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かざす花  作者: ななえ
第8章
40/68

幕間

 物音がした気がして、壮司はふと目を覚ました。

 枕元に無造作に置いた携帯を開くと、午前四時半。あたりは暗く、寒さは厳しかった。

 床から出ると、いまだ色濃く残る夜気に身を震わす。

 夜明け前特有の張りつめた空気に耳をすませば、母屋の玄関を開く音がした。

 明日学院に戻る、と言った昨日の巴が思い浮かぶ。廊下へ出て、外へ面している方の窓を開いた。

 深い闇の中で、玄関に立つ人影の動きが止まる。

 暗闇に目が慣れてくると、それがやはり巴であることがわかった。旅行用のカバンを肩から提げていた。

「お前、何してんだ」

 壮司の声が夜陰に朗々と響く。玄関の鍵を閉めていた巴の動きが止まった。

 地面にしきつめられた玉砂利が触れ合う男がして、巴の体がこちらへ向いた。

「壮司か……」

 巴の声は強ばっていた。表情までは暗くてわからない。

「お前……こんな時間に行くつもりか? バス動いてねえだろ」

 円恵寺前を通るバスの始発は六時半だ。あと二時間もあるというのに、何の理由があってこんな早朝に出ていかねばならないのか。

 今日は日曜であり、授業もラッシュも気にしなくていいはずだ。

 それなのにこの時刻を選ぶとは、まるで逃げるようではないか。

「いや、バスは乗らない。駅まで歩いていく」

 防寒具にくるまれた巴が、バツの悪そうに答えた。

 その顔だけで、今の巴にとって自分は歓迎されざる存在なのだと知るには充分だった。

「歩いて行くって……お前何だってそんなこと……」

 駅までは歩きで行っても行けない距離ではないが、決して近くもない。軽くはない荷物を持つ今の巴では、骨の折れる行程だろう。

 それに街灯のひとつもついていない道を延々と歩かせるには危なすぎた。

 どうしてそんな無茶なことをしたがるのか。壮司にはわからなかった。普段の巴は無理はしても、無謀ではない。

「巴。そこで待ってろ。送ってく」

 疑問が抜けないまま、言葉を口から出した。

「いい。ひとりで大丈夫だ」

 巴は即座に断るが、それくらいは予想の範囲内だ。「いいから待ってろ」と封じこめ、壮司は身なりを整えるために部屋にひきとった。

 すばやく着替え、顔を洗って納戸へ向かう。

 しばらく使ってなかった自転車を中からひっぱり出し、軽く点検する。きちんと動くことを確認すると、それを押して玄関へ向かった。

 巴は不本意そうながらもちゃんと待っていた。

「行くぞ」と言うと、まだ拒否する気配を見せたので、巴のカバンをとって自転車のかごへつっこむ。

 さすがの巴も観念したようで、あきらめたように息をひとつついた。

 自転車を持ち上げながら、三十余段の石段を下る。自転車のライトに照らされた草木には一様に霜が降りていた。

 寒さが一番厳しい時間帯だ。白い息を吐きだすと、その息さえも凍りそうだった。

 寺の前の国道では、時折来る車が遠慮のないスピードで走り去っていく。壮司は結構な幅がある歩道で自転車にまたがった。

 巴はなかなか後ろに乗ってこない。「この期に及んでやっぱりひとりで行くとか言うんじゃねえぞ」と言うと、やっと荷台に重さが加わった。

「しっかりつかまれ。じゃねえと俺の方が怖えよ」

 そろりと巴の手が胴に回る。背中にほのかなぬくもりを感じた。

 ペタルをいつもより慎重に踏む。ゆっくりと景色が動きだした。

 安定して走れるようになると、冷気が刃物になって肌をさした。寒いを通り越して痛かった。

 どこにも人の気配はない。田畑の間に見える家々はどこも電気が消えている。上弦の月が低い位置で冴々とした光を放っていた。

「……何かあったのか」

 壮司は問いかけで、静寂を破った。

 巴が「何?」と聞き返す。言葉が流れて聞こえなかったようだ。

