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かざす花  作者: ななえ
第9章
46/68

第4幕

 翌日は学校を休んだ。いや、正確には休まされた。

 昨日、保健室で一眠りした後、気分が悪くなってしまった。

 それは頭を打ったせいも多少あるかもしれないが、おおむね寝不足のせいだろう。あまり寝てないところに、頭への強い衝撃を受ければ誰だって気分くらい悪くなる。

 壮司はそれを大仰に心配し、一晩経った今日も学校は休めと言った。

 数分の押し問答はしたものの、結局壮司に押し切られる形で欠席してしまった。

 うららかな日だった。寒さは緩み、つかの間の陽気が部屋を包んでいる。

 その陽光を浴びながら、巴はぼんやりと遠くで鳴っている始業のチャイムを聞いていた。

 思わぬ休日ができたというのに、巴は何もする気がおきなかった。昨日のことばかりが浮かんできて、何をしようにも邪魔をする。

 あのとき、壮司に抱きかかえられながら、由貴也の顔を見た。

 由貴也はいつもどことなく他人に対して斜に構えたところがあるが、あのときばかりはすべてが抜け落ちた顔をしていた。

 それは素の十五歳の表情だった。

 今まで由貴也はいつも自然体で生きていると思っていた。彼以上自然体で生きている人物もいないと思っていた。

 しかしその“自然体”の下に年相応の少年らしい顔つきが見えた。呆然とし、深く心が傷ついたために感情がマヒしているかのような表情だった。

 彼にその一撃を加えたのは他ならぬ巴だった。

 彼の目の前で壮司を庇った。その後、彼の拳に殴られたよりも、由貴也はそのことに傷ついたように見えた。

 由貴也にあれだけ想いの丈をぶつけられながら最後にとった行動はこれだ。落ちるところは地獄だろう。

 窓から見える空は恨めしいぐらい晴れやかだった。ベッドのふちに背を預けて、その景色を眺めていた。かたわらに置いたコーヒーはもうすっかり冷めている。

 こうして無為に時間を過ごすのは何ヵ月ぶりだろう。ずっと気を張っていたように思う。

 立志院で過ごすのもあと少ししかない。ここで中等部から五年弱の歳月を重ねたが、この半年間はもっとも忘れられないものになるだろう。

 芙美花と健一郎がいて、由貴也も戻ってきて、そして壮司がいて。あと半月もしないうちにそのすべてがなくなってしまうのだ。

 その感傷に目を向けないようにしてきたが、今日ばかりは無理そうだった。

 思考に没頭していた巴を現実に戻したのは、耳にコツ、という音が入ってきたときだった。

 顔を勢いよく上げる。このシチュエーションには覚えがあった。

 誕生日の夜もこうして窓ガラスが鳴ったのだ。

 あわてて窓に駆けよる。

 窓を開くと、乾いた冷たい空気が入ってくる。

 その冷気を身にまとい、そこに由貴也が立っていた。 あの夜と同じように、何でもないような飄々とした顔で。

「由貴也……」

 窓枠に手をかけ、彼と対峙する。

 言葉が出ない。なんと言っていいかわからずに目を伏せた。

「なんて顔してんの」

 対する由貴也の方は気まずさなど一片も感じていないようだった。

 相変わらずの薄着で、また各部屋のベランダを伝ってきたのか裸足だった。

 それがとても寒そうに見えて、巴は由貴也の腕を引っ張った。

「……中へ入ったらどうだ」

 罪悪感からか、それとも単純に寒そうだったからなのか、自分でも判断がつかない。曖昧な気持ちのままに由貴也を室内に引き入れる。

 以前はあんなにも彼に部屋に入られるのを警戒していたというのにだ。

「ここでいいよ」

 由貴也は動かなかった。

 まがい物の優しさなんていらないから――そういう瞳でこちらを見ていた。

 彼の腕をとった手を離しながら、自らに恥じいった。

 今、由貴也に優しくするのはただの同情だ。そうすることで罪悪感をごまかしたいだけなのだ。

「……ごめん」

 先ほどまで由貴也に触れていた指先が痛い。

「なんで謝んの? 謝るのはこっちでしょ」

 そう言うと由貴也は腕を伸ばした。昨日殴られた側頭部にそっと触れられる。

「頭、大丈夫?」

 淡白な声音と裏腹に、その手のひらはいたわりに満ちていた。

 由貴也はこう見えて、人一倍繊細だ。気にしていることはわかっていた。

「たいしたことない。少しおおげさなんだ」

「ふぅん……壮司さん、ずいぶん過保護なんだ」

