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かざす花  作者: ななえ
第10章
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第6幕

「壮司ー、そろそろ起きろ」

 重いまぶたを上げ、声のした方へ顔を向けた。かっぽう着姿の巴が、襖に手をかけながら廊下に立っている。

 壮司は一瞬自分がどこにいるか見失った。

 ここは古賀家の自室だ。巴を下から見上げている壮司は布団の上にいる。今まで誰かに起こされたことなどなく、初めての構図だ。

 一体何なんだ、と動きの鈍い頭で考えながら、枕元の目覚まし時計を引きよせる。

 かすむ目を何度かまたたいて時間を見る。

 八時三十五分過ぎ。

「…………」

 壮司は時計を反対に見たのか心配した。だが、十二も六も三も九も正しい位置にある。

 つまりは時計に狂いはまったくない。寝坊したのだ。

「――っ!」

 声にならない叫びを上げ、壮司ははね起きた。通りで巴が起こしにくるはずだ。

 信じられなかった。休日でも平日でも、壮司の古賀家での起床時刻は一律六時半だ。どんなに疲れていても、寝過ごしたことはない。

「そうあわてるな。お祖母さまも『たまにはいいでしょう』と言ってたぞ」

 壮司の取り乱しっぷりを一通り観察してから、巴がおかしそうに口を開いた。

 あの風紀の鬼たる祖母が寛容な発言をしたのにも驚いたが、昨日の祖母の姿の方が強烈によみがえる。

 形容しがたい気分を飲み下し、戸口の巴を見た。

「まずは……一歩前進か?」

 初めて聞いた祖母の胸の内。その存在がぐっと近くなった。自分たちと同じように悲しみも苦しみもあるのだと知った。

 それだけで大きなものを得た。

「まだ先は長そうだけどな」

 楽観視できない、ということを言いつつも、巴の声は晴れやかだった。

 祖母を完全に納得させるのには長い時間がかかるだろう。しかし祖母はそこにいる。自分たちと同じ場所にいて、声も届く。わかってもらえるまで話せばいい。

 顔を洗うために立ち上がった壮司の寝巻の袖を、巴が引いた。

 何も説明がないまま、彼女に引っぱられ続ける。ぐいぐいと引かれて寝巻の合わせが肩からずり落ちそうだ。

 母屋へ渡り、連れていかれたのは巴の部屋だった。小さい頃はよく互いの部屋を行き来したが、ここ数年は入っていない。

 部屋の前の廊下で手を離される。そのまま巴は部屋へ急いで入っていき、まもなく出てきた。

 巴の手にはたくさんの薄い冊子が抱えられていた。

「今朝起きたら文机の上に置いてあったんだ」

 笑いながら言って、巴はその冊子を胸の前で広げて見せた。大学のパンフレットだった。しかも必ず医学部のある――。

「あの人もまったく素直じゃない」

 本当に笑ってしまう。こんなに多くのパンフレットは昨日今日で集めたものではないだろう。祖母も結局、人の子の親だ。口には出さずとも巴の医学部進学の話を気に留めてはいたのだ。

 そして大量のパンフレットを巴の部屋に置いていった意図はもう考えなくてもわかることだった。

 顔を見合わせて笑った。

「本当に素直じゃねえな」

 夜中にこそこそ巴の部屋に侵入して、文机の上にそっとパンフレットを置いていく祖母の姿を想像するとおかしくてならない。

 祖母は結局のところ感情表現がおそろしく下手なのだ。

「……あの人ももう若くないんだ」

 笑いが納まった穏やかな声でぽつりと巴がつぶやく。

 鳥の声がうららかな陽気の中で響いていた。

「早くひ孫の顔を見せてやらなければいけないと思う」

 ひ孫――。

 今まで何の根拠もなく、祖母は百も二百も生きて古賀家を支配していくのかと思っていた。しかしそうではないのだ。祖母も普通に歳をとる人間なのだ。老いもすれは、いずれ死にもする。

