バレンタインの悲喜劇
「二月十四日は何の日でしょーか?」
ある昼食時、身を乗り出した芙美花に尋ねられた。
目にはなんともそら恐ろしくなるほど、ギラギラとした光が宿っている。
思わず巴は今までの経験から、視線を芙美花から外した。
しかしとたんに芙美花の手が伸び、むりやり彼女と相対させられる。勘弁してくれと言いたくなるような目がこちらを向いていた。
「二月十四日! 女の子の記念日だよ!!」
ものすごい剣幕でそこまで言われても、すぐには何だか思い浮かばなかった。
古賀家ではカタカナ文字のものは排除されている。したがってクリスマスもハロウィンもなかった。
ましてやバレンタインなどあの家では誰の口にも上がったことがなかった。
「……ああ、バレンタインか」
そういうわけで、ややあってやっと思い出す。
芙美花は珍しく「『ああ』じゃないよ!」と怒っていた。
「チョコ作ろ! 甘くてかわいいやつ」
芙美花はうきうきとさっそくチョコの本を広げた。
だが、そのレシピに宝石のように並んだチョコは、確かにおいしそうだった。ただそれだけだ。あげるあてもないのに作る気にはならなかった。
「私はいい。あげる相手もいないしな」
言い切って、食べおわった学食のトレーを持って立ち上がる。
しかし、がっしりと芙美花に腕をつかまれ、たたらを踏んだ。
抗議の声を上げようと芙美花の方へ再び体を向ける。
「あげる相手なら不動くんがいるよ!」
巴が非難するより、芙美花の言葉の方が早かった。
必死の形相がそこにあった。
嫌な予感がする。非常に強い嫌な予感だ。
「いや、壮司は甘いものは苦手だし……」
「大丈夫。巴からもらうものならノープロブレムだよ!」
何を根拠にそうも自信満々に断定するのか。
そもそも自分は壮司にふられているのに、なにがうれしくてその相手にチョコなど作らなければならないのだ。
芙美花の猪突猛進さは、相変わらずそのへんの事情はお構いなしだ。
頼むからお構いしてくれと言いたくなる。
「そうだよ。チョコ作ってよ」
さらにややこしいことに、いつのまにか由貴也が後ろに立っていた。
「壮司さんより大きいチョコ、俺にちょうだい」
由貴也の挑発的な言葉を聞いた瞬間、芙美花の表情ががらっと変わる。
本当に分かりやすい。
それはまずいという顔をさらしていた。
芙美花としては、壮司と自分の仲を深めたくて提案したことなのに、そこに由貴也に入ってこられては、企画倒れもいいとこだ。
彼女の狼狽ぶりがおかしくて、笑いを噛み殺す。
死刑の宣告を待つように、あまりにも悲愴な顔で芙美花がこちらを見ていた。
「わかった、作ろう。由貴也に……壮司にも」
結果的に芙美花に丸めこまれていると思いつつも、そんな顔をされては観念するしかなかった。
誕生日の一件で、あの壮司でさえも丸めこまれたのだ。意図的かそうでないかは置いておいても芙美花の手腕はたいしたものだと言わざるえなかった。
―◆―◆―◆―◆―
週末にチョコレートの材料を買いにいった。
ピンクに染まった街中をなんとも居心地の悪い思いで歩いた。
巴は今までカップルを彷彿させる行動は避け続けてきた。
だから毎年のバレンタインも無関心を装い、冷めた目で第三者として眺めていた。
まさかその自分が製菓会社の思惑に乗せられる日がくるとは夢にも思わなかった。
「見て、これ。甘さ控えめだって。不動くんによさそう」
ハートと桃色に染まった空間で、芙美花が嬉々としてディスプレイのチョコレートを指差した。
抹茶やきな粉を使った和風テイストのチョコで『甘いものが苦手な彼に!』と宣伝文句がついている。
その文句が気恥ずかしく、そのターゲットになるのもしゃくで「ああ、そうだな」と答えるにとどめた。
壮司もおそらく、こんな気分で自分の誕生日プレゼントを買ってきたのだろう。
巴は芙美花のようにバレンタインを純粋に楽しむよりも、羞恥心の方が先にたつ。
壮司のことを義務感と、定められた相手だと見なそうとしてきたため、恋愛の型にはまることがこの上なく恥ずかしいのだ。
今、旬のチョコレートコーナーにいることさえも、いたたまれない気持ちにさせる。
今回は既製品のチョコレートを買うことが目的ではない。さっさと手作り用の板チョコをカゴに放りこんで、その場を離れようとした。
