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かざす花  作者: ななえ
第10章
51/68

第3幕

 家を出た時間があまり遅くなく、ポケットに財布が入っていたことが幸いだった。

 あれから家の前から出る最終バスに乗り、市街地まで出た。それから適当な量販店で巴の身なりを整え、ATMでお金を下ろした。壮司は長期休みにはアルバイトに明け暮れているので、自分名義の口座を持っている。

 全財産を握りしめ、一番遠い行き先を掲げている夜行バスに乗った。行くあてなどなく、ただ夜が明かせればいいという考えだった。

 気が張っていてとても眠れないと思っていたが、バスが高速に乗ったところで記憶が途切れていた。

 目が覚めたのは朝方、パーキングエリアで休憩のために停車しているときだった。隣で深い眠りについている巴を起こさないように外の様子をうかがう。

 山奥の立志院で雪景色は見慣れている。その壮司でさえも驚かすような豪雪だった。

 パーキングエリアの向こうに見える町はとにかく白一色だった。人の背丈よりも高く雪が降り積もり、さびれた北の町はゆっくりと白に侵食されていた。

 この地では人よりも何よりも雪が支配力を持っているようだった。

「壮司……?」

 ぼんやりとした声が壮司を呼んだ。巴が寝ぼけまなこをこちらに向けている。

「まだ寝てろ」

 巴は壮司の言葉に従い、素直に目を閉じた。壮司もカーテンをめくっている手を引っこめた。

 まだ早朝ともいえる時間だ。バスの中はまどろみにつつまれている。

 寝れるときに寝ておこうと壮司は目をつむる。大人から権力から自分たちは背を向けた。意志を貫き続けるには体力も必要だ。この逃避行をここで終わらせるわけにはいかないのだ。

 座席の下でタイヤが回り始めた。高速に乗り、単調な揺れが続く中、壮司の意識は再び闇に沈んだ。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 終着点に着いたのはすっかり夜も明けたころだった。

 見たことのない景色を巴はじっと眺めた。もうすでに自分の日常とは遠く離れた場所だ。

 そこは“いなかの都会”という様な地方都市で、市街地を一歩抜けると田んぼといったありさまだった。

 今日は日曜だ。いつもならば申し訳程度のにぎわいぐらいはあるだろうその街も、昨夜から続く記録的な雪のせいで閑散としていた。

 駅に隣接するバスターミナルで夜行バスから下りたものの、吹雪に各方面の鉄道はストップしていた。

 それでも小さな私鉄が動いていることを知り、壮司とふたりそれに乗りこむ。

 とにかく遠くへ行きたかった。大雪で向こうから来る電車も完全に止まっている。しかし祖母はその障害すら乗り越えて追ってきそうな気がした。

 愚かな、馬鹿なことをしている自覚はある。逃げたところで自分たちは未成年、ましては高校生だ。どこまで行っても大人の庇護がなくては生きていけない。

 それでもあのまま家にいていいことなど何もなかったと断言できる。祖母は我を失っていた。壮司がどんなに言葉を尽くしても、“あのろくでなし”の言葉に置き換えられてしまう。

 少しの間、祖母と距離を置く必要があった。今のままでは到底冷静に話し合えない。こうして離れたことで、祖母が少しでも平静を取り戻すきっかけになればいいと思った。

 巴は家との決裂は避けたいと考えていた。

 壮司は決して口には出さないが後継ぎを放棄することに強い罪悪感を持っているはずだ。彼にあの家を捨てさせるようなことはさせたくないのだ。

 もちろんそれが欲張りで都合のいい考えだとわかっている。何かを手に入れるために、それなりの犠牲を払うことは当然のことだ。何もかも手中に納めることなどできはしない。

「……疲れたか?」

 隣の壮司に声をかけられ、広がっていた思考を閉じた。

 吹雪のせいで視界が悪くなり、先ほどから列車は遅々として進まない。しょっちゅう止まっていた。

「いや……」

 曖昧に答え、巴は薄く笑った。

「壮司。不謹慎かもしれないが、私は今とても楽しいと思ってる」

「楽しい?」

 壮司が不思議そうに聞き返してくる。無理もない。現在、自分たちは追い詰められていて、行き先などわからなくて、不安だらけで――それでも巴は楽しかった。

「お前とどこかに出かけたことなんてなかったから」

 思い返してみる限り、家族でどこかに出かけたことなどない。修学旅行以外で旅行に行ったこともない。

 だから壮司が隣にいて、遠出しているこの状況はなかなか心踊るものだった。

「先週からなんだか夢を見ているみたいだ」

 壮司に引き止められてから過ごした、まだ短い恋人の時間。この一週間、教室で授業を受けているときでさえ、現状が信じられなかった。もし、自分が夢をみているのなら覚めないで欲しいと何度も願った。

