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かざす花  作者: ななえ
第10章
52/68

第4幕

 壮司が入浴を済ませて部屋に戻ってくると、巴はもう眠っていた。

 枕元で温かな光を放つ行灯が巴の寝顔を照らしている。その表情は起きているときよりやわらかくて隙だらけだった。

 壮司は脱力する。こっちの気も知らないでと思う一方、安心もした。下手にお互い深夜まで起きているよりはずっといい。

 足音を立てないように気をつけながら巴の枕元に近よる。布団の側にそっと腰をおろした。

 いつまでもこのままではいけない。勢いだけで逃げてきたが、それで上手くいくほど世の中甘くない。壮司のバイトで稼いだ数万という額はもう底をつきかけていた。

 壮司は思い悩む。巴を連れだし、逃げている今の行為は自分のエゴを押しつけているだけでないのか、と。役目を捨てた自分を正当化したいがための行動に感じた。

 壮司のすべき行動は頑なな祖母に背を向けることではなく巴を守り、自らの行動でまわりに認めさせることではなかったのだろうか。

 これではただだだをこねている子供と大差ない。

 自分の無力さが歯がゆかった。高校生では職もない。住むところもない。病気になったら? 何かあったら? それにまだ結婚すらできない。

 人並みに暮らしていくこともできなくて、自分についてきてくれと言う資格はない。嫌というほど己の非力さを思い知らされた。

 壮司は今まで突き進むことしか知らなかった。突き進んで殻を破ることばかりを考えていた。

 しかし、思う。待つだけの辛抱強さも必要なのではないか。時が満ちるまで耐え忍ぶだけの粘り強さも重要なのではないか。一日やそこらですべてを変えようとするのは、かえって歪みを生じさせるのではないか。

 今夜のことだって、焦燥にかられた結果だったのかもしれない。思い通りにいかない事態に焦りやいらだちがなかったと言えば嘘になる。その壮司の感情を察して、巴はあんな段階すべてをすっとばしたような行動に出たのかもしれない。既成事実があれば、お祖母さまも認めてくれるかもしれない、などと。

 蜜色の淡い光に照らされた巴の寝顔を見下ろした。頬に残る涙の跡は事を焦った結果なのだ。

 巴の頭をひとつなで、枕元の行灯の光を消す。極力音をたてないように立ち上がる。ついたてを置いてから自らの布団へ戻った。

 暗がりの中、手探りで自分の方の行灯をつけた。障子紙をすかした柔和な光をぼんやりと眺める。

 壮司はもうわかっていた。こうして逃げたその先が安住の地ではないことに、もう気づいていた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 朝食の給仕をする女将の顔は吹雪が止んだ朝にふさわしくさわやかだった。

 しかし、その晴れやかな笑顔はときどきうろんげな表情に変わり、部屋の中をじっとりと見ていた。

 おそらく昨夜の痕跡を探しているのだろうが、いくら探してもそれらしいものは見当たるはずもない。

 巴は壮司に誘いをかけたが、誘いきれずに撃沈したのだ。無様以外の何物でもない。

 胸の中は羞恥心にあふれていたが、表面上はすました顔で味噌汁をすすってみせた。

 女将の心を盛大に乱したことはわかっていたので、机の上にわずかな心づけを置いて旅館を出た。

 外ではきめ細かい新雪が積もり、冬の陽にキラキラと輝いていた。すがすがしく静謐な空気に満ちていた。

 壮司はどこへ行くとは言わなかった。巴もどこへ行くつもりだとは聞かなかった。ただあてもなく歩いているだけなのかもしれない。

 駅まで歩き、電車に乗る。昨日乗ってきた路線を逆にたどる。

 月曜の朝だというのに、車内には巴と壮司しかいなかった。窓形に切り取られた陽が車内に差し、線路を走る規則的な音が心地よいリズムを刻む。

 列車が進むにつれて、家々の屋根に積もった雪が溶けて、屋根本来の色をのぞかせる。魔法がとけていくようなその様子を見ながら、学校をさぼってしまったな、とのんきに思った。

