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かざす花  作者: ななえ
第10章
53/68

第5幕

 月曜日の深夜に地元の駅まで着いた。バスと電車を乗り継ぎ、疲労困憊という状況だった。

 巴は重い腕を上げて切符を入れ、改札を通る。人気のない駅に改札機の音が空々しく響く。今の静けさから昼間の喧噪を想像することはできなかった。

 ともすればさがりそうになる顔を上げる。そのとき目に入ったのは駅の皓々とした明かりの下で目に染みるほどの黒だった。

 僧衣をまとった父がそこにいた。

「そろそろ帰ってくる頃と待っていた」

 家にはバスに乗る前に連絡してあった。だが、あの父が待っているとは思わなかった。壮司とふたり足を止める。父を穴が空くほど見つめる。

 不意に壮司が荷物を下に降ろした。

 父と身長が変わらない壮司は目の位置が同じになる。疲れなど微塵も感じさせないまっすぐな視線を父に送り、壮司はそのまま深々と頭を下げた。

「ご迷惑をおかけしました」

 壮司の声だけが駅の構内に染み渡る。しん、と夜更けの駅に静寂が冴えた。

「……顔を上げなさい」

 父は相変わらず淡々と壮司の謝罪を受けとめる。壮司も執拗に謝り続けることはせずに体を起こした。

「とにかく帰ってからにしよう」

 落ち着いた声でそれだけ言うと、父は背を向けて歩き始める。その後について自分たちも歩いた。

 父がこんなに話すところを初めて聞いたかもしれない。祖母の傀儡とばかり思っていた父は意外にも一般的な行動をとる“大人”だった。

 駅前にタクシーが待っていた。もう駅から家までの最終バスはとっくに出ている。三人でタクシーに乗りこみ、家に戻った。

 当然待っていると思っていた祖母の姿はなかった。ここぞとばかりに無言で自分たちを責め、威圧すると思っていた。

 あなた方はしょせん子供です。今、祖母は堂々とそう言い、自分と壮司を打ちのめすことができる。祖母がこの絶好の時機を逃したのが意外すぎた。

 代わりに待っていたのは、長年この家で働いている家政婦だった。

「まぁまぁ、よくお帰りに……」

 今は真夜中。もちろん通いである彼女がいる時間ではない。

 それにも関わらず、ここで帰りを待っていてくれたのだ。安堵のあまり、うっすら涙を浮かべ、巴と壮司の手をそれぞれつかんでいた。

「……ご心配をおかけしてすみませんでした」

 面映ゆさを感じながら、巴は小声で詫びた。

「お疲れになったでしょう? ただいまお風呂を沸かしますからね」

 家政婦は涙をぬぐい、すぐに忙しげに動き始める。

 細やかな心配りで母親並みの愛情を注いでくれた彼女の温かい出迎えは、心に迫るものがあった。

「お祖母さまは……?」

 せわしく浴室に行こうとするその背に声をかける。振り向いたその顔はくもっていた。

「大奥さまはおふたりが出ていってしまってからすっかり参っておしまいになって……」

「参る? あの人が?」

 巴は反射的に聞き返していた。考えられなかった。

 自分たちの反抗を押しこめ、泰然とそこにあり続ける。それが祖母のあるべき姿だった。“参る”祖母など祖母ではない。

 かたわらの壮司も驚きを隠せない顔をしていた。

「ええ。明日の朝にでもお顔を見せて差し上げてくださいまし。ご安心なさいますよ」

 家政婦は当然のように祖母が弱っていることを受け入れている。

 なめらかな口調には自分たちと祖母の関係をとりなそうとする気負いは見えない。祖母は孫を心配すべきとという世間の常識に追従しているわけでもなさそうだった。

 では本当に、祖母は自分たちを案じていたというのか。この状況を作った張本人だというのに。

「……あの人はお前たちが思っているほど強い人ではないのだよ」

 混乱した巴をなだめるように、背後の父が言葉を発した。

「私たちの関係をあんなにも否定しておきながら、弱い人で済ますおつもりですか」

 自分でも驚くほど険しい声が出た。

 父を責めるのは見当違いだとわかっている。しかし言わずにはいられなかった。

