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かざす花  作者: ななえ
第8章
41/68

第3幕

 ステージではシンバルがひときわ大きな音をたてた。今、音楽科のオーケストラはフィナーレを迎えている。

 ここ数ヵ月間の集大成を彼らは余すところなく発揮していた。

 その音を誰より近くで聞きながら、巴はステージの袖で物件情報誌をめくっていた。

 芸術祭当日の巴の役割は入場の誘導である。腕に役員の腕章をつけ、ステージ脇に控えていた。逆側には芙美花が退場の誘導として控えている。

 ステージから漏れてくる光に、家賃六万五千の文字が浮かび上がっている。第一志望とする大学近辺の物件だった。

 巴はセキュリティや広さも設備も求めていない。ただ大学から近ければいいのだ。

 少しでも生活のロスをなくして、生活費を稼がねばならない。通学時間がかかってはならないのだ。

 勉強をするかたわら、巴は物価やアルバイトの求人情報、家賃などを鑑みて大学の絞り込みを行っていた。

 早めにその大学にあった二次試験の対策をしとかねば間に合わなくなる。各大学によって傾向はかなり異なるのだ。

 パーカッションの音に、大講堂全体が揺れている気がする。

 その振動が腹に響く。無意識に腹に当てた手に力をこめた。

 午前中のプログラムはこれで終わりだ。巴の仕事はもうない。

 演奏がまだ終わりそうにないことを確認して、舞台袖の奥の扉を開いた。

 その扉は外へつながっている。開いた瞬間、強風に体ごと持っていかれそうになった。風圧に負けないように体を押しつけてドアを開け、精一杯の力で極力音をたてないように閉めた。

