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かざす花  作者: ななえ
第9章
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第3幕

 本当に運としかいいようがなかった。

 壮司は普段そこまで携帯の着信に頓着しない。それなのに今日、部活に行く途中に携帯を開いたのはまったくもって偶然だった。

 四時台だというのに辺りはすでに薄暗い。薄闇の中、携帯のディスプレイはあざやかに光っていた。

『着信 古賀 由貴也』

 年がら年中マナーモードになっている壮司の携帯は、背面の点滅だけでその着信を一生懸命告げている。

 壮司はすぐにはとらなかった。相手が由貴也だということは壮司に少なからず警戒心を与えた。

 壮司のことを嫌いだと公言してはばからない由貴也が、いまさら壮司に何の用事があるというのか。おそらくろくな用事ではない。

 壮司は覚悟を固め、通話ボタンを押した。

「何だ」

 由貴也に対し、声が反射的に無愛想になるのは致し方ないことだろう。

『あー壮司さん。めずらしいね、アンタが電話に出るとは』

 電話という機械を挟んでいるせいか、由貴也の声はより一層感情の起伏を感じさせない平坦なものに聞こえた。

「お前こそ俺に電話かけてくるとは何の用だ」

 由貴也とまどろっこしい会話を楽しむつもりは一切ない。壮司は寒さに白い息を吐きながら単刀直入に尋ねた。

『別に用事はないけど、なんとなくです』

 そのわけのわからない解答に脱力しそうになる。お前は嫌いな相手になんとなく電話をかけるのか、と心中でつっこんだ。

「『なんとなく』でかけてどうすんだ。世間話なんてしねえだろ」

 自分たちの間にどんな会話の種があるというのか。相手が由貴也では、あの巴ですら他愛のないおしゃべりをするのは難しいだろう。

『そうだ。壮司さん、次は巴の携帯からかけてあげましょうか?』

「は……?」

 すぐには言葉の意味が理解できなかった。由貴也の口調があまりにも普段通り淡々としていて、それが危険な意味を含むものだとすばやく認識できなかった。

 一拍遅れて今現在、由貴也は巴のすぐ近くにいて、彼女の携帯を好き勝手に扱えるという現状を把握した。

「……てめえ、何してやがる」

 脳を灼く怒りをそのままに、携帯をきつく握りしめる。熱が体を駆けめぐり、寒さなど感じる余地はなかった。

『さぁ? アンタの卑猥な想像におまかせしますよ』

 そこだけ由貴也はうっすら楽しげに言い放ち、電話は一方的に切られた。後はツーツーという虚しい音が会話口から流れるだけだ。

 卑猥な、想像。

 その単語が壮司の頭の中をめぐる。

 これは由貴也の挑発かもしれない。自分はまんまと乗せられているだけなのかもしれない。

 そんなことを考える余裕もなく、携帯を荒々しく閉め、走りだした。

 行くあてなどない。足がおもむくままに全力で走るだけだ。

 このとき自分を突き動かす感情の名を壮司は知らなかった。そんなことどうでもよかった。

 焦りや怒り、いらだちなど一言では言い表わせない気持ちが勝手に足を急がせる。

 いちいち彼らがいる場所を割り当てるためにあれこれ理論を立てていられなかった。そんな悠長なことをしている猶予もなく、する気もない。

 壮司は直感を頼りに校舎に駆けこんだ。

 昇降口の大きな柱が西日に照らされ長い影を作っている。それをかいくぐり、人気のない大階段を大股で上った。

 さらに続く階段を駆け上がる。『三階』と美しく図案化された壁のプレートを見て、壮司は横に折れた。