 夢心地とはまさにこのことなのだと思った。

 ああとかそうだなとか適当な返事があると思っていたが、壮司からは何の言葉もない。代わりにやけに真面目なまなざしがこちらを見ていた。

「夢じゃねえよ。これからもずっとだ」

 はっきりと言われ、巴は一瞬返すべき言葉を失った。壮司がそう言ってくれるだけでもう心は満たされていた。

 言葉では言い尽くせないほどうれしい半面、悔しくもある。最近、壮司に負けているような気がする。彼の一言一言に翻弄されている。それが少しだけ不本意でもあった。

 巴が壮司にわからないぐらいにむくれていると、電車が丁寧とはいえない停車をした。

 結露している窓ガラスをこすり、外を見る。そこは駅員がかろうじているようなさびれた駅だった。

 まもなく今乗っている列車が雪のため不通になったとのアナウンスが車内に入る。

 しかたなく巴と壮司は下り、雪が降りこんでくる待合室で次の列車を待った。

 すっかり凍えきったとき、違う路線の列車がやってきた。一両しかないローカル線だったが、一も二もなくそれに乗りこんだ。

 その電車で終点まで行ったとき、あたりはもう暗くなっていた。

 無人駅から降り立つと、そこは山間の鄙びた村だった。店らしい店もなく、人の気配すらない。遠くに人家が数軒見えるのみだ。

 途方に暮れるが、とにかく歩くしかなかった。今日泊まれる場所を見つけなければ凍死する。

 除雪がされていない道を足をとられながらひたすら進んだ。靴の中がすっかり雪まみれになった頃、集落の灯りが見えた。どこもかしこも冷たくなった身にはその灯火がとてつもなく明るく感じる。

 集落の中、看板の字が消えかかった旅館を見つけたときには心の底から安堵した。

 たてつけの悪い扉を開けて中へ入ると、カウンターの女将らしき人物が顔を上げた。その表情は明らかに驚いていた。

「……あ、いらっしゃいませ」

 とってつけたように言われこっちが不安になる。本当にこの旅館は営業しているのだろうか。

「一晩泊まらせていただきたいのですが」

 壮司が落ち着き払った声で部屋を請う。ここははったりでも大人びた姿を見せなくてはならない。

 巴と壮司は未成年だ。普通に考えて、子供に部屋を与えてくれるところなどない。

 女将は予想通り巴と壮司を上から下までじっくりと見た。

「お客さま、こちらへはどのような用事でいらっしゃたのですか?」

 さすが客商売にたずさわる人物だけあり、女将はにっこりと笑い、的確な質問をぶつけてきた。

 嘘の下手な壮司に任せておくとぼろが出る。この問いには巴が請け合った。

「親戚の家に行く途中だったのですが、この雪で駅までの迎えがこれなくなってしまったのです」

 巴はもっともらしい顔でもっともらしいことを言ってみせた。実際は逆だ。親戚の家から逃げてきたのである。

 女将は愛想よく「まぁ、それは難儀なさいましたでしょう」と言っている。そう言いながらもこちらをくまなく観察していた。

 巴は表面上は平然として女将の裁定を待った。ロビーのテレビが場違いなほどに明るいバラエティー番組を放送していた。

 視線を二、三往復させると、女将は突然リモコンを持ち、テレビを消した。そしてこちらに対する疑いなど微塵も見せずに微笑んだ。

「ただいまお部屋を準備いたします」

 表情を変えないように気をつけながら、巴は胸をなでおろした。

 巴の下手な嘘が功を奏したというよりも、女将はこの大雪の中に未成年ふたりを放り出すのは忍びなかったのだろう。頭と肩に雪を積もらせた自分たちは、女将の憐憫をさそうのは十分すぎた。

