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かざす花  作者: ななえ
番外編
64/68

最後の一日・後編

「まさかお父さまが来るとは思わなかった」

 卒業式後の教室、誰もいなくなった室内で巴は壮司と向き合っていた。

 電気がついていないのでここは暗いが、窓の外は雪明かりで意外なほど明るい。

「寺は今日は臨時休業だな」

 椅子に座った壮司が冗談めかして笑う。白銀の反射光が彼の顔半分に射していた。

「お祖母さまとお父さま、二人そろって来るなんてよっぽどお前の答辞が聞きたかったんだな」

 揶揄の言葉を巴が返すと、壮司は「心臓に悪かった」ととたんに笑みを萎えさせた。

 当然ながら祖母だけが来ると思っていた卒業式に父も出席していると知ったのは、式も後半に差し掛かった頃、卒業記念品の贈呈の目録を読み上げて、壇上から下りてくるときだった。階段の上から何気なく保護者席へ視線を向けると、禿頭の父の頭が目に入ったのだ。略礼装といえども色羽二重に三つ紋の紋付き袴の父、そして藤色の色無地に漆黒の紋付き羽織の祖母は異彩を放っていた。

 巴はあまりに信じがたい事態に足を止めそうになった。こういう場にくるのはいつも祖母だけだったのだ。父がすることといえば僧侶としての勤めだけで、卒業式などの日常の“雑事”は祖母が請け合っていた。

 長年、冷たい澱が溜まっていた自分たち家族の関係は氷解しつつある。冬休み中には剣道有段者の父と壮司は手合わせをし、盤上でもまた将棋の駒を動かしてぎこちないふれあいを図っていた。巴には何の前触れもなく「勉強の方はどうだ」と聞いてきたりして驚かされている。

 今朝、家でどのような会話が交わされたのだろう。祖母があのすました顔で「あなたも父親なら一度ぐらい卒業式へ出席されたらいかがですか」と遠回しの誘いをかけたのだろうか。想像するだけでおかしかった。

「入学式の総代は私がやったからな。卒業式はお前にしておいてよかった。お祖母さまに叱られてしまう」

 巴は後ろを向いたまま机に手をつき、密やかに笑う。六年前の中学入学時の新入生総代は巴だった。ただ単に入試の成績順だったからだ。

 卒業式は元生徒会役員ということで、巴と壮司のどちらかがやってくれという話が来た。巴には正直なところ受験でそんな余裕はなく、推薦で合格済みの壮司に回したのだった。その決断が思わぬところで巴を助けた。壮司を差し置いて巴が答辞をやってしまっては祖母が顔をしかめるだろう。口にまで出さないかもしれないが、壮司を立てろと暗に責められる。

「お前、俺を立てるとかどうとかあまり考えるなよ。お前が好きなようにやれば俺はそれでいい」

 当の壮司はいつも困ったような怒ったような顔でこう言う。今もその表情を首だけ動かして確認し、巴は再び前を向いた。外は依然として雪が降っている。大半の生徒は下校したのか校舎の中は物音ひとつしない。

 何気なく視線を下に落とし、ゆるく交差させている足を組み換えた。

「私も古賀の女だな。それが性分なんだ」

 壮司が望まないことをわかっていても、そうしてしまう。古賀の女たちは凧上げのように自分の夫を高く飛ばそうとする。そしてその実手綱を握って操っているのは女の方だったりするのだ。何も知らずに飛ばされている男たちは愚かとしか言いようがない。

 古賀の女たちは一見しとやかにみえてしたたかだ。

「でもいい。一番大事なところは譲らないからな」

 黙って“飛ばされて”くれはしない壮司にそっと口元に笑みを浮かべながら、巴は古賀の女としての側面を消した。壮司と自分の間に変な小細工を用いることこそ間違っている。巴が欲しいのは壮司の株が上がることに付随して高まる自分の評判などではないのだから。

「一番大事なところって何だ」

 背中の後ろで壮司の声がした。巴は口元だけで淡く微笑む。さて言おうかどうしようかと意地悪く思った。

 安易に答えを求めようとする壮司に、焦らすように間を置いてから口を開く。

「……お前の、そばにいることだ」

 六年前、十二歳の自分たちは許婚という枷でつながれていた。隣にいるのにどこかいつも相手に対して良心の呵責のようなものを抱えていた。

 しかし今は枷の代わりに手をつなげる。それはまぎれもなくこの学院に来たおかげだった。

 壮司は何と答えるのかと思いきや、後ろから手が伸びてきて胴に回された。体を引き寄せられる。壮司は座っていて巴は立っているので、彼の頭が巴の腰に当たる。

「お前はまったく手ばかりが早くなって……」

 照れているのか無言で巴の体に頭を寄せる壮司の髪をなでた。これも六年前には考えられないことだった。

 六年前、この立志院を受験することを決めたのは壮司がいるからだった。居候という性かまったく子供らしくない壮司をこの閉じた世界から連れ出さないと、と思ったのだ。

 狭く、因習を粛々と踏襲する古賀の家には膿んだ空気が凝っていた。自分自身もあの頃は意味もわからずただ息苦しく、時代錯誤なあの家を非難するだけの言葉は持ち合わせていなくとも健全ではないことはおぼろげにわかっていた。