 本館三階の廊下には等間隔で戸が並んでいた。今日はその戸が地の果てまで並んでいるような気がする。いつもは気にならない廊下の長さが忌々しい。

 寒々とした廊下には人の気配は微塵もない。だが、壮司には妙な確信があった。――おそらく巴と由貴也は生徒会室にいると。

 息切れが激しい。たぶんこんなにも呼吸が乱れるのは全力疾走しただけではないはずだ。

 壮司は勢いにまかせて目の前のドアを開いた。

「巴っ!」

 瞳に飛びこんでくる光景を見た瞬間、壮司の中の何かが焼き切れた。

 どう見たって由貴也が巴を襲っている構図にしか見えない。壁に巴をはりつけ、その肩口に由貴也が顔を埋めていた。

 由貴也は壮司を煽るかのように緩慢な動きで巴から身を離す。

 その遅すぎる動作に我慢できず、由貴也の胸ぐらを乱暴につかんだ。

「壮司! やめろ」

 血相を変えた巴が腕にしがみついてくるが、止まらなかった。頭に熱が回る。灼熱がせりあがってくる。

「やっとだね。壮司さん」

 こちらの怒りをせせら笑うように、由貴也は口だけで不敵に笑んだ。胸ぐらをつかまれているのに屈する様子はなく、むしろ悠々としていた。

「俺が邪魔でしかたないくせに、いつもアンタはそんなことないですって顔してたよね」

 そこで由貴也は嘲笑を消した。

 代わりに表れたのは普段の無表情ではなかった。

 今まで淡泊な表情の下に隠していた怒りや憎悪を一気に放出させたような負の感情むき出しの由貴也だった。

 胸ぐらをつかむ腕を振り払われる。

 その強さに驚いた。これがあの由貴也かと思うくらいの荒々しさだった。

「俺が目障りならそう言えばいいんだ。アンタのそういうとこがムカつくんだよっ!」

 由貴也が一息に言い切った直後、肩を壁に叩きつけられた。彼の指が肩に食いこむ。

 そのまま至近距離で視線を交わす。互いに怒りで目をぎらつかせ、にらみあった。

 由貴也と壮司は今、同じ感情を共有していた。

 それは悔しさや、やるせなさだった。そしてそこからくる逃れられない苦しさだった。

 由貴也は巴に想いを寄せられながらも、それをどうすることもしようとしない壮司を悔しく、憎く思っている。

 壮司は巴の想いをどうすることもできない自分をやるせなく、はがゆく思っている。

 停滞した関係が由貴也に、そして壮司をいらだたせた。

「お前に……お前に何がわかるっ!」

 由貴也に押さえつけられながら、気がついたときには彼に言葉の切っ先を向けていた。

「何の不自由なく生きてきたお前に俺の何がわかるっ!!」

 あふれる激情が口からほとばしる。

 弾けた感情とともに、突然あざやかに過去の記憶がよみがえってきた。

 幼い由貴也が母親の足にしがみついてこちらを見ている。

 母親のスカートから顔をのぞかせ、凶暴な小動物が敵をうかがうように、感情の薄い瞳がこちらをにらんでいた。

 それは由貴也と壮司の初対面だった。

 由貴也の前には彼を守る絶対的な存在がいた。彼はその影に隠れてこちらを威嚇してればいいだけだった。

 それに引きかえ、自分には誰もいない。何もない――。

 埋められない境遇の差。自分はひとりだ。今までもこれからも。

 それから十数年。壮司は居場所を得るために必死で戦ってきた。

 そうして得た居場所のために、今度は巴をなくそうとしている。

 そのやりきれなさを壮司は陳腐な言葉にのせることしかできなかった。堂々と巴の前に立てる由貴也をうらやみ、安っぽいドラマのようなセリフで彼に反撃をするしかできなかった。