 まだ手放しに祖母を慕わしいとは言えない。だが、むやみに悲しませたいとは思わない。できることならよろこんで欲しいと思う。

「……じゃあ、がんばんねえとな」

 壮司は平静を装ったが、わずかに赤面するのを抑えられなかった。ひ孫を作るということはつまりそういうことだ。それに意気揚々と答えられるほど壮司は経験豊かではない。

「壮司、顔が赤いぞ」

 目ざとく巴がいたずらっぽく笑う。ここぞとばかりにからかう気満々の顔つきだ。

「うるせえ」

 照れ隠しにぶっきらぼうに言い放ち、明後日の方向を向く。その壮司の顔を、巴の両手がとらえる。そのまま巴は壮司の意志などお構いなしに顔を正面へ向かせた。首が不自然な音を鳴らす。

「生意気なこというのはどの口だ」

 巴が不敵に笑った。

「痛えよ、お前は」

 むりやり前を向かされたので、首が痛い。非難がましいことを口にしても、もうただのじゃれあいだ。巴もよくそれをわかっているらしく、壮司の頬を包んでいた手が頭へと移動する。頭を引き寄せられる。巴の望み通り、壮司は身をかがめた。

 満足そうに巴が笑う。その顔が近づく。背伸びをした彼女に応えるように、壮司ももう少し身をかがめる。

 唇が触れ合うか触れ合わないかというところで、ゴホンッという咳払いが甘い雰囲気を壊した。

 巴とふたり目を見開いて咳払いが聞こえた方へおそるおそる目をやる。ぎこちない動きで視線を向けた先には祖母が立っていた。

「朝食にいたしましょう」

 祖母はいつも通りの重々しい声で言い、優雅な足取りで去っていく。

 完璧なまでの無表情が返って気まずかった。「こんなところで接吻をするのはお止めなさい」とでも言ってくれた方がよかった。

 もちろん続きをする気にもならなかったので、バツの悪い空気を背負いながら身なりを整え、居間へ向かう。

 祖母はもちろん、巴の父も、家政婦の女性までもが居間にはそろっていた。

「遅くなってすみませんでした」

 時計は九時。古賀家の朝食はいつも七時なのでかなり遅い食事となってしまった。もちろん自分の寝坊のせいだとわかっているので、まず謝る。

「早く席におつきなさい」

 祖母は良いとも悪いとも言わず、ただそう言った。巴と並んで膳の前に座る。それが合図となり、「いただきます」と唱和した。

 昨日のことなど何もなかったかのごとく、粛々と食事は進んでいく。いつもの光景だ。

 朝食をあらかた片付けたところで、壮司は口を開いた。

「今日、学院の方へ帰ります」

 今日は水曜日、もう週の後半だ。これ以上欠席を重ねることはできない。

 すでに食べ終え、お茶をすすっていた祖母が顔を上げる。

「わかりました」

 その抑揚のない口調に昨日の残滓はまったく見つけることはできなかった。まるで昨日のことが夢のように思える。

 いや、夢で終わらせてはならない。それをとっかかりとしなくてはならない。

 互いに歩みよらなければならない。今まで目を背けていた祖母を、まっすぐ見すえた。

「また来ます」

 今までまた来るなどと約束したことはなかった。壮司にとってここしか帰る場所がないとわかっていても、積極的に近よりたいところではなかった。

 祖母は相変わらず眉ひとつ動かさなかった。厳しい顔で正面をにらむように見ていた。

「そうですか」

 先ほどよりもさらにそっけない返事をよこされる。ただ連絡事項を聞いたかのような味気ない答えだった。

 これくらいで落胆してはいられない。すべてがすぐに劇的に変化するはずがない。壮司は苦い気持ちを押しこみ、湯気が立つ湯呑みに手を伸ばした。

「……お帰りをお待ちしています」

 湯飲みをつかもうとしていた手が止まる。

 何でもないようにつけ加えられた言葉に、とっさに反応ができない。

 お世辞など言わない祖母がお帰りをお待ちしています、と今言ったのだ。聞き間違えではない。

 一歩前進。大きな一歩だ。

「ありがとうございます」

 祖母は依然として固い顔をしていた。しかしその中にも照れ隠しやら、あなたがた若い人にはまだ負けませんよ、という気概が感じられてそこはかとなくおかしかった。

 あの人ももう若くないと巴は言ったが、まだまだ心配なさそうだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「帰ってこない」

 談話室のテーブルに頬をつけ、芙美花はつぶやいた。

 もう水曜日の夕方だ。巴と壮司が出ていってから五日目になる。どう考えてもふたりの仲を認めてもらえなくてこじれているのだろう。

 おととい、由貴也から壮司と巴が駆け落ちしたと聞いたときには心底驚いた。壮司も巴も堅実な考え方をする。その彼らが駆け落ちとはそれだけ切羽詰まった状況にあったのだろう。

