第6幕
転入試験はいつ、と健一郎が聞くと、巴は日曜だ、と答えた。
土曜日に行き、一晩泊まり、日曜に試験を受けて帰ってくるという。ずいぶん遠くにある学校なのだと思った。
巴が転入試験を落とすはずなどない。もう転校は決まったようなものだ。
健一郎は巴から生徒会の仕事の引き継ぎについて指示を聞き、後任について意見を聞かれればそれについて助言もした。
あの日から巴の転校を反対するようなことは言っていない。もう言っても無駄だとわかっていた。
芙美花も壮司も知らないことを巴とふたりでやっている。罪悪感がないといえば嘘になるが、健一郎は共犯者に徹した。
木曜日の昼も、金曜の夜も健一郎は普段通りに過ごした。
土曜日の朝、早くに目が覚めた。冬の夜明けは遅い。日は遅々として昇らず、東の空がやっと白み始めたところだった。
早朝の寒さに身を震わせながら、ベッドから降りる。
不思議と眠気を引きずることはなく、起きた瞬間から平静と変わらないくらいに思考は澄んでいた。
不意に健一郎の耳に足音が入ってきた。
歩幅が一定の規則的な足音。こんな几帳面な歩調で歩く人物を健一郎はひとりしか知らなかった。
その音が突然止まる。どこで立ち止まったか健一郎には容易に想像がついた。
自室のドアを開き、廊下へ出る。健一郎は迷うことなく壮司の部屋の方向を見た。
予想通り、そこには巴が立っていた。
健一郎の存在を認め、巴はあわてて壮司の部屋のドアから視線を外す。外れた視線はこちらを向いた。
「行くのか」
健一郎はあたりを慮り、声量を押さえて巴に問いかけた。
制服をきっちり着こんだ巴は、小さな旅行カバン肩に提げていた。
「……貢にはいろいろと迷惑をかけるな」
それはそのまま肯定の答えだった。
「や、別にそれはいいけど。気をつけてな」
巴は薄く笑い、そのままこちらへ背を向けた。
その姿を無言で見送る。遠ざかる足音が消えたところで部屋に戻った。
洗面と着替えを済まし、机の上に置いてあったミネラルウォーターを一息にあおる。それから衣服が散乱する部屋の中から財布を見つけだした。
中身を確認すると五千円と小銭がいくらかあった。充分だな、と思い財布を閉める。
雑然とした部屋を横切り、ドアをくぐって廊下へと出た。
大股で歩き、壮司の部屋の前で止まった。
仁王立ちになり、健一郎は息を大きく吸った。
「のんきに寝てんじゃねえよ!」
怒鳴りながら思いきり目の前のドアを蹴りとばした。
健一郎の渾身の一撃に、この階全体が揺れる。みしみしと天井が鳴っていた。
当の壮司が出てくる前に、隣の芙美花が出てきた。部屋のドアを小さく開け、「どうしたの?」と顔だけ出しておそるおそる尋ねてくる。
今だけは芙美花の問いかけに答えず、眼前のドアだけをにらみ続ける。間もなくこれ以上ないほどに不機嫌な壮司が出てきた。
「……お前、何しやがる。それに寝てねえよ」
地底から響くような低音は怒りの熱をはらんでいた。
彼の言う通り、壮司はもう起きていたようですでに身支度を整え終えていた。
壮司からすれば今の事態は訳がわからないだろう。健一郎の理不尽な怒りにさらされているしか思えないだろう。
しかし健一郎にそれを根気よく説明する気はさらさらなかった。
「古賀、転校するんだってよ」
健一郎は挑むように言い放った。壮司の反応を見る前に言葉を続ける。
「今日、転入試験だってよ。古賀の頭ならもう受かったも同然だな」
わざと挑発するように言ってのける。だめ押しとばかりに言葉を重ねた。
「そう言えばもう不動のことはあきらめるってさ。壮司は全然私のこと好きじゃないからって」
言いながら、健一郎の頭では“嘘も方便”の文字が踊っていた。多少の脚色は必要だ。
