終章
九月一日、立志院の全生徒を収容した大講堂では、簡易化された表彰式が行われていた。
夏休みに大会が催される部活は多い。校長が大会名と部活を述べ、該当する生徒が壇上へ上り、賞状を受けとっていた。
私学だけあり、立志院の部活動には力が入っている。入賞した部活も多い。延々と続くお決まりのパターンに、巴は集中力を保つのが難しくなってきた。
「次に陸上部」
多少なりとも興味のある部活が呼ばれ、巴は注意して耳を傾ける。
「……――大会、四×百メートルリレー、第三位。立志院高等学校」
普段は日本史の教科書を読んでいる教師が、注意深く四×百メートルリレーのメンバーを読んでいく。
「――古賀 由貴也。以上四名、代表――……」
四×百メートルリレーの走者で、陸上部の部長とおぼしき人物が壇上に上る。その間、他のメンバーと同じように、由貴也も自分の席の場所で立っている。生徒会員席から、彼の姿を見た。
夏休み中もまじめに練習に出ていたのか、由貴也は少し日焼けしていた。背ばかりが伸び、線が細かった体はややしっかりしたものへと変化していた。
覇気のない立ち姿は相変わらずだが、短く整えられた髪の下にある顔には精悍さが表れるようになっている。
あの由貴也がチームワークが問われるリレーまでやるようになった。中学のときは個人種目だけに撤していたことを考えると、いい傾向なのだろう。
陸上部の部長が賞状を受けとり終え、自分の席へ戻っていく。それにともない立っていたリレーのメンバーも着席する。由貴也の頭がその他大勢にまぎれて見えなくなった。
「以上で表彰を終わります。次に生徒会任命式に移ります」
教師のアナウンスが聞こえたと同時に、任命書を持ち壮司と壇上に上った。
巴たちは今日、一年を経て生徒会の任期を終える。夏休み前に行った選挙で後任は決まっていた。
六月上旬の文化祭を終えてから、生徒会の活動はほぼ休止状態だった。現メンバーは全員三年生だ。受験生である以上、勉強の方に重きが置かれるのは当然だった。それは毎年生徒会としての自然な流れだった。
任命書を後輩に手渡しながら、去年の自分たちを思い出す。
一年前のあの日から、すべてが始まった。停滞していた関係が動き始めた。あのときは一年後にこんな気持ちになるとは思っていなかった。寂しいと、確かに巴は思っていた。
新生生徒会もメンバーは四人だ。彼ら全員に任命書を渡したところで、巴たちの仕事は終わる。たった今“旧”生徒会となった。胸に落ちてきた感慨にそっと目を伏せた。
夏休み明け一日目の予定は始業式だけだ。その後は簡単なホームルームをして下校になる。
下校中の生徒がパラパラと散る大階段を下る。正面の電光掲示板がオレンジの文字で新生徒会発足を伝えていた。
一年前にはそこに自分の名前が流れていた。しかし『副生徒会長』の文字の後に流れてきたのはよく知らない下級生の名前だった。
「巴ー!」
背後から相変わらず元気な声をかけられる。振り向くと芙美花がリズミカルな足音を立てながら階段を下ってくるところだった。予想通りの人物に巴は薄く微笑む。
「芙美花、転ぶなよー」
その後ろから健一郎が苦笑いしながらついてくる。このふたりはいつも一緒にいる気がする。本当に仲がいい。
「大丈夫だよ」
笑いながら軽い声音で芙美花は言うが、彼女の大丈夫ほどあてにならない言葉はない。案の定階段を踏み外し、体勢を崩す。
巴はあらかじめ心のどこかで準備していた手を差し出す。しかしそれより早く健一郎の力強い腕が芙美花をとらえた。
「芙美花ー、もうちょっと落ち着いて行動しような」
転びかけた芙美花を支えながら、健一郎が諭すような口調で言う。最近彼が芙美花の彼氏というよりも兄か保護者のように見えるから不思議だ。
しかしふたりきりでいるとその関係が逆転することを巴は知っている。健一郎の所属する剣道部の引退試合があった夜、彼が芙美花に膝枕をしてもらっているところを見てしまった。
壮司の話によると、健一郎は決勝で惜敗し、すんでのところへ上の大会への出場権を逃したそうだ。その彼を芙美花はただ「お疲れさま」といたわっていた。
彼らの関係はそんな風にプラスマイナスゼロでなりたっているように思えた。
「終わっちゃったね」
芙美花が電光掲示板のテロップを眺めながらしみじみと言った。
