第3幕
「お前、何回間違えれば気が済みやがる!」
生徒会室に響く怒号。
「うるせえ!! いちいち怒鳴んな!」
応じるのはいつも通り健一郎である。
この光景は早くもお馴染みになりつつあった。
巴は怒声の主二人を知覚からシャットアウトして黙々と自らの仕事をする。ちなみに今は陸上記録会用プログラムの草案をパソコンで作っていた。
一方、陸上記録会種目アンケートの集計をしていた芙美花は困惑気味に仲裁の機会を窺っている。
「だからってケタ一つ間違えんじゃねえ!!」
会計・貢 健一郎が作成した夏期休業中部活動遠征費計上書の上に、壮司がバンッと手を叩きつけた。計上書に無残なシワができる。
顔合わせを含め二回ほど生徒会活動をしたが、そのわずかな間に二人の仲の悪さを存分に思い知った。
寄ると触るとケンカをする状況に、活動時間中の半分はくだらないいさかいをしてると言っても過言ではない。
「やり直せ。今度は正確に、な!」
ひとしきり睨みあったのち、『今度は』にいやに力を込めて壮司が吐き捨てた。
健一郎の計算ミスは三回目だ。壮司のいらだちも増してきているのだろう。
とはいえ遠征費申請書は膨大な数であり、健一郎が慣れない電卓を叩きながら手際よく仕事をするのは、なかなか難しいものがあった。
それでも壮司と同じく、根は真面目な健一郎だ。すぐさま電卓を叩き始める。
その間、壮司は申請書に不審な項目がないかつぶさに観察して印を押していた。
「お茶でも飲もう。私、入れるよ」
芙美花が明るさを装って提案する。
殺伐とする男二人と、個人主義傾向の巴。
まったくもってまとまりの欠けらもない集団の潤滑油となっているのは、他ならぬ芙美花だった。
「不動くん何飲む?」
「すまん。麦茶で頼む」
「健さんは?」
「コーヒー。冷たいやつ」
「古賀さんは?」
問いかけられると同時に巴も立ち上がる。
「いつも悪いな。私もコーヒーで」
芙美花が飲み物を準備する傍らで、巴は戸棚からお茶請けのクッキーを準備する。
ナプキンを敷き、籠に四人分盛った。
やかましい男どもの分は除いて芙美花と二人で食べようかと思ったが、さすがに止めておいた。
巴が茶菓子を、芙美花がそれぞれの飲み物をテーブルに置いたところで、それが休憩の合図になる。
紙束やらファイルやらをどけて、おのおの自分自身のカップを取った。
「……アンケートはどうだ?」
一息ついたところでおもむろに壮司が口を開く。芙美花に向けた問いだ。
「……えっと、リクエスト競技はやっぱり部活動対抗リレーが優勢かな」
笑んでいるものの、どこかおっかなびっくりといった具合に芙美花が返した。
正直壮司の顔はいかついし、あんなに健一郎と四六時中言い争いしていれば芙美花に恐れられるのも道理というものだ。
「じゃあ今年も部活動リレーで決まりか」
壮司がひとりごちた。会話の終わりに芙美花が肩の力を抜くのがわかる。
壮司も無意識だろうが、芙美花と話すとき肩肘を張っている。
互いの緊張が伝播して、ぎこちなさが余計に増しているが時間が徐々にほぐしていくだろう。壮司は悪い男ではない……と思う。
子供のようなケンカをしている彼を見ていると判断が多少揺らいだ。
「巴、プログラムは?」
巴の思考の渦中の人物が問いかけてくる。
そこに先ほどまでの堅さはない。今更あっても困るが。
「去年のデータを使ったからだいたい形はできている……お前らのケンカしている間にな」
芙美花の苦笑と、巴のあからさまな嫌味を引き出した二人は気まずげに顔を歪めた。
それでも相手のせいにしないのはなけなしのプライドがなせる技か。
わずかな沈黙が落ちた後、ゆったりと飲み物を飲む巴と芙美花をよそに、男たちは早くも仕事を開始した。