「部屋はふたつでよろしいでしょうか?」

 微笑みをたたえ、当然のごとく女将は尋ねてくる。はい、と返事をしかける壮司に先んじて口を開いた。

「一部屋でお願いします」

 言い切ったとたんに目の前の女将も、隣の壮司もぎょっとしたのがわかった。

 それらを意識の外へ追い出して巴は続ける。

「一室で結構です」

 ロビーに奇妙な沈黙が落ちた。様々な客を見てきたであろう女将ですら絶句していた。

 しかし表情が消えたのは一瞬で、女将はすぐに笑顔を取り戻す。若干引きつってはいたが。

「ただいまおふたりさまでご利用できる部屋がございません。ですから……」

「では一人用の部屋ひとつで構いません」

 嘘がみえみえの女将の言葉にかぶせて言った。この閑古鳥が鳴いている旅館の部屋がふさがっているはずがない。巴たちが入ってくるまで下駄箱に靴ひとつなかった。

 女将とほんの数秒視線を交わす。向こうがたじろいだのがわかった。一度許可している以上、こちらの宿泊を穏便に断るすべはない。

「……ご案内いたします」

 巴の迫力に気圧されたように、渋々と女将が言った。

 わがままを通したのはわかっていたので、「ありがとうございます」と素直に礼を言った。

 壮司が何か言おうとしていたが、意図的に容易に話しかけられない雰囲気を作り、女将の後ろに続いた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「なに考えてんだ、お前」

 部屋に入り、女将が襖を閉めた瞬間に壮司は問いかけを向けた。聞かずにはいられなかった。

 男と、しかも恋人と同じ部屋で休む。それがどいいう意味を持っているか巴は知っているはずだ。

 それとも壮司の考えは短絡的なのだろうか。いや、一般的に見てそうではないはずだ。

 上げ膳据え膳の状態を作った巴の意図を、壮司は測りかねていた。

「……風呂に入ってくる」

 昨夜買った衣料品の中から自身の着替えをとりだし、巴はさっさと出ていってしまった。

 ひとり残された壮司は苦悩した。壮司とて健全な男子十七歳高校生だ。理性と本能が揺れていた。

 とりあえず食欲を満たそうと朝、コンビニで買ったパンの袋を開けた。それから気をまぎらわすためにテレビをつけた。

 テレビをいつもの倍の集中力で見ていると、「失礼します」とドアの外から声がかかった。部屋の襖を開け、外のドアも開けると、そこには女将がいた。

「お布団を敷きに参りました」

 壮司は腕時計に目を走らす。布団を敷くには明らかに早い時間だったが、女将の笑みは有無を言わせぬ強さがあった。

 てきぱきと布団を敷いていく女将を壮司は呆然と眺めていた。女将はふたり分の布団をなるべく離して敷き、真ん中についたてを置いていった。女将の言いたいことがよくわかる構図だ。

 ものの数分で布団を敷き終えると、女将はそそくさと出ていった。この部屋に近よりたくない様子がありありと見てとれる。こんな早い時間に布団を敷きに来たのもそのせいだろう。

