第2幕
巴は部屋の真ん中に微動だにせず座していた。
部屋に運ばれてきた夕食にはまったく手をつけていない。蔵の中の壮司は食事が運ばれているかすら怪しいのだ。自分だけとることはできない。そもそものんきに食事をとる気分でもない。
巴はあれから自室に軟禁されていた。祖母からは何の音沙汰もなく、ただただ時間が過ぎていく。
視線を窓の外へやった。冬至はとっくに過ぎたといっても、まだ日暮れは早い。あたりはもうすっかり暮色に包まれていた。みぞれ混じりの雨は細雪となっていた。
これから長い夜がやってくる。壮司が寒さをしのげるものなど何もないあの蔵の中で凍えているのかと思うと焦燥にかられた。
壮司の意志は固いと知ったのか、祖母は壮司を人質に巴を揺さぶる作戦をとった。祖母は巴の性格を憎たらしいほど把握している。壮司を引きあいに出せば、自分が何でも言うことをきくと思っているのだ。悔しいことに事実その通りである。
今すぐにでも壮司を助けに行きたい。しかしそうしてしまっては祖母に屈したことになる。何のために戦ってきたのか。耐えている壮司を裏切ることになる。
葛藤が巴を絶え間なく襲った。
こうしている間にも気温は下がり、壮司の体力を容赦なく奪っていく。
一秒ごとに考えがめまぐるしく変わる。祖母に屈服などしないと決心した次の瞬間、転入試験を受けに行くと言いたくなる。今だって襖に手をかけようとしている。
しかし巴が触る前に、襖が横へ滑った。
驚いて手を引く。襖を引いたのは家政婦の女性だった。巴が思いがけず至近距離にいて向こうも目を丸くしていた。
彼女が何をしにきたのか容易に想像がついた。食事の膳を下げにきたのだ。
気がついたときには巴は彼女に詰め寄っていた。
「壮司は食事はっ……蔵の中はどのような様子ですか!?」
これは絶好の機会といえた。膳を持ってきたときは祖母で、一切の質問を許さなかった。家政婦の女性ならば祖母よりもはるかに話が通じる。それに巴と壮司の世話を幼い頃からしてきて、情もある。優しい彼女は壮司のことを不憫がっていた。
だが、彼女は険しい表情でかぶりを振った。
「蔵は厳重に鍵がかかっていて私では入れません。鍵は大奥さまがお持ちです。私も何度かご意見しましたが、まったく……」
困惑しきったその表情で、彼女が良心に従って行動をしてくれたのはわかった。祖母の行動は常識から見ていきすぎている。
「巴さん、きちんとお食事はなさらないと……」
彼女の言うことはもっともだ。しかし巴はただ「すみません」と返した。
彼女は嘆息し、膳を持って立ち上がる。
「お風呂を沸かします。お入りになったらいかがですか?」
気遣わしげな彼女の瞳にこれ以上逆らえず、巴はうなずく。とにかく、この部屋の中で鬱々としていても何も始まらない。
間もなく湯が湧いたと家政婦の女性が呼びに来た。
長い廊下を歩きながら、ふと蔵のある方向を見た。蔵は家の隅にある。母屋からは見えない。
代わりにますます勢いが強くなっていく雪が見えた。巴と壮司の反抗を嘲笑うかのような大きな雪片だった。
湯船に浸かっても、浮かぶのはもうこれ以上は無理だという思いばかりだった。巴が今夜――明日までに転校を承服しなければ、祖母はきっといつまでも壮司を閉じこめておく。そもそもこの寒さでは今夜すら越えられないだろう。
早く決断しなくては。取り返しがつかなくなってからでは遅いのだ。
部屋に戻っても、布団を敷くことも何もできなかった。相変わらず自分が自分を責め立てる。
『お前だけだ』
壮司の声が不意に頭の中で響いた。そう言ってくれたのはつい昨日のことだったのに。
壮司の名残を吹き飛ばすように、北風が吹いて家を揺らした。もう限界だ。壮司に何かあっては自分は平気ていられない。
もうじっとしていられなくて立ち上がる。祖母に転入試験を受ける旨を伝え、一刻も早く壮司を解放してもらうしか巴にはもうできなかった。
早く行かなければ、と部屋の襖をすべらす。だが、巴はそこで動きを止めた。廊下に立っていた人物に驚き、立ちつくした。
墨色の着流しをまとう禿頭の人物――父だった。
「お父さま……」
呆然とつぶやく。父が何をしに娘の部屋まで来たか見当もつかなかった。すべてのことに無関心な父が今回の騒動に関し、何らかの行動を起こすとは欠片ほども考えていなかった。
父は巴の手をとった。乾いた大きな手だった。父はそのまま巴の手のひらに何かを握らせる。
わけがわからなくて父を見上げる。しかし父は何も語らずに巴に背を向けた。
その姿が廊下の闇へ完全に消えてから、手を開く。
信じられない思いで手のひらを見つめた。手の上には鍵が乗っていた。鈍く光るそれはまぎれもなく蔵の鍵だった。
祖母が持っているはずの鍵がなぜここにあるのか。いや、違う。これはいつも見る年季の入った蔵の鍵ではない。
形は間違えなく蔵の鍵だ。しかしいつも祖母の部屋の机に入っているものと違う。使いこまれてなく、錆もなかった。
スペア――?