しかし、芙美花にまたもやガシッと腕をつかまれ、「あのチョコは?」と意見を求められた。
芙美花の指さす先が、特大ハート型チョコレートケーキからマッスルチョコというわけのわからないものにたどり着くに至って、巴はすばやくその場を離れた。
やっとのことで芙美花との買い物を済ませ、学院へ帰った。芙美花はとにかくあちこちに気がそれてなかなか買い物が進まなかったのだ。
いざ、寮の調理室で作り始めてみると、芙美花が隣で妙な薬品をとりだした。
「……………」
息を飲んでそれを見つめていると、湯煎にかけたチョコレートの中に薬品を躊躇なく入れた。
白っぽい粉末状のそれはチョコレートの色を少し薄く変えた。
「芙美花!! お前、貢を殺すつもりか!」
なおも薬品を入れようとする芙美花の手首をつかんで止める。
その拍子に薬品のボトルが芙美花の手から調理台に落ちた。
調理台の上でボトルが転がり、そのラベルが見える。
筋肉増強! 理想どおりの体格をお約束します、とラベルには書いてあった。つまりプロテインである。
「…………何だ、これは」
たっぷり十数秒は絶句してから口を開いた。
なんだってこんなものをチョコに入れたのか。しかもその量は適切なのか。
「何ってプロテインだよ?」
「そんなことはわかっている」
芙美花が何らおかしなことはないかのように言うので、頭が痛くなりそうだ。
彼女の発想は巴には見当がつかなすぎた。
「あのね、健さんがなかなか筋肉がつかないって言ってたから、入れようと思って。チョコに入れたらおいしいし、一石二鳥でしょ!」
芙美花はさもすばらしいことのように語るが、まったくもって一石二鳥ではない気がする。
芙美花が場を離れた隙に、湯煎にかけてあった自分のチョコと芙美花のを交換した。
プロテイン入りの方はこっそりと処理した。
その後も芙美花はジャムやらアイスやらを入れたりしていたが、とりあえず命の危険はなさそうなので、そのままにしておいた。
貢は今までよく生き延びていられたものだとしみじみ思った。
ぐつぐつとまるで魔女が薬を煎じるかのごとくチョコを煮こむ芙美花を横で、巴は自分の方に専念することにした。
できたのは小さなチョコレートケーキだ。本当は定番であるブラウニーを作るつもりだったのだが、自分の板チョコはそういうわけで芙美花と交換してしまったのだ。
急遽予定を変更し、チョコがなくてもココアできるチョコケーキにした。
おおげさではない程度にケーキをデコレートして箱に入れる。
少しだけ入れ方を変え、ふたつのケーキを見分けられるようにした。壮司のは甘さ控えめで、由貴也のは甘さが強いのだ。
由貴也は糖尿病が心配になるほどの甘党だ。もし、バレンタインがチョコレートではなく、せんべいを贈る日だったなら、くれと言わなかっただろう。
箱を閉めようとすると、横から芙美花がじとりと見つめていた。
「……何?」
「もっと華やかーな感じにしようよ! せっかく不動くんにあげるのに!!」
確かに、芙美花がわめくように、巴のケーキはハート型にカットしてあるわけでもなければ、ホイップクリームで愛の言葉が書いてあるわけでもなかった。
チョコレートケーキの上に粉砂糖を振っただけの至ってシンプルなものだった。
それにおそらく芙美花の不満はそれだけではない。
巴は由貴也にも壮司にもまったく同じものを作った。
その差異のなさこそが芙美花の一番満足できないところだろう。
「別に華やかにする必要もないだろう」
そう、意図的に巴はふたりに差をつけないようにした。
壮司が義理かと言われれば違うが、本命かと言われても違う。
本命チョコなどそれこそ重くてあげられなかった。
差別をしないことによって、巴は壮司の格を下げ、由貴也の格を上げた。平等とし、特別性をなくした。
ただそれだけのことだった。
なおも不満げな芙美花を尻目に、ケーキの箱を閉じる。
それからなぜかそれなりのできばえになっている芙美花のチョコと一緒に、冷蔵庫へしまった。
このとき、自分は実に迂闊だった。
どうして丸一日も芙美花の手に届くところへ保管してしまったのか。そもそも芙美花とともにチョコを作ったこと自体が間違えだったと気づかなかった。