「よかったな。お前もすっきりすんじゃねえ? 好きでもない女から好意向けられたってウザいだけだし」
この一言に、今まで茫然としていただけだった壮司の表情が一変する。激しい怒りの形相になったかと思うと、胸ぐらをつかまれた。
「何も知らないくせに軽々しく言うんじゃねえよっ!」
壮司の怒声が廊下の隅々まで響き渡る。普段のじゃれあいのようなケンカでは絶対に出さないような本気の怒りだった。
少し考えれば健一郎の言葉がみえみえの挑発だとわかるはずだ。だが今の壮司はそれが健一郎の本心だと思いこんでいるようであった。
よっぽど巴の転校という話がこたえているようだ。他のことにまで意識を回す余裕がないのだ。
「悪いけど、何も知らないとは言わせねえよ」
いつもは壮司の怒鳴り声を聞くと反射的に臨戦体勢となる健一郎だが、今回は冷静に壮司を見据えた。
「古賀から全部聞いた。てめえのことも、古賀のことも」
健一郎は今の段になっても、自分のしていることが正しいかどうかわからなかった。
壮司と巴がまとまることで必ずしもふたりが幸せになるとは断言できない。
しかし、このままで終わるのもまた耐え難く思った。悪い可能性ばかりをとり沙汰して別れるなどあってはならない。
胸ぐらをつかまれながらも、健一郎は手に持っていた財布を壮司の胸に押しつける。
「行けよ。家とか立場とか関係なく、てめえのやりたいことやれよ」
いまだ混乱のまっただ中にある壮司の引き金をひくように、財布を叩きつけた。
「早く行けっ!!」
健一郎の怒号に弾かれたように壮司が動く。彼の目から迷いが消えた。
彼は財布を受けとり、「恩に切る」と短く言うと、すぐさま駆け出した。
必死、無我夢中。その文字が貼りついている背中を見ながら、健一郎は脱力感に息をついた。
本当に最後まで世話が焼ける。こんなにもおせっかいな真似をしたのは初めてかもしれない。
「健さん! 転校って何? 巴、転校しちゃうの!?」
今までドアに隠れながら様子をうかがっていた芙美花がわめく。
寝癖にパジャマ姿であわてふためく姿に苦笑した。
「心配すんな。そんな話すぐになくなるよ」
芙美花の頭に手を乗せ、健一郎は笑った。
―◆―◆―◆―◆―
何も考えなかった。ただ必死だった。
学院の正門を出るとちょうどバスが来ていた。ドアが閉まろうとしていたそれにすべりこむ。
荒い息をつきながらバスの手すりにつかまる。
バスに乗っている時間がただただ長く、あせりに気がおかしくなりそうだった。
その間、家のことなどまったく考えはしなかった。自らの責務も立場も忘れ、巴を行かせてはならないと、何としてでも阻止しなくてはならないと強く思っていた。
バスが駅へ着くと、料金箱に五千円をまるごと突っこむ。運転手が呼び止めるのも聞かずに駅へと飛びこんだ。
土曜日の朝だ。構内の人は少ないにも関わらず、急ぐあまり壮司は何回もぶつかった。
ここは何本もの路線がぶつかるターミナル駅だ。どの路線に巴が乗るかなど知らない壮司はとにかく闇雲に走り回った。
多くの路線のホームへつながる中央改札口で立ち止まる。急ぐ気持ちとは裏腹に息がもう続かない。膝が笑っている。
息を整えながら膝に手をつく。息をするたびに体の中の炎が燃え上がるように熱かった。
自らの呼吸音だけが満たしていた耳に、突如発車ベルが響き渡る。
『まもなく三番線の特急列車が発車いたします』
機械的なアナウンスのした方へすぐさま顔を向けた。
心臓がひときわ大きく鼓動を打つ。
遠くに特急列車に乗りこむ巴の姿が見えた。
一も二もなく走り出していた。息切れも足の疲労もどこかへ飛んでいた。
特急専用の改札を飛び越える。駅員のぎょっとした顔が視界の端に映った。
