第5幕
「話があるんだ」
健一郎が巴からそう声をかけられたのは寒さが緩み始めてきた二月の末のことだった。
生徒会活動が終わり、寮へ帰ろうかというところだった。今日は水曜。週一回の部活がない休養日だ。
芙美花は小テストの追試で今ここにはいなかった。なんでも勉強する範囲を間違えたらしい。実に芙美花らしい話だ。
壮司は教師に書類を提出しに行っていた。カバンを持って行ったので、こちらには寄らずに寮へ直帰するだろう。
つまり今、生徒会室にいるのは巴と健一郎のふたりだけだった。
「話? 俺に?」
純粋に何だろうといぶかしむ。
何か相談事があるのなら芙美花の方が適任だろう。同性だし、健一郎よりも彼女と親しい。
芙美花と巴。共通点がなさすぎるふたりがよくうまくやっているものだ、と健一郎は時折感心すらしていた。
「少し、時間をもらえないか」
どうやら話の相手は健一郎でなくてはならないようだった。巴の瞳はまっすぐこちらを見つめている。
「それは別に大丈夫だけど……」
部活がなければ健一郎に何も予定はない。こんな閉鎖的な山奥にいて、部活以外の“放課後の用事”などあるはずがなかった。
健一郎が承諾すると、巴はもう一度お茶をいれた。
カップからたちのぼる湯気が、室内の空気をやわらげていた。
健一郎は巴と向かいあって座った。巴が何か重要な話をしたがっていたのは明白であったし、そういう場合、互いに顔が見える位置の方が話が聞きやすいと思っていた。
相対し、話を聞く準備が万端になっても、巴はすぐには口を開かなかった。
寒さは緩んできたといえ、日が暮れて温度が下がるとすぐに雪が降る。今日も暗い空から冷たいみぞれが降っていた。
雪よりは重く、雨よりは軽いみぞれが降る音が室内を包んでいた。
「貢」
話の口火を切ろうと、自分の名前を呼ぶその声が、妙に落ち着いていて健一郎は嫌な予感がした。すでに何かしらの決心を固めているように思えた。
「私、転校しようと思う」
余分なものを削ぎ落とした声が冴々と響いた。
健一郎は巴の発した言葉をすぐには変換できなかった。小・中ならいざ知らず、ここは高校だ。転校という言葉すらここ数年聞いていない。
次に出すべき言葉が見つからなくて、健一郎はしばらく絶句した。
「……転校って、一体どういうことだよ」
我に返ると、声の出し方を思い出したように、そのセリフが喉を越えた。
聞きたいことはたくさんあった。しかし何より壮司は知っているのかということが一番聞きたかった。
「祖母の知り合いがやっている高校でな。試験を受けて三年次から転入するつもりだ」
決定事項のようにすらすらと話した後、巴は「生徒会の方はそれまでに何とかしていくから安心してくれ」とつけ加えた。
その言葉に即座にカッと体に熱が回った。
「そんなもんはどうでもいい!」
健一郎はたまらずいきりたった。
どうして巴は頭がいいのに、ときにこんなにもズレた受け答えをするのか。本気で健一郎が生徒会の行く末の方が気になっているとでも思っているのか。
「何で転校なんかすんだよ」
この言葉に巴は目をまたたかせた。それから話すべきことを探すように目を伏せた。
転校と聞いたからには表面上の話で済ますわけにもいかない。それくらい巴も重々承知しているだろう。
「どこから話すべきなんだろうな」
巴は困ったように笑った。
その笑みに話すべきことを考えてあぐねているだけで、それ以外の含みはなかった。
「貢は私と壮司のことをどこまで知っている?」
その言葉を聞いた瞬間、やはり壮司と関係のあることだと悟った。
「許婚で……不動は坊さんに……」
細かいことはわからない。しかしふたりの間に固くやっかいな事情が重くのしかかっているのは知っていた。
「そう。私の家は代々住職を務めてきた。だが直系の男子がいなくてな。それでいとこの壮司を私と結婚させ、後を継がせるつもりだった」