 “誰が”おおげさなのか。由貴也はそれを瞬時に理解して笑った。そのいびつな笑顔に自暴自棄の色が見えた。

 不用意に壮司につながることを口にしてしまった自分がひどく迂濶に感じた。

 無意識に口にするほど壮司の存在が自分に染みついているということに嫌気がさした。

 たとえ壮司を忘れるという条件で由貴也の想いを受け入れたとしても、事有るごとに巴の中に存在する壮司の影は顔を出すだろう。それが由貴也を傷つけ続けるのだ。

 いい加減ケリをつけなければ、と思う巴を見透かしたように、由貴也が先に口を開いた。

「言いなよ。ためらわなくていいよ」

 巴よりよほど腹のすわった瞳で彼はこちらを見ていた。

「わざわざフラれにきたんだから」

 そこで由貴也はだるそうに背後にあるベランダに寄りかかった。手すりに腕を乗せ、ふんぞり返っているように見える。

 とても今からふられる人物には見えなかった。

 彼の顔に浮かぶ自嘲ぎみの笑みがどうしようもなく痛かった。

 どうして関係に恋愛が絡むと百かゼロしかないのか。つきあってより親密な関係になるか、別れて関係を終わりにするかしかないのだろう。

 由貴也だって大事だ。失いたくないと切に思っている。

 しかし今それを言ったってどうしようもないとわかっていた。

 巴の逡巡を見透かしたように由貴也が体を立て直す。

 そのまま立ちすくむこちらの手をそれぞれ軽く握られた。冷えきっていた指先に由貴也のぬくもりが心地よい。

「……俺のことちょっとでも好きなら早く言って」

 こつん、と互いの額が軽くぶつかった。

 自分の子供っぽさに羞恥を覚えた。由貴也の方がよっぽど大人だ。

 こうしてわざわざ話しやすくしてくれている。

 この優しい由貴也に自分は今からもっとも残酷なことを言うのだ。

「お前とこうして話している間にも、私の中には壮司の存在があって……」 目の奥が熱い。しかしこらえた。今、涙を流すのはずるいと思った。

「由貴也、お前を好きにはなれない。どうしても」

 由貴也は身じろぎひとつしなかった。

 目を伏せ、こちらの言葉ひとつひとつを咀嚼するように耳を傾けていた。

「うん」

 いつもと変わらないような返事をしたかと思うと、由貴也は額を離した。

 手がつながったままなことに巴は安堵した。それだけが由貴也と自分をつなぐ最後の糸のように感じた。

 その手の上に一滴、上から雫が落ちてきた。

 その雫が何なのか――気づいた瞬間、胸をわしづかみにされたような感覚に陥った。

 驚きに顔を上げる前に、由貴也に抱きよせられる。気がついたときには彼の胸に顔を埋めていた。

 自らの顔を隠すような行動だった。

 巴は動けなくなった。衝撃が何もかも奪ってしまった。

 次第に胸にこみあげる痛みにこらえるように目を伏せた。

 この痛みが自分のものなのか、由貴也から流れこんできたものなのかはわからない。

 ただ痛くて、その痛みさえおこがましいものに感じた。

 由貴也に向けて言葉を発するたびに、拳を振り上げている感覚に陥った。

 どんなに痛みを感じたところで自分はしょせん拳を振り上げる側なのだ。

 そのぬぐえない事実におののき、冷たいものがせりあがってくる。

 ごめんという言葉さえも軽い気がして口に出せなかった。ただただ由貴也の腕の中で身をすくませているだけだった。

「……今だけは俺のことだけ考えて」

 今の巴は消えそうな由貴也の声に逆らうすべを持たなかった。

 目をつむり、由貴也の背中に手を回した。

 今だけは壮司の存在を頭から追いやった。それが由貴也に対する礼儀だと思った。

 心を空にしたはずなのに、涙を飲みこんだ重さがいかりとなって胸に沈んだ。

 その重さが内側から圧迫する。苦しさがら逃れるように由貴也を抱きしめる腕の力を強めた。

 そうして窓の内と外で固く抱き合っていた。

 長い間由貴也のぬくもりに包まれながら、彼の存在を刻みつけるように息を吸った。

 喉の奥がやけどしたかのように熱かった。

 幼い頃、壮司と由貴也と自分とでままごとをしたあのときには、どんなに願っても永遠に戻れないのだと悟った。戻れないからこそ、こんなにも渇望するのだ。

 幸福な子供時代はきらめきとともにはるか彼方へ遠ざかった後だった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「何してんですか」

