愛してるの行方
9章読了推奨。6幕の翌朝。
カーテンから漏れる日射しにふと目が覚めた。
隙間から見える空は今日も穏やかに澄んでいる。快晴だ。日曜にふさわしい天気だった。
ゆっくりと体を起こし、ベッドから下りる。寝間着にしている単衣の襟を正した。
顔を洗って、タオルにうずめる。唐突に昨日のことを思い出した。
もうここに未練はないつもりだった。すべてを捨てたつもりでいたのに、壮司の一言でひっくり返ってしまった。
どこにも行くな、と。一生俺の側にいろ、と彼は言った。
拒絶できなかった。本当は拒むべきだとわかっていた。自分と一緒になることは彼の信念を曲げさせることになる。巴は彼の子供を生んであげられないかもしれない。
しかし、心が震えた。
未来への恐れよりも先に、彼の手をとってしまった。ともに、生きたいと思った。
自分は利己的だ。自分の欲望を優先させてしまったのだ。
壮司は自分でいいのか、本当にいいのだろうか、と繰り返し思ってしまう。この状態が一夜明けた今でも信じられない。
だからいまだに実感がわかないのだ。
平服に着替え、部屋を出た。早く目が覚めてしまったので朝食の時間には充分間に合う。行動するには早すぎるくらいだ。
それでもじっと落ち着いていることなどできなかった。
部屋から出て戸締まりをしていると、唐突に隣のドアが開いた。
タイミングがいいのか悪いのか――いや、今の巴にとっては悪いだろう。ちょうど隣の部屋から出てきた壮司と鉢合わせした。
「…………」
声が出ない。ある意味今、一番会いたくない相手だ。
「おはよう」
壮司も壮司で気まずげにあいさつをよこした。視線が微妙にこちらからはずれている。
「……おはよう」
間を置きつつも平静を装って返した。
一体どのように接すればいいのだろう。幼なじみでも許婚でもない普通の恋人同士になったわけだが、“普通の恋人”とはどのようなものなのか。
巴は片思い中の人間ならば誰しもがやる“もしも”の想像をしたことがない。もしも彼とつきあうことになったなら、そういう甘い想像は巴にとって妄想と切って捨てられるものだった。
身近にいる彼氏彼女の例が芙美花と健一郎だが、彼らは人前であまりふたりの世界にひたることをしない。まわりとの調和をうまくはかっていた。
「……朝飯食いに行くか」
気まずい沈黙を打ち破り、壮司が提案する。巴はそれにうなずくしかなかった。
歩きながら、何か話題を探そうとして気づく。壮司と最後に他愛ない話をしたのはいつだったかと。
関係が崩壊してから、壮司とする話といえば、固い顔を突き合わせてする類のものばかりだった。
あのときはもう、壮司と笑いあうことなどないと思っていた。昨日の朝だってそう思っていた。
それが今、こうして隣を歩いている。自分を望んでくれている。不思議な感じがして壮司を横目で見上げた。
「どうした?」
ばっちりと目があった。とっさに「別に」とそっけない返事が口をつく。私はどこの小娘だと呆れた。
食堂は日曜にもかかわらずあわただしかった。主に部活組が朝食をかきこみ、午前の練習へ向かうところのようだ。
昼とは違い、朝のメニューは一種類だ。定食の他にもパンが売っているが、巴は古賀家の習慣で朝食もきちんと食べる。巴がそうならもちろん壮司もだった。
食券を買おうと券売機に近づくと、前で並んでいた人物が振り向く。
またもや最高にタイミングが悪い。由貴也だった。
由貴也は驚いた様子もなく淡白に、しかしすばやく巴と壮司の頭の上から足の爪の先まで観察した。
「……へぇ。そういうこと」
納得したように由貴也はつぶやく。感情がこもってない声はいつものことなのに、今は過剰に反応してしまう。