何の縛りもない家庭で過ごしてきた健一郎にとって、古賀家のやりようはものすごく横暴に感じる。
しかしそれに従ってきた彼らも彼らだ。
健一郎の考えていることを敏感に感じたのか、巴は苦笑した。
「後は貢の知る通りだ。私たちの仲は破綻した。婚約も解消した」
この自由な感情があふれている現代で、人の感情を約束で縛りつけておくことなどできるはずがない。
それがわからなかった自分は愚かだというように、巴は口の端を釣り上げた。
「許婚でなくなった私があの家にとどまり続けることはできない」
「……それで転校ってわけか」
一応、話の筋は通ったものの、転校とはあまりに極端だった。
「だけどいくらなんでも転校までしなくていいだろ」
考え直せ、という意味をこめ、健一郎は言葉を継ぐ。
だが、巴は静かに頭を振る。
「それだけじゃないんだ。私は医者になりたいと思っている」
「医者?」
巴は無言でうなずいた。
巴と医者。あまりにぴったりですぐに納得してしまった自分がいる。
「転校先の高校は大学の付属でな。医学部もある。付属から内部進学すれば一般入試よりも高い確率で入学できる」
理路整然と巴は言う。
あらかじめ準備しておいただろう言葉を隙なく発する彼女の本心はどこにあるのだろう。
「なぁ、古賀」
「何」
健一郎の目に映る巴の姿は完璧だった。健一郎が何を言おうとも揺らがない姿がそこにはあった。
こんな上辺だけの会話をしても、何も意味がない。
「不動はもういいのか」
残酷だと知りつつ、巴に鎌をかけた。
しかし、予想外にも巴は崩れなかった。
「失恋ごときで転校などおかしいだろう?」
巴はあざけりの笑みを浮かべ、自分を卑下する言葉を吐いた。
それは壮司のことで転校すると言っているも同然だった。
なぁ、古賀。と健一郎は心の中で呼びかける。脳内に芸術祭の次の日、落下する看板から巴をを守った壮司の姿がまざまざとよみがえってきた。
不動はたぶん、たぶん――……。
「……何で、この話を俺に?」
少し冷静になりたくて、話を変える。
いつのまにかみぞれが雪に変わり、あたりの音を吸いとっていた。
「仕事の引き継ぎとかがあるからな。誰かに知っておいてもらわなくてはならなかったんだ」
すこしためらった後、巴はそれに、と続けた。
伏し目がちにカップを見つめる巴の顔に、長いまつげが影を落としていた。
「誰かに言うことで、決心を固めたかったのかもしれないな」
確かに芙美花では転校の話を冷静に聞くとは思えない。壮司にはもとより言う気もないのだろう。
だから巴は一番後腐れがない健一郎を話し相手に選んだ。
自分ならば芙美花と違い、頭ごなしに転校を反対することもない。そして最後には転校を手助けしてくれる人物として、巴に見込まれたのだ。嫌な見込まれ方だ。
「……あのいとこは知ってんのか?」
「いとこ? ……ああ、由貴也か」
最近めっきり姿を見せなくなった由貴也だが、彼が巴に想いを寄せているというのは周知の事実だ。いや、想いを寄せているというかわいいものではない。純粋で真っ直ぐな想いゆえに、悪質さすら孕んでいた。
その由貴也が黙って巴を行かせるとは到底思えなかった。
「知っている。昔から由貴也は変に勘が鋭くてな」
それは要するにバレたということだろう。
巴は辟易とした表情をしたが、その目には隠しきれない深い慈しみがあった。
巴と由貴也が長いつきあいだというのは傍目から見ていても充分にわかった。その長い年月が巴にそういう顔をさせるのだろう。
由貴也は当然、巴に行くなと言ったはずだ。健一郎でさえ巴にそう言ったのだ。彼が言わないはずかない。
しかし、その由貴也でさえも巴の決心を変えられなかった。
巴の決意はもう動かしがたいように思えた。