 家から離れた六年間は壮司にとっても巴にとってもいい方へ作用した。今なら客観的にあの家を見ることができる。

 そして壮司を見ながら思う。ずいぶん顔から強ばりが抜けたな、と。無意識の抑制がとれ、ありのままの表情がそこにはあった。

「家に戻るのは気が重いか……?」

 しんと時が止まったように静かな教室に自分の声だけが響いた。後ろから壮司に抱きつかれているので表情はわからないが、即座に「卒業祝いは憂鬱だ」と彼は答えた。

 壮司が指す卒業祝いとは明日の夜、料亭にささやかな祝いの席を設けることだ。一族が呼ばれ、卓を囲む。一族といっても、今は亡き巴の母方の一族と壮司の父方の不動の一族とは没交渉なので、呼ばれるのは古賀の名を冠する由貴也一家だけだろう。

 分家の叔父叔母は出自が定かではない甥の壮司を目の敵にしており、後継ぎだと頑として認めようとしない。一介の生徒として平等に扱われていたここと違い、外の世界での壮司のしがらみは多い。

 壮司はこの学院の門を抜け、そこへ帰っていく。

「来年もあるぞ。由貴也の卒業祝いが」

 からかうようにして言ってやると、壮司がわずかに肩を落とした。大の男がしょぼくれるさまは憐れだったが行きたくないと素直に態度に出すのだから、壮司はもう大丈夫だろう。一年前まではそんなこと一言も口には出さなかった。

 ふふっ、と巴は体を揺らして笑んだ。

「叔父さまと叔母さまに意地悪されても私が守ってやる」

 壮司が叔父叔母にえげつない攻撃をされるのは毎回の恒例行事となっている。古賀家の真の支配者である祖母は自分が定めた後継ぎを軽んじるのは断固として許しはしないが、その反面でこれぐらいのことはひとりで処理できなくてどうする、という突き放した態度をとったりする。

 だから巴は古賀家の女として文句なく立ち振舞い、叔父叔母の前では完璧に壮司を立てるつもりでいた。本来なら後継として一族中から大事にされてしかるべき壮司だが、正当な後ろ楯がない身ゆえ彼に外野への反撃は許されない。だからこそ自分が壮司の後継ぎという立場を知らしめるために動くのだ。

「俺がどうこう言われるのは別に今さらどうでもいいけどよ、お前と由貴也が……」

 壮司の深いため息に消えた後半の言葉を察し、巴は「ああ」とつぶやいた。

 ことあるごとに叔父叔母は由貴也とこの自分をめあわせようとするのだ。幼い頃に何度か叔父は祖母に本気でその話を打診したことがあるというのだからすさまじい。祖母が首を縦に振ったなら、今頃は由貴也と許婚同士だったかもしれない。

 大半が祖母と父名義になっている不動産が目当てである叔父だが、当人で息子である由貴也はそんな思惑などどこ吹く風で相変わらず奔放だ。彼の場合、親や家に縛られるなら死んだ方がマシとすら思っていそうだった。

「今の俺じゃ叔父さんを突っぱねるだけの力はないからな」

 険しい顔をする壮司に面食らう。壮司自身が攻撃されるのが嫌なのではなく、彼の懸案事項は巴だったのだ。考えが至らなすぎた。

 高校を卒業したとはいえ、まだまだ半人前の壮司は社会的地位もあり、曲がりなりにも一家の大黒柱たる叔父には歯が立たないだろう。

 叔父叔母からそういう話が出る度に巴は断ってきたつもりだった。しかし自分の中に甘さがあったのは否めない。由貴也が大事でかわいくて、そして彼の想いをうっすらと理解していたので決定的に突き放すことができなかったのだ。

 力不足を嘆くべきは壮司ではなく自分だ。彼を不安にさせている。

「安心しろ。叔父さまに私にはお前しかいないと見せつけてやる」

 壮司の腕の中で向きを変え、彼と相対する。そして子供を甘やかすようにその頭を抱いた。座っている壮司の頭は低い位置にあってちょうどいい。

 壮司からたちのぼる感情は焦りなのだ。無理に、急激に成長しようとしている。ひとりで完結しようとする彼に巴は置き去りにされる感じを受け、自分の存在意義を質すのだ。

 古賀家が完全たる男性優位の家風とはいえ、自分は壮司の助けとなると思いたい。壮司の付属品では嫌だった。

 壮司が叔父に対抗できるような大人になるまで――いや生涯ずっと支えていく。

「言われなくとも一生離さねえぞ」

 思いがけず真剣な声で言われて巴は思わず壮司を見つめた。先ほど行った『お前のそばにいることだ』の言葉の返事が今になって返ってきたのだ。

 平然としていられなくて視線をさまよわせているうちに、壮司の頭に回していた手を解かれる。その手を引かれ、距離を詰められ、眼前に彼の顔が迫る。吐息を感じる――。

 ヴヴヴヴヴヴヴー!

