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かざす花  作者: ななえ
第10章
49/68

第1幕

 部屋から出ると、談話室に灯りが点いているのに気がついた。

 今は真夜中。消灯時間はとうに過ぎ、寮内は静まり返っている。

 暗い廊下の先の光を目指して巴は歩いた。スリッパの音がパタパタと鳴る。

 談話室の電気は消し忘れということでなく、おそらく誰かがいるからなのだ。そしてその“誰か”を巴は知っていた。

 談話室の隅からためらいがちに姿を現した巴に、その人物は視線を向けた。

「眠れないのか」

 談話室のテーブルに座っている壮司が静かに問いかけてくる。

 彼はトレーナーとジャージという気軽な格好で、目の前には冷めて湯気も出ないコーヒーが置いてあった。壮司はずいぶん前からここにいたようだった。

「うん……」

 寮の静けさを壊さないように抑えた声で答え、壮司の向かい側に座る。

 壮司が後ろの自販機から何かを買い、こちらに手渡した。手の中て熱を放つその缶はあろうことか冬季限定のおしるこだった。

 確かにコーヒーや紅茶ではカフェインが入っていて余計に眠れなくなりそうだが、おしるこではロマンもへったくれもない。

 そこはかとなくおかしくて笑いをごまかすように缶を軽く振って開けた。

 おしるこを一口飲み、それから缶を包むように机の上で手を組んだ。じんわりと缶の温かさが冷えた指先まで伝わる。ぼんやりと缶にプリントされた成分表を眺めた。

 明日、壮司とともに家に帰る。

 祖母はだてに古賀家の支配者として君臨しているわけではない。祖母の懸念した通り巴は壮司と一線を越えてしまった。

 壮司の側にいると決めた以上、転校は必要ない。医者には相変わらずなりたいと強く思っている。それも説得しようとは思っている。しかしそれは二の次だった。際限なくなにもかも犠牲にしてしまいそうな自分がいた。どこまでも愚かになれそうだった。