先程までとはうってかわって書類に印を押す音も、電卓を叩く音もおとなしい。
自分たちの争いで、仕事が滞っていることに対して彼らなりの謝罪の意らしかった。
大きな男二人が小さくなって仕事するさまはどこかおかしみがあった。
芙美花も同感らしく、隣で小さく笑う気配がする。
巴も微笑とともに、芙美花特製のやけに濃いコーヒーをすすったのだった。
―◆―◆―◆―◆―
漏れなく計算された夏期休業中部活動遠征費計上書に壮司が生徒会長印を押したのは四時四十分のことであった。
だいたい一時間弱仕事をしていたことになる。
壮司が伸びをして「よし、終わるか」と呟いたところで散会となる。
巴と芙美花が帰り支度をしている間、男二人は飲み終えたカップやらポットやらを持って隣接した給湯室へ向かった。
準備したのが女子なので、片づけは男子がやらなくてはという妙な使命感を持っているらしい。
巴は生徒会室と扉続きになっている給湯室を見やる。
仕事は終わったというのに、お決まりのケンカもせずに変にそわそわしているその背中に巴は嘆息した。
実にわかりやすい奴らだ。
「片づけておくから部活に行ったらどうだ」
戸口に立って提案した巴に二人の期待に満ちた瞳が向く。
が、即座にその瞳に義務感が帯び期待は見事に打ち消されていた。
「いや、大丈夫だ」
「俺らでやるから」
キリッと締まった表情ですぐさま断られた。何故かこういうときだけ呼吸が合っている。
後片づけをする――ケンカばかりしている彼らなりの贖罪なのだろうが、そこに気を遣うなら根本的にケンカをしない方向へ気を遣って欲しいものだ。
「おわっ」
壮司の声とともにカップがシンクに落ちて鈍い音を発した。
安物のカップだから割れてはいないだろう。音も顔をしかめたくなるような鋭利な音ではなかった。
「やっぱりやっとこうか?」
音を聞きつけて、戸口に立つ巴のさらに後ろから芙美花が顔を覗かせた。
「その落ち着きのなさでは次は割るぞ」
芙美花に追従した巴の言葉に健一郎は観念したように泡だらけのコップを置いた。
「……任せていいか?」
そのままばつの悪そうに切り出してくる。
しかし健一郎より頭が固い壮司が黙っていない。
「貢、お前女に押しつけてんじゃねえよ」
たかが片づけ、されど片づけ。
片づけを完遂することは壮司にとって大いなる意義があるようである。
「壮司。いいから行け。お前がやっているほうがよっぽど危なっかしい」
そう、危なっかしくて見ていられないのだ。
いまだ思考が昭和初期な祖母の方針で、男の壮司は皿洗いどころか台所にも入ったことがない。
見よう見まねのその手つきはいかにも頼りなかった。
「いや、でき「いいから行け」
邪魔だと言外に臭わすと、さすがの壮司も引き下がった。
「……悪い、任せる。次の集合は水曜で」
あいさつもそこそこに、手早く荷物をまとめて男二人は出ていく。
「二人とも部活がんばってね」
一目に走って行く彼らの背に、芙美花が柔らかく微笑んで、何気ない一言を放った。
脇目も振らない彼らに聞こえたかどうかはさだかではない。
寮で、生徒会で数日間接しただけだが、芙美花は温厚で柔和――平たくいえばふわふわを通り越してふにゃふにゃとしている人物だった。
初見のとろそうという印象は的を射ていて、期待に沿うおっちょこちょいぶりを存分に発揮してくれた。
毎日バリエーション豊かに騒動を起こしてくれるにもかかわらず、巴は芙美花が嫌いではなかった。
何故かと問われると返事に窮するが、強いていえば裏表のなさだろうか。
彼女は裏表を作れるほど器用ではない。
「片づけよっか」