 後ろから聞こえた声に壮司は首だけ動かして振り返った。

 目線の先――生徒会室の戸口には由貴也が立っていた。夕方の太陽が彼の背後から差している。顔は逆光でよく見えないが、服装は指定のスラックスにワイシャツ一枚をつっかけただけで、見ているこっちが寒くなりそうだ。

「……お前こそ何しに来た」

 机上に視線を戻し、固い声で壮司は答えた。

 放課後の生徒会室に彼がくる理由など思い浮かばなかった。またこちらの神経を逆なでしに来たかと思うと憂うつにもなる。

 それに彼と会うのはあれ以来だ。由貴也に対する複雑な感情はあった。

 淡々としている彼が初めて見せた強い怒り。そしてそれに洗い出された自身の感情に観念するしかなかった。

 あんなにも巴が好きだということを認めてはならないとあがいていたのに、認めてしまった今は不思議とおちついている。

 まるでこうなることが自然であったようだった。

 由貴也は壮司の問いかけを無視し、相変わらず覇気のない足どりでこちらに歩みよってきた。

 しかしその覇気のなさとは裏腹に、どこか据わった目をしていた。

 壮司は本能的な危険を感じたが、回避する前に由貴也の拳が飛んできた。由貴也はまったくの無表情であった。なんの前触れもなく腕を振り上げた。

 それを壮司は寸前で受けとめた。由貴也の拳と触れあい、手のひらが小気味いい音をたてる。

「……へぇ、今日は殴られてくれないんですか」

 由貴也の抑揚のない言葉は昨日のことを指していた。昨日、壮司は一発目の由貴也の打撃を甘受しようとしたのだ。

「やられっぱなしなわけにはいかなくなったからな」

 苦々しさを感じつつも、壮司は即座に言葉を返した。

 巴を好きだと認めてしまったら、もうどうしようもなかった。今まで壮司は、由貴也と巴を間にはさみ戦うことを放棄してきたが、これからはそういうわけにもいかない。

 決意のこもった壮司の瞳を由貴也は喉の奥で笑って退けた。

 至近距離で目が合う。こんなにも緊迫した状況だというのに、壮司の目がいったのは由貴也の頭だった。

「……お前、髪切ったのか」

 拳を受けとめながら言うことではないとわかっていたが、つい口に出してしまった。

 由貴也は誰かに触られることを極端に嫌がる。面倒くささも相まってかなかなか散髪に行こうとしない。以前伸びた髪がうっとうしくなったのか、自分で自分の髪にハサミを入れて大騒ぎになったこともあった。

