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かざす花  作者: ななえ
第8章
42/68

第4幕

 昼休み終了の予鈴が生徒会室に鳴り響いた。

 ソファーの上で横になりながら、行かなければと巴は思った。

 午後の仕事はアナウンスだ。早く大講堂へ行って放送機材の準備をしなければいけない。今から行くのでは遅すぎるぐらいだ。

 しかし、涙は依然として止まらない。思考はまとまらない。

 それに見なくてもわかる。ひどい顔だ。こんな顔で人前に出たら何と言われるだろうか。

「落ちつくまでここで休んでろ」

 巴の焦りを見てとったように、ひどく静かな声が上から落ちてきた。

 壮司はらしくない気をつかってくれたのだ。

 それにこんな状態で行っても、使い物にならないと生徒会長として判断をしたのかもしれない。

「いいな」

 念を押すように、言葉が降ってきた。

 自分の仕事を投げ出すことに激しい罪悪感は覚えたが、いまだ止まらない涙をどうすることもできない。ただ頬に涙が伝っていくだけで、何の反応もおこせなかった。

 それを気にするなという具合に、肩をひとつ軽く叩かれた。

「行ってくる」

 背中を向けたまま、壮司を見送る。

 扉が閉まる音を背中越しに聞いた。

 “行かないで”