「壮司、由貴也、落ちつけ」

 一触即発の雰囲気に巴がとりなす。

 しかし、ここまでになってしまっては収まりがつかなかった。腹の底にたまっているものを全部吐き出して、由貴也とぶつかりあわなければ、気持ちは鎮まらない。

「無理だよ。俺はこの人一発殴らないと気が済まない」

「由貴也!」

 物騒な言葉を持ち出した由貴也を巴がすかさずたしなめるが、今の彼には何も届いていない。

 何をしでかすかわからない凶悪な光が爛々と瞳に輝いていた。

 一方の壮司もたがが外れていた。

「やれよ」

 由貴也の挑発に挑発で返す。

 まるっきり自暴自棄の挑発というわけでもよかった。由貴也が殴りかかってくるならそれでもよかった。言い争うよりも直接的にぶつかりあえるだろう。

 言葉で包んだやりあいでは、もうぬるくてしかたない。

 由貴也の表情は一分たりとも動かなかった。

 時が止まったかのような静けさ。だけれども奥にひそむ不穏を感じさせた。

 その予感を裏づけるように、由貴也の腕がムチのようにすばやく動いた。

 先ほどとは逆に胸ぐらをつかまれる。

「由貴也、やめろっ!」

 由貴也が表情ひとつ変えずに拳を振り上げる。同時に、巴のいつになく取り乱した声が放たれた。

 壮司は狙いを定めて振り下ろされるそれを無抵抗で見ていた。

 一発目だけは甘んじて受けるつもりだった。一発殴られてもしかたないことはしている。幾度となく家と巴を天秤にかけ、その度に彼女を踏みにじってきた。

 由貴也が自分を許せないと思っても無理ないことだった。巴の代わりに由貴也が制裁を下すならばそれもいいと思った。

 それとともに、壮司も由貴也を許せなかった。巴が由貴也に触れられるのは我慢ならなかった。

 視界の端で何かが動いた。

 ほんの刹那のことだった。だが、壮司の目にはすべてが減速して見えた。

 巴が自分の前に飛び出す。間髪容れずに由貴也の拳が彼女を襲った。

 巴の体が壮司の目の前で傾ぐ。側頭部に打撃を受けた細い体はそのまま飛ばされ、うつぶせに床に倒れた。

 黒髪が艶めいて床に広がっていた。

 庇われたのだ。身を呈して。

 あまりの事態に由貴也も壮司もその場から動けない。夕暮れの薄暗さがやけに深く色濃く感じた。

 先に我に返ったのは壮司だった。殴られた衝撃に耐えながら体を起こそうとする巴のかたわらに慌てて膝をつく。

「無理に起きるな。そのままでいろ」

 頭に打撃を受けたのだ。下手に動かさない方がいい。

 壮司は中途半端に浮いた巴の体の下に腕をさしいれ、下から彼女を支えた。ぐったりとした巴の重みが腕に伝わる。

 そのときになってやっと思考が回り始めたのか、由貴也が一歩踏み出した。

「……巴?」

 彼から出た声はやはり感情の薄いものだった。

 しかしそれは無関心からきたものではない。事態が飲みこめなくて呆然としている声だった。

 そのまま由貴也の手が巴に伸びてくる。

 壮司はゆっくりと視線を上げ、由貴也と目を合わせた。

 瞳と瞳が重なりあう。由貴也の目線が揺れた。後方からひっぱられたよう伸びてくる彼の手が止まった。

 壮司は由貴也をにらみつけたのでも、非難のまなざしを送ったわけでもなかった。

 それでもやはりその視線の意図するところは――牽制だった。無意識に由貴也に巴を渡さないとしていた。

 立ちすくむ由貴也をよそに、巴を抱き上げる。

 その拍子に巴の唇がほとんど声がなく動いた。『由貴也』と。こんなときまで巴は彼を案じていた。

 しかし壮司は由貴也をひとり残して生徒会室を後にした。

 由貴也は何も言わなかった。いや、何も言えないのだ。

「……壮司、どこに……」

「保健室だ」

 足早に歩く自分に、巴から弱々しい声で尋ねられる。壮司はそれに最低限の言葉で答えた。