これから巴が帰る寮は芙美花や健一郎、壮司といた特別寮ではない。生徒会員から退いた以上、女子寮へと転居しなくてはならない。
巴が特別寮で使っていたあの部屋は今、からっぽだ。今日から新しい主へと変わる。
「まぁ、芙美花とは毎日嫌でも顔をつきあわせないといけないけれどな。貢、妬かないでくれよ」
冗談めかして言ってのける。女子寮は基本的に二人部屋だ。巴は芙美花との相部屋だった。
「や、同情するよ」
健一郎は愛しの芙美花と朝から晩まで一緒に過ごす巴に嫉妬などしなかった。心の底から大変そうだと思っている声だった。
「それってどういう意味ー!?」
芙美花が頬をふくらます。健一郎は「別に」と笑っていた。
「健さんこそ不動くんと仲良くね!」
芙美花が反撃とばかりににっこりと笑みを浮かべながら健一郎へ言葉を向けた。対する健一郎は痛いところを突かれ、露骨に顔を曇らせる。
「それを言うなよ、それを……」
彼が重いため息をつく。健一郎と壮司もまた男子寮で同室だ。彼らが狭い部屋の中で長時間ともにいるかと思うと心配になる。ふたりはお世辞にも仲がいいとは言えないのだ。
とはいえ、彼らの関係も一年前よりはよくなった気がする。生徒会に入ったばかりの頃は顔を合わせるたびにくだらない喧嘩をしていたが、最近ではそれもなくなった。一年を通して相手のよいところも見えるようになったのもあるだろう。なりより精神的に大人になったのだ。
健一郎も憂うつそうではあるが、心底嫌でたまらないという様子ではなさそうだった。
「ねぇ、今度打ち上げ行こうよ!」
健一郎の暗さを払拭するように、芙美花が明るく提案した。
「巴は勉強忙しい?」
「いや、大丈夫。行こう」
巴は迷わず返事をした。
これから徐々に受験勉強も追い込みの季節に入る。余裕があると言えば嘘になるが、たまの息抜きぐらいはいいだろう。
それに残り少ない高校生活を芙美花や健一郎と過ごすものにしたかった。生徒会でのつながりがなくなったからといって疎遠になってしまうのは嫌だった。
「大事な話をしてるときにあいつはどこにいんだよ」
使えねーやつ、と健一郎は吐き捨てた。彼がそんなぞんざいな言い方をするのは壮司しかいない。
噂をすれば壮司が寮の前で待っていた。続々と生徒たちが寮へ入っていく中、入口で仁王立ちする彼の姿はかなり不自然だった。
「壮司、何やっているんだ」
純粋な疑問を持って尋ねる。まさか楽しい話をどこかから聞きつけてやってきたというわけでもないだろう。
そんなことを考えていると、壮司に突然腕を引かれた。
「こいつ借りてくぞ」
有無を言わせぬ口調で壮司が健一郎と芙美花へ言葉を向ける。壮司の突然の行動に彼らは目を瞬かせた。やがて芙美花がにやーと俗っぽい笑みを浮かべる。
「ごゆっくり」
含みのある言葉を置いて、彼らは先に寮へ入っていく。後には壮司と巴だけが残された。下校中の生徒たちが脇を抜けていく。今まで意識しなかった蝉の鳴き声がいやに耳につく。
「……少し歩くか」
この炎天下に居続けるのはつらいものがあったので、巴は無言でうなずく。ゆっくりとした歩調で足を進め、寮から離れた。
壮司とふたりきりになるのは久々だ。僧侶になる壮司の進路は特殊だ。宗門大学への入学には入試はあるものの、寺と縁故のある壮司は受かったも同然だった。
夏休みが正念場の巴とは違い、彼は朝から晩までアルバイトに明け暮れ、家にはいなかった。
「昨日はずいぶん遅くにこちらへ着いたようだな」
壮司の後ろを歩きながら、世間話のつもりで話題を引っ張り出す。しかし声が尖ってしまうのを抑えられなかった。
八月三十一日、学生にはあまりうれしくないこの日は壮司の誕生日だった。
巴は例年であれば三十一日に家から寮へ帰ってくるところを今年は早めた。予備校の夏期講習の間をぬって買ってきた誕生日プレゼントを携えて寮で壮司を待った。
家では祖母や他の人の目があり、気兼ねなく壮司と話すことはできない。だから寮で待ったのだが、それが裏目に出たのかもしれない。壮司は夏休み最終日にもバイトを入れたらしく、寮へ戻ってきたのは深夜だった。
消灯時間をとっくに過ぎていたため、むやみに部屋の外へ出ることもできずに、巴はまだ「十八歳おめでとう」の一言も言っていない。