 壮司と生きていくというのはそういうことなのだ。生半可な覚悟ではいけない。すべてを捨ててもいいぐらいの意志をもたなければならない。

「……もしお祖母さまが許してくれなかったらどうする?」

 さほど深い考えはなく口に出した。いや、ここ一週間頻繁に考えていることだったからこそ、無意識に言葉が出たのかもしれない。

「えらく弱気だな」

「最悪の事態は常に想定しておくべきだろう?」

 感情でごり押しする壮司に対して、巴は理屈でものを考える。あらかじめ隅々まで予測しておく癖がついていた。それがどんなに好ましいものでなくとも。

 しかし今回、もし許してくれなかったらという仮定は立ててみたものの、結果までは導き出すことができなかった。結論を出すことを脳が断固として拒否した。

 臆病になっている。このめまいがしそうなほどの幸せを手放したくないと切に願っていた。

「許してくれなかったら納得するまで説明するまでだ」

 あくまで壮司の考えは正面突破することらしい。邪道だが勝算がまだありそうな小細工を用いないところが壮司らしかった。

「それでもだめだったら?」

 くどいと思いつつ、巴は問いを掘り下げた。壮司はぬるいコーヒーを一気に飲み干し、空になった紙コップをごみ箱に投げ捨てる。

 それから改めてこちらを向いた。

「俺の相手は俺が決める。お前だけだ」

 目を見開いた。壮司の言葉はまじめすぎるほど大まじめだった。その瞳は真剣な色を宿し、巴の姿を映していた。

 胸に迫るこの感情が喜びなのか戸惑いなのかはわからない。しかし心が震え、言葉が出なかった。

 壮司はおもむろに手を伸ばした。缶を包んでいた巴の手を解き、その左手を握った。

 壮司の手は熱かった。

「俺についてきてくれるか?」

 ためらいがない瞳に、壮司はもう覚悟を決めていると知った。

 巴は壮司の手を握り返した。うん、と言いかけて口を閉ざす。

「……はい」

 こんなに壮司相手に畏まった返事などしたことがなくてどうにもこうにも恥ずかしい。

 それでも壮司はありったけの誠実さを向けてくれたのだ。自分もそれにできりかぎり応えなくてはならないように思った。

 大人は、特に祖母は壮司の誠実さを若気の至りととるだろう。まっすぐな気性を若さ故の愚かさと置き換えるだろう。

 祖母は一筋縄ではいかない。その場合、自分たちは祖母に、ひいては世間に背くようなことをする。それを辞さないだけの強い感情があった。祝福はおろか、誰からも認められない。そんなことは自分も壮司もわかっていた。

 決して賢い判断ではなかった。以前ならば卒業まで関係を隠すなりして、祖母に対してもっと上手く立ち回ったはずだ。

 それが今、愚直ともいえる策のなさで真っ正面から対峙しようとしていた。

 状況が悠長にあれこれ考えているのを許さないというのもある。だが、それ以上にそうせずにはいられないのだ。まっすぐに切り込んで、その上で認めてもらうことを望んでいた。

 間に妥協するという選択肢はない。その他の道を知らないという盲目さが今の自分たちにはあった。

 人を愛す、その人と添い遂げたいと願う。それは成熟した大人だけに許される感情ではないのだ。

「……私もお前だけだ、壮司」

 決心が胸の中で静かに満ちていくのを感じた。握った手の力強いぬくもりを確かめるように目を伏せた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 芙美花と健一郎に見送られ、寮を出た。