 立志院には何と連絡したのだろうか。まさか駆け落ちしましたとは言えない。芙美花と健一郎は心配しているだろうか。

 そこまでつらつらと考えたとき、唐突に笑いがこみ上げてきた。すべてを捨ててきたはずなのに、置いてきたものを気にしている。滑稽な自分に笑えた。

 突然、視界がさっと開けた。顔を上げると、車窓に海が広がっていた。宝石の粒をばらまいたように水面が輝いている。

「……下りるか」

 壮司が思いついたように言った。巴に異論はなかった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 海風に髪がなびく。風音とともに波の音が耳に入ってきた。昨日とはうって変わって穏やかな日で、波も低かった。

「海を実際に見るのは初めてだ」

 髪を押さえながら首だけ動かして壮司に薄く笑いかける。壮司も少し目を細めたが、無理をして表情を作っているのがわかっていた。

 波が寄せては返す砂浜を歩いた。雪は残っていなかったが、湿っていた。歩くたびに靴底がわずかに沈む。

 すぐ近くで自分ではない靴が砂を踏む音がした。次の瞬間、壮司に後ろから抱きすくめられる。予想していたので、あまり驚かなかった。

「巴」

「うん」

 壮司が何を言いたいかわかっていた。思ったより落ち着いて壮司の話が聞けそうだった。

「……俺、あの家に帰ろうと思う」

 固い声音で壮司はそう言った。

「今、逃げたらいけねえんだ」

 しぼりだすような声に今、壮司が嵐のような激情の中で踏張っているのがわかった。

「俺はまだ子供だ。無力で何もできない。お前を連れてずっと逃げ続けることなんてできない」

 これが最後のラインだ。今夜も家に帰らなければ、さすがの祖母でも捜索願いを出すだろう。

 このまま家出人として、社会のことわりに反して生きていくことなどできない。そんなことをしたら、自分たちはすり減ってぼろぼろになってしまうだろう。

「お前についてきてくれって言っときながら、ざまあねえな。ごめん、巴。ごめんな……」

 壮司があまりにつらそうに苦しそうに謝るので、胸がしめつけられた。

 この旅の終わりを巴は少し前から感じていた。切なくて寂しくなるような感慨が胸をついた。

 時間が経つにつれて、雪が溶けるように、夢が覚めるように、現実が明確な形を持って表れてくる。その重みが首をもたげた。

 現実へ帰らなくてはならない。壮司も自分も、まだすべてを捨てきるには未練が多すぎた。そして幼すぎた。

「……家に帰ったところで、私がお前を嫌いになるわけではないし、お前が私を嫌いになるわけではない」

 巴は努めて穏やかに言った。

「帰ろう、壮司」

 少しだけ春の気配を含んだ風が頬をなでた。

 手を広げて待ってる現実は決して生易しくはないだろう。それでも帰らなくてはならない。少しの空白の時間を経て、元ある場所へと帰らなくてはならない。

 日陰の自由より、陽の下にあることを自分たちは選ぶ。

「何年かかっても説得してみせるから」

 待っててくれ、と壮司は決意に満ちた声で言った。今にもばらばらになってしまうものを抱くように、巴を抱く壮司の腕の力が強くなる。背中に密着する彼の体が温かい。

「嫌だ。待っててなどやらない」

 意図的に意地悪な返事をする。予想だにしなかった言葉に驚いている壮司の腕から抜け出し、壮司の方へ向き直った。

 両手を伸ばして壮司の頬を包んだ。その表情はしっかりとした意志を持ちながらも、連日の疲労が色濃く表れていた。

「ただ待ってるなんて嫌だ。お前ひとりで抱えこんだりするな。私は何のためにいる」

 どこか驚いている壮司の顔を引きよせる。互いの額をつけた。

「ふたりで戦おう」

 ひとりではなく、ふたりで。それはなによりの財産のように思えた。

「……ああ」

 壮司は何か大切なものに突き当たったように笑った。

「帰るか」

 日常へ帰る。しかし今までとまったく同じ日々に戻るわけではない。

 この短い旅は決して無駄ではなかったと思いたい。自分たちはかけがえのないたくさんのものを手に入れた。

 それを糧に現実に立ち向かっていく。

 冬とは違う、若い力にあふれた春の日差しを受けながら、自分たちは海岸を後にした。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 土曜日、行ってくると決意に満ちた声で言って寮を出ていったふたりは、月曜日になっても帰ってこなかった。