 その由貴也が耳が見えるくらいにまで短く髪を整えていた。

 髪を切っただけであの怠惰な由貴也が見た目だけは幾分かきちんとして見えるのだから不思議だ。

「巴にふられたからね」

 やや自嘲ぎみに、しかしなんでもないことのように言うと、拳を収め、由貴也は少し離れた椅子に座った。

 壮司は言葉につまる。

 手持ちぶさたにペン回しをしている由貴也には悲愴感だとかそんなものは感じられない。

 しかし髪を切る――少し古風な失恋のふっきり方が由貴也らしいといえばらしかった。

「何……手紙?」

 壮司の思考など意に介した様子などなく、由貴也は机に置かれている便箋と封筒に目をやった。

 その切り替えの早さはやはり由貴也だった。そして頭の回転も早かった。一瞬にして便箋と封筒の意味を理解したようだった。

「誰宛か当てみせましょうか?」

 由貴也の表情は依然として変化に乏しかったが、目の奥には意地の悪い愉悦がちらちらとまたたいていた。

「わかってんなら言わんでいい」

 真っ白な便箋はそのまま今現在の壮司の気持ちだった。

 堂々めぐりをするばかりで、一向に進まない。進めない。

 残酷なまでに白い便箋の上に何かの書類が放り出された。由貴也からぞんざいに扱われたそれを壮司は手にとる。

「……陸上部活動計画?」

 それは今日までに提出が義務づけられている部活動の活動案だった。

「俺、それ渡しに来ただけだから」

 そう言うやいなや、由貴也はきびすを返して出ていこうとする。

「何でお前が?」

 陸上部と由貴也との関連性がさっぱりわからない。由貴也に限って陸上部の友人に頼まれてということは考えられない。

 由貴也は顔だけ振り返った。

「一番下っぱだから」

 由貴也の答えは簡潔だった。

 簡潔すぎて言葉が足りない。さらなる説明を求めて由貴也の顔に視線をやると、唐突に過去の由貴也と今の由貴也の顔が重なった。

 不足した言葉はその残像が埋めた。陸上部、短くなった髪、一番下っぱ。一本の線になり、壮司の脳内で閃いた。「陸上部に入ったのか」

 壮司の頭によぎった由貴也の姿はグラウンドに立つ中学生の彼だった。

 由貴也は中学時代、陸上部に所属していた。

 あの由貴也が陸上部に入っただけでも当時充分に驚きに値した。だが彼はまわりの予想に反して中学三年間続けてみせた。

 最後の引退試合はどういう成り行きでだかは覚えていないが、巴とともに見に行ったのだ。

 そのとき、スタートラインで立つ彼を見て壮司は心底驚いた。

 おおよそ普段本気という言葉には程遠い由貴也が真剣なまなざしでゴールを見すえていた。それだけで今まで適当に部活動をやってきたわけでないとわかった。

 走るときもあの面倒くさがりの由貴也が一切手を抜いていなかった。野生の動物のように彼が走る姿はきれいだった。

 走るときだけは由貴也はまじめだった。大まじめだった。

 だが、走り終えたその瞬間にスイッチが切れたかのごとく、いつもの無気力な由貴也に戻るのだ。さきほどのひたむきさはどこへ行ったんだと言いたくなるような変わりようにもまた驚いた。

 身だしなみにうるさい運動部ゆえ、引退するまで由貴也の髪は短かった――ちょうど今のように。

 失恋が由貴也にもう一度陸上をやらせるきっかけになったのかはわからない。しかし事実として由貴也は一年あまりのブランクを抱えながらも陸上部に入部し、『一番下っぱ』として雑用をしている。

 由貴也は答えず、感情のこもらない一瞥を壮司に向けた。

「ねぇ、壮司さん」

 壮司から視線を外した由貴也はドアと向き合い、こちらに背中を向けていた。

「早くしないととりかえしがつかなくなるよ」

「とりかえし……?」

 由貴也の言葉はいつも謎かけのようだ。真実の全貌は決して明かさず、少しだけの情報で壮司をあせらせる。

「これ以上は言いませんよ。ふられた相手の幸せを無償で願えるほど性格よくありませんから」

 壮司の混乱をよそに、言うことは言ったとばかりに由貴也はドアに手をかけた。

 ふられた相手、つまり巴がらみのことだと理解したときにはその姿はもう生徒会室になかった。

 まったくもって喰えないやつだ。巴にふられたといっても油断ならない。壮司にお構いなく爆弾を投下していく。

 感情のままに壮司は目の前の便箋を握りつぶした。どうやら悠長に手紙など書いている場合ではないようだ。

 壮司の中にはまだ迷いがある。自分をつちかってきたすべてに背く覚悟を持てずにいる。

 しかし、いてもたってもいられなかった。

 携帯をポケットから出し、よどみなくボタンを押した。

 数回のコールの後、運よく壮司の望んでいた相手が出た。

「俺です」

 電話の向こうは突然の電話にも関わらず、落ち着き払っていた。

「話があります。次の休みにそちらへ行きます」

 有無を言わせぬ壮司の物言いに、少しの沈黙の後、わかりました、と無機質な返事があった。

 この鉄壁のような人と自分は今から対峙する。

 壮司は電話を切った。携帯を閉じ、ゆっくりと手を下げた。

 まずは自分のことに決着をつけなければならない。そうして初めて“始まる”

 手の中の携帯を握りしめた。

 夕暮れの名残のごとき陽光が、壮司の顔に深く陰影を落としていた。

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