 唇が触れあう直前に、携帯のバイブ音に邪魔をされた。規則的な振動が、壮司の胸ポケットから着信を伝えている。

「悪い」

 気まずげに口早に謝って、壮司が胸ポケットに手を伸ばす。巴はいや、と答えて気にしていない意を表すが、こうも最中に流れを絶ちきられると余計に後を引く。心臓がやかましく鼓動を打つ。いまだにこういうことには慣れなくてめまいがしそうだ、しあわせで。

 小さく息をついて溜まった熱気を逃す。その間に壮司は携帯のおそらくメールだろう文面を確認して閉じていた。

 胸ポケットに携帯を仕舞い、彼がこちらに向き直る。

「そろそろ部活の方に顔だしてくる」

 また「悪いな」と謝って壮司が席を立った。

 巴は部活動に所属していないなかったので関係ないが、卒業式後に部活で送別会を開くのは恒例化している。剣道部に籍を置いていた壮司もそれに行くのだろう。

 また後でな、と言い置いて教室の扉に手をかける壮司の背中に、思わず「待て!」と声をかけてしまった。

 壮司がいぶかしげな顔をして振り返る。だが次の言葉が喉につまってなかなか出てこない。

 こんな風に無駄に時間を使っていたら、壮司が部活の集まりに遅れてしまう。そもそもこの暖房のついていないような寒い部屋に壮司を呼び出したのは、彼と睦み合うためではない。

 壮司の最後の学生服姿。中等部の卒業式のときは言えなかった。どんなに金色に光るそれが欲しかっただろう。

 中等部のときは高等部に上がると制服のデザインが変わるとはいえ、まだチャンスがあった。しかし今日は本当の最後だ。

 巴は意を決して口を開く。思わず拳を握っていた。

「第二ボタンを置いていけ」

 気がつくと、自分は居丈高に命令していた。第二ボタンが欲しいと素直に言うつもりだったのに、これが人にものを頼む態度か。

 頭を抱えたくとも、口から出てしまったものはもう後の祭りだ。

 第二ボタンなどそんな小さなものにこだわること自体ばかばかしい気がするが、他の誰かにとられてしまうのは嫌だったのだ。剣道部は男女混合の部活なので万が一、ということも有り得なくない。

 壮司の第二ボタンをもらうことは巴の六年越しの望みなのだ。

 つくろう言葉もなく、ただ視線を外してうつむいていると、目の前に黒い固まりが差し出された。雪明かりの中、やけに紺色のそれはあざやかに映える。

 反射的に顔をあげるとすぐそこに壮司が立っていた。壮司が手に持つそれは学生服の上着で、彼の意図が汲み取れずに巴はまじまじと彼を見る。

「こんなんでよければ上着ごとやるよ」

 半ば学ランを押しつけられ、落とさないように巴はあわてて受けとる。

「お前だけだ。俺のこんなもん欲しがってくれるのは」

「私はものずきなんだ」

 照れ隠しでまた素直でない言葉が口をつく。ものずきなだけで十数年間も彼を思ってきたわけではないと自分自身が一番わかっているのに。

 壮司が無造作に巴の頭に手を置く。巴の憎まれ口の裏側すらわかっていると言わんばかりの仕草だった。

 手が離れていき、壮司がほのかな微笑を残して脇を通り抜けていく。

 巴は壮司の足音が完全に消えたのを確認してから渡された学ランをそっと抱きしめる。彼のほのかな温もりが残っていた。







 辺りには部員のにぎやかな話し声と肉の焼ける臭い、そして煙が立ちこめていた。

 香代子たち陸上部は後輩が送別会を催してくれ、学院のある山を下りて焼肉屋に来ていた。

 なにしろほぼ若い男子の集団である。食べ放題九十分の間に店中の肉という肉を食いつくそうかという勢いだ。絶え間なくそこここのテーブルで肉が焼かれ、もうもうと煙が上がっている。

 もっとも近辺の高校も卒業式のところが多かったのか、店全体がそんな感じだった。店員が忙しくテーブルの間を立ち回り、バカ騒ぎが至るところで繰り広げられている。

 その中にあって、香代子たちのテーブルは比較的おだやかだった。六人がけのテーブルには香代子と哲士、根本と真美、そして焼き肉には目もくれない由貴也がいた。

「古賀。肉を食え、肉を!」 

 かいがいしく真美の分の肉だけを焼いていた根本が由貴也に向かってわめいた。

「お前肉食わねえで焼肉屋に何しに来てんだ!」

 机を叩き、根本がついに誰もが思っていたことを口にした。

 肉を食わないで由貴也はドリンクバー備え付けのソフトクリームをひたすら食べていた。その機械はレバーを引くとソフトクリームが出てくるというもので、それをセルフで器の上にうずまきにする。彼は店に入るや否や、一目散にその機械へ向かい、真剣にそのものの目でソフトクリームのうずまきを作ったのだった。ある意味試合のときよりも真剣だったかもしれない。