「巴」

 壮司が咎めるような声を向けた。それでも自分は壮司のように落ちついてはいられなかった。

 祖母が自分たちのように喜怒哀楽のある人間なはずがない。祖母には血も涙もない冷徹さを持っていてもらわねば困るのだ。

 その前提が崩れてしまったら、自分たちは誰と戦っていけばいいのだろう。弱い人だというのを免罪符として、今までのことを許さなければいけないのだろうか。

 誰に責められても、巴はそこまで広い心を持てなかった。

「落ち着きなさい。少し話をしよう」

 一方的な言葉を押しつけ、父は居間へ向かう。

 壮司に「行こう」とうながされ、くすぶる気持ちを抑えながら居間へと足を向けた。

 居間はもうすでに温かかった。家政婦がすばやく人数分の座布団を置いてお茶を入れる。彼女はよく分をわきまえている。三つの湯飲みに茶を満たすと、襖を閉めて退室した。

 ストーブの上でやかんが静かに蒸気を吐き出している。父と向き合って座り、巴は姿勢を正した。

 その拍子にちゃらりとポケットの中で何かが鳴る。その音で何を入れていたか思い出した。金属の冷たさを感じながらそれをとりだす。

「お父さま、これをお返しします」

 握っていた手を開き、巴は机の上へそれを置いた。照明の光を受け光っていたのは、おとといの夜に父から託された蔵の鍵だった。

 父は無言でそれを着物のたもとにしまいこむ。その一連の動作に、父らしからぬ丁寧さが含まれていて驚いた。

 父が持つ蔵の合鍵。玄関ならまだしも、なぜめったに使わない蔵のスペアキーを作ったのか。それに何の変哲もない鍵を大事にする父の意図がわからなかった。

「なぜ、蔵の鍵をお父さまが持っていらっしゃるのですか?」

 今の状況にはまったく関係なさそうな疑問だが、巴はなぜだか無関係とは思えなかった。そこに父の深部へ到達する手がかりがあるように思えた。

 父は巴の率直な質問にかすかに目を伏せた。いつもの能面のような表情とは異なっていた。

「……私も昔お前たちと同じようなことをした」

「同じようなことって、まさか駆け落ち……ですか?」

 おそるおそるといった様子で壮司が尋ねる。父は重々しくうなずいた。

「駆け落ちって何故です? だってお父さまとお母さまは許婚とかそういう関係だったのではないのですか?」

 巴は今の今まで、父と母も親同士が交わした約束だと思っていた。父たちの頃は今よりもずっとそういうことがまかり通る時代だ。

「私と妻は大学の同級だった」

 父は言外に巴の考えを否定した。

「妻は体の弱い人だった。だから私たちの結婚は反対された」

 父はいつものように抑揚なく語ったが、過去を懐かしみ、同時に痛ましく思うような、そんな響きがあった。

「昔も今もあの人のやり方は変わらなくてね。私もあの蔵に閉じこめられた。それで妻はこの合鍵を作った」

 そしてふたりは手をとりあって駆け落ちした――。

 生まれてからずっと激情とは無縁だと思っていた父に、自分と同じような歴史があることに、少なからず驚いた。加えてたおやかなだけだとばかり思っていた母に、祖母の目を盗んで蔵の合鍵を作ってしまうだけの行動力があるのにも驚かされた。

「ですが、お父さまとお母さまは結婚を許された。お祖母さまは折れたのですか?」

 祖母が折れる。生まれてから一度も人に屈したことのないという顔をしている祖母が息子に折れたとは信じられなかった。しかし父と母は事実夫婦だ。娘である巴までいる。現状はそう指し示していた。

 父は何も言わなかった。ただ黙って座卓の木目を見ていた。

「壮司くん」

 少しの間をとり、父は壮司に視線を向けた。

「巴と結婚することをどうか軽く考えないで欲しい」

 父の口調には巴や壮司が持ちえない重さがあった。

「子どもが生めない。それはお前たちが考えるよりもはるかに大変なことだ」

 父の言葉には今までの苦渋が裏づけされていた。

 父は妻を亡くしている。産後の肥立ちが悪かったとのことだが、母には前々から相当の心労がかさんでいたのだろう。やっと生まれた子どもは後を継げない女児で、母はたちまち気力を失ってしまったのだ。

