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かざす花  作者: ななえ
第9章
43/68

第1幕

 日曜、せっかく久々に健一郎と出かけたのに、あいにくの天気だった。

 学院を出たときから曇天が重く垂れこめ、日中になっても一向に気温は上がらない。郊外のアウトレットモールに着いたときにはとうとうみぞれか降り始めた。

 だからといって悪いことばかりでもない。寒いという名目で健一郎と手をつなげるので、それはそれでうれしい。

「ご機嫌だな、芙美花」

 今にもつないだ手をぶんぶんと振り回しそうな自分に、健一郎は苦笑を向けた。

 今はその笑顔さえもうれしい。

「だってひさしぶりだもん。ふたりでお出かけするの」

 歌うように答えて、芙美花は怒涛の一ヶ月間のことを思い返した。

 この一ヶ月、芸術祭で例のごとく忙しかった。前ふたりで出かけたのはいつだかもう思い出せない。

 そういうわけで、芙美花ははしゃいでいた。

 こんな悪天候にも関わらず、アウトレットモールにはたくさんの人がいた。家族連れや友人同士、そして自分たちのようにカップルも多く見かけた。

 しかし、どの男性よりも健一郎が一番と思って、その横顔をちらちらと眺めていた。

 そんなこんなで健一郎の顔によそ見をしていると、何かにつまずく。

 それが何かとわかる前に、体勢が崩れた。

「わっ……!」

 商品の陳列棚につまずいてしまったようだ。上体が前のめりになる。眼前にしゃれた石畳の道が近づいてくる。

 右手は健一郎とつなぎ、左手にはバックを持っている。手はつけない。

 完全に転ぶ前に、誰かの腕に阻まれた。

 そのまま抱き止められ、転倒はまぬがれた。腕の中でほっと息をつく。

「ありがとう、健さん」

 体勢を直しつつ、健一郎を見上げると、彼はしょうがねえな、という顔でこちらを見ていた。

「ほんと、危なっかしいよな、芙美花は」

 思わず弱く笑った健一郎に釘づけになる。あまりにこちらが視線を向け続けているので、健一郎は少し気まずそうな顔をした。

「……俺の顔、なんか変?」

 ややたじろいでいる健一郎に、芙美花は真顔で答えた。

「うちの健さんはかっこいいなと思って」

 その言葉に、健一郎は瞬時に固まったあと、顔を赤らめた。

 芙美花は何かまずいことを言ったかと動揺する。

「……そういうこと言うなって」

 健一郎は疲れ果てたようにへなへなとその場に座りこんだ。

「……け、健さん?」

 芙美花はためらいがちに声をかける。彼は手で覆っていた顔を勢いよく上げ、「あぁー……」という無意味なうめき声を上げて立ち上がった。

「昼飯行こうぜ。腹へった」

 こちらを向いた彼はもう普段通りで、芙美花は一体なんだったんだろうと首を傾げた。

 とりあえず近くのカフェに入り、軽食を頼む。お昼どきなので、店内はなかなか混みあっていた。

 店内に流れる都会的なジャズをBGMにして、料理がくるまでとりとめのない話をしていた。

 強くなってきたみぞれのせいか、窓の外を歩いている人は心なしか少なくなっていた。

 健一郎との話題はもっぱら学校生活のことだった。彼の部活のことや、芙美花のクラスのことなどごく狭い世界のことだ。

 料理が運ばれてくるのが思いの外遅く、話題は先日の芸術祭にも及んだ。

 芸術祭の特筆すべきこととしては、やはりあの看板落下事件だ。あのとき、芙美花は壮司のすぐ隣にいたのだが、巴を守ろうと躊躇なく飛び出していった彼が印象的だった。

 思ったままのことを言うと、向かい側の健一郎は少し考えこむ姿を見せた。

「どうしたの?」

 何かおかしなことを言っただろうか、とまた芙美花が不安になる。

 健一郎はグラスの周りに水滴が浮かび上がっているお冷やから視線を外し、こちらを見た。