 そのソフトクリームのうずまき具合がある種の芸術の域に達するほど美しかったので、香代子も哲士もあっけにとられてなにも言えなかったのだ。その結果、由貴也の前にはアイスクリーム用の透明な器がいくつも積み重なっている。

「そこにいる人が締めたネクタイが苦しくて、アイス以外食べられない」

 ただ単に甘いものしか食べたくない由貴也がいけしゃあしゃあと哲士のせいにする。よほどきつく結ばれたのか、ネクタイの結び目は今だきっちりと襟元に収まっていて、由貴也はスプーンを食わえながらネクタイをほどこうとしていた。

「お前には首に縄が必要だよ」

 『そこにいる人』呼ばわりされた哲士が薄く笑って、由貴也のネクタイの先を軽く引っ張った。

 哲士の言葉には同意するけれど、いくらアイスしか食べない屁理屈を言っても、由貴也はこれでもいくつかの実績を首からぶら下げている。自分たちの引退後、由貴也はめきめきと頭角を現した。顧問の指導も彼に合ったのだろう。名実ともにこの部のエースだ。

「アイスばっかり食いやがって。見てるこっちが寒くなる!」

「だってアイスしかないんですもん」

「肉があるだろ、肉が!」

「肉は甘くないじゃないですか」

 まったく妥協点が見られない根本と由貴也のの会話を聞きつつ、香代子は焼けている肉と野菜を未使用の由貴也の皿に盛った。

「ほら、食べて。全部食べるまでアイスは禁止!」

 由貴也の前にうず高く積まれたアイスの皿を取り上げる。見た目は大人びても中身は相変わらずだ。まったく、由貴也といると結局いつもこういう役回りだ。自分は彼の母親ではない。

「そんな顔してないでちゃんと食べろ。この前決勝戦でヘタったんだって? 顧問が嘆いてたよ」

 哲士がおもむろに憮然とした由貴也の首元に手を伸ばす。あんなに由貴也が苦戦していたネクタイの結び目を、哲士はいとも簡単にほどいた。由貴也はすぐさま第二ボタンまで開け、くつろげた襟元をさする。

「古賀先輩。首が赤くなってます!」

 きゃあ、と真美が小さく悲鳴を上げる。開いたシャツから確かにうっすらと赤いひも状の痕が見えた。

「どんだけ強く結んだんだよ……」

 根本が苦笑いにもならないようななんとも言えない顔でぼそりとつぶやく。まったく本当に哲士らしからぬ行いだ。当の本人は「なにか?」と非の打ち所のない微笑みで誰にも何も言わせない。

「……鬼畜」

 今度は由貴也が楽しくなさそうに箸で肉をつつきながら頬杖をつき、口の中で溶けるようなつぶやきを発した。

 命知らずな発言に香代子はぎょっとする。朝、ネクタイで絞められたのを忘れたのか。今の哲士には誰も逆らってはいけないと本能が告げていた。

 嵐の前の静けさ。肉の焼ける音だけがじゅうじゅうと空間を満たし、油が爆ぜた。香代子と根本だけでなく真美までもが息を詰めて哲士を見つめている。由貴也だけが相変わらず皿の上に焼けた肉としんなりしたキャベツをミルフィーユ状に重ねて塔を作っていた。

 アンタそんなわけわかんないことしてる場合じゃないでしょ、と心の中で突っ込んでいるうちに、哲士がにっこりと微笑む。瞬間、背筋に寒気が走る。止めなければ、と口を開く。

「ぶちょ――」

「さあ、古賀。野菜と肉も食べような?」

 哲士の手が高速で動き、由貴也の手から箸を奪い取る。それからキャベツと肉のミルフィーユ塔を豪快に箸でつかむと同時に、もう片方の手で由貴也のあごをつかんで固定した。

 哲士が箸にはさんで由貴也の口に持っていったミルフィーユ塔は明らかにあごが外れそうなほどの全長があった。人の口に収まるものではない。

 意地でも口を開けさせようとする哲士と、意地でも口を開けまいとする由貴也の無言の攻防が繰り広げられている。哲士は貼りつけたような笑顔で、由貴也はこちらもまた貼りつけたような無表情だ。けれども哲士の由貴也のあごをつかむ手も、それを阻止せんと哲士の手首をつかむ由貴也の手も、相当力がこもっているのかやっぱり震えている。

「ほら古賀、あーん」

 なんだか哲士からあり得ない言葉が発せられた気がするけれど、そんなことは彼のさわやかすぎる笑顔の前には何の問題にもならなかった。対する由貴也はぷいっと子供じみた仕草で横を向く。