 父は巴もそうならないかを危惧しているのだ。

「……俺は男です」

 長い沈黙の後、壮司はそう切り出した。

「巴の苦しみをすべて理解することはきっとできないと思います」

 男と女の違い。それは例え壮司が何者であっても乗り越えられない壁だ。

「ですが寄り添い、支えていきたいです。同じ視点でものを見る者でありたいです」

 一語一句、噛みしめるように壮司は言った。自身に言い聞かせるような口調だった。

 父は長い間、何も言わなかった。巴も何も言えなかった。

 何の言葉もこの場にはふさわしくない気がした。

「……もう休みなさい」

 夜の静寂と同化するような落ちついた声音で父は言った。

「あの人には明日同じことを言うといい」

 立ち上がり、退出する直前に父はぽつりと言った。口元にかすかな笑みが浮かんでいた。父の笑みなど初めて見た。驚いて思わず壮司の顔を見る。壮司も同様に目を丸くしていた。

 父は壮司の言葉をどう思ったのだろう。しょせん現実を知らない子供の甘言と思い、嘲りの笑みを浮かべたのだろうか、それとも――。

「風呂に入って寝るか」

 壮司が大きく伸びをする。確かに疲れている。これ以上あれこれ考えても、思考がまとまらなそうだ。

「一緒に入るか?」

 最近、壮司にやられっぱなしだ。一矢報いたくて、揶揄めいた笑みときわどい冗談を壮司に向けた。ずっと気を張っていたので、軽いやりとりをしたかった。

 しかし壮司は予想に反し、少し考えてこんでから「……それもいいな」と言ってきた。

 巴は一瞬にして思考が止まった。みるみるうちに顔に熱が集まってくる。

 今回もまた、巴は負けたのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 こんなに小さな人だったかと思う。

 寝間着の単衣から伸びる腕は枯れ木のようだった。毛先で結わえられた銀色の髪はパサついていたし、何よりそのうつろな瞳が、平生と決定的に違った。

 壮司は愕然とした。自分たちが恐れていたものは一体何だったのだろう。今、戸口に立ち、自分が見下ろしている祖母はあまりに弱々しい。どこにでもいる老婆だ。

 別人ではないかと疑った。祖母がこんなであるはずがない。祖母は一分たりとも崩れなかった。隙がなかった。

 しかし、壮司の前で布団の上で体を起こしている人物は隙だらけだった。丸腰で無防備だった。

 窓の外から聞こえる鳥のさえずりで、壮司は衝撃から立ち直る。そっと畳に座した。隣の巴もそれにならった。

「……大変、迷惑をかけました」

 昨夜、巴の父にしたようにまず謝った。自分は悪くないと真っ向から対立することは一番してはならないことだ。

 動揺した心を立て直し、まっすぐ前を向いた。祖母は視線を向けることさえためらわれるような生気のなさだった。

 長い、長い沈黙が落ちた。朝の弱い陽がうつむいている祖母を照らしている。巴と二人、並んで座りながら、祖母の言葉を待った。

 祖母は昨日、家政婦の言った通り『参って』いた。自分たちの家出は祖母に思ったよりはるかにダメージを与えたのだ。

 だが、それを素直に喜ぶ気にはもちろんなれない。とまどいの方が先に立つ。祖母が自分たちのように悲しんだり、心を乱したりするとは考えたことなかった。

 壮司は迷っていた。この状態の祖母に対して話を切り出すことは、弱っているところにつけこむようだ。

 仮に祖母がいつもの鉄面皮で万全の体勢だったなら壮司は正直厳しいと思う。だが、今の祖母に巴との仲を認めてもらったとしてもちっともうれしくない。

 出直すべきなのか、と思った。

「……もう、帰ってこられないかと思いました」

 ぽつりとしわがれた声が部屋に落ちる。

 そう何回も祖母の部屋には入ったことはない。その少ない機会に見た祖母の部屋はいつだって整然としていた。ほこりひとつなく、生活感を排除していた。

 今はただのさみしい老女の部屋だ。

「あなたがたもあの子のようにもう帰ってこないかと思いました」

 “あの子”