 喉までその言葉がせりあがる。

 今なら間に合う。今ならば。

 感情に任せて、跳ね起きた。

「――っ」

 しかし、言葉は出なかった。

 見えるのは閉ざされたドアだけだ。

 思いは言葉になる前にしぼんで消えた。

 涙をぬぐうと、今までうまい具合に肩にかかっていた壮司のコートがずり落ちた。

 黒い学校指定のダッフルコートだ。何の変哲もないそれを見つめ、巴は思わずそっと抱きしめた。

 こんな脱け殻を抱きしめても、頼りない感覚しか返ってこない。どれだけ強く抱いても、本物には遠く及ばない。

 こんな思いはいつまで続く――……。

「あきらめてよ。いい加減」

 由貴也の声が突如室内に響いた。

 その声の出どころを探して視線をさまよわせる前に、自分の肩に後ろから何かがふわりと巻きついた。

 それが由貴也の腕だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

「……由貴、也」

 かすれた声で名前を呼ぶ。

 巴はとっさに理解できなかった。

 今は働きが鈍い頭とはいえ、由貴也の気配を察知できなかった。

 それにこの部屋には鍵がかかっていたはずだ。万が一、巴がここにいるのがばれてはまずいと思ってか、壮司が施錠していったのだ。

 由貴也はどうやってそれを開けたのだろうか。

 巴の疑問を察したように、由貴也は片手はこちらの肩に回したままで、もう片方の手で自らのポケットを探った。

 由貴也は巴の目の前に手を持ってきて、鍵を見せた。ちゃらりと銀の輪に通されたそれが鳴った。

「合鍵。ここサボるのにちょうどいいから」

 いつの間に合鍵を作ったのか。相変わらずサボるための環境を整えるのには余念がない。

 しかし、由貴也はわざわざ自分の労力を割いて作ったそれを、興味がなくなったように手から放した。

 鍵とチェーンがふれあう軽い音がして、床に落ちる。

 再び由貴也の両腕が巴の肩に回った。

 巴はあわてて涙をぬぐう。早く平静に戻らなくては。由貴也につけいられる隙を与えてはならない。

「無理しなくていいよ」

 由貴也の声が耳のすぐそばで響く。

 先ほどまでは少しも感じなかった彼の気配を、今はこんなにも間近にはっきりと感じる。

「俺の前では強がんなくていいよ」

 うなずいてしまいそうになる心を叱咤する。壮司のコートを握る力を強めた。

「もう疲れたでしょ。止めたっていいじゃん」

 前を向いたままで涙が頬をつたった。とめどなく溢れ、止めることができない。

「俺にしなよ」

 今の巴は丸腰だ。由貴也のまっすぐな言葉から逃げる術を持たない。

 腕の中には空っぽな壮司のコート。後ろには生身の由貴也。ふってわいたような由貴也のぬくもりがどうしようもなく染み入った。

 いつもだったら、こんなにも心が乱れている自分を誰かに見られるのは、みじめで耐えられなかった。

 しかし今はそう思うだけの余裕もない。由貴也を引き離す気力すらない。

 ただ切に、頭をなでてくれたあの感触を忘れたくないと思った。由貴也の熱でぬりかえたくないと思った。

 由貴也の手から逃れるように、前かがみに体を倒す。背を丸め、無駄な装飾のないコートにすがって泣いた。

 巴をとらえていた由貴也の腕は、自然に解かれていた。

 代わりに背中に触れられる。

 それを拒むように首を横に振る。幼い子供がただをこねているようだった。

 今、由貴也にすがってしまったら、取り返しがつかなくなる。由貴也の隣はたぶん心地よい。一度その心地よさに足を浸してしまったら、もう戻れなくなるとわかっていた。

 自らの虚しさの穴埋めに、由貴也をあてがうわけにいかなかった。

 声を押し殺してひたすら泣き続けた。

 みっともなく声をあげない。それが巴の最後のプライドだった。

 由貴也は分別を失っている巴に愛想をつかしたのか、壁に背を預けて少し離れたところに座っていた。

 その表情は怒っているようにも、何の変わりもないようにも見えた。瞳だけは相変わらずどこに焦点を合わせているのかわからなかった。

 それからどれほどの時間が経ったのか。持てる力のすべてを泣くことに使ってしまったため、気がつかないうちに眠っていた。

 再び重いまぶたを開いたとき、最初に飛びこんできたのは由貴也の姿だった。

 向かいの壁を背もたれに、暮れなずむ空をぼんやりと眺めているようだった。

 投げ出された手の先にはゲーム機が床に無造作に放り出されている。上部のランプが一定の間隔を開けて光っている。充電切れのようだった。

 ソファーに横たわったままで由貴也の様子を見ていると、その瞳が何の前触れもなく動いた。

 目がばっちりとあった。

「あ、起きた」

 こちらが拍子ぬけするほど“普通”の由貴也だった。

 よく見れば、今どき珍しい棒つきの飴をくわえている。それがいつでも緊張感が欠けている由貴也らしかった。

 巴は往生際悪く、緩慢な動きで体を起こした。

 だいぶ気持ちが落ちついている。先ほどの感情の高ぶりを冷静な目で見ている自分がいる。

 とんだ醜態をさらした。

 何も由貴也の前で醜態をさらすのはこれが最初ではないが、今回ほどひどくはなかった。しかも泣き顔のついでに寝顔もさらしたようだ。

 バツが悪い。年上の威厳など皆無だ。

 気まずさをまぎらわすために、視線をそらす。そらした先にはちょうど時計があった。

 午後四時半。すでに午後のプログラムは終わっている。

 つまり午後を丸々さぼってしまったのだ。

 巴は静かに動揺した。落ちついたら行くつもりだったのに、無責任にも仕事を人に任せたまま寝こけていたのだ。

 せめて片づけぐらい手伝わなければ、ときちんとそろえてある上履きをはき、立ち上がる。

「帰ろ」

 立ち上がってドアノブに手をかける前に、由貴也に腕を引かれた。

「帰るって、私は片づけの手伝いに……」

「そんな顔で行ったってムダだと思うけど」

 盲点をつかれて、巴は壁にかかっている鏡を横目で見た。

 見事なまでにひどい顔の自分が映っていた。あれだけ泣いたのだ。どうにもなっていない方が不思議だ。

 この顔で行ったら、あの芙美花が黙っているはずがない。芙美花の長所は情が深いところだが、それゆえ知らないふりができないということが欠点だ。

「帰ろ」

「…………」

 由貴也に再度うながされ、従うしかなかった。

 いつのまにか由貴也は巴のカバンを持っていた。今すぐ帰れる体勢になっている。

「ひとりで帰れるから。お前は片づけの手伝いに行ってくれないか」

 由貴也はもともと芸術祭の補助要員となっていたはずだ。もちろん補助要員の仕事には片づけも含まれている。

「片づけなんかどうでもいいよ」

 心底どうでもよさそうに言い捨てたかと思うと、由貴也の腕が動いた。

 包みこまれるように抱きしめられた。

 いや、抱きしめるというほど強いものではない。由貴也はただ、巴を間にはさみ、巴の腰の後ろで指を組んでいた。まるで空気を抱いているように、彼が作る腕の輪にしめつけはなかった。

