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かざす花  作者: ななえ
第2章
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第1幕

「試合?」

 朝食のクロワッサンをちぎる手を止めて聞き返すと、ロースハムにマヨネーズをかけている芙美花が「そう」と応じた。

「十八日の土曜日。剣道部地区予選なんだって」

 たっぷりマヨネーズを塗りたくったハムが、彼女の小さな口に運ばれていく。

 芙美花の味覚は往々にして理解し難いものがあった。

 食べ物だけでなく、牛柄マスコットを始めとしたセンスにも理解に苦しんだ。

 ちなみに件のウサギマスコットは、巴の勉強机に一角を得て鎮座している。勉強中にたびたび視界に入っては複雑な気分にさせられていた。

「最近二人とも本当に忙しそうだよねー」

 延ばした語尾とともに、胸やけがしそうなほど甘ったるい香りを放つココアを芙美花がすすった。

 意識外にココア臭を追い出して自分もコーヒーを飲む。

「いいんじゃないか。思う存分剣道やってくれれば。生徒会室が静かでいい」

 そうだね、と苦笑を伴った芙美花の相づちが返る。

 辛辣に皮肉ってはみたものの、二人は本当に日々に忙殺されていた。

 現に今、巴は芙美花とのんびり朝食を摂っているが、彼らはとうに朝練のため寮を出た後だった。

 あれほど口を開くたびに些細なことでケンカしていたのに、ここ数日は不気味なほどに静まり返っている。黙々と生徒会の仕事をこなして、早々に生徒会室を出ていく。

 それはどうやら試合前という、切迫した状況に起因するものだったらしい。

「ねぇ古賀さん。応援に行こうよ」

 芙美花の無邪気な提案は予想だにしないものだった。

「ちょうど土曜日だし、場所もあまり遠くないし」

 ねっ、とダメ押しとばかりに促される。

 確かに休日で近場で、なおかつ壮司も何とか団体戦のメンバーに入ったとちらりと本人から聞いた。

 だが、まったくといっていいほど応援に行くという発想はなかったのだ。

 彼は幼少の折から剣道をやっていたが、家族として一つ屋根の下で暮らしていたときでさえ、試合を見に行ったことなどなかった。

 特に、近頃はカップルを彷彿させることは意図的に避けていたのだ。

「もしかして都合が悪かった?」

 不安そうに芙美花が覗き込んでくる。

 瞬時に脳内で予定を確認する。土曜課外が入っていたが任意のものだったので、大して問題になるわけでもなかった。

 彼女然として観戦することに抵抗がないわけでもなかったが、逡巡をおくびにも出さず「大丈夫。行かせてもらおう」と答えた。

 彼女に誘われたのにかこつけて、巴も壮司の剣道をする姿を見たかったのだ。

 おそらくあまのじゃくな己自身では、こういう機会でもない限り、自発的に見に行くことはできないだろう。

「こうなったら大いにプレッシャーをかけてやらねばな」

 呟いて自然と不敵な笑みが浮かび上がってくる。

 彼をからかうのは楽しいし、もはやそうするのが巴の中では義務である。

「プレッシャーかけすぎて緊張しちゃったらどうするの」

 芙美花が口を尖らせて軽く諫めるが、巴は泰然と笑んだままでいた。

「壮司ならばプレッシャーをかければかけるほどしゃかりきになるだろうよ」

 それに、と言葉を継ぐ。

「せっかく見に行くのだから少しはマシな試合を見せて欲しいからな」

 コーヒーの最後の一口を嚥下して、トレーを持って立ち上がる。

 芙美花も慌てて味噌汁を飲んで、巴にならった。

「もう。素直にがんばれって言ってあげればいいのに」

 芙美花のかすかな非難を含んだ声が背をさす。

「素直じゃないねえ」

「……うるさい」

 照れ隠しで芙美花を軽く睨むが、彼女はまったく動じないどころか、むしろ胸を張った。

「そんな顔しても怖くないよーだ」

 芙美花は何も考えなさそうな顔をしているのに、のらりくらりと本心を隠したがる巴を看破する。やりにくいことこの上ない。

 憮然として空の食器を乗ったトレーをカウンターに置いて「ごちそうさまでした」とあいさつした。

 芙美花も同じようにするが、その声は明らかに弾んでいる。食堂の出口に向かいながら「お弁当作って来ようか?」と張り切っている。

 脳内にマヨネーズ塗れのハムやら激甘ココア、醤油入りの味噌汁など、ゲテモノ料理以外の何ものでもない彼女の嗜好が浮かんだ。

「それより貢に作ってやったらどうだ。当日の主役だろう?」

 さらりと提案し、手作り弁当の恐怖を回避するべく手を打つ。

 むろん複雑な感情を覆い隠すことも忘れない。

「……そっか、そうだよね」

 言葉を咀嚼するように呟いて、芙美花は納得したようだ。

「わかった。今回は健さんに作るね。次にお出かけするときは必ず作るからね」

「楽しみさせてもらおう」

 心にもない答えを返しつつ、その“今度”が永遠に来ないことを願って、賑わう食堂を後にした。


  ―◆―◆―◆―◆―

 