壮司に引き止められなかったら、今頃巴は遠く離れた地で転入試験を受けていたはずだ。それが現在、ここにいるということは、壮司がなんらかのリアクションを起こしたということで――由貴也にはそれがお見通しだろう。
彼は笑った。毒を吐こうとする意地の悪い笑顔だった。
「壮司さん。あの人たちにお膳立てしてもらって、自分はそこに乗っかるだけですか。いいご身分ですね」
由貴也はとうにすべてを把握していた。『あの人たち』とはおそらく芙美花と健一郎を指す。確かに今回は彼らに助けられた面が多いにある。
「由貴也!」
何かと壮司につっかかる由貴也をとがめる声を上げる。しかし、壮司に無言で制された。
「まったく。返す言葉もねえな」
壮司の声には降参するような響きがあった。だが、由貴也の言を認めながら壮司にはそれを受け入れるだけの落ち着きがあるように見えた。敗北を恥としないだけの余裕があった。
おとといまでの壮司は固くて、同時に脆かった。それは彼がひとつのことに固執して、それ以外の価値観を持てなかったからだ。
劇的とも言える変化を遂げた壮司を由貴也は冷ややかに見つめた。
「幸せボケしてる人ってうっとうしいよね。いじめても楽しくないし」
興味を失った声音で由貴也は言い、券売機のボタンを押した。
「ま、せいぜいがんばって。お祖母さまは相当手強いよ。あと子作りもね」
気のない様子で由貴也は爆弾を投下する。最後の一言に赤面して絶句した。
「アンタたちのとこに子供ができないと、また後継ぎだの何だの言われるハメになるし。俺、面倒はごめんだから」
確かに本家に直系の子供がいない場合、真っ先に頼るのは傍流たる由貴也のところだろう。祖母の性格からして外部から後継ぎをもらいうけるようなことはしない。
「でも壮司さんなら心配ないでしょ。この人むっつりだから爆発すると強そうだし、なにせ精力――」
「何言ってやがる、お前はっ!」
由貴也がきわどいワードを発したところで、壮司がすかさず真っ赤な顔で遮った。
「何って……いじわる?」
なぜか疑問型で答え、由貴也はカウンターから定食を受けとる。
先ほどから翻弄されっぱなしのこちらはとっさに言葉が継げない。
由貴也は言葉を失っている巴と壮司に満足したのか、トレーを持ち、食堂のざわめきの中へと消えていく。
短くなった髪に、陸上部のジャージ姿。以前は食べなかった朝食を摂り、前までは惰眠をむさぼっていた時間に部活をする。
由貴也もまた、確実に変わりつつあるのだと思った。
子作りか――。
痛いところを突かれ、動揺が収まらない。
母が巴を産んだのは結婚後八年のことだ。それも不妊治療を尽くした末での出産だった。
不安だった。
自分は壮司に様々なものを捨てさせたのではないかと。
肉親の縁が薄い壮司は人一倍家族を、子供を望んでいるはずだ。それにずっと彼の依りしろとなっていた後継ぎという肩書きもまた失われるかもしれない。
そのすべては自分に起因するものなのだ。
昨日、寮へ帰ってきてからふたりで家の方へ電話をかけた。
転入試験をすっぽかしたことに対する釈明と、交際を認めてもらうために、次の週末に家へ行くことになっていた。
今ならまだ間に合う。すべてをなかったことにして――そうは思っていても、具体的な別れの言葉が出ないのは、自分がずるいからなのだろう。
「お前、何か余計なこと考えてるだろ」
壮司の顔が間近にあった。思考に没頭するとまわりが見えなくなるのは悪い癖だ。
「……何でもない」
反射的に答えたが、それで納得する壮司ではなかった。巴の胸に鉛のように重く沈む罪悪感はいつのまに声まで暗くしていた。
壮司に無言で手を引かれる。
「壮司……!?」
手を引く力は強くはない。しかし有無をいわせぬ態度だった。
壮司は食堂の喧騒とは離れた方へ巴を連れていく。食堂に入ってくる人の波に逆らい、人気のない非常口に来たところでその足が止まった。