「俺さ、不動は古賀のこと好きなんじゃないかと思う」

「え?」

 芙美花は思わず聞き返した。

 健一郎の声も表情も、少しも冗談めいたところはなく、いたってまじめだった。

 彼らは犬猿の仲だが、健一郎に壮司をからかおうという意図はまったくないようだった。確かに、このことに関してひやかしを与えることは、巴と壮司への冒涜のように思えた。

 それくらい巴と壮司は真剣だった。

「好きって、不動くんが巴を?」

「俺の憶測だけどな」

 改めて聞き返し、芙美花は胸中で何度か反芻した。

 不動くんが巴を好き。不動くんが――……。

 まだ実感がないまま、芙美花は口を開いた。

「健さんはどうしてそう思ったの?」

「だってしねえよ、普通。あそこまで必死になって庇ったりとか」

 健一郎がさしているのは、あの看板落下事件だ。一歩間違えれば大惨事になっていたかもしれない。

 それでも壮司は自らの身をかえりみることなく、即座に走っていった。

「それに動揺しすぎなんだよ、不動は。鎌かけてみたらすぐひっかかってんの」

「鎌? 何したの? 健さん」

 ちょうどそこで料理が運ばれてきた。舌を噛みそうなほど長い名前がついているパスタを二人分机へ置き、ウェイトレスは下がっていった。

 それを待ち、健一郎は“鎌”の内容をかいつまんで説明してくれた。

 その話によると、芸術祭の午後、巴は体調不良でいなかった。当然のごとく由貴也もいなかった。それでふと健一郎は言ったそうだ。由貴也は巴のお見舞いにでも行っているんじゃないか、と。壮司は口では「そうかもな」と何でもないように答えてみたものの、平静を装いきれず、逆さまに握ったマイクで話そうとしていたそうだ。明らかなる動揺である。

 それからもらしくないミスを連発し、そのたびに健一郎の確信は深まっていったわけである。

 芙美花はぽかんとしていたが、しだいに胸にじわりとよろこびがこみあげてくる。

 そうであればいい。巴の向ける想いが一方的なもので終わるのではなく、それに壮司が振り向いてくれるといい。

 彼らに様々な障害が横たわっているのはわかっている。それに大丈夫だと無条件で言えるほど芙美花は楽天家ではなかったが、このまま“悲恋”で終わるのだけはならないと思った。

「不動がなに抱えこんでんのかは知らねえけど、さっさと告白すればいいのに。いとこの古賀に持ってかれちまうんじゃねえの」

 いとこの古賀――つまり由貴也の方だ。

 長らく不在にしていたにも関わらず、彼は日に日に存在感を増しつつある。

 巴は由貴也には妙に甘かった。由貴也もまた、その甘さに寄りかかった行動をとる。彼は自分自身の特性というものをよく理解しているのだ。

 しかし、一向に芙美花と健一郎とは打ちとけなかった。

 彼の世界というのは巴のような特別なものと、壮司のような“敵”とにわけられていて、その他はすべてグレーのようだった。自分たちは間違えなくそこに分類され、由貴也からしたら「ああ、いたの?」程度の認識しか得てないようだ。

 一方、世界の大半がグレーゾーンであるのに、彼の洞察力はたいしたものだった。

 何度か巴と壮司をくっつけようと画策していたら、由貴也に牽制された。しかも後々にならないとそれとわからないような、巧みな牽制だった。

 関心外である芙美花の動きまで見ていないようで見ているのだ。

 そんな由貴也が彼らの相思相愛をうかうか見過ごすはずかない。

 そう思うと芙美花は燃えに燃えた。

 彼ら恋が成就するためには自分が助けなくては、と使命感に燃えた。

 健一郎が「何を考えてるかすぐにわかるな」と苦々しく笑っていたが、そんなことに構う芙美花ではなかった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 巴は寂れたバスに乗って古賀家への帰路についていた。