「昨日も午前中バイトでな。それから帰ってきたんだ」
壮司は特に気にした様子もなく話す。彼のことだ。アルバイトに忙殺されてすっかり自身の誕生日のことなど忘れているのだろう。
待ちぼうけを食らったこちらは少し腹立たしくもあるが、壮司のアルバイトは仕方ないのだ。
壮司がこの夏アルバイトに精を出していたのは、決してこづかい稼ぎではない。彼は大学の学費を自分で賄うつもりなのだ。夏期講習へ行き、勉強だけをしていた巴とは意味合いが異なる。
だからアルバイト優先になっても責めるべきではないとわかっているのだが、いまだ渡せないままポケットで眠っているプレゼントを思うと苦々しくなるのだ。
「昨日は何の日か知ってるか?」
いつまでも過ぎたことをあれこれと言うのは無駄なことだとわかっている。だが、壮司に問いただしてしまいそうな自分をどうにもできなかった。
夏休み中ずっとすれ違いの生活だったのだ。巴は朝から予備校へ行き、夜まで自習室で勉強してくる生活。壮司は多少歳をごまかして働いていたらしく、家に戻らない日も多々あった。
ろくに話もできない日々の中で誕生日の日こそはと思っていた。新学期が始まっても男子寮と女子寮に分けられてしまっては今までのようには気軽に話せない。せめて昨日くらいはと思っていたのだ。だから落胆も大きいのかもしれない。
「知ってる」
てっきり忘れているとばかり思っていた壮司は即座に答えを返してきた。
とまどいに言葉がでない内に、壮司がこちらに向き直った。左手をとられ、そのまま指に何か通される。
左手の薬指で光るそれは、ずっと壮司の手の中にあったのか、すっかり温まっていた。
「やっと十八だ」
壮司は感慨深く言って、穏やかに微笑む。十八歳、結婚できる年齢だった。
「今はその安物で我慢してくれ。そのうちちゃんとしたやつやるから」
銀色の細い指輪の中心で小さな赤い石が輝いている。ガーネット、巴の誕生石だった。壮司がそれを婚約指輪として見立てているのは明白で、視界がぼやけた。
一年後にこんな幸せを手にしているとは去年の今頃は想像すらしなかった。後から後から涙がこぼれてありがとうすら言えない。
「泣くな。昨日は遅くなって悪かったよ。昨日が給料日だったからすっかり遅くなっちまった」
壮司があわてて弁解する。どこまで彼は勘違いすれば気が済むのか。巴が泣いているのは昨日遅くなったことを責めてだと思っている。
「違う! こんな高価なものを買って学費の方は大丈夫なのか」
素直にうれしいと言えない性格がうらめしい。涙を乱暴に手のひらでぬぐう。
「安物だって言っただろ。学費はまぁ、それなりにな」
壮司が苦笑いする。まがりなりにも宝石がついた指輪を買ったのだ。かなり無理をしたに違いない。せめてお礼のひとつぐらい言わなければならなかった。
「……ありがとう、壮司」
どんなに言葉を重ねてもこのうれしさを余すところなく表現できないと思った。
ありがとうのたった一言で壮司は子供のようにうれしそうに笑う。もらったこちらより、彼の方がうれしそうなくらいだった。
「巴」
壮司が急にかしこまった声を出した。指輪がはまった手をそっとからめられる。
不意に壮司の瞳が七年前と重なった。あの寒い冬の日、壮司は思い詰めた顔をして言った。「俺と結婚して欲しい」と。
その張りつめた空気がふとほどけた。
「もう一度、俺の許婚になって欲しい」
真剣な面持ち、だが七年前のような苦汁の表情はなかった。
同じようなことを言っても、あのときとは違う。根底にある気持ちがまったく違う。
しがらみから解き放たれ、素直にこの言葉を言える。
「はい」
返事をしたとたんにまた涙があふれる。止まらない。
「お前本当に最近よく泣くよな」
「誰のせいだと思ってる」
震える声で反論し、壮司をにらみつける。壮司はすぐに相好を崩した。
「俺のせいか」
壮司は苦笑して大きな手で巴の涙をぬぐった。それから髪の中へ手を差し入れられる。くすぐったい。でも心地よい。
「笑ってくれ」
ずっと、そう続けられた気がした。
あふれだす幸せに笑う。かかえきれないほどの幸福に、心から壮司と笑いあった。
ふたりで生きる、そのためにずっと隣で笑っていよう。
もうあの厳しい冬の日ではない。夏が残る青い空が広がっていた。