 それでも驚きに目を見開く。彼の頭がすぐ横にあった。

「こっちの方が大事」

 耳元で密やかにささやかれる。

 由貴也の表情はわからない。わからないからこそ、言葉だけに意識が集中した。

「巴が一番。覚えといて」

 頭の回転が一瞬減速する。

 その隙に由貴也の体はあっけないほどあっさりと離れた。

 これも由貴也流の口説き方なのか。こちらの警戒心がわきあがる前に身を引いた。

 それは絶妙なタイミングだった。

 一定の距離が開き、由貴也の顔が見える。

 彼に人並みの臆面というものはないのか、平然とした顔つきだった。

 なんとも言えずに彼を見ていると、いきなり口の中に飴玉を放りこまれた。

 口内に甘さが広がる。

「それ、食べて。糖分補給して」

 糖分補給。また甘党な由貴也らしい概念だ。

 しかし飴の甘すぎるほどの風味は今の巴にはちょうどよかった。

「……おいしい……」

 思ったことをそのまま口に出す。

 普段、素直に感情を表には出さない方なので、こういう直線的な物言いは照れくさい。

 巴はそっと視線を下ろした。

「そう」

 由貴也の返事は相変わらずそっけない。そっけないが、表情が少しだけ動いた気がした。

 笑みの形に。

 巴は視線を由貴也へ戻す。彼の裏がない笑顔はかなり希少だ。嘲笑はあっても、愛想笑いはもちろん喜びに基づく微笑などないに等しい。

 だが、巴が顔を上げたときには無味乾燥な顔つきに戻っていた。

 それどころか巴の荷物を持ったまま、スタスタとひとりで歩いていってしまう。

 巴は少し離れてその後ろを歩いた。

 前を歩く背中に隠された笑顔に、少しだけ救われた気分になった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 翌日になってますます風は強くなった。昨日は乾燥した晴天だったが、今日は雪まで加わった。吹雪である。

 猛烈な風と雪に大講堂全体が軋んでいる。

 音楽祭は音楽科首席であるフルート奏者の演奏で幕を閉じた。

 情感たっぷりの音色が放った幻想的な雰囲気は消え、今はすっかり片づけのざわめきに塗りかえられている。

 本当は昨日のうちに片づけをすませてしまうつもりだった。しかし、吹奏楽部と音楽科のオーケストラの楽器を音楽室に戻すのに思ったより時間がかかってしまい、細かい片づけは翌日に持ち越しということになったのだ。

 幸い、芸術祭の翌日――つまり今日は土曜日である。

 何人かの実行委員とともに、壮司はピアノを押して元の位置に戻していた。

「巴、元気になってよかったね」

 同じく隣でピアノを押していた芙美花が安堵に声を弾ませる。ピアノにほっとした顔が映りこんでいた。

「そうだな」

 無難な返事をして、再びピアノを押すのに専念した。

 あの後、泣きはらした顔の巴を表に出すわけにもいかず、そのまま生徒会室で休ませた。

 彼女の午後の仕事は壮司が肩代わりしようと思ったのだが、なにせアナウンスだ。壮司のアナウンスがあまりにひどいので、芙美花が交代してくれた。

 確かにむさ苦しい男の声よりも、芙美花の方が断然いいに決まっている。

 芙美花は壮司が言った、巴は具合が悪いから休んでいる、という言葉を微塵も疑わず信じていた。

 猫の手も借りたいほど忙しかったというのに、由貴也はついに姿を現さなかった。手綱となる巴が今はまったく機能していないので、これ幸いとばかりにどこかへ行ってしまったのだ。

 由貴也は巴のところへ行っていたのだ。その証拠に昨日の夕食時に散々絡まれた。

 由貴也のおかげかどうかはわからないが、今日の巴は芙美花が言う通り『元気』だった。昨日の分をとりもどすかのように、きびきびとステージ上部に掲げられている『第三十回芸術祭』の看板を下ろす指示を出している。