おそらく、その強固な意志を変えられるのはただひとり。この世界でたったひとりしかいない。
「……不動は」
吐息に名前を乗せると、次の言葉の重さにしり込み、口を閉ざした。
自分は彼らの関係を引っかき回そうとしているだけではないのか。転校という結論を巴が出したのなら、それにとやかく言うべきではないのではないか。
健一郎が言おうとしていることは勝手な憶測にすぎない。その憶測で巴にあやふやな期待を持たせることはしてはならないことではないだろうか。
言葉を押し止めようとする思考が次々とめぐった。
理性は言うべきでないととっくに結論を出していた。しかし、それとは裏腹に口が開いていた。
「あいつはたぶん古賀のことが好きだと思う……っ」
いつの間にか必死になっていた。
こんなおせっかい、まるで芙美花のようだ。
巴はこちらの剣幕に圧され、呆気にとられた顔をしていた。自分自身でも熱くなっていることは自覚している。自覚しているが、ここまで出してしまってはもう引っこみがつかなかった。
「あいつは不器用だから言えねえだけなんだよ。だから……」
だから待ってやってくれ、そう口を動かそうとしたが、静かに微笑んでいる巴の姿に声が出なくなった。
その微笑は優しかった。しかし何かに諦めたような笑顔だった。
「壮司には望みがある。だけどそれは私と一緒になることではない」
それは静かに諭すような口調だった。
「壮司は古賀家の養子のようなものだ。だから家の意向には逆らえない」
壮司の根幹に関わる話を、巴は淡々と語った。健一郎はただただ驚く。自分の近くにいる人間にそんな事情があったら、誰だって驚かずにはいられないだろう。
「養子って一体何だよ。父親は何してんだよ」
わからないことが多すぎて、矢継ぎばやに問いかける。
健一郎は混乱の極みにあった。
「壮司をうちで養っているということだ。それと壮司に父親はない。私も誰だかわからない」
父親がわからない。今どきそんな話があるのか。それだけで自分の存在が不確かになる気がした。
「壮司は律儀な性格だからな。恩を返すために絶対に古賀家の後を継がないといけないと思っている」
不意に健一郎の脳裏に頭を下げる壮司の姿が浮かんできた。
それは冬休み前、壮司が起こした暴力事件のときだ。保護者として呼ばれた彼の祖母と思しき人物に壮司は頭を下げていた。祖母を前にした壮司はずいぶんらしくなかった。まるで平伏しているようであった。
その背景には養子という事情があったのだ。
「古賀の一族は皆、独自の価値観に凝り固まっていて、壮司に対する風当たりはいつも強かった。何もわからない子供から見てもそれは酷いものだったよ」
過去を回顧する巴の口調は相変わらず淡白だった。だが、言葉の端々に壮司に対する痛ましさを感じる。
巴は決して壮司を嫌いになったわけではないのだ。
「なら何でお前まで不動から離れてくんだよ。家の中でやつの唯一の味方だったんじゃねえのかよ」
健一郎は言い募った。彼らの関係に口を出すことにためらいはなくなっていた。
父親がいない壮司。世間でも片親であることで高く評価される例はない。いまだそういう偏見は根強く残っている。古賀家はそれが特に顕著なのだろう。
降り注ぐ差別から、巴が養子という立場ゆえに物言えぬ壮司を守ろうとしたことは想像にかたくない。
健一郎は自分の無神経な発言にハッとした。舌打ちをしたい気分だ。
これ以上、巴に壮司のことを想い続けろというのは、ずいぶん酷な話だった。
それでも巴は「うん、そうだな」とやわらかく言った。
「貢の言う通り、私は身勝手だ」
ゆっくりと一語一句噛みしめるように、巴は断じた。
はからずも巴を責めてしまった自分が苦々しかった。
沈黙が落ちる。あたりに満ちる静けさとは逆に、健一郎の内は騒がしかった。
そのざわめきが否応なしに言葉を押し上げる。