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バレンタイン当日。校内はどことなく浮き足立っていた。
こんなカラオケひとつない山奥では、この浮かれようもしかたないことだ。近年はややすたれぎみであるバレンタインも、ここでは一大イベントだ。
「あげる。いらないから」
放課後、生徒会室で書類に目を通していると、上からバラバラとチョコが落ちてきた。
ピンクのラッピングからのぞくカードには『古賀 由貴也さま』と書いてあった。
「お前、いらないからじゃないだろう。せっかく作ってくれたチョコを……」
ひどい扱いをされたチョコを巴はとりあえず集める。
落ちてきたチョコはけっこうな数であり、いかに由貴也の顔にだまされている女子が多いかを物語っていた。
由貴也の顔は整ってはいるが、冷たくはない。どこか隙があり、甘い顔立ちをしていた。
加えて、他には迎合しない態度だ。普通の女子にはそれが物珍しく映るのだろう。
「だって手作りって気持ち悪いじゃん」
実際はこんなひどいことをさらりと言ってのけるやつだ。由貴也にチョコを贈った女子が哀れに思えてきた。
この場に自分以外誰もいなくてよかったと思う。芙美花が聞いたらさぞや憤慨することだろう。
「とにかく、自分でもらったものは自分で処理しろ。むげに扱うなよ」
由貴也のチョコを紙袋につめなおし、むりやり押しつけた。巴がもらってしまったのでは、あまりに彼女たちがうかばれない。
由貴也は十中八九食べないだろうが、それでも由貴也の元で腐っていく方がまだ幸せだろう。
「それと……私のチョコも手作りなんだが、いらないなら引きとるぞ」
照れ隠しに小さな咳払いをした。
慣れないことをするものではない。由貴也相手でこれなのだから、壮司のときを考えると恐ろしいようだ。
「それ本気で言ってる? 俺がいらないって言うとでも?」
由貴也はこれだから嫌なのだ。
特別視しているという態度を惜しみなく前面に出す。
それがどうにも巴を落ち着かなくさせるのだ。
ケーキが入った箱を差し出すと、由貴也は断りもなく開けた。
自分があげたものを目の前で改められるのは何とも居心地が悪いものだ。
しばらくケーキを凝視していた由貴也だったが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……これ、壮司さんと一緒の?」
「あ、ああ。よくわかったな」
何も考えず素直に返す。由貴也も「ふぅん……」とどうでもよさそうな様子で答えたが、次の瞬間ガラリと雰囲気を変えた。
由貴也はいきなり立ち上がり、巴の目の前の机に手をついた。
何事かと見上げた巴の顔に影が差した。
「壮司さんより大きなやつちょうだいって言ったじゃん」
表情が全体的に乏しいので、いつもの冷めた顔のままだ。しかし、その眼光には凄みがかかっており、普段の眠そうな印象は吹き飛んでいた。
「子供のようなことを言うな」
あえて究極の鈍感なふりをして言葉を返す。
由貴也が食い意地をはって大きなケーキを食べたいというわけではないとわかっている。
“壮司と同じ”由貴也の不満はその一点につきるのだ。
「口移しでチョコくれたらたら許してあげる」
由貴也のまとう気彩がふっと和らいだ。いつもの飄々とした彼に戻っている。
本当に由貴也は空気を読むのが上手い。こちらが鈍感を装えば、すぐさま彼も方向性を変えた。
彼はそうして絶好のタイミングを狙っているのだ。こちらを責めるタイミングを。
「いらないなら持って帰るぞ」
由貴也のキスだの口移しだのの冗談をいちいち真に受けるわけにはいかない。 ケーキの箱を閉じようとすると、横からかっさらゎれた。
「いらないなんて誰が言った?」
由貴也はその場で「腹減った」とケーキを食べ始め、小さいとはいえどもワンホールを完食してしまった。
食べ終えた後、由貴也は「チョコは巴のだけでいいし」とひとつつぶやいた。
壮司には絶対に言えないセリフだった。
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男子限定で、やけに部内の雰囲気が暗いと思ったら、今日はバレンタインデーだった。