屈託のない笑みで笑いかけられて泡だらけのスポンジを渡された。
礼を言って受け取り、二人で茶器一式を洗い始める。
カップとスポンジのこすれ合う音と遠くから聞こえる部活動のかけ声。それも単なるBGMのようで、窓から射し込む橙色の斜陽とともに静寂の一因として作用していた。
自然のBGMの中に調子外れな鼻歌が加わる。
もちろん歌っているのは巴ではない。音源である隣の芙美花をさりげなく見た。
そこには大事そうに緑のチェック柄のマグカップを洗う芙美花がいた。
生徒会四人で使っているマグカップは色違いで、赤が巴、青が壮司、黄色が芙美花、そして緑が健一郎だった。
芙美花があまりに大切そうに扱うので、何の変哲もないカップがたいそう価値の有るものに見えた。
「貢はいいな」
だからかもしれない。意味のない世間話に興じる気になったのは。
「えっ?」と芙美花が締まりのない顔を上げる。
「音痴な鼻歌歌う桐原が彼女で貢は幸せだなと思ってな」
正直な感想をからかいにすげ替えてクスクスと巴は笑った。
「なにそれ〜」
微妙な誉められ方に不満そうな声を漏らすものの、芙美花は眉をハの字にしてふにゃりと笑うだけだった。
「不動くんも幸せだよ。古賀さんみたいな綺麗な人が彼女なんだから」
気の利いた芙美花の切り返しも巴にとっては困惑の対象でしかない。
当惑を押し殺し、今度は巴が曖昧に笑った。
下手に付き合っていることを否定して、そこを突っ込まれでもしたらそれこそ厄介だ。
実は婚約者です、などと一介の高校生が言えるはずがない。
ふと自分が今、手にしてるのは壮司のカップだと気づく。
綺麗に洗われたそれをそっと指先で撫でた。
――幸せか……。
壮司が本気で幸せになりたいとすれば、間違っても巴は選ばないだろう。
巴と恋仲になることは、彼をあの家に縛りつける決定打に他ならないからだ。
巴とて今のうやむやな状況に満足しているわけではないが、かといってどうしていいかもわからなかった。いろいろなものがしがらみとなって行動を起こすことを阻むのだ。
巴の意図した通りに芙美花はそれ以上突きつめて聞いてはこず、機嫌良くカップを棚にしまった。
すべて片づけ終わり、生徒会室の机に置いてある各々の鞄を取りに戻る。
今はほぼ絶滅状態にある黒い合皮の学生鞄は立志院では健在で、学校指定にされている。
キーホルダーも何もついていない無骨な巴の鞄と違い、芙美花のには持ち手のところにウサギとおぼしきマスコットがついていた。
いや、ウサギというのはあくまで予測に過ぎない。一体どこに牛柄のウサギがいるというのだろう。彼女は何を思ってウサギを常識はずれな牛柄にしたのだろうか。
いずれにせよ最近流行りのデフォルメ過多なマスコットとは一線も二線も画している。
巴の視線に気づいたのか「手作りなんだけど、変?」と芙美花が困惑しながらも器用に笑って尋ねた。
「いや……いいんじゃないか」
例えウサギマスコットがヒョウ柄でもヘビ柄でも、もちろん牛柄でも率直に感想を言わない賢明さを巴は持ち合わせていた。
形だけの賛辞にも関わらず、芙美花の表情は華やいだ。
「友達も健さんも変だ変だって言うんだよ。牛柄のウサギも斬新でかわいいと思うんだけど」
確かに斬新で奇抜だ。それゆえ、誰も理解できないほどに。
「次はくまさん柄のウサギを作ろうと思うんだ。かわいいものとかわいいものを合わせたらもっとかわいくなると思う」
この時、目を爛々と輝かせて話す芙美花に、適当に相づちを打ったばかりに、寮までの帰り道、とつとつとアニマル柄ウサギについて語られたのだった。
後日芙美花お手製くま柄ウサギマスコットを贈呈されたのは言うまでもない。