 天気はよかったが、風が強かった。時折積もった雪が舞い上がり、肌にぶつかってくる。台風並みの暴風に木がしなっていた。

 幾度か風に体をよろけさせながら、校舎にたどりつく。

 全校生徒が大講堂に集まっているので、校舎は静まり返っていた。風も体育館と大講堂に阻まれてここまでこない。

 ポケットの中からピルケースをとりだす。何度も世話になっている白い錠剤を手のひらへ落とし、自販機で買ったお茶で流しこむ。鎮痛剤だ。

 午前のプログラムを終えれば、四十五分の昼休みである。その間に少し休みたかった。

 午後から音楽科の個人コンサートだ。巴の仕事は誘導からアナウンスに移る。

 重い足どりがせめて乱れないように気をつけながら、本館の端へ向かう。何度も歩いたルートだ。意識せずとも勝手に足が動く。

 見慣れたドアの前に立つと、それが少し開いていることに気づいた。鍵は巴のポケットにあるのにも関わらずだ。

 鍵を閉め忘れたか、と思いつつ、生徒会室のドアを押した。

 ドアがすべて開くと同時に、銃を連射する音が耳朶を打った。

 何だ、と目をまたたかせる。

 由貴也が部屋の隅の古びたソファーに寝そべっていた。仰向けに寝転がり、手にはゲーム機が握られている。

 由貴也の目がゲーム機の液晶から、戸口に立つ巴に向いた。

「もう午前の部終わったの?」

 由貴也はいつも通り、飄々としていた。

 サボりの現場を見られたというのに、悪びれもしない。この由貴也がおとなしく行事に参加するわけないのだが、思わず脱力しそうであった。

「……もうすぐ終わる」

 言葉少なくそれだけ答えてきびすを返す。由貴也がいるのでは生徒会室では休めない。

 彼とふたりきりになるのは最も避けなければならないのだ。

 とはいっても、他に休むところなどない。教室は騒がしくて論外であるし、保健室は気がひける。病気ではないのだから。

「待って」

 背後の空気が動き、手首をつかまれた。

 由貴也の声と気配に振りむく前に、体が宙に浮いた。

「由貴也っ、何を……!」

 不安定な感覚に思わず叫ぶ。由貴也の脇に抱えられていた。

 腕一本で巴の体を運んでいるにも関わらず、由貴也は涼しい顔をしている。

 そこは腐っても男なのだ。巴の重さなど造作ないことのように、その足どりはいつもと変わりない。

 そのまま抵抗する間もなく、由貴也が先程までいたソファーに下ろされた。その手つきは存外丁寧でわけがわからなくなる。

 どこのお下がりなのか、ソファーは背もたれも肘かけもない粗末なものだった。むきだしのパイプの足を持ち、座部をおおう合皮は角が破れて綿が出ていた。

「幽霊みたいな顔してるよ」

 有無を言わさず巴を抱え上げた強引さはどこに行ったのか。由貴也は平然とそう言ってのけた。

「少し休んでいったら」

 それだけ言うと、由貴也は地べたに座ってゲームを再開した。連射音が再び響く。

 横になっていると、痛みが強くなった気がする。今まで気が張っていたのかもしれない。痛みに耐えるように、体を軽く折って目を閉じた。

 由貴也には何でもお見通しな一方、それがやや恐ろしくもある。特に今のように揺れているときには毒にしかならない。

 自分のことをわかってもらえるというのは、それだけで大きな親近感につながるのだ。

「ねえ、これ何?」

 由貴也の声にゆるゆると体を起こす。

 彼は巴の住宅情報誌をパラパラとめくっていた。

「ああ……医大の側の物件を見てたんだ。意外と高いんだな」

 今まで自覚はなかったが、巴は世間知らずだったのだろう。生活費も学費も、どのくらいかかるかを知らなかった。金銭のことを表だって話すのははしたないことだと教えられたせいもあるだろう。