 一方、壮司は一夜おいても、巴が言ったことすべてをありのままに受けとめることができなかった。

 巴が自身の生きる道を見いだしたことをもちろんうれしく思う。うれしく思うが、このまま行かせていいのかという思いが渦巻いている。

 物心ついたときにはもうそばにいた。

 壮司にとって逆風が吹くあの家での唯一の味方だった。

 いや、味方だとかそんなことではない。多分、胸に降り積もり、徐々に形作られていく感情はそれとはきっと違うものだ。

 しかし、それを認めてしまったら――。

 不意に壮司の頬を冷気がなでた。

 冷気の出所を探ると、男子生徒二人組が窓を開けようとしていた。しかし、たてつけが悪いのかなかなか開かないようだ。

 彼らは外の様子が見たいのか、二人がかりで窓のサッシに手をかけている。行きすぎた悪天候というのはそれだけで人の心を高ぶらせる。

 壮司は舌打ちして止めようと走り出した。どうして窓を開けたら強風で室内のあらゆるものが舞い上がってしまうことぐらいわからないのか。

 だが、すんでのところで間に合わなかった。

 無情にも窓が開かれ、突風と雪の粒が大講堂を暴れ回る。講堂内は上へ下への大騒ぎだ。

 肝心の男子生徒二人は予想外の事態におろおろしているだけで窓を閉めようとしない。

 壮司は風に目をすがめながらも、駆けだす。

 ステージから飛び降りようとした壮司を引き止めるように、頭の上で嫌な音が鳴った。

 反射的に上を振り仰いだ。

 『第三十回芸術祭』の文字が斜めになっている。一瞬なぜだか理解できなかった。

 看板は風で留め具が外れ、落下してくるところだった。

 スローモーションのようだ。

 看板はステージの端にいる壮司には当たらない。しかし、看板の下には巴がいる。

 あんな重くて固いものが当たったら――。

「巴!」

 壮司は狂ったように名前を呼んだ。

 それでも巴は気がつかない。どこまでも忌々しい風が声をかき消す。

 当の巴は強風にあおられ、顔の前に腕をかざし目を守っていた。自身に迫りくる危険にまったく気がついていない。

 無意識に走り出していた。

 走っている間、何も考えていなかった。

 ただ祈るような気持ちで巴を見ていた。

 無我夢中で手を伸ばす。体が勝手に動く。

 間にあってくれたなら、他に望むことはなかった。

 巴に覆いかぶさるように抱きしめる。突然のことにバランスを崩した巴の爪先が床を離れた。

 壮司もそれにつられ、体勢を崩す。体が宙に浮く。

 その時だった。

 圧倒的な質量とスピードを持って、看板が壮司の肩をかすめた。

 壮司はとっさに身をよじろうとしたが押しとどめた。身をよじっても、この身の下には巴がいる。後になってそう思うのだが、今はただ無意識の行動だった。

 看板が自らの体を傷つける一閃を壮司は甘んじて受けた。

 視界が回り、もつれあうように床に倒れこむ。

 その直後、看板がステージ床に激突し、けたたましい音をたてた。床が揺れる。

 その音が去ると、大講堂は奇妙な静けさに包まれた。轟音が生徒たちから言葉を奪ったのだ。

 壮司はつめていた息を吐いた。たぶん大丈夫だ。自分の方が巴よりひとまわりもふたまわりも体は大きい。

 何も巴の体には届いていない。

「巴! 不動くんっ!!」

 芙美花の悲鳴じみた声が耳をつんざく。

 その声に突き動かされたように、大講堂にざわめきが戻ってくる。その騒がしさは混乱を極めているようだった。

「……壮、司……?」

 壮司の体の下にいる巴におそるおそるといった具合に名前を呼ばれた。

 壮司は巴に怪我がないかを確かめるため、あわてて身を起こす。起こそうと左手を床についたとき、ぬるりとした感触が腕につたった。

 それが血だとわかる前に、肩が痛みを訴え始める。壮司はどこか他人事のように、ああかすったんだっけな、と思う。

「不動くん、血がっ……!!」

 駆けよってきた芙美花が金切り声で叫んだ。

 片づけの邪魔になると学ランを脱いだのがまずかった。血は白いカッターシャツを鮮やかに染めていく。

 その惨状を見て、芙美花と健一郎は固い表情でおのおの動き始める。

 皆が血相を変える中で、巴だけは目の前で呆然としていた。

 その巴に向かって、大丈夫だ、たいしたことねえよ、と言った。

 しかし、その声もまた今の巴には届かないようだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「不動くん、名誉の負傷ね。若いっていいわぁ」