 なおも続く二人の静かなる戦いに、香代子は我慢の限界に達し、哲士と由貴也の頭にげんこつを見舞った。

「食べ物を使ってふざけるのは止めなさい!」

 ふたりを怒鳴りつけて、息をつく。最後までこうも怒りっぽい自分に少しあきれる気持ちもあった。

「なんで俺まで……」

 由貴也がかすかに釈然としない顔で頭をさすっている。確かによく考えてみるとちょっかいを出してきたのは哲士の方で、由貴也はそれを避けようとしていただけだ。けれども哲士に余計なことを言った由貴也も同罪として自分を納得させる。

 怒られ慣れている由貴也とは違い、哲士はぽかんとしていた。哲士はどちらかというと怒られる方ではなく、怒る方だ。いや、自分のように感情に沿って怒るいうより、相手のためによく言葉を選んで冷静に叱っている。

 彼にとって誰かに怒られるというのはかなりまれなことであるのだろう。

「ぶ、部長どうした?」

 思考が真っ白になっていそうな哲士に、根本がおそるおそる言葉をかける。その声に反応して、哲士の瞳の焦点が合った。

「いや、誰かに怒られることってあんまりないから新鮮だな、と思って……」

 心なしか何気なく首裏に手を当てる哲士には照れた色すらある。妙な反応をされて、「変なことで新鮮がらないでよ!」と香代子も赤面して叫んだ。根本は根本で「部長ってMなんだかSなんだかわかんないよなぁ」と苦笑していた。

「あ、そういえば聞いてください! 部費が増えることになったんです!!」

 新しい肉を焼こうとすると、真美が手を打って報告してきた。その顔はすっかりマネージャーのもので、自分たちが引退してからの月日を改めて感じる。真美が一人前のマネージャーになるのに充分すぎる時間があった。

「へえ、よかったなぁ!」

 真美の言葉にいち早く反応するのはやはり根本だ。鼻の下も目じりもでれでれと下がりっぱなしだ。

 聞くところによると根本家は彼の上に姉が三人もいるらしく、末っ子の彼は待望の男子にも関わらず姉たちから虐げられて育ったそうだ。姉たちの支配から脱却するために根本はこの全寮制の学院へと進学した。そこで強い姉たちに散々な扱いをされた反動で“妹”そのものの真美にほぼ一目惚れしたのである。

 根本にとって真美は理想の女の子なのだろう。

「去年はいくつかの大会で入賞したからな。今が力の入れ時だよ」

 もう哲士はいつもの彼に戻っていて、落ち着いた表情でアイスコーヒーに口をつけた。

 去年の春、若く意欲的な顧問を迎えた陸上部は急激な過渡期の最中にあった。中高の部活は個人の資質もさることながら優秀な指導者の有無が大きく関わる。昨年まで無名だった部が、優れた指導者に率いられて存在感を表す例も少なくない。

 立志院陸上部も急成長中であり、遠征も増えている。もともと立志院は私立だけあり部活に力を入れている。弱小だと思っていた陸上部が予想外に名を上げ、バックアップ体制を急遽整えたのだろう。

 そうしてどんどん変わっていく。自分がいた頃とは違う部になっていく。

 にこにことここ十ヶ月あまりのことを真美が話す。彼女が語る中には由貴也がいて、真美がいて、ときどき馴染みの薄い二つ下の後輩の名前が出てきて、自分たちは当然登場しない。

 あのグラウンドで、きらめく日の元で笑って怒っていた日々はもう戻ってこない。今、思い返すと夢のような毎日だった。あそこは何の疑いもなく自分の居場所だと思えたし、心地よかった。そしてそこに行けば当たり前に顔が見れた。失ってからそれがどんなに尊いものだったかがわかる。今はどんなに会いたくても理由がなければ部に顔は出せない。卒業したこれからはもっと――。

 香代子は落ち込んでいく気持ちを強制的に止めた。この感情はひとりよがりだ。どんなことがあっても、彼の重荷にだけはなりたくない。部の士気が上がっているのはひとえに由貴也の活躍もあるのだろう。突出した選手はまわりに影響をも及ぼす。

 自分の会いたい、そばにいたい、顔が見たいという想いは彼の足を引っ張るものだ。由貴也は着実に実績を積み重ねている。自分がそれを邪魔するのは、長い間会えない以上に耐えがたいことだった。

 由貴也はこれからはどんどん高みを目指して上っていくだろう。自分は後ろを振り返っても、彼に後ろを振り返らすわけにはいかない。

「古賀先輩! どうしたんですかっ!?」

 真美の悲鳴じみた声で我に帰る。気がつくと目の前にはさみの持ち手の部分が差し出されていた。焼肉屋の暖色の照明の元で、刃が鈍く輝く。その光を隠すようにはさみの柄を握っているのは由貴也の手だった。

 何事かと思って由貴也を見る。目があうと彼が口を開いた。

「髪、切って」

 相変わらずの脈絡のなさに香代子は思わず「えっ?」と聞き返してしまった。一体全体由貴也の思考回路はどこでどうなって『髪、切って』となったのか。

 見れば由貴也の髪は伸びていて、ふわふわと波うっている。前髪は当然ながら目にかかっていて、えりあしの長さもボブの香代子とそう変わりない。

 それだけの長さが有りながらも、もう女子に見えなかった。文化祭の女装は女子そのものにしか見えなかったことを考えると、由貴也も大人の男に変わりつつあるのだな、と思い知らされる。余計に彼を意識してしまいそうになって香代子はかぶりを振って思考を打ち消した。