 車窓からは珍しく雪が降っているのが見える。高地にある立志院ならいざ知らず、この平地では滅多にないことであった。

 どこまでも続く田はわずかな茎だけを残して稲が刈りとられている。その枯れた色合いは、灰色の曇天と相まって、ますますここ一帯を荒涼とした景色に見せていた。

 バスのアナウンスが円恵寺前を告げる。巴は荷物を肩にかけ、バスから降りた。

 竹のしなびた葉が風に揺れカサカサと鳴る。白い息を吐きながらそれら一瞥を与え、石段に足をかけた。

 あの女子大のパンフレットを送ってきたのを最後に、祖母とのやりとりは途絶えていた。

 芸術祭を終え、このままで済むはずもないだろうから、何か先手を打つべきか、と考えていたところに、祖母からの手紙が舞い込んできた。

 そこには三年前、不妊の検査をさせるために自分を呼び出したときと同じような文章が並んでいた。 話があるから帰ってくるように。壮司には内密に。要略するとこんな感じだ。

 無視しようかと思ったが、親の脛をかじる身ではそうもいかない。まだ未成年で、実質的な力もない巴は祖母の意向に逆らえないのだった。

 それに手紙が指し示す話とは進路のことだと見当がついた。しかし、壮司に内密とは穏やかでない。腑に落ちなかった。

「あら、巴さん!?」

 突如、上から声をかけられた。

 顔を上げると、十数段上に家政婦の女性が立っていた。

 腕には大きくて丈夫そうなトートバッグを提げ、いかにも今から買い物に行くという感じだった。

「ただいま帰りました」

 巴は軽く頭を下げる。彼女はまぁまぁまぁと言いながらせわしく石段を下ってくる。

「ずいぶん急なお帰りですこと。大奥さまもご存知だったら言ってくださればよかったのに! こちらにもいろいろと準備というものがありますのよ」

 その丸い顔は本当に悔しそうで巴は相好を崩した。

 こんな家にはもったいないくらいの家政婦なのだ。ほがらかで働き者の彼女は、口には出さずとも祖母からの信頼も厚い。

「すぐ帰りますので、どうかお構いなく」

「そんなことおっしゃらないでくださいな」

 勤続十数年の彼女は、巴にとって半分母のような存在だ。だから、巴はそう強くは出れないのだ。

 手を握られ、そんなことを言われては、巴はひるむしかなかった。

「お祖母さまは部屋にいらっしゃいますか?」

 彼女のペースに巻きこまれてはいけない。普段ならいいが、今はそうはいかないのだ。

 巴の目的は帰省して歓待を受けることではなく、祖母と重要な話をすることなのだから。

「大奥さまでしたら、お部屋にいらっしゃいますよ。さ、参りましょう」

 そのまま彼女が巴の荷物を持ち、先導しそうな勢いだったので、丁重に断った。

 買い物に行く彼女を送り出し、巴はひとりで家へと向かった。

 境内の脇に気の早い水仙が咲いていた。小雪の中でそれはいささか寒そうに見えた。

 手袋をつけているので、玄関の引き戸に手をかけにくい。長時間ろくに暖房の効かないバスに乗らなくてはならなかったので、防寒対策はしっかりしてきた。

 それとはまた別に、壮司からもらったマフラーもしてきた。もったいないとしまいこんでいたが、なぜだか今日はする気になったのだ。

 壮司と決別しようと段取りを整える日に、彼からの贈り物を身につけてくる。なんともおかしな話だ。

「お帰りなさいませ」

 戸を開けた瞬間、祖母の声が出迎えた。巴は反射的に身を固くする。

 まさか待っているとは思わなかった。

 祖母の呼び出しには応じる旨の返事はしたが、何時に帰るかまでは教えていない。巴にも予測がつかなかったからだ。