剣道部の気のいい部員たちはいいやつだが、皆硬派だ。いや、硬派をきどっているが、その実純情なのだ。三十名弱の部員の内、彼女がいる者は、健一郎を含めても片手で足りる。
「不動! お前も今年はついにバレンタインデーに縁がないなあ!」
彼女いない歴イコール年齢の元部長が、壮司の首に腕をからませてきた。
彼は推薦で早々に大学を決め、この時期でも部活に参加しているのだった。
特に今日の稽古は鬼気迫る勢いだった。バレンタインデーのうっぷんを晴らすかのように、彼女持ちの部員は彼にしごかれた。
「何も落ちこむことはないぞ! 俺たちがついている!!」
彼は陽気に口を開け、ヤケともいえる笑いをもらした。
「……ありがとうございます」
壮司は砂を噛みしめているかのような、微妙な気分で答えた。
今さら巴とは最初からつきあってないうんぬんと言うつもりはない。第一そこをつっこまれては困る。
それより問題なのは、壮司は一度もバレンタインチョコをもらったことがないのだった。
つまり彼女いない歴イコール年齢の先輩らと何ら変わりはないのだ。
今さら欲しいなど言うつもりは毛頭ないが、この世の終わりのように落ち込んでいる部員たちを見ていると、俺も危ないのでは、と思ってしまう。
複雑な気分を抱えつつ、剣道部を脱いでいると、隣の健一郎が今にも死にそうな顔をしていた。
「どうした、貢」
健一郎といえば、部内では間違えなく“勝ち組”に入る。今朝も朝練の後、下級生の女子にチョコをもらい、部員から散々いじられていた。
その揚々たる彼が一体どうしたことか。
「……不動、今日は何の日か知ってるか? そうだバレンタインだ。恐怖のエックスデーだ」
壮司が答えてもいないのに、健一郎はひとりでしゃべり続けている。何かの病気にかかっているのなら、かなりの確率で末期だろう。
「お前、芙美花が作るチョコの恐ろしさを知ってるか? 去年はおにぎりをチョコで固めやがった!」
「…………それは何とも」
ご愁傷さまとしか言いようがない。
もてる男にはもてる男なりの苦労があるらしい。いや、健一郎の苦労は大半が芙美花の彼氏ゆえだ。
「しかもおにぎりはのりたま風味だぞ! ありえねえ。俺は絶対明日まで生きてられねえ!!」
健一郎の手は薬物患者のように震えていた。
ここまでくると哀れとしか言いようがない。
それでもいそいそと芙美花の元へ帰って行くのだから、なんだかんだ言っても結局バレンタインを楽しんでいるのだろう。
部室を出たところで、現女子部長、椎名 留奈と会った。
さばさばとした彼女はかなり話しやすい。壮司でも気負わずしゃべれる数少ない女子だった。
「不動! ちょうどいいとこに!!」
留奈が感動すらにじませて言い、自らのカバンの中をあさった。
「はい、あげる」
反射的に差し出した手の平に棒つきチョコが落ちてきた。
ミルクチョコとイチゴチョコで某キャラクターの顔を構成しているそれは、あまりにも壮司に似合わなすぎた。
「バレンタインのチョコあまっちゃってさー。ちょうどよかった」
この様子では、かなりの人数に配っていたのだろう。
壮司は要するに余り物を処理するのに使われたわけだが、留奈が相手だときっぷのよいおじさんにものをもらっている感覚で、不思議と嫌な感じはしなかった。
「古賀さんにふられちゃって、さみしいバレンタインだねぇ、不動?」
寮に向かって歩きながら、留奈に意地の悪い笑みを向けられた。
どいつもこいつも、という反論を胸にしまって、ただ「そうだな」と答える。
皆、よほど壮司が独り身になったことが嬉しいとみえる。
雑談をしつつ、寮へ着いたとき、唐突に少し前を歩く留奈の足が止まった。
しばらく前方を見ていたが、やがて含みのある笑みを浮かべこちらに顔を向けてきた。
「がんばって」
それだけ言うと、状況がさっぱりわからない壮司を置いて、留奈はさっさと歩いていってしまう。
彼女の存在で、前の様子は見えなかった。
「古賀さん、誤解しないでよ? 不動とはたまたまいきあっただけだから」
留奈が持ち前の気やすさで、髪の長い少女の肩に手を置いて話している。
そこでやっと今の状態を理解する。留奈の『がんばって』という言葉の真意を知った。