そんなものがあるとは初耳だった。それもなぜ家の管理を一手に引き受けている祖母ではなく父が持っているかが謎だった。
とにかく何でもよかった。これで壮司を助けられる。
安堵のあまり廊下にへたりこんだ。宝物のように胸に鍵を抱く。
ふたりでなくては始まらない。早く行かなくては、と巴はゆっくり立ち上がった。
―◆―◆―◆―◆―
壮司は蔵の中で素振りをしていた。寒くて体を動かしてなくてはいられないのだ。
蔵の中では木刀が空を切る音だけが響いていた。余計な音は降りしきる雪が吸いとっていた。
息が上がってきたことを感じ、構えを解く。細く息を吐きながら木刀を傍らに置いた。
蔵に閉じこめられてからかなりの時間が経った。どっぷりと日は暮れ、もう宵を通りこした時刻になっているはずだ。時計はおろか、光源すらないここでは性格な時を知ることは難しい。
祖母は壮司に微塵の温情も与えなかった。防寒具も食事も一切与えなかった。
少し厳しい状況に置けばすぐに音を上げると思ったのだろうが、そういうわけにはいかない。何としても自分と巴の関係を認めてもらわなければならないのだ。そのためなら何でもする。もとより祖母相手にすんなりいくとは思っていない。
今まで巴にばかり想いが報われないつらい思いをさせてきた。その分が今、自分に回ってきたのだと思えば我慢できた。
湿った風が吹き、鉄格子がはまった窓から雪が降りこんでくる。すきま風が少しの遠慮もなく入ってきた。
底冷えする寒さにもう感覚などとうの昔になくなっている。それを通り越し節々が痛み始めてきた。
間断なく続く鋭い痛みに耐えかね、大きな箱の上に腰かけた。下手な拷問よりもきつい。
祖母はよくわかっている。体罰などで人は屈服させられない。反抗心を煽るだけだ。
だから祖母のとる罰とはこういうものなのだ。長時間の正座など精神力を極限まで削りとるようなものばかりだ。
観念するつもりはない。しかし、寒さが心まで入りこんでくるような感覚は耐え難かった。
疲れに目をつぶった壮司の耳に、唐突に金属のふれあう音が聞こえた。
この音には聞き覚えがある。蔵の鍵をかけたときに聞いた音だ。
壮司の予想を裏づけるように、重々しい音を立て、蔵の扉が開いた。
なぜ、一体誰が。その疑問が頭を駆け巡る前に、何かが飛びこんできた。壮司はとっさに立ち上がり、それを受けとめる。
「壮司! 壮司っ!!」
無我夢中でしがみついてきたのは巴だった。
白い寝間着姿で、雪まみれだった。髪の先からは雫がたれている。
「お前、どうして……」
就寝前の着の身着のままな格好だ。なりふりかまわずといった姿に驚きを隠せなかった。
「お父さまが鍵を……っ」
言葉すら邪魔だという風に巴は壮司の胴にきつく腕を回してくる。
そのあまりに必死な様子に、壮司も巴を抱きしめた。
巴の体は冷たく、あろうことか裸足だった。みぞれでぬかるんだ道を走ってきたのか、寝間着の裾に泥が跳ねていた。
どういう経緯があったのかはわからない。巴は鍵を手に入れ、ここまで駆けてきたのだ。その細腕で重たい蔵の扉を開くのは大変だっただろうに。
壮司はいたわるように巴の頭に手のひらを乗せた。
「……お祖母さまは」
壮司の胸に顔をうずめたまま巴がつぶやく。くぐもった声が蔵に響いた。
「お前がどんなにがんばったって私たちのことを認める気なんてないんだ」
壮司がなぜと聞き返す前に、巴が勢いよく顔を上げた。泣きそうな表情だった。
「明日の転入試験を受けなければ壮司を蔵から出さないと私に言った!」
明らかになった祖母の悪どいやり口に驚き、やがて怒りが沸き上がってきた。
本気ならばその身で証明してみせろ、と祖母は言ったはずだ。しかし祖母ははなから壮司の態度など見るつもりはまったくなかったのだ。
何も見る気も聞く耳ももたない祖母にどうしようもなく怒りが募った。