 それはおそらく壮司の母のことだ。

 巴の父は駆け落ちをしたが、最終的に帰ってきた。しかし、壮司の母は帰ってこなかった。数年後帰ってきたときには心身ともにボロボロになっていた。

 祖母はそのことを考えているのだ。

「私たちは叔母さまとは違います」

 祖母を諭すように巴が言った。

 そう。違うのだ。自分たちは破滅の道へは進まない。意地でもふたりで逃げも隠れもせずに生きていく。

 そのためには目の前の祖母を乗り越えなくてはいけない。その生気のない姿にとまどってはいけない。きれいなままで何かを得ることはできない。

 壮司の心はぐらついた。

 絶好のチャンスなのだ。隙だらけの祖母をうまく言いくるめ、巴とのことを認めさせる。

 多分今、それをすることは造作ないだろう。

 壮司は口を開く。祖母を攻撃するために、腹に力を入れる。

 言葉が喉まで来たが、勢いをなくして急激に失速した。

 言えなかった。見ていられない、今の祖母の姿は。

 こんなにも打ちのめされている姿は普通の孫を案ずる祖母そのもので――今までのはるか高みから自分たちを俯瞰していた祖母像が崩れていく。

 今や祖母と自分たちは同じ位置にあった。しようと思えば手を重ね、目を合わせられた。

 今は自分も混乱している。乱れた感情を立て直すのに、少しの時間が欲しい。出直すべきかと思い、ふたたび口を開く。

 話すならば正々堂々と話したかった。

 しかしその前に祖母の口から言葉が発せられた。

「……私はふたりの娘を殺しました」

 窓の外へ視線を向けながら、祖母は淡々と言葉を紡ぐ。意図的に感情を抑えた声音だった。壮司にさえそれがわかる。

「あなたがたのお母さまを私は殺しました」

 祖母の『殺した』という言葉が直接的な意味を持つものではないとわかっている。

 しかし単なる比喩表現だというのにはあまりに重かった。

 朝日を受けながら、祖母が鈍い動きでこちらに顔を向けた。

「壮司さん、あなたのお父さまは亡くなっています」

 父が死んでいる――。

 いきなり明かされた真実に壮司はどうも反応ができない。

 母を捨てて行方をくらましたという父親ならばしぶとく生きていると思っていた。性根が正しくない者ほど生への執念はすさまじいものだ。

 祖母ならば父の居所をひそかに知っているかもしれないと常々思っていたが、まさか死とは。

 巴が動揺のまっただ中にある自分を心配そうに見ていた。

「あの子があなたを生んでしばらく経った頃でした。雪の日にスリップした車に巻き込まれ、そのまま――」

 帰らぬ人になりました、と祖母は色がない唇でつぶやいた。

「あの子は夫の若すぎる死に衝撃を受け、ボロボロになって帰ってきました」

 壮司が祖母から言い聞かされていた話が崩れていく。あなたの父親はろくでもない人でした。そう言って祖母は壮司の人格までも否定した。何度も何度も執拗なまでにそう言い聞かされた。

 それが今、覆されている。

「私はあの子をそんなふうにしたあの男が憎かった。彼に非はないと知りながら、長年もの言わぬ死者を貶めました。そうする以外にこの行き場のない怒りを治めることができなかった」