「髪切るって……一体どこで切るのよ」

 あっけにとられてハサミは受け取ってしまったものの、もちろん想定外の事態だ。そんな準備もしてきていない。

「いいじゃん。裏の駐車場で切れば」

 口を挟んだのは根本だった。ついで彼はごそごそと自分のカバンをあさり、くしゃくしゃのビニール袋をとりだす。明らかにコンビニかどこかで買い物してついてきた袋をそのままカバンに入れっぱなしにしておいたという具合だった。

「これ、首に巻いてさ。な、マネージャー?」

 ただ単にごみを押しつけられただけのような気がしないこともなかったけれど、強引に根本に握らされる。

 こちらを丸め込もうとする根本に嫌な予感がする。普通なら由貴也の突飛な発言に「何言ってんの、お前」とでも言うべきだ。不自然な根本の襟首を引っ張って由貴也に背を向け、顔をつき合わせた。

「何考えてんのよ。余計なことしないで」

 声をひそめて言うと、根本はにやっと笑った。予感的中。これは何かを企んでいる顔だ。

「マネージャー、チャンスじゃん。告白しろよ」

 こんなことだろうと思ったらやはりそうだった。根本はもちろん真美に告白していないが、彼女のメアドをゲットしたらしくご満悦なのだ。それでそのよろこびのおすそわけでこうして香代子を焚き付けてくるのだ。

「私のことはいいからほっといてよ」

「まぁそんなこと言わずに。最後なんだから」

 最後、その言葉にもう何も言えなくなる。胸に重さを持って響く。そっと後ろを振り返ると由貴也は依然として一直線にこちらを見ていて、断ることを許さないような強いまなざしだった。

「切ってやれよ、マネージャー」

 哲士にまでおだやかに諭すように言われ、これでは香代子が悪者みたいだ。唯一真美だけが何も言わずうつむいていた。

 哲士はあの鬼畜と言われただけで由貴也に制裁を加えようとしていた黒さはなりをひそめていた。ただどこまでも本来の哲士らしい落ち着き払った温和な表情をしている。彼の鷹揚さも、今夜が最後だからかもしれない。

「……わかりました」

 三対一では勝てるはずがない。なげやりに答えて香代子は「行こう」と由貴也の腕を引いた。由貴也と話したくないと言えば嘘になるけれど、由貴也と二人きりにはなりたくないのだ。根本たち外野に二人きりになったことで告白を期待されるのも嫌な以上に、別れが辛くなって不要なことを口走ってしまうのが怖かった。

 今日が最後。その思いは少しずつ人をおかしくさせる。

 部員たちの喧騒と煙をくぐって外に出ると、ひんやりとした夜気が体を包む。熱気にさらされていた体には心地よい。

 店内のうるささが嘘のように外は静かだ。その静寂が、目の前にいる由貴也の存在を際立たせる。

 何を話せばいいのだろう。あんなに冬の夜、机に向かって勉強をしながら今頃どうしているか、ちゃんと食べているか、ちゃんと走っているか――会いたいと思ったのに。

「……しゃがむか座ってくれないと切れない」

 やっと口から出てきた言葉はそんなものだった。記憶に残る彼よりもまたほんの少し背が高くなっている。

 由貴也はおとなしく焼肉屋の駐車場の外灯の下に座ろうとする。

「待って。じかに座ったらズボンが汚れちゃう」

 ポケットからハンカチを出し、由貴也が座ろうとしていたところに引く。それから彼の肩を軽く押して座らせた。

 外灯が霧のようにぼんやりと彼に降りそそぐ。色素の薄い瞳が深淵をのぞかせるように光り、睫毛が濃い影を落とす。なめらかに隆起する喉仏が霧の粒のような明かりに照らされ、骨ばった手が無造作に夜の影の中に置かれていた。

 なんだか由貴也が男だとはっきり意識したのは初めてな気がする。由貴也は不安定で脆く、それでいて人に理解されにくく、誰かの支えをいつでも必要としていると思っていた。そして彼を支えるのは自分でればいいと願っていた。たとえ身体的なものであれ、由貴也が自分よりも強い側面を持っているなんて思いたくなかったのだ。

 今日、卒業式で壇上に上る巴を見た。由貴也がかつて一心に想いを向けていた相手。よく通る声で卒業記念品の目録を読み上げる巴を由貴也はどんな思いで見ていたのだろうか。胸を軋ませて、大切に過去の恋を思い出していたのだろうか。自分と出会う前、由貴也はどんな風に彼女と接し、どんな風に彼女に好きだと言ったのだろう。医学部に進学するという噂もあるほどの綺麗で賢い彼女と比べ、自分はどんな風に由貴也の目に映っているのだろうか。