 部活で忙しい二人を考慮して、生徒会活動は昼休みに行うことになった。

 行うことになったというよりは、男子がそうしたため、自分たち女子はなし崩し的にそれに合わせる形を取らざるえなかったのだ。

 購買で買ったパンを持ち寄り、話し合うときは話し合い、個人作業時は短い時間を集中して取り組んだ。

 試合も近いが記録会も月末だ。準備を怠るわけにはいかない。

 新生徒会を結成して早二週間。互いの特性がわかってきたところで、自然と機械操作は巴と健一郎という分業が成っていた。

 健一郎は運動一辺倒でなく、生来器用な質でパソコンにも精通している。

 巴に至ってはさすがと言うべきか、旧生徒会メンバー時代に仕込まれたそうだ。このことからも旧生徒会が彼女を後継者として育成していたのがわかる。

 残る壮司は予想を裏切らず機械オンチで、自分はというとパソコンをすぐ壊すので触らせてもらえなくなった。

 今も健一郎と巴がパンを片手に、二台のパソコンをフル稼働させ、プログラム作成の大詰めを迎えている。

 壮司は体育委員に任せる仕事と人数の割り振りを、去年の資料を元に思案し、自分は一番楽なゼッケンのクラスごとの仕分けしていた。

 パソコンは壊すし(その都度健一郎が修理する羽目になる)壮司と違って采配を振るうこともできない。

 出るのはため息ばかりだ。

「巴」

 彼女を凝視した後、唐突に壮司がその名を呼ぶ。

 これから起こることが容易に想像できて、また始まった、と芙美花はわずかに身を固くした。

「お前またパン一つかよ」

 壮司お決まりの叱責が飛ぶ。

 彼女の少食は今に始まったことではなく、朝食を抜かしたりパンやゼリー飲料だけということはざらにあった。

 彼女自身食事に重きを置かず、偏食も激しいため食事を面倒だと思っている節がある。

「やかましい。お前は私の母親か」

 巴の食習慣の悪さを見かねて、壮司が口を挟むのも昼のお決まりになり、それを彼女がにべもなくはねつけるのも毎回のことであった。

「いや、いとこだ」

 巴の当てこすりを額面通りに受け取り返した壮司に、成り行きを見守っていた芙美花も健一郎も脱力した。それと同時にいとこ同士だという新たな事実を知る。

「真面目に答えるな。阿呆」

 傍観者二人の意見を反映したかのような巴の切り返しである。

 彼女のすごいところは間髪容れずに言葉を返しながらも、手元が留守になっていないことだ。相変わらず高速でタイピングしている。

 視線一つすら寄越さない巴にしびれを切らして、ついに壮司が立ち上がった。彼にそぐわないクリームパンを持って。

 そのまま大股で巴の後ろに立つと、薄い肩を掴んで無理やり自らの方へ向かせる。

 作業を邪魔された巴が、射殺しそうな視線を壮司に向けた。

 芙美花だったら硬直してしまいそうな鋭い視線も、壮司は馴れているのだろうか。意に介した様子もなく巴にクリームパンを押しつけた。

「食え。そんなんだからいつまで経っても骨と皮だけなんだよ」

 場が一瞬にして凍った。

 骨と皮。女子を形容するにははなはだふさわしくない。

 巴も一時顔を引きつらせた後、冷笑を浮かべてゆったりと立ち上がった。

「壮司がそこまで私の体型に心を砕いていてくれたとはな」

 壮司と視線を絡ませて笑っているが、それは表情を笑みの形にしているだけだ。瞳の奥には冴々とした光を湛えている。

 壮司も自分の失言に気づいたのか、バツの悪そうに巴と対峙していた。

「いとこの気づかいを有り難くいただこうか」

 言葉だけ聞くと何とないことなのに、薄ら寒さを覚えるのはなぜだろうか。

 にっこりと――だが作り笑いとわかるそれを浮かべ、巴がクリームパンを開ける。

 そのビニール音が静まり返った室内にやけに大きく響いた。

「……巴、その、配慮が足りなかった」

 迫り来る得体の知れない恐怖に恐れをなしたのか、壮司が小さく謝罪するが、彼女は不気味なまでの無表情で完全無視して、パンを二つに割った。

「もう遅いわっ!!」

「ごふっ」

 口は禍いのもと。

 次の瞬間、壮司が口内にクリームパン半分を突っ込まれ、よろけていた。

 壁にもたれた彼の無様な姿を睥睨すると、おもむろにパソコンのキーボードを一つ押して、巴は颯爽と出て行った。

 扉が閉まる音とともに、暑さが実感として戻ってきて、今が九月だということを改めて実感する。

 壮司と健一郎のケンカが台風だとすると、巴の静かな怒りは大寒波であった。

 クリームパンを突っ込んだまま呆然としている壮司を見やり、「バカだろ」と健一郎がぽつりと呟いた。

 パソコンに接続された印刷機では、巴が完璧に仕上げていったプログラムが絶えず刷られていた。


  ―◆―◆―◆―◆―


 パンを片手に猛然と昼時の廊下を歩いた。

 骨と皮。壮司の言葉がいやにこだまする。

 痩せぎすで肉づきの悪い体は、巴の密かなコンプレックスであった。

 以前、芙美花と風呂に入ったとき、彼女の肢体には瑞々しい張りがあった。つくべき場所に肉がついていた。

 それに比べて自分はスレンダーと言うには行きすぎている体つきだ。

 充分な幅がある教室前の廊下に設置されたベンチに座り、パンを口に含んだ。

 クリームの甘さに、彼は甘いものが嫌いではなかったか、とぼんやり思う。

 彼の好みでないとすれば壮司は巴に食べさせるだけに自腹でこのパンを買い求めたことになる。

 しかもクリームパンは数少ない巴の好物であった。

 自然と小さく笑った。

 彼も大概巴に甘い。

 公明正大を謳う彼の、巴に対する優しさという名の甘さ。

 そういうところがあるから単なる許婚と割り切れないのだ。

 それどころか彼の一挙一動に動揺している。

 翻弄される恋の愚かさを、しっかり育ててしまっていた。

 残り四分の一程度になったパンを見つめて、彼を振り回しているように見えて無意識に振り回されてるのは自分だと悟ったのだった。

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