 しかし芙美花は不謹慎だが本当に愛し合ってるんだなぁ、としみじみ感動してしまった。

 ふたりがまとまるまでには本当にたくさんの紆余曲折があった。

 生徒会で一緒になったことから始まり、まず陸上記録会があった。剣道部の試合も見に行ったし、秋祭りにも行った。

 秋が深まってからはつらい季節だった。重要な試合を控えた健一郎との仲もこじれ、ふとしたことから壮司の想いが巴ではなく、自分に向いていることを知った。壮司と巴が許婚であり、彼女の体が子供を生むには適さないことも聞いてしまった。

 膠着状態のまま冬を迎え、巴が下級生に危害を加えられる事件が起こった。それが原因で壮司が暴力沙汰を起こす事態にまで発展し、結構な大事になった。

 冬休みが明けてから現れた由貴也には相当やきもきさせられた。巴をはさみ、由貴也と壮司の間に何があったかは知らない。けれど壮司は巴が転校するという土壇場になってやっと動いた。

 情はあっても恋ではない許婚だった巴と壮司は今や立派な一組の恋人同士だ。幸せそうに笑っているのだ。それでいいじゃない、と芙美花は思う。

 家の事情なんて二の次でいい。

「芙美花?」

 呼びかけられ顔を上げる。すぐそばに制服姿の健一郎が立っていた。

「こんなとこで何やってんだよ?」

 怪訝そうな健一郎を見上げながら目をまたたかせる。健一郎は見るからに部活帰りだった。そういえばまだ夕方だとばかり思っていたのに、辺りも暗くなっている。

「ウソ!? もうそんな時間?」

 授業を終えて寮へ帰ってきてから、壮司と巴が帰ってくるのを談話室で待っていた。そう時間は経っていないと思っていたのに、時計は七時半を指している。どおりで部活を終えた健一郎が帰ってくるはずだ。

「巴と不動くん帰ってこないなぁ、って思ってたらこんな時間になっちゃったよ」

 どこまでもまぬけな自分が少し恥ずかしい。軽い調子で照れ笑いしながら、健一郎と向かい合う。

「……ねぇ、健さん」

 声を出すと笑みが自然と消えた。

 待っていることは不安になる。悪い可能性ばかりが浮かぶ。いい方へいい方へ考えようとしても、帰ってこないという事実が足をひっぱる。

「ふたりとも帰ってくるよね……?」

 冗談めかして言おうとしても、ついつい声が沈む。今の自分はさぞかし情けない顔をしているだろう。

 健一郎は芙美花の心配を退けるように、カラリと笑った。

「帰ってくるよ。だってあいつらは俺らのこと捨ててって平気でいられるわけねえもん」

 芙美花は呆気にとられた。聞きようによればものすごいうぬぼれだが、芙美花は素直にうなずけた。

「そだね。きっと帰ってくるね」

 吹きだすように笑ってしまった。穏やかな気持ちが胸を満たす。

 生徒会の任期が残っているどうこうの問題ではない。彼らが引き返せないような道を選ぼうとしたとき、自分たちの顔が一瞬でも浮かんだらいいと思った。そうして正しい道へ戻ることを望んでくれればいい。

 彼らが帰ってきてほっとできる場所がここであればいい。そう思えば、胸が温かくなって笑った。

 健一郎と笑いあったとき、遠くの足音を耳がとらえた。

 空耳かと思った。ずっと待っていたのだ。だから頭の中で都合のいい音を作ってしまったのかと思った。

 しかしふたつの足音は確実に近づいてくる。

「……っ!!」

 胸がつまる。健一郎も音に気づいて注意深く耳を澄ましていた。

 芙美花は走りだす。足がもつれそうになりながら、階段まで走った。

 階段を上ってくるふたりの姿が目に飛びこんでくる。たまらずに叫んだ。

「おかえりぃ!!」

 息がきれている。泣きそうだ。

 ふたりは芙美花の剣幕に驚いて顔を見合わせていた。健一郎が遅れて近づいてくる。

 ふたりはゆっくりとこちらへ顔を向けた。笑って、そして言った。

「ただいま」

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