遠ざかる留奈の後には、何とも言えない表情で紙袋を持った巴が立っていた。
沈黙が流れる。
「……ずっと待ってたのか、ここで」
やっと口から出たのは、そんなどうでもいい問いかけだった。
他に言わねばいけないことなど山ほどあるのに、何ひとつとして口から出ない。
「ずっとじゃない。来たばかりだ」
即座に嘘だろ、と返したくなるような見えすいた偽りだった。彼女の鼻先は寒さのためか少し赤くなっている。
いつもは見事に完璧を装う彼女が、今はその皮がはがれて、年相応になっていた。
「友人と一緒とは知らず、邪魔をして悪かった」
言葉だけ聞けば殊勝だが、彼女の声は憮然としていた。
女心にうとい壮司はそれがやきもちからきたものだとは当然わからなかった。
「芙美花が作ろうと言うので、作ってみたんだが……」
いささか言い訳のような前置きをして、巴は紙袋の中から箱をとりだした。
「お前が甘いものが苦手なことは知っているし、いい加減しつこいともわかっているんだが……」
ずらずらと巴らしからぬ言葉を並べ、やっと彼女は箱を差し出してきた。
「これ、バレンタインチョコだ」
飾りも何もついていないシンプルな白い箱だった。
巴がバレンタイン。自分たちにはそういう世間一般のイベントとは無縁だと思っていた。
壮司はエナメルバックを肩にかけ直し、両手でその箱を受けとった。
「……大事に食べさせてもらう」
壮司にしては精一杯の誠実さで答えた。
「いや、そんな大層なものでは、ないんだが……」
巴の声は普段よりも小さく、勢いもない。
それが妙に新鮮で、こちらまで照れくさくなる。
「生ものだから早めに食べてくれ。冷蔵庫に入れてくれると助かる」
あえて今の流れでは不粋と取りかねられない言葉を巴は次々と吐き出してくる。
それはまぎれもない照れ隠しだと壮司にもわかったが、逆に漂う空気の濃度を上げていた。
「不動、お前ぇ~!」
突如、背後からただならぬ声が上がった。それは生易しいものではなく、怨嗟の声と言っても過言ではなかった。
悪寒を覚えつつ振り向くと、彼女いない歴イコール年齢の元部長と男子部員数名が柱の影から姿を現した。
目が据わっている元部長に、男子部員たちが「先輩、やめましょうよ」と小声で制止していた。
どうやら自分たちは彼らに盗み見られていたらしい。
羞恥もさることながら、柱に鈴なりになってのぞき見をしていた彼らに、怒りより呆れが先に立った。
「先輩、何しているんですか」
壮司は呆れを隠さずに言い放った。ここは多分、先輩相手といえど、怒ってもいい場面だろう。
「この裏切り者がぁ! 甘酸っぱい空気出しやがって!!」
先輩の怒り泣きとともに、肩をつかまれ揺すぶられる。明らかに理不尽極まりない八つ当たりである。
「先輩、やめっ……!」
チョコの箱で、両手がふさがっているので、先輩を引き離すこともできない。加減なしに激しく揺すぶられて、ついに手から箱を離してしまう。
箱は床へ軽い音をたてて落ちた。
場の空気が凍りつく。
先程まであっけにとられていた巴は固まり、部員たちは息を飲んでいた。
壮司はこのときばかりは我慢ならず、えらいことをしたと顔面蒼白になっている先輩をにらみつけた。
「壮司、大丈夫だ。上手く落ちたようだし……」
一気に険悪になった場をなだめようと、巴が自ら膝をつき、箱の中身の無事を確認する。
しかし、箱を開けた瞬間、巴と壮司のみならず、先輩も部員たちにも二度目の思考停止が襲った。
確かに箱は上手く落ち、中身のケーキは無事だった。
無事だったが、ある意味無事ではなかった。
あろうことか、チョコケーキには熱烈な愛の言葉が描かれていたのだ。しかも今どき英語でLOVE。
その文字のまわりを、ピンクのチョコペンで書かれたハートが踊っていた。
そこにいた全員の視線がケーキに注がれていた。
一拍の奇妙な間の後、皆我に帰る。
「……やられた。芙美花、あいつは!!」
巴は怒りに体をわななかせ、部員たちは見てはいけないものを見たかのごとくケーキから目を慎ましくそらした。
結局先輩からは彼女の有無にかかわらず、同情のまなざしを引きだすこととなった。
こうして、バレンタインは甘い思い出よりも、しょっぱい思い出に塗り替えられたのだった。