「……嫌だ。離ればなれになるのは嫌だ。お前がこんな目にあうのももう嫌だ」
巴は必死の形相だった。切羽つまった口調で心情を吐露する。
壮司も顔をしかめた。
このままここにいてはまた互いを人質にとられた挙句、無理やり引き離される。どうすればいいのか。説得を続けても単なる徒労に終わるだけか。家を捨てる決心をしなくてはならないのか。
思案にくれる壮司の感覚が、不意にひとつの気配をとらえた。
音もなく、微動だにせず、呼吸すらしていないような――しかし圧倒的な存在感を持ってさっきまでいなかったはずの影がそこに立っている。手には長い棒のようなものを持ち、蔵の入口をふさぐようにして仁王立ちしていた。
背後では雪が幻想的なまでに美しく舞っていた。
「……やはりあなたもあのろくでなしと同じことをするつもりですか」
低い、腹の底から響くような声が壮司を非難する。
腕の中の巴が射ぬかれたようにびくりと身を震わせた。
「お祖母さま……」
巴が声にならないつぶやきに唇を動かす。祖母は異様な気彩を放っていた。
「行かせません」
今回は、と祖母は続けた。
祖母が持っていた棒状のものは薙刀だった。たすき掛けをした祖母が動いたのを察して、体が反射的に動く。
巴を背後に庇い、側に置いてあった木刀をとる。頭上に木刀をかざし、祖母からの一撃を防いだ。
あの理性の塊のような祖母が相当分別をなくしている。もちろん薙刀は刃の部分が木製の競技用のものだが、防具も何もつけていない状況で打ち込んでくるとはとても正気の行いとは思えない。
ろくでなしと今回は行かせないという言葉から、祖母は壮司にまた父の影を重ねているのだと知った。壮司は巴や由貴也といった“古賀の顔立ち”ではない。おそらく父親似だ。だから娘を奪った憎き男の面影が祖母の中でよぎるのだ。
もう二十年近く前にもなる娘が悪い男と駆け落ち同然に出ていったそのときと今は酷似している。そのことがここまで祖母を感情的にさせているのだろう。
見境のなくなっている祖母を前に逡巡している暇はなかった。
硬直している巴の手をとり走りだす。もうぐずぐずしている場合ではない。
蔵を出て、境内の横を一気に駆けぬける。後ろは振り向かなかった。
夢中で走っていて祖母が追いかけてきているかどうかはわからない。だがもしここで捕まってしまってはただでは済まないという確信めいた思いがあった。
石段を息を切らせながら駆け下りる。幽鬼のような祖母の姿がまぶたの裏に焼きついていた。行く手を塞ぐように雪がちらちらと舞う。
寺の前の国道に出て、屋根つきのバス停に入りこむ。祖母が追いかけてきていないことを確認して、初めて足を止めた。
ふたりして肩で息をし、酸素を一心不乱に取りこむ。しばらくそれに集中し、息が整ってきたところで顔を上げた。ぴたりと巴と目があう。
寝間着である単衣一枚の巴に自分のコートをはおらせる。長いコートを着ていてよかった。寝間着の裾近くまで覆い隠せる。
「足、切ってねえか」
巴は裸足だ。こんな姿のまま、自分の一存だけで巴を連れ出してしまったことに申し訳なく思った。
「大丈夫」
答えた声はしっかりしていて、思ったより巴は動揺していなかった。そのことが壮司を少し安心させた。
はからずも自分たちは家を出てしまった。そして家にはもう戻れない。今帰ったら何をされるかわからない。
「俺についてきてくれるか?」
昨夜、このセリフを巴に言ったときだって決して軽い気持ちではなかった。
しかし今、もっと重い現実味を含めた言葉として、それは壮司の口から出ていた。
巴の手が壮司の指先をつかんだ。そのまま巴は小さく、だが確かにうなずいた。真剣な瞳をしていた。
名残雪が降る三月の夜に自分たちは家を出ることを決意した。
ふたりで生きていくために必要な行動だった。
誰が許してくれなくてもふたりでいれればいい。そう思った。