「こんな時間に帰るなんて何かあったのか」

 最初より幾分か声を張り上げた。

 当然の問いかけだった。あまりに不審な出ていき方だ。

 自転車はしばしの沈黙を乗せてゆるやかに進んでいく。

「何もない。ただ、やることがたまっているから早く帰りたいだけだ」

 巴は淀みなく答えた。さも本当に何もなかったようだ。

 しかし難を挙げるなら完璧すぎるのだ。巴は態度をつくろうのが上手いが、逆に自然すぎて不自然なのだ。ようやく最近、それがわかってきた。

 それだけ近頃、巴を見ているということか――。

 わいてきた思いを打ち消すように、「そうか」とだけ答えた。巴が完璧を装っている以上、問いつめても無駄だろう。

 それに頼ってもらおうと思う方が図々しいのだ。

 母の葬式があった数日前の夜のことは、思いだすたびに羞恥心に襲われる。

 確かにあのときは常の自分とは違っていた。しかしやることに事欠いて、巴にすがって散々弱音を吐いた挙句、そのまま寝るとは何事なのだ。

 そして何より巴を拒絶した。

 いつかは言わなくてはならないことではあった。しかし、まともではないときに、勢いで言ってしまったことに後悔を覚えた。

 いや、後悔を覚えているのは、言い方なのか。

 こうして側にいるとわからなくなる。

 鉈を振るったのは自分だというのに、このまま平穏な日々が続いていきそうな気がする。波乱の予感を孕みながらも、何事もなかったかのように連綿たる日常が戻ってきそうな気がする。

 巴は以前のまま、自分を好きでいてくれそうな気がした。

 ああくそっ、と心中で毒づく。

 何を考えているのか、と自身を責めた。

 不意に胴に回る腕の力が強くなった気がした。壮司の感情の高ぶりに呼応して、ペダルを踏む力も強くなっていたのだ。結構な早さで自転車は走っている。

 壮司はスピードを落とした。落としても巴の腕はそのままの強さでまきついていた。

 駅の灯りが見えてきた。

 もう始発は動いているようで、遠くへ去っていく電車が光の帯になった。

 ロータリーに停まっているタクシーを避け、自転車を止める。

 ちょうどホームから電車の到着を告げるアナウンスが鳴り響いた。

 巴が荷台から下りたのを確認して、壮司も下りる。

 かごから巴の荷物をとりだし、彼女に手渡した。

「気をつけてな。桐原たちによろしく言っといてくれ」

「わかった」

 巴がうなずいた瞬間、ホームに電車がすべりこむ。

 巴はそちらをちらりと見たが、再びこちらへ視線を戻した。

「じゃあ行く。こちらのことは気にするな。多少帰ってくる日にちが延びたって構わない」

「ああ。頼むな」

 壮司の短い返答を聞くて、巴は身をひるがえした。改札を抜け、発車ベルの鳴る電車に乗りこんでいく。

 壮司はなんとなく、闇にきらめく車両や、ホームの人の波を見ていた。

 電車のドアが閉まる。巴はガラスに手をつき、こちらを見ていた。

 電車の中と外。ガラスをへだてて視線がつながる。

 巴が見ているのは景色か、それともただ一点か――。

 答えが出る前にゆるやかに電車が滑る。自分の方が動いているような錯覚に襲われた。

 車体が夜に消えた後には、閑散としたホームと、冷たくなった背中が残された。

 次の列車のアナウンスが無人のホームにむなしくこだまする。

 さっきまで巴のぬくもりがあった背中は、今はもうその名残すらなかった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 週明け、この期に乗じて欠席を重ねようとする由貴也をひきずって、学院に登校した。

 少しの不在期間中に、校内には芸術祭の雰囲気が色濃くただよっていた。

 同時に、芙美花と健一郎にも疲労が色濃くただよっていた。

 この芸術祭直前に、生徒会役員が一気にふたりも消えれば、残された彼らがどうなるか想像にかたくない。芙美花と健一郎は書類の山とともに、忙しさにも埋もれているようであった。