発車ベルの最後の旋律が流れる。
全力疾走する壮司を駅員ふたりが後ろから腕を捕まえた。
「巴! 巴っ!!」
つかまれた腕を力まかせに振りほどき、壮司は喉がつぶれそうなほどに叫んだ。
無情にもベルの音が声をかき消す。いまだに巴との距離は遠い。
『三番線ドアが閉まります』
アナウンスが淡々と残酷に流れた。閉まりかけるドアへと手を伸ばす。
「巴! 行くなっ!! 行くなっ!!」
発車前、一瞬の静けさを壮司の絶叫が切り裂いた。
「壮司!」
巴の声が答えた。
最後の最後に声は届いたのだ。
閉まりかけたドアを押し退け、巴が出てくる。
巴は状況が把握できずに立ちすくみ、こちらをただ見ていた。壮司はなりふりかまわず走る。突進するように、壮司は巴を抱きしめた。
「行くな! 俺の側にいろ! 一生、一生だっ!!」
死に物狂いだった。もう巴が何と言おうと離す気はなかった。突然目の前から彼女が消えるのに耐えられそうになかった。
どこにも行かせないようにきつく抱く。巴の手から力が抜け、どさりと旅行カバンが床に落ちた。
脇を緩やかに列車が発車していく。
「……壮、司」
震える声が名前を呼んだ。
状況を理解できていないのか巴の腕は中途半端に浮いている。
壮司は一度体を離し、その戸惑っている手を引き、こちらの首に回させた。
「どこにも行くな。一生俺の側にいろ」
羞恥心とかそういうものは一切なかった。巴がうなずいてくれることだけを望んでいた。祈るような気持ちで言葉を吐き出した。
茫然とこちらを見る巴の唇が震えていた。瞳に涙がたまっていく。直後、くしゃりと顔が歪んだ。
「わ、私がお前の本気の頼みを断れると思ってるのか!」
言いながら巴はぼろぼろと涙をこぼす。壮司の肩口に顔を埋め、巴は泣いた。
首に回されている両手は震えている。それでも一生懸命力をこめる巴に応えるように強く抱き返した。
「壮司、壮司!」
存在を確かめるように、巴の指先がこちらの頭に触れた。
どちらからともなく隙間を作り、顔を見合わせた。巴の濡れた瞳が一直線に壮司へ向いていた。
見つめあうその時間さえももどかしい。
壮司は衝動のままに唇を重ねた。
むさぼるような口づけに耐えるように巴に頭を抱きよせられた。より深く唇を押しつける。
周りの音など耳に入らなかった。ただ今までの歳月を補うように一心にキスを交わした。
ずいぶん遠回りをした。許婚という定められた枠を越えるために、長い年月を費やした。
今、ここにいるのは許婚ではない。
唯一無二の“恋人”だ。
すべてを超越した幸福に、満たされなかった思いが消えていく。飢えた目をした小さい自分が粉々に砕けた。
初めて今、心の底から自分の存在に感謝した。例え古賀家の厄介者でも、今こうして巴を腕に抱ける。そのぬくもりを一番近くで感じていられる。
――もう二度と手放せるか。
誰に何と言われようと、信念を曲げようとも、自分の気持ちを押さえこむことなどできない。
どこかで捨てていた“自我”が息を吹き返した。
家のためではない。自分と愛する人のために生きる。
これから自分は愛しい者の隣で笑って過ごせる。
これ以上ないよろこびに壮司はゆるやかに目を閉じた。
―◆―◆―◆―◆―
昼下がりのバスに揺られていた。
中途半端な時間帯のため、自分たちの他に乗客はいない。冬の淡い太陽が穏やかに車窓から射しこんでいる。
あの後、我に返った壮司は顔面蒼白やら赤面やらで忙しかった。関所破りならぬ改札破りをし、公衆の面前で叫んでわめいた上、そこから先は脳が考えるのを拒否するようなことをした。
とにかく駅員室に連れて行かれた壮司は、直角におじぎをして謝った。