 家まではバスと私鉄を乗り継ぎ二時間強かかる。その間、巴は緊張と不安で一言も発しなかった。

 三月の初めだというのに、寒の戻りかと思うぐらいの冷えこんだ日だった。暖房がききすぎるぐらいの車内にいたというのに、巴の体は芯から冷えきっていた。

 その冷えは外気のせいではなく、体の内側からくるものだった。

「そんなに緊張すんな」

 壮司に声をかけられる。それで初めて自分が極度の緊張のあまり指先が震えていたことに気づいた。情けないと自身を叱咤した。

 ひとりでいたときの方が強かった気がする。自分のことしか考えなくて済んだ。自分が傷つくのならばいくらだって耐えられた。

 しかし今は壮司がいる。自分のせいで彼に咎が及ぶのは嫌だった。それは自分が傷つけられた痛みよりも何倍にも強くなるのだ。

 眼前には巨大な家がそびえ立っていた。威圧するように背景の重い曇天が垂れこめている。

「入るぞ」

 壮司の声にうなずく。彼の声はさすがに固かった。

 壮司はためらいなく玄関の扉を横へ引いた。

 祖母が板の間に座し、感情の宿らない瞳でこちらを見ていた。ただよう冷気が一層強くなる。

 祖母は何も言わなかった。微動だにせず、呼吸ひとつしない置物のように、こちらをただ見ていた。

 祖母はすべてわかっているような瞳で壮司と巴を射ぬいた。電話では次の週末に話があるから帰るとしか言っていないはずだった。

 壮司は黙って頭を下げた。祖母の冷ややかな態度を無言で飲みこむような行動だった。

「――お上がりなさい」

 ふたりそろって帰宅したことは祖母の瞳にはどう映ったのだろう。祖母はすでに身をひるがえし、居間へと向かっていた。相変わらず感情的なところなど一切なかった。

 壮司について長い廊下を歩きながら、自分が普段以上に萎縮していることを感じた。

 どうしようもなく恐ろしいのだ。子どもを生める可能性が低いと祖母から糾弾されることが。そして壮司にふさわしくないと断言されることが。

 一度手に入れてしまった幸せはやすやすと手放せない。

 居間はすでにストーブがたかれており、暖かかった。その暖かさも気が張りつめた体の表面をなでていくだけだ。

 壮司と並んで座卓の前に座っても、体の強ばりは抜けない。

 祖母が正面に座す。心臓が激しく鼓動を打ち、顔を上げられない。

 ふと、膝の上に置いた手に何かが触れた。壮司の手だと認識した瞬間、手を強く握られる。冷えきった手にそのぬくもりがとてつもない安堵をもたらした。

 口を引き結んで、顔を上げる。馬鹿正直なくらい真正面から祖母を見据えた。

「俺は将来、巴を妻にしたいと思ってます」

 壮司が出した言葉だった。それなのにふたりで発した気分になった。

 これは壮司と自分、ふたりの総意なのだ。

 祖母は変わらない表情のまま壮司に、続いて巴に視線を向けた。その目には何も宿っていない。底なしの闇のような無だった。

「壮司さん、もう一度お尋ねします。あなたは巴さんの疾患はご存知でいらっしゃいますね」

 覚悟はしていたとはいえ、話が自分のことに及び、巴はわすがに身を固くする。子供が生めないことは確かに祖母にとっては疾患ととらえられることだろう。不良品に他ならない。

 机の下で巴の手を握る壮司の力が強まった。

「知っています」

 壮司ははっきりと答えた。知った上で言っているということをはっきりと示しているようだった。

「では私が申したこともお忘れではありませんでしょう。子が成せない嫁など古賀の家にはいりません」

 否定する余地がないほどきっぱりと言われ、あからさまに傷ついた自分がいた。あらかじめこう言われるのはわかっていたはずなのに、弱い心が反論を押さえこむ。ここで黙ってしまっては祖母の言っていることを認めたことになってしまう。