「……許婚に戻ることはできねえのかよ」
巴の話を聞きながら健一郎はずっと疑問に思っていた。結婚という制限はあるものの、許婚に戻ればすべてが解決するように思えた。なぜそうしないのか不思議なくらいだった。
「壮司に古賀家で求められている一番の役割は何だと思う?」
話の筋から外れたような問いかけをされ、健一郎はとっさに答えられない。
「後を継ぐこと、か?」
口ごもりながらも、今までの話を鑑みて最適と思われる返事をした。
「違う。子を成すことだ」
巴の冷静な切り返しに、後頭部を殴られたかのような衝撃に襲われる。その余波が脳内で反響し、何も言えない。
古賀家はどこまでも家のことしか考えていないのか。
「壮司は言い方は悪いが、種馬のようなものだ。お祖母さまは家の後継を絶やさないために壮司で妥協した」
「種、馬……」
あまりの言い草に二の句が継げない。
古賀家では壮司の意志など取るに足らないことなのだ。あまりに壮司は虐げられている。
「壮司はいい。まだ種馬になれるのだから。私はそれ以下だ」
健一郎には巴の言葉の意味がわからなかった。だけれどもそれがひどく卑屈な意味を含んでいることは察せられた。
巴の淡い笑顔は一見何も変わらないようだ。しかし、注視すればするほど翳りが見える。自らの存在を疎み、憎んでいるような笑い方だった。
「私は、子供が生めないんだ」
目を、見開いた。
「今、何て……」
「子供が生めないと言った」
こちらの軽率な聞き返しにもなぜ巴はそんなにも平然と答えるのだろうか。
「中学のとき、そういう体だと診断された。壮司もこのことは知っている」
巴の顔にはもう、自らを卑しめる色はなかった。極めて事務的に話を進めている。
その姿を健一郎は茫然と見ていた。
自分と近いと思っていたふたりの事情はあまりに重く、遠い。健一郎が何を言ったところで軽い。
「洗いざらい話してしまったな」
少しも楽しい話ではなかっただろう、と巴は申し訳なさそうに笑っていた。
何で、何でと健一郎の頭の中でその言葉がぐるぐると回る。
なぜそんな風に笑って言えるのか。様々な苦しみがあっただろう。やりきれない思いがあっただろう。
それをどうして仕方ないと割り切れるのか。
「何で……何で笑って話せんだよ。割り切れないだろ、普通」
机の下で握った拳が震えた。
自分は巴に望んでいるのかもしれない。わめいて叫んで、この理不尽で残酷な現状を崩して欲しいと。
健一郎の揺れる瞳の先の巴から笑顔が消えた。
作り物めいた表情はなりを潜め、真剣な真顔がそこにあった。
「割り切れないから転校するんだ」
余裕を保っていた巴が初めて崩れた。
自身の乱れに気づいたのか、巴はハッとして顔を歪める。
巴の本心を聞くためには、この隙を逃してはいけないと思った。健一郎は叫んだ。
「古賀、言えよ! 本当は転校したくないんだろ」
巴は固い表情でマグカップに入っている紅茶を睨んでいた。
「言えよ!」
それは懇願に近かったかもしれない。
健一郎は芙美花と同じくうれしかったのだ。壮司が巴を好きかもしれない。その可能性行き当たったとき、ああやっとか、と感慨すら抱いた。壮司を拾ってくれるのは巴しかいないと思っていた。
まとまりそうだと安心した矢先、どうしてこんなことになるのか。
巴は答えなかった。肯定も否定もしなかった。険しい顔でただ一点を見つめているだけだった。
その姿は何かに耐えているようで、痛ましかった。 ――それが答えか。
交わされる言葉がなくなった室内はやけに静かだった。応酬の熱気は冷え、しんと寒さが体に回る。それはあきらめだとか失望と同類の冷たさだった。
「……わかった」
膝の上で握っていた拳を解いた。
「転校までに俺は何をすればいい?」
健一郎は説得をあきらめ、強ばった声音で最後に巴へ協力することを誓った。