 巴にも壮司にも携帯はつながらない。完全な音信不通状態になっていた。

 これはもう、何かあったとしか思えない。芙美花は不安に気を揉んでいた。

 芙美花はあの“お祖母さま”を数えるほどしか見ていないが、容易にいかざる人物であるのは見てとれる。しかし、説得が長引いているとしても、連絡のひとつもとれないというのは解せなかった。

 今日のふたりの欠席理由は家庭の事情となっているらしい。彼らの担任から聞いた話だった。

「家庭の事情っていえばまぁ家庭の事情だよな」

 机の向かい側で、健一郎がプリントをまとめながら言った。

 今、自分たちは壮司と巴がいなくて、役員が半分になってしまった生徒会室で仕事を行っていた。

 健一郎とふたりきりというシチュエーションはよくあるはずなのに、今はなんだか物足りない。いるべきところにいるべき人がいないからだろうか。部屋の四隅に静けさが固まっているように思えた。

「…………」

 芙美花は作業の手を止めた後、はぁっとため息をついた。

 この一週間、巴は幸せそうだった。彼女自身、あまり感情を表に出す方ではないが、壮司と目が合うと少しだけ微笑んで――その表情が芙美花の記憶に印象深く残っている。

 誰も彼らを邪魔しないであげて欲しかった。やっと得た幸せなのだ。

 芙美花はなんだかそう思うといてもたってもいられなくなった。

「聞きに行こう!」

 鼻息荒く言って勢いよく立ち上がる。芙美花はとにかく彼らが帰ってこない本当の理由を知りたかった。知ったところで何もできないかもしれないが、このまま待ってるよりはマシだった。

「聞くってどこにだよ! おい、芙美花!?」

 芙美花の突然の行動にうろたえる健一郎を尻目に、芙美花は大股で生徒会室から出る。上履きを重々しく鳴らしながら行った先はグラウンドだった。

 広大なグラウンドでは、サッカー部、ハンドボール部、そして陸上部が練習を行っていた。芙美花は夕暮れの中、陸上部が練習をやっている方へ目を向ける。すぐに直線のレースを走る、お目当ての人物を見つけた。

 弾丸のように百メートルを走っているのは由貴也だった。極力無駄がはぶかれたフォームは美しく、しばらく見とれてしまった。しなやかな獣が草原を駆けているようだった。

 少し前、めっきり姿を見せなくなった由貴也のことを巴に聞いた。その答えは「陸上部に入ったから忙しいんだろう」だった。

 芙美花は由貴也のことを多く知っているわけではないが、彼と部活というのは異色の組み合わせに思えた。

 巴の話を聞く限り、由貴也は真性のめんどくさがりで、実物もまったくその通りだった。その彼が部活とは、と驚いたが、こうして実際の姿を見たら納得してしまった。走る姿には陸上に対する真摯な思いが感じられた。