「何でアパートなんか今から見てんの? そんなの受かってから考えればいいじゃん」

 由貴也には医学部の受験は話しても、古賀家そのものから出ていくことは話していない。当然ながら学費も生活費も負担してもらうのだと思われている。

 巴が口を閉ざしたままでいると、由貴也がこちらの表情と情報誌を目だけで見比べた。

「家から独立するとか言う気?」

 由貴也の的確極まりない言葉に、巴は冗談めかして笑ってみせた。

「話が早くて助かるな。そういうことだ」

 さすがに由貴也も表情が一瞬固まった。

 彼が言う独立というほどかっこいいものではない。身動きがとれなくなって逃げ出すのだ。

「そんなことできんの? 医学部でしょ? 学費バカになんないじゃん」

 予想通り厳しい反応が返ってくる。由貴也の手厳しさは祖母譲りかもしれない。

「成績優秀なら学校や県から補助金が出る。そもそも国立大なら奨学金もらえば何とかなる……どっちにしろこのままの成績ではどうにもならないが」

 巴は自嘲気味に笑みを深めた。

 少なくとも現状では高望みもいいところだ。医学部志望といっても鼻で笑われる程度だった。

 しかしあきらめるにはまだ早い。秋までは医学部に焦点を当てて勉強していく。下げるのはいつでもできるのだ。

 巴は医学部合格という輝かしい栄光を勝ちとることで、初めて逃げるということを正当化できる気がした。

 盲目的に後継ぎとなることに固執し、自分の出生ゆえに不自由を甘んじて受けいれる。その壮司をどうすることもできずに自分はあの家を出ていく。

 それは逃げに他ならなかった。

「たかが壮司さんひとりのために家を出ていくなんてバカみたいって思わないわけ?」

 由貴也の語尾は疑問形をとっていたが、それは形だけだった。

 由貴也は明らかにこちらを愚かだと断言していた。

「大学卒業してから出てけばいいじゃん。なんでわざわざ苦労しに行くのさ?」

 由貴也の意見にすぐさまいいや、とかぶりを振った。

「医学部じゃお祖母さまがお許しにならないだろう」

 現に今、反対されている。もともと許してもらおうとも思っていない。

「あんなクソババァ。金だけ出させて好きなように言わせとけばいいじゃん」

 祖母をクソババァ呼ばわりできるのは間違えなく由貴也だけだろう。まったく怖いもの知らずなのだ。

 その辛辣な物言いが由貴也らしくて妙におかしかった。

「それでも出てくよ。お祖母さまの反対していることをやるのに授業料を出してもらおうと思う方が虫がいい話だ」

 それに、と弱く自虐的に笑んで言葉を続けた。

「案外あの人もほっとしてるんじゃないか。いいやっかい払いができて」

 嫁のもらい手もないような孫娘にいつまでも家にいられたのでは風評が悪いだろう。この歳ですでに子供を望める可能性が低いと言われていては、祖母の目にかなう良家に嫁ぐのは無理だ。

 それにいつまでも“元許婚”が家でうろうろしていては、壮司の嫁探しにもよくはない。

 だからやはりなるべく早く出ていくのが一番いいのだ。

 家のためとは言わない。自分のためだ。

「まぁ、いいや」

 軽く言い、由貴也はゲームを再び起動させた。

 由貴也にかかるとどんな重要な話でも、さして重要ではないかのように錯覚する。

「お祖母さまの言いなりは壮司さんだけで充分だし」

 皮肉たっぷりの言葉を淡白に言い放って、由貴也は何食わぬ顔でゲームのボタンを押し続けている。

 その音と銃声の効果音だけがしばらく室内を満たしていたが、ゲームクリアの音がしたのを最後に、由貴也は電源を切ったようだった。

 唐突に由貴也は乱暴な音をたてて立ち上がり、ソファーの前に立った。

 そこに立っているだけで圧倒される。こちらが押しつぶされそうなほどのオーラを背後にまとっていた。

「家なんか関係ないしね。俺には」

 いつも通り淡々した口調の裏には抑圧された怒りがただよっているように感じた。

 表面的な変化に乏しい目が自分を見下ろしていた。

 由貴也が空気を支配する。

 しばらくその目は一直線に巴を見ていたが、不意に外れた。

 その視線がこちらに戻ることはなかった。由貴也は身をゆっくりひるがえして生徒会室から出ていった。

 やけに静けさが耳に痛い。生徒会室にとり残され、巴はひとつ息をついた。

 由貴也の豹変。最後に一発かまされたのだ。

 あの家から縁を切ることは、いとこである由貴也とも間接的に縁を切ることとなるのだ。

 由貴也だけではない。壮司と関わりのある人物すべての前から、消えようと思っていた。

 由貴也はこちらの言葉の裏に隠された真意を瞬時に察知し、その上で自分は家とは関係ないと言い放ったのだ。

 つまり、こちらと縁を切る気はさらさらないと言ってきたのだ。

 由貴也が怒るのも無理ない。これが手酷い裏切りだとわかっていた。こちらの勝手な都合で一方的に絶縁状を送りつけるのだ。怒るなと言う方が難しい話だ。

 そうわかっていても巴はまわりを傷つける不器用な方法しかとれなかった。不器用な方法しか知らなかった。

 そうでもしなければ、己の大部分を占めている恋心を捨てられないと思っていた。壮司につながるものは徹底的に遠ざけ、いろんなものを犠牲にして初めてなしとげられることだと信じていた。

 だからそしりは甘んじて受ける。ただの自己満足に過ぎなくても、そうする以外の償いを知らなかった。

 つらつらと考えていると思考が鈍くなってきた。まぶたが重い。

 腹の痛みはわずかな違和感に転じている。鎮痛剤が眠気を引き起こすタイプのものだったのだろう。

 外から見えないように後ろのカーテンを引き、ソファーに横になる。携帯の目覚ましを昼休み終了十分前にセットした。

 最近、慢性的な睡眠不足なので、すぐに意識が溶けていく。 山積みの問題に背を向けて、今だけはと懇願する。今だけはすべてを忘れ、眠りの中へ落ちた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 音楽を解する心を持ち合わせていない壮司は、午前中眠くて眠くてしかたなかった。