一部始終見ていた駅員は明らかにいたたまれない顔をしていた。気まずさやら気恥ずかしさやらで何とも言えない空気が漂っていた。
隣にいる巴もそうだったようで、彼女にしては珍しく一貫してうつむいていた。元々壮司も巴もおおっぴらにそういうことができる性格ではないのだ。むしろ人前では絶対しないタイプだ。
それでも、この一連の出来事に悪意や他意がないことは駅員にもわかっていたらしく、壮司は無罪放免となった。学校に連絡されなくてよかったとつくづく思った。
駅から出たとき、不思議とどこかへ寄って帰るという考えはなかった。
自分たちには待っていてくれる人がいるのだ。その元へ早く帰らなくてはならない。まっすぐバスへと乗りこんだ。
バスはゆるやかなカーブに差しかかる。体が外側に揺れたのと同時に、巴の頭が壮司の肩にのった。
暖かい日射しを存分に受け、巴は安らかに眠っていた。
泣いて疲れたのだろう、と無防備な寝顔に小さく笑っていると、赤信号でバスが止まり、車体が揺れた。
その拍子に巴の頭が肩から落ち、体が傾ぐ。そのまま壮司の膝へ倒れこんできるのをあわてて受けとめ、慎重に寝かせた。
公共の乗り物の中で膝枕で眠るのは普段の巴なら間違えなく嫌がることだが、今はいいだろう。乗客は自分たちだけであるし、席も一番後ろだ。見えにくいところにある。
よっぽど疲れているのか巴はまったく起きる気配を見せない。
壮司は脱いでたたんであった自らのコートを巴にかけた。
すやすや眠る顔に涙の跡が残っていた。それを折り曲げた指でなでる。結局自分はどんなことをしても、巴を泣かせる運命にあるらしい。
「……ん」
巴が小さくうめき、ゆっくりと目を開ける。寝起きのぼんやりとした瞳がこちらを見上げていた。
「まだ寝てろ」
そう言って頭をなでてやると、巴は聞き分けのいい子供のようにうなずいて再び目を閉じた。
巴にとって泣くことと寝ることはセットになってやってくるらしい。壮司は今まで幾度となく泣いて眠る巴を苦々しい思いで見てきた。
しかし今、世の男は特別な誰かの寝顔を見るだけでこんなにも幸福になれるものなのかと思っていた。
きっとこれからこのとびきり綺麗な恋人の一挙一動に心を絶えず動かされるのだろう。
まだすべての障害がなくなったわけではない。目の前に鎮座する祖母をどうにかしなくてはいけない。
それに対抗する力が今、こうしているだけで自身の中で満ちていくのを感じた。過去の自分がいかに空虚なものを抱えて戦っていたことを知った。
カクン、と視界がぶれたところで目が覚めた。いつのまにか一緒に眠っていたらしい。
すばやく景色を確認すると、見覚えのある景色だ。立志院まであと少ししかない。
壮司はあわてて降車ボタンを押す。車内に鳴ったその音で巴が目を覚ます。
膝枕をされていた自分自身の状況に巴は何か言いたげな顔をしたが、その暇もなくバスが停車する。巴の荷物を持ち、あわただしく下車した。
正門前のバス停に降り立つ。かたわらの巴はどこか感慨深げに巨大な校舎を仰ぎ見た。
「……無様にも帰ってきてしまったな」
五年前、巴はおそらく家から離れたい一心でこの学院を選んだ。
しかし今、立志院を見るその瞳は決して“どこでもいい”というなげやりなものではなかった。
「……行くか」
わずかに春の気配を含んだ風が吹いたのを合図に、壮司は巴をうながした。彼女は薄く笑い、言葉もなくうなずく。
寮へ入り、階段を上がる。自室がある七階が近づいてきたとき、巴がため息混じりにつぶやいた。
「芙美花が待ちかまえているのが目に見えるようだな」
「ははっ。違いねえな」
笑いをこぼしながら、巴と手をつなぐ。
「早く安心させてやろうか」
巴のその言葉により固く手をつなぎ、明るい日射しがこぼれる七階に足を踏み入れた。