 自分が由貴也にしてやれることは弱った彼を助けてやることしかない。彼が自立して、自分の手を必要としなくなったとき、由貴也の中で香代子の存在意義はきっと消える。もう消えかかっているのかもしれない。

 けれどもそれでいい。それがいい。

「こんなに伸びて、先生はなにも言わなかったの?」

 由貴也の髪を手櫛ですきながら尋ねる。相変わらず記憶に残る感触と変わらない手触りのいい髪だけれども長すぎる。運動部の平均的な基準を大きく越えている。おそらく自分が引退前に切ってからハサミを入れていないだろう。

「…………」

 聞いているのか聞いていないのか由貴也は答えない。香代子は由貴也の後ろに立っているので表情もわからなかった。

「切るからね」

 一応ことわって、由貴也の返ってくるかもわからない返事を待たずに香代子はハサミの刃を開いた。

「私より美容師さんの方がずっと上手なんだからこれからはちゃんと切ってもらいなよ」

「…………」

「走るときに邪魔になるよ」

「…………」

「目も悪くするから」

「…………」

「ねえ、聞いてるのっ?」

 何を聞いてもだんまりの由貴也に香代子は沈黙の重さに耐えられなくなり叫んだ。なにか由貴也も話してくれないと場がもたない。最後の夜に二人きり。こんなにも特別な雰囲気に仕立てられあげた中で香代子は平静でいられなくなってしまう。

 ねえ、何か言ってよ。いつもみたいにわけわかんないこと言ってよ。あんなに食べてたんだからアイスの話でもしなよ、と香代子は懇願するような気持ちで由貴也のつむじを見ていた。

「……俺は練習なんか大嫌いなんだよね」

 押し潰されそうな長い無言の時が過ぎて、やっと由貴也が口を開いた。話の道筋が見えない。由貴也の話の要領を得られるときなどない方が多いのだけれど、今回はいつもとは違うように思えた。この話はまぎれもなく伝えたいことの元にある。由貴也の声は決して大きくないのに、普段の眠そうな声とは異なって声の輪郭がはっきりしている。

 けど、と由貴也が続けた。

「アンタたちが引退してから死ぬ気で走った」

 死ぬ気で――やけにその一言が重く響く。ただの言葉の綾なのに、由貴也にそぐわないと思ってしまう。由貴也は嫌なことをし続けるタイプではない。嫌々やるのであればすっぱり止めるだろう。

 そうはわかっていながらも、自分は由貴也が自分の引退後、由貴也が陸上部を辞めるとは微塵も考えていなかった。それは一体なぜなんだろう。考えたこともなかった。

「なん、で……?」

 心のままに聞き返す。死ぬ気でというほどの強い思いで、由貴也は一体なにを成し遂げようとしているのか。

 駐車場に面した直線道路をスピードを出した車が通りすぎる。ヘッドライトが自分たちの姿を照らした。

 車の明かりと音が通りすぎ、また駐車場には頭上の外灯がひとつ闇を照らすだけになる。その静けさがを待っていたのかのように、由貴也が口を開く気配がした。

「アンタは俺に忘れさせようとする」

 闇の中に由貴也の声だけがやけに響いた。胸が誰かにつかまれたように苦しくなった。

 “何を”忘れさせようとしているのか、由貴也は省いたけれど、香代子にわからないはずがなかった。香代子は由貴也に忘れさせたかった。自分と過ごした日々を、彼に与えた言葉を、思い出を、彼に与えた影響を、自分の存在を、すべてを。

「俺は忘れさせたりなんかしない」

 目を見開く。引退した後も耳に入ってきた由貴也の名前。彼の活躍は絶えず聞こえてきた。忘れられるはずがなかった。由貴也という存在が香代子から消えることは決してなかった。それが彼の意図の元にされていたことだなんて夢にも思わなかった。

 そんなことをしなくていい、と思わず言いかける。香代子はそんなことを望んでいない。引退後まで彼に影響を及ぼすことなんて望んでいない。

「アンタは俺の努力に報いる義務がある」

 髪なんかもう切っていられなかった。ただただ灯りに照らされて艶やかに輝く由貴也の髪を見ていた。

 胸が波立って、彼の口をふさぎたくなる。由貴也の言葉がもう聞きたくなかった。

「俺に言いたいことあるんじゃないの」

 どこかで予測していたその一言が香代子にどうしようもない一撃を与えた。ずっと保っていた心の輪郭が歪んで耐えきれなくなる。最後の最後で薄情の皮を脱いだ由貴也が恨めしかった。

 由貴也は待っていたのだ。香代子の告白を待っていたから、無言を貫いていた。沈黙の内に香代子の喉を言葉が越えるのをうながしていたのだ。意地でも香代子は言わないようにしていたのに。