 保健医はうっとりといった様子で宙に向かってつぶやいた。

 大学を卒業して何年も経っていないこの保健医は、いまいちズレている。壮司が怪我をした経緯を聞いてこの一言だ。

 一歩間違えれば名誉の負傷どころの話ではなくなっていたはずだ。

 その名誉の負傷はというと、今はきれいに包帯を巻かれていた。あの状況から考えると奇跡的な軽傷だ。

 先ほどまで担任が様子を見に来ていたが、大事に至らないとわかると、あからさまにほっとして帰った。昨今は管理責任うんぬんとうるさい時代だ。その態度もいたしかたない。

「先生、何かはおるもの貸していただけませんか」

 壮司はあえて保健医の話には触れないでおいた。

 今の壮司は上には何も着ていない。あの血染めのシャツはどう考えてもゴミ箱行きだ。

「ああそうね。それでは寒いわね」

 保健室内は暖房が効いているとはいえ、上半身裸で過ごせるほど暖かくはない。

 保健医は戸棚から予備のカッターシャツを一枚ひっぱり出し、壮司が横たわるベッドに持ってきた。まだ血が完全に止まっていないので、安静にしていろと言われたのだ。

 さすがにもういいだろう。壮司は体を起こし、そのシャツを受けとった。

「まだあんまり動かさないで。本当に病院行かないでいいの?」

「いいです。お気遣いありがとうございます」

 壮司は即座にきっぱりと断じた。

 保健医は当初、病院で縫ってもらったら? と提案してきた。

 しかし、壮司はこの件を大事にしたくはなく、最後まで拒否した。

 無理強いはしてこない保健医の緩さに結果的に助けられた。保健医としては本分をまっとうしていないのだろうが、壮司にとってはありがたかった。

 シャツのボタンを閉めながら、大講堂の方はあの後どうなったのだろうか、と考える。

 あの窓を開けた男子生徒たちには、自業自得というにはあまりに大きすぎる事態になってしまった。

 何より巴の顔が目に焼きついている。

 あのショックで凍りついた表情が忘れられない。彼女のせいではないのに、かわいそうなことをしてしまった。

 手が最後のボタンにいきつく。そこでやはりシャツの丈が足りないことに気づいた。最初から短そうだなとは思っていた。

「先生、申し訳ありませんが、もうひとサイズ大きいのを……」

 そう言いかけたとき「先生!」と威勢のいい声とともに、保健室の戸が壊れそうな勢いで開いた。その聞き覚えのある声に、壮司はぎょっとした。

 この声は間違えなく芙美花だ。壮司はあわててシャツのボタンを外す。サイズのあっていないシャツを着ている姿は無様以外の何物でもなかった。

「不動くんは大丈夫ですかっ!?」

 突風のように室内に飛びこんできた芙美花が、保健医の話を悠長に聞くとは思えない。芙美花がこちらにくる前に早くシャツを脱いでしまおうと、壮司はボタンを外す手を早める。幸いなことに自分の姿はパーティションで隠れていた。