声をかける前に彼がこちらへ向き直る。その真剣なまなざしに息を飲んだ。
「俺は由貴也みたいな洞察力もねえ。お前の考えてることもすぐにはわからない」
だけど、と壮司は言葉を継ぐ。眼光が一層強くなった気がした。
「これからはちゃんとお前の考えてることを理解したいと思っている」
誠実な言葉と瞳に巴は怯んだ。
その目から逃れたい一心で巴は口を開く。
「……私はお前に幸せをつかんで欲しいと思っている」
「ああ」
壮司は余計なことは言わずにただ返事をして聞いていた。
「誰からも後ろ指を指されないような、そういう幸せでなくてはだめなんだ」
壮司は散々今まで誹謗中傷を浴びてきた。自分は彼に対し、それを与える人物にはなりたくない。それが間接的であれ、だ。
「私はお前にさまざまな犠牲を払わせる。だからもうそんなに責任を感じてくれなくていいんだ」
壮司は堅い男だ。自分が泣いてわめく度に彼の良心をさいなんできたのではないだろうか。転校ということで、壮司に責任を感じさせてしまったのではないか。
だから彼は自分を引き止めてくれたのではないか。恋人という巴が望む関係を用意してくれたのではないだろうか。
思考が止まらない。結局のところ、巴は彼に愛される自信などないのだ。愛される要素もない。
「……少し黙ってろ」
怒気が混ざった声音に体が固くなる。
目に見えてわかる壮司の怒りの色に、巴はおとなしく口をつぐんだ。なぜだかわからないが、彼は猛烈に怒っている。
壮司の怒りがこちらへ向くことなど初めてだった。
放たれる重いオーラに壮司を直視できない。無意識に床へ視線を落とそうとしたところで腰を抱きよせられて視界がぶれた。
体が密着する。何事かと、名前を呼ぼうと開いた瞬間、口をふさがれた。
「……っ!」
食らいつくような口づけに息ができない。より深く強く唇を重ね合わせられ、腰が砕けそうになる。
それは存在を刻みこむようなキスの仕方だった。
長い時間の後でやっと唇を離され、巴は息を乱しながらすぐ側にある顔を見上げる。
こちらは肩で息をしているのに、壮司の呼吸はまったく乱れていなかった。
「お前は俺が同情で引きとめたとでも思ってんのか?」
壮司の低い声にうつむいた。
同情がすべてではないかもしれない。しかしそれが無関係とも思えない。
壮司はきっと同情を恋とすり替えてしまったのだ。
返事をしないことで、壮司の問いかけに肯定の意を示す。その巴に彼は軽く息をついた。
腰に回されている腕の力が強まった気がした。
「俺だって考えてる。医者という立派な夢に向かって踏み出そうとしてたお前をあの家に連れ戻したんじゃないか、お前らしく生きる道を閉ざしたんじゃないか、と」
目を見開いた。壮司がそんなことを考えているとは夢にも思わなかった。
腰の手が離れていく。一定の距離をおき、壮司と向かいあった。
「俺自身がそうしたいと思ったから、俺はお前といる」
嘘の要素など欠片も見つからない言葉に、自分の思い違いを恥じた。壮司に嘘がつけるほどの器用さはないと、今思い出した。
「答えてくれ。ここに帰ってきて、俺の隣にいてくれることはお前にとって本当に幸せか?」
落ち着いた言葉に含まれた一抹の不安。それが壮司の瞳で一瞬だけ揺れた。
自分たちは相手に対して同じ気持ちを抱えている。
不安と呵責。ゆえに迷いが生じる。
惑う心を封じて、壮司も同じ言葉を返してくれることを願いながら口を開く。
――不器用な自分たちにあきれる気持ちもこめて。
「幸せだ。とても」
「俺も幸せだ」
間髪容れずに帰ってきた言葉に微笑みながら、壮司の胸に顔をうずめた。
壮司の両腕が巴の体を優しく抱く。
「……不安にさせて悪かった。愛してる」
『愛してる』の言葉が壮司にあまりに似合わなくて、巴は壮司の腕の中で笑った。