 巴が困惑した様子を見せた。「保健室は……」と歯切れ悪くつぶやき、控えめな拒絶を示していた。

「大丈夫だ。この時間なら保健医はいねえよ」

 その言葉に巴はあからさまにほっとした表情を浮かべた。

 その態度はすべて由貴也のためなのだ。保健医に頭を打ったと言えば、なぜ打ったのかと聞かれるだろう。

 すべては由貴也に追及がいかないためなのだ。

 階段をひとつ下り、本館二階の隅に位置する保健室のドアを開く。

 壮司自身は頑健なので幸い部活で怪我をしたことはないが、何度か部員のつきそいでこの時間の保健室を訪れたことがある。

 なのでこの時間帯に保健医がいつもいないことを知っていた。

 巴をそっとベッドに下ろし、壮司は無人の保健室を闊歩する。冷蔵庫からアイスノンをとりだし、適当に干してあるタオルでそれをくるみ、巴の頭の下に引いた。

「……気分は悪くないか」

 壮司はベッドのそばのいすに腰かけ、静かに尋ねた。

 怒りはもう胸の奥でくすぶっているだけだった。

「……大丈夫だ。たいしたことはない」

 そう言いながらも巴の声は少しつらそうに聞こえた。

 側頭部とはいえ頭だ。本当は保健医なり病院なりで診てもらった方がいいに決まっている。しかしそれを巴がするとは思えなかった。

 そんなことをしたら由貴也が気にする、と言うだろう。

「……迷惑をかけたな」

 巴のつぶやきに近い言葉が、ぽつりと保健室の空気に落ちる。

「私が由貴也と上手く話せなかったばかりにお前まで巻きこんで悪かった」

 殊勝な巴の謝罪に、まただ、と思った。

 明確に線引きされている。

 あくまで由貴也と巴ふたりだけの問題で壮司は関係ないという姿勢。

 忘れていた熱が戻ってくる。

「いいから寝てろ」

 このみっともない感情が極力外に出ないように、声音を消した。

 今の表情も見られたくなくて、ベッドの下部にたたまれていた布団で彼女の顔ごとその体を覆う。

 巴がもがくように布団を顔から下げた。

 その拍子に巴と視線が重なった。なんとも言えない無言の時間が過ぎる。

「……少し寝る」

「……そうしろ」

 沈黙を破った巴も、それに答えた壮司も、奥歯に物がはさまったかのような煮えきらない言葉を吐いた。

 少しの布団とシーツがふれあう音が室内に響いた後、巴は目を閉じていた。

 時計の秒針が動く音だけが部屋をめぐる。やがてそのリズムに巴のかすかな寝息が重なった。

 なんとなく宙に浮かせていた視線を巴に戻した。

 その整った寝顔は少し青白い。疲れているように見えた。

 俺なんか庇って怪我なんてすんな、とその顔を眺めつつ、胸の中でつぶやいた。

 倒れた彼女を見て、壮司は心臓が止まりそうだった。自分が怪我をした方が何倍もマシだった。

 そう思う自分が確かに存在していた。

 もう認めざるえない。

 自分がどうしてあんなにも感情を乱したのか。もう答えはとうに出ていた。ただ目をそむけていただけだった。

 無造作に枕の横に放り出された巴の左手に自らの手を重ねる。

 下の手がぴくりと動いた。それから少しだけ力がこもる。巴の手が壮司の手にゆるく巻きついた。

 それは壮司の気のせいであったかもしれない。彼女はよく眠っていた。それでも自分の行動に応えてくれたと思いたかった。

 壮司は強く握り返し、ゆっくりと立ち上がった。

 空いている方の手で壁に手をつく。

 眠る巴の首筋のキスマークが目につく。限界だった。

 静かに身をかがめる。

 巴が好きだ。その感情のままに唇を重ねあわせた。

 巴を自分のものにしたかった。自分だけの巴にしてしまいたかった。

 その衝動の前になにもかもが吹き飛んでいた。

 十数年間、閉ざされ続けていた最奥の扉が開いた。

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