〝弟〟卒業
由貴也の回想録。6章読了推奨です。
昔から激しい人見知りで、他人と関わるのを好まなかった。
三歳で入園した保育園では、いつも庭のすみで草をひっこぬきながらひとりででいた。人とあわせることが嫌いで、ついでにお遊戯とお絵かきの時間も大嫌いで、よく押し入れに閉じこもってはその時間から逃げていた。
その頃の自分は、小さい子供にありがちな虚弱体質というやつで、保育園を一日行っては三日休むという状態が続いていた。極端に同年代と接することの少ない由貴也を心配してか、父がひとつ歳上のいとこを遊び相手に連れてきた。
それが巴だった。
偶然か、あるいは父親の陰謀かはわからないが、巴は同じ保育園に通っていた。甘えんぼうで、何かにつけて保育園をさぼりたがる自分を巴は毎日迎えにきた。しばらく経つと手をつないで――というより引かれて一緒に登園するようになっていた。
草を見境なく片っ端からひっこぬいて、庭師を泣かせることはなくなったが、由貴也には新たな不満ができていた。それは巴の旦那役になれないことだった。
巴とおままごとをするとき、いつも彼女は壮司をひっぱってきて夫役に任命した。そして由貴也は子供役だった。
子供ながらにこの配役は気に入らなかった。壮司はひどい大根役者だったし、役の上とはいえ壮司が父親なのはイヤだった。
しかし、巴のおままごとは夫婦の生活を主体としたものだったので、子供はただ食べて寝てればよかった。由貴也に夫役をやるほどの気概はなく、従って楽な子供役に甘んじていた。
やがて巴と壮司は卒園し、由貴也はひとり保育園に留まることとなる。女性保育士の膝の上でひとりきりの一年間を過ごした。
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幼稚園もそんな調子で過ごし、小学生になった。由貴也は小さい子供だったのでランドセルが重くてしかたなかった。あまりに重くて登下校の最中に捨ててきたら、巴に怒られた。
歳が上がるにつれ、周りのことがわかってくる。古賀家のことや、父親の策略。壮司の生い立ちと立場――。周りの雑音などまったく気にならない由貴也でさえ、その話は聞こえてきた。それくらい日常的に話されていることだった。
そして由貴也が小四、巴が小五の冬、その日はやってきた。
「壮司と婚約した」
壮司と婚約した。巴が言ったその言葉を頭の中で三回くりかえす。その後口から漏れたのは「へぇ……」という乾いた返事だけだった。
そうなることは理解していた。古賀家の女帝、由貴也にとっては食えないバアさんが、壮司に何の見返りも求めないはずがないのだ。
壮司に巴をとられるのは嫌だ。嫌だが、巴を手に入れればもれなく円恵寺の相続権がついてくる。それはごめんだ。のらりくらりと暮らしている由貴也にとって、あの家で生きていくことは拷問に等しかった。
この期に至っても、さてどうしようかと、わりとのんきに危機感もなく構えていた。
それに巴は由貴也に何でも話してくれた。それこそ壮司には話さないようなことさえもだ。だから情報は逐一入ってきた。後の足りない部分は推測で補った。
しかし、情報には困らなくても、彼女が何でも話してくれるのは自分を“手のかかる弟”ぐらいにしか見ていないからだった。身内だから何のためらいもなくすべてを話せるのだ。壮司は“男”だから、話せないのだ。
そう思うと保育園時代の“子供役”からそう変わっていないのかもしれない、と思ってしまった。
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中学生になった。
父親が半強制的に申し込みをした私立中学の入試をサボり、近所の公立中に入学した。私立はやたら厳しい規則と電車通学が最高にめんどうだったからだ。
父親は憤慨したが、由貴也はすべてシャットアウトした。相変わらずたらたらと中学に通った。公立中学は父親の懸念した通り学級崩壊がおこっていたが、それは由貴也にとってたいした問題にはならなかった。
由貴也にとって唯一の不満といえば部活動が必須だったことだ。文化部といえば、運動部並みに練習が厳しい吹奏楽部しかなく、しかたないので廃部寸前の陸上部に入った。この自分に団体競技はどう考えても無理だったし、走ることはそう嫌いでなかった。事実速かった。
中学生になっても巴とはときどき会った。出不精な自分が巴と会うとなるとよく外へ出てくものだ、と自分で自分を感心した。