 決して音楽科の演奏が退屈なほど下手なわけではなく、高度すぎて壮司にはわからないのだ。

 しかしいくら眠いからといって、生徒会役員席で船をこぐわけにもいかない。なんとかこらえ、午前中を乗りきった。

 若干の眠気を引きずりながら、生徒会室へ向かう。

 朝、教室には寄らないで生徒会室から大講堂に直行したため、荷物が生徒会室に置いてあるのだ。

 本館三階は、生徒会室の他、資料室や小会議室などが並んでいる。昼休みの喧噪からはもっとも遠い場所であった。

 そこにひとりの人影を見る。

 覇気のない足どりで廊下を歩いてくるのは由貴也であった。

 相変わらず制服を制服の原型をとどめないくらい着くずし、もはや私服になっている。きちんと着用しているのはグレーのスラックスだけだ。

 この時間に向こうから歩いてくるということは、確実に午前中をサボったということだった。

 まったく、と呆れつつ由貴也を見やると、逆に睨みつけられた。

「……何だよ」

 その鋭い視線に居心地が悪くなって問いかける。

「別に」とそっけなく由貴也に答えられ、顔を反らされた。

 何が由貴也の神経に触れたかは知らないが、ずいぶんおかんむりのようだ。

「いい気なもんだなと思って」

 由貴也の言葉はひとりごとのようだった。しかし、その矛先はまぎれもなく壮司に向いていた。

「……どういう意味だ」

 聞き返した言葉に剣呑さが混ざったことは否めない。『いい気なもの』はどう好意的に解釈しても好意的にはならない。

 それに経験上、由貴也がこちらに絡んでくるときは必ず巴が関わっているのだった。

「壮司さんはすぐに挑発にのるよね」

 壮司の視線をかわすように、由貴也はゆらりと体を傾け、窓のサッシに肘をかけた。伏した表情には揶揄めいたものが浮かんでいた。

 壁に背を預けている姿勢と相まって、どこか気だるげで退廃的な雰囲気がただよっている。

 視線を床に向けたまま、由貴也は薄く笑んだ。それは凶悪で酷薄な――だけれども醜悪ではなかった。負の感情を吸って、見るものを恍惚とさせる艶やかな表情だった。

「アンタが鈍くて、何にもわかってなくて、こっちは助かってるよ」

 由貴也の言葉は謎かけのようだった。

 その根底には隠そうともしない壮司に対する侮蔑がありありと存在している。

 由貴也に存在を軽んじられても、壮司に反論は許されない。

 壮司は見えないように拳を握った。

「何が言いたい」

「自分で考えたらどうですか」

 一層低くなった壮司の問いかけにも、由貴也はのらりくらりとかわすだけだ。

 水と油のように、壮司と由貴也は合わない。

 ひときわ強い風が吹き、由貴也の背後の窓ガラスが揺れた。

 自分たちの間にも、冷たい風が吹き荒れた。

 太陽に雲がかかったのか、日がかげる。

 それを合図に由貴也の足が動く。最初と何ら変わらない足どりで壮司の横を抜けた。

 壮司も不愉快さに顔をしかめ、歩みを再開した。

 思考か否が応でも渦巻く。

 自分はまた、巴の何かを見落としているのだろうか。

 以前、巴に子供が生めないと告白されるまで、まったくそのことに気がつけなかった。壮司は由貴也ほど観察眼が鋭くもない。彼女の相談相手にされたことなど一度たりともない。