 由貴也が走り終えると同時に、ホイッスルの音がグラウンドに響き渡る。たちまち張りつめた空気が解け、部員たちの表情がやわらかくなった。休憩のようだった。

 ちょうどタオルで汗をぬぐっている由貴也がこちらを見た。目が合うと、芙美花は大きく手を振る。

 由貴也はしばらく焦点わ芙美花に合わせていたが、何も見なかったように顔を背けた。あざやかすぎる無視だ。

「由貴也くん!」

 脱力しそうになるのをこらえて、大声で名前を呼んだ。由貴也に駆けよる。遅れて健一郎がついてきた。

「……なんか用ですか」

 由貴也は逃げはしなかったが、歓迎とは程遠い様子だった。淡々とした口調にわずかな険がある。

「あの、えっと、巴と不動くんのこと何か知ってるかと思って……」

 今さらながら、由貴也に彼らのことを尋ねるのは恐ろしく残酷なことに思えてきた。その気持ちがはっきりとしない口調に表れる。

「何で俺?」

 相変わらずの由貴也だ。温度がないがゆえにかえって冷たい瞳が芙美花をたじろがせる。

「み、身内だから」

 もごもごと答える。由貴也は「ふーん」と言ってスポーツドリンクをがぶ飲みした。繊細な顔立ちに反して、彼の行動はがさつだ。

「てめえは古賀たちのいとこだろ? 何か知ってることねえか?」

 いい加減由貴也とのまどろっこしいやりとりにしびれを切らしたのか、健一郎が率直に尋ねる。由貴也は思い当たることを考えているのか、そうではないのか、すぐには答えない。こちらの反応を見て楽しんでいるようにも見えた。

 芙美花も健一郎も無言で由貴也の言葉を待つ。それがうっとうしくなったのか、由貴也は何でもないことのように言った。

「あのふたりは駆け落ち中だよ」

 日常とはまったく縁がない単語に言葉が出なかった。自分たちの生活とかけ離れすぎている。

「かっ、駆け落ちぃ!?」

 先にフリーズ状態から回復したのは健一郎だった。彼の感情をよく表し、声が裏返っていた。

 続いて芙美花が我に帰ったのは、スカートのポケットに入っている携帯が震えたからだった。

「電話っ!」

 芙美花は飛びつくようにポケットから携帯をとりだし、壊れそうな勢いで開いた。夕闇の中で『着信中 古賀 巴』の文字が光っていた。

「もしもしっ!?」

 叫びにも近い勢いで、電話の向こうに話しかける。巴が驚く気配が伝わってきた。

『芙美花? ごめん、連絡できなくて』

 いつも通り冷静な巴の声が通話口から聞こえる。その声は少しだけ疲れているように思えた。

 芙美花がひとしきり感極まってから答えようとしたとき、すでに手には携帯がなかった。背後から由貴也がつまみ上げ、彼の手の中に収まっていた。

「巴? 今どこにいんの?」

 由貴也が平然として通話口の向こう側に話しかける。芙美花だって巴に聞きたいことは山ほどある。携帯を取り返そうと躍起になるが、由貴也は軽い身のこなしで楽々避けていく。

「なに、そんなとこまで行ったの? へえー」

 芙美花を軽くあしらいながら、由貴也は抑揚のない声で巴と通話している。

「てかさっさと帰ってきてよ。伯父さんから俺んとこに電話かかってきてうっとうしいんだけど」

 彼が言う伯父とは巴の父親のことだろう。高校生の娘と甥が家から出ていってしまっては、心当たりに片っ端から電話をかけてもおかしくない。だから由貴也は事情を知っていたのだ。

 とにかく古賀家は大騒ぎだろう。巴の父親の心労には少し同情してしまった。

 しばらく由貴也は「うん」などの単調なやりとりを巴と交わしていたが、突然何かを思い出し「あ、そうだ」と言った。

「昨日泊まったんでしょ? 壮司さんとヤッたの?」

 由貴也はまったくもって表情ひとつ変えずきわどい言葉を吐いた。代わりに芙美花と健一郎が顔色を変える。

「てめえ、何聞いてんだっ!!」

 あけっぴろげにもほどがある。電話の向こうで巴もとまどっているだろう。健一郎が由貴也の頭を叩いた。

 衝撃を受けて由貴也の頭が前に倒れる。依然として飄々とした表情のまま、由貴也は顔を上げた。

「あ、今ので電話切っちゃった」

 まったく悪いと思っている様子もなく、由貴也は携帯を芙美花に返した。

 芙美花は「そんなぁ」と涙目になったが、切ってしまったものはどうにもならない。待ち受け画像の健一郎がこちらを見ているだけだった。

「今日、家に帰るって。心配かけてごめんって伝えてって」

 由貴也がさっさとつけ加える。ちょうどそのときホイッスルがなった。休憩終了の合図のようだ。

「由貴也くん! 巴と不動くんは今までどこにいたの?」

 何事もなかったように去っていく由貴也の背中に声をかける。由貴也はわずかな間を置いて、首だけで振りかえる。

 その後、彼の口から出た遠い北の町に芙美花と健一郎は絶句した。

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