中学生となっても、依然として巴と壮司の間には何もなかった。何かあったなら間違いなくこの自分の神経に引っかかるはずだ。何年もひとつ屋根の下にいて、手を出さずにいられる壮司をある意味尊敬した。
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中一の冬、日暮れから急激に冷え込み、珍しく雪の降る宵だった。いつも通りなんとなく部活を終えて帰ると、巴が家の門の前で待っていた。
なぜ巴がいるのだろうと考える。彼女は遠く離れた立志院で生活の一切を行っているはずだった。
両親は仕事でまだ帰ってきていない。兄は塾で帰宅は遅い。巴はまさしく閉め出しを食らった子供のようにうずくまっていた。
「どうしたの」
由貴也が巴の前に立つと、彼女は勢いよく顔を上げた。その拍子に巴の肩や頭に積もった粉雪が舞った。寒さのせいだけでなく、その顔は青ざめて見えた。
「とにかく入ったら」
巴の脇をすり抜け、玄関を開く。由貴也は最後に家を出たが、今朝も鍵を閉め忘れた。
巴はのろのろと立ち上がったものの、その場にぼうっと立ったまま動かない。由貴也はだらりと下がったその手をやや強引に引いて、むりやり家の中に入れた。そのまま二階の自室へ連れていく。由貴也にしては最大限の気配りを発揮して、暖房をつけ、巴の上に大きなバスタオルをかけた。
それから由貴也は何をするのでもなくベッドに腰かけていた。何もしないでただ巴の言葉を待っていた。彼女が自分を相談相手として重宝しているのはこういうところだとわかっていた。
「……今日、病院に行って」
しばらくエアコンの音だけが室内をめぐっていたが、不意に巴の声がぽつりと落ちた。
「お母さまは子供を産めない体で、私もそうで」
時系列がバラバラな話はそのまま彼女の気の動転具合を表していた。
「どうしよう。壮司とは結婚できないかもしれない……!!」
悲痛な声だった。涙よりも雄弁に巴の動揺を表していた。驚くと同時に、気がついたときには言葉がせり上がり、喉を越えていた。
「やめなよ、壮司さんなんか」
自分が何を口走ったかわからなかった。わからないまま激情に流される。
「子供が産めないんじゃ許婚として役にたたないじゃん。壮司さんが必要としてるのは許婚としての巴でしょ」
巴が唇を噛む。そのまま泣きそうな顔で床をにらんでいた。涙よりも先に、巴の言葉が落ちる。
「……それでも私は壮司が――」
「バカじゃないのっ!!」
『壮司が好きだ』そう続くとわかった瞬間、怒鳴って遮っていた。
「壮司さんが一番大事なのは“家”じゃんっ! 巴はそのついでだってこといい加減理解したらっ!?」
悪霊に体を乗っ取られているかのようだった。明らかな失言だった。失言の一言では表せないほどのひどい言葉だった。それをここまでの強い調子で言ったのが自分だとは信じられなかった。
我に返り、あわてて巴に視線をやる。ますます巴が身を縮こませたように感じた。
「……帰る」
重い沈黙の後に聞こえたのは、巴の震えた声だった。由貴也が声をかけるよりも早く、巴が身をひるがえして部屋から出ていく。後に聞こえたのは、巴が慌ただしく階段を下っていく音だけだった。
失意にまかせて、体を後ろに倒す。体がベッドに沈んだ。深く傷ついている巴にさらに追い打ちをかける真似をしてしまった。言いたかったのはあんなことではない。子供が産めないことで巴が辛い目にあうのは嫌だっただけなのだ。
自分にこんな子供っぽく熱いところがあるとは夢にも思っていなかった。最低だ。とにかく最低だ。自己嫌悪の嵐だ。
言ったことは間違っていないと思う。ただ、言うタイミングと言い方を考えなかっただけで。由貴也には壮司が予防線を張っているように見えるのだ。巴に手を出さないことで、恋に落ちないことで、古賀家に完全に囚われないようにしているようだった。
そんな煮え切らない態度が由貴也をイラつかせ、同時に安心させた。壮司の自己満足――いや、自己犠牲の上の自己陶酔に巴を使われてはたまったものではない。
由貴也を動かすのは、生まれて初めての激しい怒りだった。けれども巴と壮司を引き離すなら今だったのに、罪悪感が尾を引き、由貴也は何の行動もできなかった。
巴とは疎遠となり、高校受験が迫っていた。
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立志院を受験した。