 いつも知るのは、壮司が一番最後なのだ。

 巴にとって、子供ができないというのは彼女だけの問題であり、許婚であっても壮司の介入を許さなかった。

 だからといって、巴だけに非があるわけではない。自分だって巴に無断で後継ぎの件を押し進めた。

 自分たちは相手を苦楽をともにするパートナーだとは考えていなかった。

 しかし、それがわかったところで何だというのだろう。後悔を引きおこすだけで、すべてはもう遅いというのに。

 壮司は苦々しい気分を外へ押しやりながら、生徒会室のドアを開いた。

 生徒会室はなぜか薄暗く、その落差に目がチカチカする。

 昼間だというのに、クリーム色のカーテンが引かれていた。カーテンをすかした光が、物の輪郭を淡く浮かびあがらせている。

 何でカーテンが閉まっているのだろう、と思いながら部屋を横切る。

 開けようとカーテンを手にしたところで、行動とともに思考も止まった。

 何気なく視線を落とした先に巴のすらりと伸びた足があった。

 厚手のタイツに包まれた足の先には肉づきの悪い背中がこちらに向いている。

 無造作に流れる髪の隙間から白い顔が垣間見える。お世辞にも顔色がいいとは言えなかった。

 そう思って見るせいか、巴は体を軽く折り、腹に手を当てている。

具合が悪いのかもしれない。

 本当に体調が優れないのなら、こんなところで寝ていたらさらに悪化しそうだ。ここには当然ながら寝具もない。体は冷えていく一方だ。

 とりあえず起こすのが最善だろう。

 そう思い立ち、壮司は手を伸ばして、目をそらして、結局手を引っ込めた。今の巴に触るのはおおいにはばかられる。

 少なくとも半年前までは何とも思わなかったはずだ。

 だが、そんな男にとっては破壊力満点の姿勢でいられては困る。現在の壮司には困るのただ一言につきた。

 先ほど、由貴也はこちらの方向から歩いてきた。生徒会室にいたと思って間違えないだろう。

 まさか由貴也にこの無防備極まりない姿を見せたのかと思うと、壮司は苦悩にまみれ、あせった。

 壮司はとりあえず荷物とともにあった自分のコートを手にとり、それをそっとかけた。

 分厚いコートが巴をおおった瞬間、その体が勢いよく跳ねた。

 がばりと身を起こした巴の血色の悪い顔がこちらに向いた。

 なんでお前がここに、という驚きがはっきりと出た顔だった。

 間近で向き合って、壮司はいかがわしいことなどしていないはずだが、どきまぎしてしまった。

「顔色が悪いぞ。まだ寝てたらどうだ」

 気まずさをごまかすように早口で言い繕う。

 すべてがすべて、その場しのぎの言葉というわけでもなく、巴はいつもより生気がなく見えた。

 巴は誰かの前で痛いだのしんどいだの言える質ではない。大丈夫だとうわべだけの言葉を返されることはわかっていた。

 しかし予想に反して巴はもう一度体を倒し、ソファーに横になった。

 彼女はそのまま寝返りをうち、こちらに背を向ける。壮司の黒いコートに包まれ、黒い髪がソファーの上を流れ、黒いタイツをまとった足が見える。どこまでも黒ずくめな格好だった。

