雑然さがあった。

 つまりはそういうことなのだ。壮司はこの家にいる限り、こういう細かいところにも気を遣い続けなければならない。その彼が大学に行っている間、ほんの二、三年ほどの自由が欲しいと言っても何の罪になろう。壮司は必ず卒業後はここに戻ってこなければならないのだ。

 巴は縁をまたぎ、壮司の部屋に足を踏み入れた。文机の前に座っている広い背中が脳裏に蘇ってきて、腰を下ろしそっと机の表面をなでた。

 そのまま体を倒し、畳に寝そべった。井草の香りがするだけで、部屋の主の残り香はなかった。

 自分も大人にならなければいけない。壮司を縛ってはならない。

 自分は贅沢になっている。普通の恋人だと思えばいいのだ。どきどき外で会って、楽しい時間を過ごし、手をふって別れる。それでいい。それで充分だ。

 強く自分に言い聞かせ、自らの内から沸き上がってくる不満を抑え込んだ。

 壮司は私と離れても平気なのか、寂しいのは私だけなのか、いつまでも私ばかりが好きなのか――。

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