 完璧な美しさで敷かれた布団に、壮司は盛大なため息をついた。今は布団すら危険なものに見える。

 再びテレビに没頭しようとしたそのとき、部屋のドアが開く音がした。

 襖を開けて、無言で巴が部屋に入ってきた。壮司はテレビを見ているふりをする。今はテレビのやかましさがありがたい。

 巴はついたての向こうで荷物の整理をしていた。壮司は一心不乱にテレビに見入る。バラエティー番組のほがらかな笑い声が響いていた。

 カバンを閉めた音を最後に、ビニールのふれあう音や衣服をたたむ音が止んだ。静かになったついたての向こうにおそるおそる視線をやると、そのついたてが宙に浮いた。

 壮司が驚きに目をまたたかせている内に、巴がそのついたてを壁の方へ寄せてしまう。ついたてを置いたその足で巴はテレビも消しに行く。

 他の思考を許さない無音が、壮司をさらに追いつめた。

 ぺたぺたと素足で畳を歩く音がする。巴が壮司の前に敷いてある布団の前までやってきて、そのままそこに座した。

 布団と旅館備えつけの浴衣を着た巴。あまりにおあつらえ向きすぎてめまいがしそうだ。

「壮司」

 名前を呼ばれて、いとも簡単に心が乱れる。

「……何だ」

 見かけだけは平静を装って返事を返す。この状況で表面をつくろうだけの余裕があることに自分を誉めてやりたい。

 一拍の間を置いた後、巴は一直線に壮司を見つめてきた。

「しよう」

 思考が止まる。少しの恥じらいもなく、むしろ勇ましさすらにじませて巴ははっきりと言った。

 しよう。巴のセリフが脳内でぐるぐると回る。その一言はどうぼかして解釈しても、ひとつの意味にしかならない。

「お前、何言ってんだ……」

 制止の意味をこめて吐いた言葉も尻すぼみになる。後退りでもしたい気分だったが、あいにくもう壁に背をつけている。

「なぜ? 私たちは恋人だろう」

 聞き返した巴に甘さはない。生徒会の会議中に矛盾点をつくような口調だ。とても“そういう”雰囲気ではない。

「なぜって……」

 呆気にとられて言葉につまる。もうどこをどう説明していいかわからない。

 自分たちは確かに恋人同士で、同年代の中ではそういう相手と体を重ねたという話も珍しくはない。

 それでも壮司は安易にそういうことをしたくはなかった。ただのかっこつけと言われようとも自分なりのけじめだった。

「俺はそういうことは結婚するまでしないと決めている」

 由貴也が頭の中で『ただのへタレじゃないの?』と言っていたが、それを打ち消して巴に視線を向ける。

 巴は壮司の瞳に臆することなく、言葉を返してきた。

「お祖母さまは堅い人だから、既成事実があれば認めてくれるかもしれないぞ」

 ああ言えばこう言う。壮司はどうしていいかわからなくなってきた。とりあえず息をつき、心を静める。

「既成事実どうこうの問題じゃねえ。いいか、子供ができても俺はまだ責任がとれない。そういうことだ」

 疲れてきた。先ほどからわきあがる劣情を抑えるのにかなりの精神力を使っている。いつまでできた男の顔をしていられるかわからなくなってきた。

 自分自身、古い考えを持っていると思っている。体をつなげることで愛を深めるという考えがあることは知っているし、それも価値観のひとつとして認めている。壮司も理性をとりはらってしまえば、巴を自分のものにしてしまいたいと思っている。

 だが、巴を抱かないことが誠実さを表す、一番大きな方法のように思えた。巴を大事にする自分でいたかった。それが単なる独りよがりの自己満足というのなら反論はできない。

 加えて壮司は古賀家の居候だ。その分際で子供ができたと言うわけにいかない。ろくでなしと言われる父親の二の舞をするわけにはいかないのだ。そういう立場も壮司の考え方にも大きく影響していた。

 そもそも巴に迫られるなど夢にも思っていなかった。しかもこんな初歩的なことを説くはめになるとも考えていなかった。

 巴の貞操観念は岩よりも堅いと思っていた。祖母が巴に並みの情操教育をしているとは思えない。体を求める気がなかったのも、そう簡単に許してもらえると思っていなかったからだ。