 消えゆく祖母の声が涙に変わる。顔を覆ったくたびれた手から嗚咽がもれた。熱い涙の雫が掛け布団へ落ちていく。

「ごめんなさい、壮司さん。ごめんなさい……」

 体を折り、布団につっぷし、祖母は体を震わせて泣いた。むせび泣く声が、孤独な獣の咆哮のようだった。

 事実の上に塗り固められた虚構がはがれていく。

 何と言っていいかわからない。

 壮司はありもしない父の虚像を押しつけられ、受けるいわれのない誹謗中傷を受けていたのだ。

 父は何も後ろ指さされることはやっていなかった。

 怒ってもいいはずだ。責めてもいいはずだ。

 しかし、どんな言葉も形にならなかった。祖母を容易に許すことはできないと思いつつも、責めることもできなかった。

 このまま悲しみに沈むと思っていた祖母は大きく息を吸い、体を立て直した。

 力がこもった瞳が今度は巴へ向いた。

「私はふたりの娘を殺しました」

 数多の感情を飲みこみ、暗く輝く祖母の瞳が巴をとらえた。

「巴さん、あなたのお母さまも私が追い詰めました。女児を生んだことを責めました。今度は……今度は同じ過ちを犯してはならないとあなたを遠ざけなければならないと思いました」

 言葉を向けられた巴も、責めるようななじるような、けれど泣きだしそうな顔をしていた。

 複雑な感情がせめぎあう。

「私はもう誰も亡くしたくはありません……」

 切実な心の叫びだった。冷たい仮面の下に祖母はどれだけの感情を隠してきたのか。

 不器用な人だ。悪役となりきって、壮司と巴を引き離そうとした。巴を遠くへやってしまおうとした。

 おそろしく不器用なやり方だった。

「どうしても私には壮司さんの姿があの男に重なって見えるのです。歳月を経るごとに似通ってくるその顔が死神のように見えてならないのです」

 堰をきったように、祖母の感情が流れ込んでくる。何十年にもわたって築き上げてきた祖母の心の壁は完全に決壊したのだ。

「違います、お祖母さま」

 凛とした声が、祖母の独白を破った。

「壮司は死神などではありません」

 ひどく真剣な瞳で巴は祖母を見ていた。一時の感情に揺さ振られたと結論づけるにはあまりにもまっすぐな視線だった。

「いいえ。恋や愛に基づいた言葉にどれほどの信用がありましょうか。ただの陳腐な感情です」

 幾多もの傷が祖母の心を歪ませている。愛情を拒む。布団の上で固く握られた手が震えていた。

「確かに陳腐です」

 巴は祖母の言葉をまるごと認め、断じた。だが、祖母の言葉に負けたのではない強さがあった。

「その陳腐を貫き続けて真実にしてみせます」

 余韻すら残さずに、巴は一片のためらいも見せずに言い切ってみせた。

「そんなこと……っ」

 祖母は喉の奥を鳴らして笑った。そんなこと信じられないと意固地になっている笑い方だった。

「ならばあなたが見定めてください。これから先の俺たちを」

 巴から言葉を引きとり、壮司は続けた。

 今すぐにすべてがよい方へ変わるなど無理な話だ。祖母の心は固く閉ざされている。

 祖母の信用に足るだけの真実を作り上げたいと思った。

「お祖母さま……」

 巴の手がそっと祖母の手へ重ねられる。

「大丈夫です。あなたがお思いになっているようなことはおこりません」

 悲しみに足をすくませた祖母へ、巴は静かに語りかけていた。

 夫の後を追って、事故死した母。重圧に負け、死した巴の母。自分たちはそうはならない。

 祖母は糸が切れたように、体を倒して巴の手へと額をつけた。

 若く、しなやかな巴の手。自分たちはその手でなんでもできる。可能性に満ちている。

 祖母は祈りを捧げているようだった。巴の手を抱き、まるで一心に何かを願っているかのようだった。また背中を丸める姿は罪の懺悔にも見えた。

 長年の涙を出し切るように、祖母は全身で泣いていた。慟哭の激しさに、苦しみをすべて吐き出しているかのようだった。

 壮司はこの景色を、ただ目に焼きつけていた。

 しわの分だけ苦悩を重ねた祖母の手と、まだ何も知らないまっさらな巴の手が重なり合うっている。そのさまはまさに雪解けの光景のようだった。

 祖母の祈りが願いが懺悔が天へと届き、降り注ぐものが今度こそ優しさであればいいと思った。

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