 肩から胸へかけて巻かれた包帯のせいで手が動かしづらい。やっとのことでボタンをすべて外したときには芙美花がすぐそこまで迫っていた。

 シャツを腕から引き抜こうと肩を上げる。しかし、すぐさま鋭い痛みが走り、顔を歪めた。

 ちょうどそのとき、運悪くパーティションの端から芙美花が姿を現した。

 痛みに眉間にしわを寄せているところをおもいきり見られてしまった。

「痛いのっ? 大丈夫!?」

 思った通り、芙美花に大仰なまでの反応を示された。心なしか、彼女に続いて入ってきた健一郎もこちらを案じている顔をしていた。

 事態の収拾のため、彼らは今まで大講堂の方へいたのだろう。ふたりにもとんだ迷惑をかけてしまった。

「たいしたことねえよ。悪かったな、驚かせて」

 壮司は小さいシャツを引っかけたままで詫びた。なんともバツが悪い気分だ。

「そっか。よかった……」

 芙美花はほっとした笑顔をこぼしたが、すぐ何かに気づいたように目をそらされた。

 その横顔は若干赤く、壮司は合点がいった。

「貢、上着貸してくれ」

 芙美花にこうも反応されると、こちらとしてもいたたまれない気分になる。女でもあるまいし、いまさら裸を恥じいる気持ちがあるわけではないが、どうにもいづらい。

 察しのいい健一郎は、ブレザーとワイシャツの間に着ていたパーカーを貸してくれた。

 上着をはおり、やっと人心地つく。

 そこで壮司は口を開いた。

 彼らが入ってきたときからずっと気になっていた。一番重要なひとりが足りないことに。

「……巴は?」

 口を開けば巴と、馬鹿じゃないかと思う。

 今回のことを巴は気に病んでいるかもしれないが、彼女には由貴也がいる。彼ならば壮司より何倍もうまく巴の心をなだめるだろう。

 何も巴に言葉を与えられるのは、壮司だけの特権ではないのだ。

 芙美花も健一郎も互いに顔を見合わせている。

 その微妙な表情に巴に何かあったのか、と不安になった瞬間、健一郎がおもむろに右へ一歩動いた。

 壮司は目を見開く。

 今まで健一郎がいた場所の一歩後ろに、巴が何ともいえない顔をして立っていた。

 最初からいたのだ。健一郎の後ろに隠れるようにして、ずっと。

 巴はかわいそうなほど青ざめていた。

「巴……」

 あっけにとられてつぶやく。

 らしくもなく、巴の口は閉ざされたままだった。

『何だ、元気そうじゃないか』

 心配して損したと言わんばかりに、すぐにそう言ってくれると思っていた。巴は聡明だ。こちらが大丈夫だと主張すれば、それ以上そのことを引きずることはないだろうと踏んでいた。

 湿っぽい雰囲気はもっとも壮司の苦手とするところなのだ。

 しかし、ぱたと雫が床に落ちる。

 壮司にかけられたのは言葉ではなく、透明すぎるほどの涙だった。

 あの巴が人目をはばからずに泣いていた。

 芙美花や健一郎はもちろん、壮司でさえも驚いた。

 巴は生来すぐ泣くたちではない。身内同然である壮司でさえも、巴の涙を見たのはここ最近のことだ。

 自制心が強い彼女は、人前では決して泣かないはずだった。

 壮司は狼狽しながら「お前のせいじゃねえから、泣くな」となだめにかかる。巴は涙をぬぐうこともせず、ただただ泣いていた。

 とにかく健一郎に『出てけ』という視線を送る。彼らがいたのではやりにくくてしかたない。

 健一郎は『役得だな』とどことなく腹の立つ笑みを浮かべたが、壮司の希望通り芙美花とともに出ていってくれた。

 残るは興味津々でこちらをうかがっている保健医だが、さすがに追い出すことなどできない。壮司が保健医の根城である保健室にお邪魔しているのだから。

 せめて向こうから見えないように、ベッドの上から手を伸ばして、巴をパーティションの中へ引き入れた。

「落ちつけ、巴。少し切っただけだ」

 怪我をした当の本人がそう言っても、巴が落ちつく気配はない。ベッドに突っ伏して、肩を震わせて泣いている。

「もう泣くな、な?」

 まるで見せ物だと思いつつ、壮司は言葉をかける。

 保健医はパーティションの向こう側で耳をそばだててこちらの声を聞いている。パーティションの薄い生地にその姿が透けている。

 出ていったと思った芙美花と健一郎は保健室の引き戸に張りついている。こちらも薄いすりガラスから芙美花の頭が見えていた。

 壮司は羞恥心をかなぐり捨てて、叫んだ。

「お前の体に傷がつくより、俺が怪我した方がいいんだよ!」

 冷めた自分が、そんな歯の浮くようなセリフはお前には似合わない、と笑っていた。ギャラリーたちが無言の歓声を上げている。

 言ったことは偽らざる本音であるが、壮司は半ばヤケになっていた。見たければ見ろ、聞きたければ聞け、と開き直っていた。

「わかったらもう泣くな」

 捨てきれなかった羞恥心で明後日の方向へ顔をそらした。

 時間が経つにつれて死にたくなるほど恥ずかしくなってきた。

 慣れないことをするものではない。たまにかっこつけるから、さまにならないのだ。

 それでもあのとき、何の打算もなく自然に体が動いた。巴を助けようと全身全霊で手を伸ばした。

 それに対するごまかしを壮司は持っていなかった。

「……壮司」

 巴のか細い声に、壮司は顔の方向を戻す。

 巴の濡れた瞳がこちらを向いていた。

「壮司、ごめん……」

「バカ」

 自分の責任のないことを謝る巴に、壮司はため息混じりに言葉を継いだ。

「せめてありがとうって言えよ」

 照れ隠しに憮然とした表情で言うと、巴は一瞬面食らった顔をした。

 それから少しだけ、その瞳が弧の形に動いた。

「……ありがとう」

 壮司は素直な言葉とほのかな笑顔に「よしっ」と巴の頭に手のひらを乗せた。

 そして壮司も少し笑った。

 慣れないこともたまにはいいかもしれないな、と思った。

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