 巴は壮司の言ったことに納得したのかそうではないのか、しばらく口を閉ざしていた。

「…………からか?」

「あ?」

 沈黙の後、ぽつりとつぶやいた巴の声は小さくて聞きとりづらかった。

 壮司の聞き返した声に答えるように、巴は伏せていた目を上げる。真剣そのものの顔をしていたが、瞳の奥に違う色が揺らめいていた。

「私が子どもを生めないからか?」

 その言葉には隠しきれない必死さがにじんでいた。

 何だかわかった気がする。巴のこのらしくない行動のわけに行き当たった気がした。

 壮司はため息をつきたくなる気持ちをこらえた。

「……そんなわけねえだろ」

 低く言い放ち、壮司は鈍重な動きで立ち上がる。壁に手を当て、照明のスイッチを切った。暗くなった部屋で枕元の行灯だけが明々と光を放っていた。

 互いの間にある布団を迂回して歩き、壮司は巴の前に立った。巴は顔を上げることなく、床の一点を見つめている。

 腰を下ろしきる前に、ひどく性急な動きで巴の腕を引く。

 巴の正座が崩れる。バランスを失い、そのまま壮司の胸に倒れこんでくる。その体を抱きとめると、石鹸の香りが鼻腔をかすめた。

 巴の手首をつかんだまま、もう一方の手でつややかな髪に指を差し入れた。絹糸のようななめらかな感覚が手に心地よい。

 頭に手をあて、巴の顔を少し上に向かせる。視線が重なる前に唇を合わせた。

 巴はなされるがままになっていた。壮司もただ、淡々と行為を続けることに集中する。

 長い口づけの間に巴がおずおずと壮司の首に腕を回した。それを合図に顔をわずかに離す。

 巴は視線をからめようとしない。顔をややうつむかせ、壮司の目から逃れていた。

 巴の緊張を解くように、頭に添わせていた手を下ろしてその背をなでた。何度か手を往復させた後、片腕で巴の腰を抱いた。首に回っている巴の腕ににわかに力がこもる。

 その手を解きながら、そっと体を倒す。巴の動きは固かったが、壮司の意志に逆らわなかった。細い手首をシーツに押しつけて、布団に巴を組み敷いた。

 無意識に拒絶の声を上げようとする巴に、ついばむようなキスを与える。やや強引に口をふさぎ、声を吸いとる。

 唇を離したとき、巴は予想通りの表情をしていた。壮司は小さく息をつき、巴の手首のいましめを解く。

 流れを打ち切られ、巴は怪訝そうに壮司を見ていた。しかしその表情には間違えなく安堵の色が含まれていた。

 やっぱりな、と巴の体の上から退いた。手を引き、巴の上体も起こさせる。

 布団の上で向かいあった。

「手が震えてたぞ」

 巴の神経をなるべく刺激しないように注意しつつも、壮司は冷静に指摘した。

 とたんに巴がカッと赤面する。

 彼女がどこか無理をして壮司を誘っているのはわかっていた。ガチガチに緊張しきり、体は強ばっていた。ついには泣きだしそうな顔になられてはとても続行する気にはなれない。もとより続ける気もなかったが。

 自分の演技を見破られ、巴はバツが悪そうに顔を背けていた。

「一体どうしてこんなことしようとした?」

 できるだけ優しく穏やかに尋ねる。

 巴が壮司と夜を過ごす決心がついていないことは明白だ。口ではできるといっても体がついていっていない。

 巴が色気のない、義務感に満ちた煽情行為をした理由を壮司は大方把握していた。それでも巴の口から言わせることに意味があるのだ。

 巴は固い顔つきで膝の上で拳を握った。

「……私に何も問題がなかったら、お祖母さまもすんなり認めてくれた。こんな風に家から逃げなくても済んだ!」

 静けさが大部分を占める部屋に、巴の声が反響する。

 巴は子供が生めない自分と、そのせいで家から逃げている状況を責めている。

「私がすべての元凶だとわかっている。わかっているけどお前に愛想をつかされたくなくて……」

 語尾が涙に消えた。ぼろぼろとこぼれる涙を巴はうっとうしげに手の甲でぬぐう。彼女は潔癖なところがあるため、こういう場面で涙を流すことは甘えているようで許せないのだろう。

 壮司はテレビの上のティッシュ箱から二、三枚抜きとり、それで巴の涙をふいた。

「それで?」

 静かに先をうながす。巴はすん、と鼻をすすった。

「お前の真面目さを利用しようとした。お前は情にもろいから……」

 一度抱いた女は簡単には捨てられないと、巴はそう言いたいのだ。

 やはり予想通りだった。巴は聡いが、壮司に関することだけは殊更大仰なことをする。何でも犠牲にしそうな危うさがあるのだ。

 それは壮司に対する信用のなさが表面化したようだった。

 壮司は手を伸ばし、巴の頭を両手で挟みこむ。突然の行動に巴は目を丸くしていた。

「いいか。この頭によく刻みこんどけ。俺はどんなことがあってもお前だけだ」

 覚えておけ、と言ってその頭を荒い手つきでなでた。

 歯が浮くような恥ずかしいことを言った。いい格好をするのもはなはだしい。まったく、今夜はいろんな意味で死にそうだ。

 壮司はこれから巴と信頼を築いていかなければならない。巴が極端な行動をとる原因の大部分は壮司にある。

 だが巴が壮司を信用できないのは無理からぬことだった。今の今まで壮司は『家の方が大事だ』と散々言ってきたのだから。

 一朝一夕に信頼が得られるとは思っていない。これからの行動で徐々にそれを勝ち得ていかなければならない。

「……私は面倒くさい女だろう? 自分でもこんなところがあるとは思っていなかった」

 誘惑したことに対しても照れがあるのか、巴は赤くなっていた。

 面倒くささでは、壮司も人のことを言えた義理ではない。最近まで壮司の方がよっぽど面倒くさい男だった。

 たまらなくなって、肩ひじを張って正座したまま顔を上げられない巴を引きよせた。そのまま体を持ち上げ、巴を壮司の膝の上に座らせる。狼狽して、とっさに壮司の胸板に手をついた巴を抱きしめた。

「お前はもっと面倒な女になっていい」

 捨てられたくない、愛想つかされたくない、と必死になっている巴をいとしいと思ってしまうのは恋のなせるわざなのだろう。

 壮司だって自分がこんなことを思う日がくるとは考えていなかった。

「……もうこんな面倒な女なんて嫌だと言っても知らないからな」

 巴がつっけんどんに言い、壮司の背中に腕を回した。

 顔は壮司の胸に押しつけて見えないようにできても、耳までは隠せない。耳まで赤くなっている巴にこちらまで顔を赤らめてしまいそうだった。

 淡い闇の中、驚くほど穏やかに夜が更けていった。

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