 何か言い返さなければと焦るが、また鋭い言葉が返ってくると思うと何も言えなくなる。

 代わりに口を開いたのは壮司だった。

「俺が望んでいるのは古賀の嫁ではなく、自分自身の伴侶です」

 壮司から何の力みもなく放たれた言葉に、瞠目した。

 この一言だけで壮司は古賀の所有物になる気はないことを表した。伴侶――多少重たい表現を用いたのはその決心の固さを示すためのように思えた。

「お祖母さま、私はできるかぎりのことはするつもりです。どうか少しの可能性に懸ける機会をお与えください」

 壮司の言葉が巴の背中を押した。母が巴を生んだように、まだすべての可能性は潰えたわけではない。切実な思いを胸に祖母を見つめる。

 しかし祖母の瞳は相変わらず凪いでいた。どこから見てもまったく変化も隙もない表情だった。祖母の威厳がある顔に刻まれたしわすら、一分たりとも動くことはなかった。

「あなたがたがなさろうとしていることはこの家に無用の混乱を招くことです」

 厳かに返された祖母の言葉には欠片ほどの慈悲もこめられていなかった。祖母は石のように固い。圧倒的な質量で自分たちを押さえつける。

「この家に生まれたからには果たすべき役目というものがありましょう。壮司さん、恩を仇で返しますか。役目を放棄なさいますか」

 祖母は攻めの手を緩めない。壮司を静かに追いたてる。

 しかし壮司にひるんだ様子はなかった。

「……ここまで育ててもらったことは感謝してます。ですが俺は巴以外と結婚することは考えられません」

 重い沈黙が下りた。ストーブの芯が燃える音だけが室内を満たす。

 これで自分たちは後戻りができなくなった。今の問答は祖母への反逆を決定的にさせたのだ。

「やはり血は争えないこと」

 祖母にしては小さめの声でつぶやかれたその言葉に耳を疑った。

 祖母は壮司と彼の父親を同一視しているのだ。祖母は口に出したことはなかったが、娘を奪った男を忌み嫌っていたのは明らかだった。

 こぼれるように放たれたそのつぶやきにかすかに祖母の感情というものを感じた。ただその感情の色まではわからなかった。

 傷ついた様子もなく、壮司が口を開く。

「俺は場合によっては父と同じことをする覚悟でいます」

 同じこと――つまり駆け落ちかそれに類することだ。

 昨夜の記憶がよみがえる。『俺についてきてくれるか?』と壮司は言った。あのときにはもう、決心を固めていたのだ。

 この言葉は祖母に対する単なる脅しかもしれない。だけれどもただの脅しとは言いきれないほどの真剣さをもって壮司は祖母に迫っていた。

 さすがの祖母も、間を置かずに言葉を返すことをしなかった。感情がうかがえない目で壮司を見ていた。 祖母の瞳がほんのわずかに鋭く細められた気がした。

「暖かい部屋で何度か説得しただけで認めてもらえるとはお思いではないでしょう」

「はい」

 嫌な予感がした。不穏な言葉を吐いた祖母にも、すべてわかっているように返事をする壮司にも何か暗黙の了解でもあるようだった。

「では蔵にお行きなさい。古賀の後継を拒否したあなたにこの家の敷居をまたぐ資格はありません」

「お祖母さま!」

 巴はたまらず叫んだ。

 こんな真冬のように寒い日に、暖房もない土蔵に閉じこめられて無事でいられるはずがない。

「お止めください! それでは壮司が死んでしまいます!!」

 決しておおげさではなかった。昼はまだしも夜の厳しい冷えこみに耐えられるはずがない。何せ土蔵はろくに日も指さず、夏の日中でさえひんやりとしているくらいなのだ。まだ春には程遠い今、あの寒々しい土蔵に長時間いることは下手をすれば生命に関わる。

「本当に強い気持ちがあるのならそれくらいできるでしょう」

 巴の悲鳴のような懇願もまったく意に介さず、何でもないことのように祖母は言ってのける。

「無茶です! お考え直しを、お祖母さまっ!!」

 なおも言い募る巴を無視し、祖母は壮司に顔を向けた。

「本気ならばその身で証明してお見せなさい」

「わかりました」

 勝手にふたりで納得して、話は終わったとばかりに壮司と祖母は立ち上がる。

「壮司!」

 出ていこうとする壮司を止めようと、その腕にすがる。

「大丈夫だ。心配すんな」

 こちらを安心させるためか、彼は不器用に笑い、巻きつく巴の腕を解く。制止する暇もなく迷いのない足取りで壮司は部屋を後にした。

「壮司! 壮司っ!!」

 どんなに叫んでも壮司の背中が振り向くことはない。廊下にむなしく声が反響した。

 壮司は本当にやる気だ。壮司の意志は固く、巴が止めたところで変えようがないことのように思えた。

 一方がだめならもう一方で攻めるしかない。しかし巴が口を開くより早く、祖母の声が放たれた。

「先週の転入試験をお願いして明日受けさせていただけることになりました」

 転入試験、明日。突然突きつけられた単語に理解が追いつかない。

「巴さん、あなたに選択肢を与えましょう。明日、転入試験を受けに行ってくだされば、壮司さんを蔵から出しましょう。今回のこともなかったことにいたします」

 淡々と祖母の言葉は続く。穴が開くほど祖母の顔を見つめ、やっと遅れた思考がついてくる。

 この人は結局、壮司がどんなに耐えたところで認めるつもりなどさらさらないのだ。身を持って示せと言った舌の根も乾かないうちから、こうして自分に取引を持ちかけてきた。

「あなた次第です」

 言葉を失う巴に向かってそれだけを言い捨てると、祖母は音もなく退室した。

 巴を追い立てるように、みぞれ混じりの雨音が部屋を包む。ひとりきりの室内でやけにその音は大きく響いた。

 脱力感に崩れるように畳に膝をついた。顔を手でおおう。

「どうすれば……」

 途方と絶望に暮れたつぶやきに、答えてくれる者は誰もいなかった。無力感だけが巴をさいなんだ。

 蔵の重たい扉が閉まる音が遠くから聞こえるようだった。

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