 連日フル稼働をし、書類をあらかた片づけ終えたところに、壮司が戻ってきた。

 壮司はこの忙しいときに長期欠席したことを詫び、それ以上は何も言わなかった。

 皆に気をつかわせずに、いち早く日常へ戻るのをもっとも望んでいるようだった。

 それが壮司の望みなら、と芙美花も健一郎も、もちろん巴も普段通りを心がけ、やがてそれは本当になっていった。

 日に日に放課後の校舎に響く音楽科の楽器音が増えていく。展示スペースでは、家政科の手芸品が続々と並び始めていた。

 生徒会の仕事に忙殺されていると、祖母から大きな封筒が届いた。

 許してくれなくとも家を出ていくと啖呵を切って以来、祖母とは何の連絡もとっていない。ごちゃごちゃと言われるのが嫌で、あんな早朝に家を出てきたのだ。

 自室に戻ってそれを開くと、女子大のパンフレットと付属寮の案内が出てきた。

 パラパラとめくってみると、所在地の欄にはここから飛行機で行かねばならないような住所が示されていた。

 同封されていた手紙は『知り合いがやっております大学です。ご検討のほどよろしくお願いいたします』の二行だけだった。

 あの時代には珍しく、祖母は女学校を卒業している。いわゆる知識層である祖母ならば、大学の理事長のひとりやふたりいたっておかしくないだろう。

 その女子大はいわゆるお嬢さま大学というものだった。

 嫁入り道具の足しとなる教養系の学部は多くあったが、総合大学には必ず設置してある実学系の学部は少なかった。

 もちろん医学部などなかった。

 これが祖母の精一杯の譲歩なのだ。

 遠方の大学へ行き、女子寮に入る。祖母の知り合いの目がある中でだ。

 それは到底巴の望みに適うものではなかった。

 封筒ごと机に投げ出し、その手で机の引き出しの中から、ある紙をとりだした。

 ふたつに折りたたまれたそれを広げると、色あざやかなグラフが姿を現す。

 それは先日誰にも内緒で受けに行った医学部模試だった。

 巴の偏差値グラフは低層ビル群であり、下位私立医学部がやっとC判定な有様だ。国立大医学部など当然E判定だ。

 慢心はしていないつもりだったが、いかに自分が井の中の蛙だか思い知らされた。上位合格の奨学金など夢のまた夢だ。

 まだ一年ある。あせってはいけないと思いつつも、気は急いでいた。

 制服から部屋着にすぐさま着替え、机に向かった。

 シャーペンがノートを走る音だけが部屋を満たす。

 唐突に言い知れぬ孤独と不安が胸をついた。

 自分で決めたこととはいえ、まわりには言えない。無論援助もない。何から何まで自分自身でこなさねばならない。

 担任にすら、安全圏の理学部を受けると嘘をついていた。

 浪人はできない。仮に合格できたとしても、医学部の過密なカリキュラムの中でアルバイトをして生活費まで工面することまでできるのか。

 それより一番、壮司の存在が少しもない生活に耐えられるのだろうか。

 幾度夜が明けても、壮司が自分を呼ぶ声も、姿もない生活など想像もできなかった。

 手を止める。指からシャーペンが離れ、数式で埋まったノートの上に転がった。

 机の上に両肘をつき、手を組んでそこへ額をつけて息を吐く。

 下腹部が重い。久しい感覚だ。

 壮司に自身の体質を告げた秋の終わりから、産婦人科にまったく行ってない。投薬も止めている。巴は薬を飲まないと月経が来ないのだ。

 それが今、何年ぶりかに自然に来る兆候を見せている。

 今さら、と思った。

 往生際の悪い体に失笑する。妊娠する気がないのなら、月のものなど来ない方が楽なのだ。

 今来られても、気持ちの下降に拍車をかけるものでしかない。

「……っ」

 痛い、と言いかけて止めた。つぶやいたとたん、さらに痛さが増すような気がしたからだ。

 声に出すことで、質量を増した言葉に負けてしまいそうだった。

 しかし、言葉を飲みこんだことで今度は吐き出されない重さが体の奥にたまっていく。

 痛いのは腹なのか、それとも違う場所なのかわからなくなってきた。

 痛い、重い――寂しい。

 舞い降りてきた“寂しい”の言葉が情けなくてしかたなかった。みっともなくて、甘えてるとしか思えなかった。

 自分に厳しくならなければならない。この場所に未練などいらない。

 胸に感じた痛みを押しつぶして、もう一度シャーペンをとる。

 頭をもう一度理論と数式で埋めつくそうとする。

 しかしいつまでもそれらは頭の上を過ぎていくだけで、時間だけが過ぎていった。

 ひとりで過ごすには冬の夜は長すぎた。その長さを恨めしく思った。

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