「私はアンタに何も残さず出ていきたいのよ」

 引退してから九ヶ月近く。由貴也に落とした自分の影を払拭できたと思っていた。

 こちらの気も知らないで、由貴也は香代子から決定的な言葉を引き出そうとする。出ていく自分は今、由貴也に何かを与えるわけにはいかないのだ。

 由貴也が香代子のことを特別視するのは彼が一番傷ついて打ちのめされていたあのときにそばにいたからだ。由貴也の感情はしょせん生まれたばかりの雛が親鳥の後をくっついてまわるようなものだ。彼の視野は決して広くはない。だから近くの物事しか見えないのだ。

 自分は弱った由貴也の心につけこんだ。あのとき、由貴也を助けられるのは自分だけだと思っていた。それに優越感を持っていなかったといえば嘘になる。

 由貴也に生まれた感情は錯覚だ。そしてそれを自分は由貴也から離れるという消極的な行動で正そうとしていた。

 それなのに――……。

 気がついたときには体が動いていた。心が否応なしに手を伸ばし、ほとんど反射に近い行動だった。後ろから、由貴也の背中から、その肩に腕を回す。

 頼りなく、薄かったその体が、もう陸上選手として成熟しかかっているのを感じる。由貴也はもう一人で充分に戦っていけるのだ。

 胸が、痛い。

「私は――」

 言葉を発して、どうして寒くもないのに声が震えているのだろうと思った。視界がなぜがぼやける。

「アンタが好き」

 あふれるように言葉が漏れた。言うつもりなどなかった。後悔なのか、それとも由貴也と今日を最後に距離が離れていくつらさからか、気がついたら涙があごを伝って落ちた。

 どうかこの言葉が彼を縛りませんように。どうかこの言葉が彼を捕らえませんように。香代子はただただそう願う。

 自由に彼が生きていけますように。不安定な彼が進むべき道を間違えませんように。やっと出てきた表情の変化を、笑顔を失いませんように。

 そしていつか由貴也が香代子にとって夢のような錯覚から目が覚めて、そのとき誰かが彼のそばにいますように。

 香代子の想いはこうして聞きたがるのに、それを言ったところで決して彼の恋人にはしてくれようとはしないだろう。彼は少女めいた潔癖なところがあり、その心から巴が完全にいなくならない限り誰かを招こうとしない。

 それまで待つ時間は香代子にはもう残されていない。

「どうか、元気で」

 だから自分たちはマネージャーと部員のままで卒業する。ここに留まって彼を見守っていけたらどんなによかっただろう。でもそれができない香代子は彼を縛りたくないのだ。何も残さずに去っていきたかった。

 でも体は正直だ。涙が止まらず、由貴也の体を抱く腕はこんなにも彼を離したくないと願っている。

 再会の約束すら交わさずに別れる自分たちには不確かな未来しかない。この夜を起点に距離はどんどん離れていくかもしれない。

 でも今は、まだこの夜は由貴也の存在がこんなにも近くにある。自分がまだ彼の中の巴の存在に遠く及ばなくても構わない。二人きりのこの夜がずっと続けばいいと思った。

 由貴也は長い間何も言わなかった。ただ香代子が彼の肩口に額を押し当てて泣くのを許した。

「……俺のそばに――」

 永遠のような、それでいて一瞬のような時が流れた後、由貴也が声を発する。意図的に言葉はそこで切られ、言い直すような間が開いた。

 春の夜、濃い由貴也の存在を感じた。

「アンタがいたことは俺にとって救いだった」

 輝く月も、瞬く星も、吹く風もすべてが停止し、時が止まった気がした。

 彼の言葉は恋ではない、愛ではない。けれども今彼が言える最大限で破格の言葉なのだと強く感じた。

 救いだった、と彼は言う。それは過去形だ。それが意識的なものであれ、無意識のものであれ、彼はもう大丈夫なのだと確信した。

 由貴也がゆっくりとした動作で、肩に巻きつく香代子の腕を解かせる。そのまま立ち上がり、香代子の腕も引いて立ち上がらせられる。由貴也と向かい合ったと思うや否や、由貴也の両手が無防備に立つ香代子の肘をつかんだ。抵抗する暇もなく、彼の口が香代子の耳に寄せられる。

「俺のいない一年間をせいぜい楽しむんだね」

 不意打ちのように耳元でささやかれ、体温が急上昇する。決して大きくなく、密やかな声量なのに何重にもエコーして聞こえるような、破壊力満点の声音だった。

 両肘から由貴也の手が離れていくと同時に、香代子はその場にへたりこんだ。腰が抜けて動けない。まわりの空気が蒸されたように暑く感じる。

 見下ろす由貴也は相変わらず飄々として香代子に一瞥を与えて去っていく。けれども彼は顔を正面に向ける本当にわずかな間に笑った。とてもあざやかに、目が覚めるように微笑んだのが見えた。

 香代子が呆然と見送る内に、由貴也の顔はすぐにその背中に隠されてしまう。もう振り返ることはない。

 けれどもこの一年後、由貴也が香代子にささやいた捨てゼリフのような言葉の意味を知ることになるとはこのときはまだ思ってもいなかった。親愛とも恋ともつかない自分たちの関係性を変えるために再び互いの時間が重なることになるとは今はまだ思ってもいなかった。

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