無気力な由貴也が進学校受験への意欲を見せたことに、周囲は並々ならぬ喜びようだった。だからといって、世の受験生のようにバリバリ勉強したわけではない。いつも通りなんとなくやっていたらなんとなく合格してしまった。
巴と同じ普通科を受験しなかったのは、詰め襟の学生服が嫌だったからだ。襟の部分がうざったくて気持ち悪く、中学三年間でうんざりしていた。
入学してすぐ、同じクラスの女子に告白された。断るのも何かと面倒なのでつきあってみたが、すぐにうっとうしくなった。他人と時間を共有することに慣れていない由貴也にとって、相手に“管理”されることにこれ以上なく嫌悪を感じた。他人に自分の領域に踏み込まれるのをどうしても生理的に受けつけなかった。思い返せば、彼女と会った後にわけもなく気持ち悪くなり、よく吐いていた。
二週間後、彼女のビンタと罵倒と涙つきで、あえなく破局した。理由はこちらの温度の低さである。由貴也は最初に彼女のことを好きではないと言っておいたはずだ。それなのに『愛を感じない』と言われるのは何とも身勝手に感じた。
だからといって、由貴也は一方的に彼女を責められる立場になかった。中一のあの日、このままゆるゆると巴を忘れてしまおうと思った。彼女のことで一喜一憂するのは疲れる。それで手始めに女の子とつきあってみた。彼女を利用したのだ。けれどもかえって他の人ではダメだという結果が浮き彫りになっただけだった。
さてどうしようか、と考える。
巴のことをあきらめられてないと悟った。そして向こうも壮司のことをあきらめられてない。校内でときどき見かける彼らは仲がよさそうだった。あの様子では、巴は子供ができないということを話せていなそうだった。
この状態で巴にアタックしても埒があかない。三角関係の構図はそう簡単には崩れない。しかし、遠からず巴と壮司の関係に亀裂が入ると知っていた。子供を成せないというのは、避けては通れない問題なのだから。それを知っているということは由貴也だけの切り札になった。
焦る必要はなかった。しかし、巴から離れて少し冷静になりたかった。ちょうど寮生活にも飽き飽きしていたところだったので、留学を決めた。英語科なので、そういう機会には事欠かなかった。
向こうに行っている猶予期間中に、巴をあきらめられるならそれでもよかった。とりあえずなんでもよかった。あのまま校内で仲のいい二人という胸クソ悪い光景を見ているよりは、オーストラリアにでも行った方が何百倍もマシだった。
一年。オーストラリアの留学は本来は一年間だった。
帰省ラッシュを避けて、一月の十日に一旦帰国し、家へ帰った。本当は帰る気もなかったのだが、父に乞われて、それがあまりにしつこいので仕方なくだ。
渋々と帰った由貴也を待っていたのは、古賀家の年始の話だった。壮司が後継ぎになったと父は忌々しげにまくしたてた。散々壮司を口汚く罵った後で、由貴也、お前には期待してるぞ、と肩を叩かれた。
もしゃもしゃと久しぶりの和食を頬張りながら、父親に顔を向けた。そこには浅ましい俗物の姿があった。
自分の半分にも満たない甥を罵倒し、あまつさえ息子をあてにするとは、いい大人のすることだとは思えない。モラルが薄い由貴也にさえそう思わせるのだから、父の小物ぶりはたいしたものだ。
父は昔から、由貴也と巴が仲がいいのを異常なまでによろこんだ。巴を落とせば、円恵寺が手元に転がりこんでくる可能性が高くなると思ったのだろう。
由貴也は父親の手を振り払い、食事の途中にもかかわらず席を立った。呆気にとられる両親をリビングに置き去りにして、自室にこもる。
気持ち悪い。
父親に触られた肩を強く握りこむ。あんな醜悪な肉の塊に触れられて、そこから壊死していきそうだった。
巴が女として不能だと知ったら父はどうなるだろう。間違いなく逆上するだろう。
巴を手に入れたかった。
それは純粋にそうも思ったが、父への反逆という意味もあった。巴との関係を、いわゆる大人の都合で踏みにじるのは許せなかった。
由貴也はその日の最終便でオーストラリアへ戻り、カリキュラムの変更をした。独断で一年間の予定を縮め、三学期から立志院に復帰できるようにした。直感でこの時を逃してはいけないと思った。巴を落とすなら今だと思った。
今、由貴也は狼煙を上げる。
巴に手を引かれる小さな“弟”でもなければ、おままごとの“子供役”でもない。男として、壮司から“夫役”を取りに行く――。
せいぜい揺さぶってやる、落ちるまで。
由貴也は決意をして腰を上げた。