「壮司、座れ。話がある」

「その体勢でか?」

「いいから座れ」

 言い切られ、壮司は床にじかに腰を下ろした。

 昨日まで様々な作業に追われていたため、生徒会室は物が散乱している。椅子は重ねられて隅に追いやられていた。

 ソファーの側面に背を預ける。巴とは背中を向けあっている姿勢だった。

 風の音がやけに大きく聞こえる。壁一面から見える空はすっきりと晴れ渡っていた。

「壮司、私……」

 風音の隙間をぬって、巴が言葉を発する。

 惰性だけで声帯を震わせているような虚ろな声音だった。

 何か重大なことを巴は言いだそうとしている。そしてそれはおそらく自分にとって歓迎すべきことではない。

 壮司の直感はそう告げていた。

「私、医学部に進もうと思う」

 産婦人科医になりたいんだ、と続けて言った巴に感情的なところなどなかった。

 受験生本番である三年はもうすぐそこだ。将来のことを考えるのは当然のことだ。

 彼女は彼女の考えがあって将来の職に医者を選んだのだ。壮司が何かを言えることではなかった。

 巴も壮司も反応らしい反応も示さず、身じろぎもしなかった。

「……それで卒業を期にあの家から出ていく。縁を切る」

 縁を切る――。壮司は瞬時にその意味を正しく理解した。

 由貴也の『いい気なものだ』という言葉がよみがえる。

 本当にいい気なものだ。いつ巴がそんな一大決心をしたのか見当もつかなかった。

 室内がやけに暗く感じる。それは逆光だというせいだけではないように思えた。

「そしたらお前とは二度と会わない。いろいろと迷惑かけたが……っ」

 そこで巴が不自然に言葉を切った。

「もう、困らせない、からっ……」

 声を詰まらせて、それでも泣かないとしている巴がたまらなかった。

 何を謝って、どんな行動をとればつぐなえるだろう。

 壮司はあの家で巴のすべてを奪った。役割も居場所も、恋心も。

 自分の罪はきっとどこまでも高く、どこまでも深い。

 これだけ犠牲にさせながら、まだ行くなと言いそうな自分はいっそう罪深かった。

「……医者か……」

 やっとのことで口に乗せた言葉は、そんな意味のないつぶやきだった。

「お前らしいな」

 そう、これは巴の新たな門出であるのだ。

 あの閉鎖的な家で、“住職の妻”にはめこまれて生きるより、よっぽど巴らしい。いきいきと患者相手に忙しく立ちまわる巴が目に見えるようだった。

 その夢に向かう巴の後ろ髪を引く存在であってはならない。

 せめて後の憂いがないように気持ちよく送りだしてやらなければならない。

 それが壮司ができるせめてものはなむけになろう。

「お前ならいい医者になるだろうな」

 こんなありきたりの言葉でしか巴の前途を言祝ぐことができない。それが口惜しくてならなかった。

 背中ごしの奇妙な沈黙。

 この構図がそのまま今の関係のようだった。

 お互いに背を向けて、違う道に歩みだそうとしている。それはこれから交わりはしない。

 交わってはいけないのだ。巴はもうここに戻ってきてはいけない。大きな檻のごときあの家に囚われてはいけない。

「……壮司、頼みがある」

 感情を消した巴の声が冷たい空気を震わせた。

 そこで初めて暖房がついていないことに気がついた。

 巴はすぐには言いださなかった。

 耳が痛くなるほどの無言の時間。壮司は静かに根気よく待っていた。いくらでも待って何でも聞いてやるつもりでいた。

 長い間の後、巴が口を開く気配がした。

「……がんばれって言ってくれないか」

 消えそうな巴の声。

 あまりにも意外な巴の頼み事に壮司は驚き、それから目を伏せた。

 それだけでいいのか。そんなことでいいのか。そんな思いが胸をついた。

 巴の立場ならばどんな要求をしたって許されるのだ。

 しかし、巴が望んだのはささやかな応援だった。

「巴」

 壮司は巴の方へ体を向け、その頭に手を乗せた。依然として巴はこちらに背を向けたままだった。

「がんばれ。がんばれ、巴」

 馬鹿のひとつ覚えのようにがんばれをくりかえしながら、不器用な手つきで巴の頭をなでた。

 手のひらから巴の体が細かく震えているのが伝わる。やがてそれは堰を越え、しだいに嗚咽になっていった。

 ずいぶんと“別れ”が具体的になった。

『おまえによめのきてはないだろうから、しかたない。わたしがおまえとケッコンしてやろう』

 幼い巴がこちらに向かって無邪気に笑っている。

 あの日からもうとり返しのつかないほど遠くにきてしまった。

 これは許婚としてではなく、不動 壮司と古賀 巴ふたりの関係の終焉なのだ。

 小さな巴の幻像がほろほろと崩れた。

 あの頃と違って、どうしてこんなにも心を曲げないと生きていけなくなってしまったのか。

 そう遠くない将来、消えるぬくもり。

 それを記憶に刻みつけるように、壮司は丁寧に巴の頭をなでた。

 これでよかったのだとむりやり自分に言い聞かせた。

 自分で自分を欺かなければ、今にも何をしでかすかわからなかった。

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