 しかし、先ほどまで自室にいたはずの祖母は最初からわかっていたかのように玄関にいた。置物のように、微動だにせず、板の間に座していた。

「ただいま帰りました」

 動揺を隠して、平坦な声音で答える。

 ただえさえ巴の分は悪い。半人前の自分では社会的地位も人生経験も祖母には遠く及ばない。

 何を言ったところでしょせんは子供。弱いのだ。

 せめて外見だけでもつくろい、堂々と見せた。

 最低限のあいさつ以外、自分たちの間に会話はなかった。どこか殺伐とした空気すら漂っている。

 無理もない。巴は祖母に弓引いたのだ。年少者に従順を旨とするこの家で、それは重罪だとわかっていた。

 場所を居間に移す。居間には見計らったかのように、お茶の支度が整えられていた。

 祖母手ずからお茶を入れる。黙って巴の前にほうじ茶が注がれた湯飲みが置かれた。

 実に意外だった。茶など呑気に飲めるとは思っていなかった。それこそ玄関で厳しい言葉を投げつけられて終わりかとも考えていた。

 驚きをこめて湯気が出ているお茶を見ていると、視界の端に茶色い大きな封筒が突き出された。

「開けてご覧なさい」

 祖母にうながされ、皺ひとつない封筒を手にとる。祖母の思惑がわからずに、巴は内心穏やかではなかった。

 封筒から出てきたのはこの前の女子大のパンフレットだった。清潔そうな女子大生が表紙で微笑んでいる。

 祖母が何を考えているのかさっぱりわからなかった。再びこの大学に進学しろと説得したいなら、なぜこんなまわりくどい方法をとるのか。

 巴の胸に湧き出た疑問に、祖母はあっさりと答えた。

「以前、あなたにお送りしたのは二年前のものです。今、手になさっているのは最新版です」

 そこで祖母は目でパンフレットを読むように訴えかけてきた。巴自身、パンフレットの二年前との差異を知りたくて、素直に表紙をめくった。

 早くも一ページ目、二年前のものでは学部紹介となっていたページに、今はでかでかと『今年度共学化に伴い医学部開設!』と書いてあった。

 巴は信じられない思いで祖母を見た。

 祖母の表情には少しの変化もなかった。巴の驚きなど想定内といったふうに、どっしりと構えている。

「あなたがその大学に進まれるのであれば医学部も許しましょう。学費の援助もいたします」

 言葉を失った。祖母が、あの保守的な祖母が医学部進学を許したのだ。

 この譲歩ぶりは考えられないことであった。

「ただし、条件があります」

 そう言って祖母はまた新たなパンフレットを机の上に乗せた。

 今度は新緑の中、制服をきっちりときた女子高生が友人たちとともに語らっている表紙だ。

 大学付属の高等学校のパンフレットだった。

「付属の女子高からも何名か内部推薦で医学部に進めるようです。もちろん、それなりの成績は必要でしょうが」

「つまり私に付属高校に転校しろとおっしゃるのですか?」

 祖母は答えなかった。自分で考えろと言わんばかりの沈黙だった。

 話は予想だにしない方向に転がっている。

 確かに、内部進学ならばリスクも小さく、なおかつ一般入試より高い確率で合格できるだろう。しかももともと入りやすい新設学部だ。

 しかし、転校してまでとも思う。いくら確実とはいえ、いささかやりすぎな感を受ける。

 それに巴は医学部進学を許してもらうもらわないも別にして、古賀家から縁を切りたいのだ。すべての干渉をはねのけるために、祖母と密接な関わりがある進学先は断固として避けたかった。

 自分がこの家から持っていくものはただひとつ、捨てられない名字だけでいい。思い出すら余分だ。

「お気遣いはありがたく思います」

 巴はそれだけ静かに言い、祖母の提案を退けた。

 自分の迂闊さをさらけださないよう慎重に、しかしきっぱりと断じた。

 祖母の表情は相変わらず変わらなかった。小娘の反抗ひとつでぐらつくような祖母ではない。

 しかし、空気の質量がにわかに増した気がした。肩に重みがのしかかる。息がしづらい。

「……私の弟の息子のところにお嬢さんがいらっしゃいます」

 さらに祖母の話は意外な方向に転がった。

 それでも巴は一語一句もらさずに聞こうと努めた。祖母は無駄話などしない。この話もきっとどこかでつながっているはずだ。

 それに巴はこの話の終着点を知っているような気がした。

「幸いなことに壮司さんと釣り合いのとれる年頃だとか」

 最後まで聞かなくとも充分に祖母の言わんとしてることはわかった。

 つまりは厄介払いなのだ。

 祖母は壮司の嫁まで世話してやろうと思っているのだ。しかも壮司の母が短大時代に駆け落ちしたという悪例もある。なるべく早く外堀を固めてしまうつもりなのだ。

 それには元許婚の巴は目障りな存在でしかない。今のうちに遠ざけてしまおうという魂胆だろう。

 それにしても巴はめまいがしそうだった。

 今どきお見合いとは何なのか。しかも高校生に。横暴としかいいようがない。

 しかし、古い因習がいまだに根強く残っているこの一族の中ではあり得ないことでもないと思ってしまった。

 そもそも僧侶に子がいるのは女犯の結果である。息子は跡継ぎにするにしても、せめて娘は寺に嫁がせたいという考えは珍しくないことであった。ちなみに祖母もまた実家が寺であるからなおさらだ。

 ここはそういう特殊な場所なのだ。

 そしてこういう形で性急に引き離されなければならないほど、自分と壮司は信用されていない。ふたりで勢いあまって間違えを犯すかもしれないと疑われているのだ。

 祖母は敏感に感じとっている。壮司と自分の関係が半年前とは変化したことを。

「……お願いがあります」

 巴は意を決して切り出した。

 やけに自分の声が反響して聞こえる。祖母の瞳は鏡のようで、強い視線を向けた分だけ自分にはねかえってきそうだった。

 反論など許さない雰囲気が漂っている。

 巴は緊張を飲み下し、再び口を開いた。

「壮司に自由な結婚をお許しください。彼が彼の選んだ女性と添い遂げる自由をお与えください」

 迷いはまったくといっていいほどなかった。

「お約束くださるのなら、お祖母さまのおっしゃる通りにいたします」

 これは取引だ。捨て身の取引だった。

 自分の身が取引材料として少しも価値を持っていないことなどわかっている。巴の脅しなど、祖母は痛くもかゆくもないだろう。

 しかし、言わずにはいられなかった。

 もはや自分が彼にしてやれることなどこれぐらいしかない。壮司は多分、こんなことは望んでいない。ただの自己満足に過ぎない。

 世界からすべての音が消え去ったかのような無言の時間が流れる。自身の鼓動だけがやかましく響く。

 今、祖母の頭ではどんな風な思考がめぐらされているのか巴には見当もつかない。

 しかし、すべては祖母の裁断次第だ。そうしてこの家は長年回ってきたのだ。

 空気が動いた。祖母はため息をついたのかもしれなかった。

「……ご自分の言葉をゆめゆめお忘れになりませんように」

 それはまぎれもない承諾の答えだった。

「感謝します」

 安堵とともに、言葉を吐きだした。

 祖母にしてはこれ以上ない温情だった。

 いや祖母ならば、壮司が連れてきた誰でさえも、自分の意のままにする自信があるのかもしれない。巴の申し出は祖母にはいかほどの影響も与えていないのかもしれない。

 むしろこの条件を呑むだけで、最近とかく反目しがちな孫娘を思い通りにできるなら安いと踏んだのかもしれない。

 とにかく何でもよかった。壮司に何かひとつでも置き土産を残せるならそれでよかった。

「転校の手続きをお願いします」

 その言葉を出した瞬間、潜んでいた疲労が重くのしかかった。

 疲れた、と思った。

 もういいだろうか。振り向く見込みのない背中を見続けるのも、女として不能な自分を責め続けるのも、もうやめてもいいだろうか。

 もう限界だ。無様に逃げ出してもいいはずだ。

 少し別れが早まっただけだ。転校もきっとそう悪いものではないだろう、と心の中でつぶやいた。

 どうしてももう強がりはできそうになかった。

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