第2幕
週末、芙美花は健一郎とともに古賀家を訪れた。
おもて向きは学校代表の弔問である。
このときばかりは健一郎も自分も身なりを正し、きっちりと制服を着こんでいた。
生徒台帳に記されていた壮司の住所は巴と同じだった。
のどかな田園風景の中をバスは進んでいく。行き先は円恵寺前だった。
そこそこ発展した駅前に降りたったのはいいものの、住所だけではまったく場所がわからない。
地元の人間とおぼしき通行人に話を聞くこと数回。皆が皆古賀家の存在を知っていた。
それに加え、通り過ぎる駐車場の看板には連絡先に古賀という名前が載っていた。違う方向へ目を向けると、今度は幼稚園の看板に園長・古賀 曹玄の名前が踊っていた。
古賀家はこのあたりでは影響力を持つ一族らしかった。
「なんだか……巴のお家ってすごいね」
「……だな」
若干あっけにとられたやりとりをしていると、バスが路肩に寄った。アナウンスが円恵寺前と告げていた。
バスから降りると、木枯らしがマフラーを巻き上げた。さらさらと竹の触れ合う音があたりをつつむ。
風がやんでから目を開けると、眼前には石段が小高い山に向かって伸びていた。
その手前には『円恵寺』と掘られた巨大な石が置かれている。
「ここ……?」
疑問を含んでつぶやく。
道を教えてくれた人々は「円恵寺前っていうバス停で降りたらそこだから」としか言わなかった。
少し離れたところに民家はあるが、バス停からすぐというほどではない。“降りてそこ”だというのはこの円恵寺しかなかった。
「とにかく上がってみようぜ」
健一郎が言い終わらない内から上がっていく。芙美花もその後に続いた。
息を切らせながら石段を上がりきると、冬にもかかわらず花々が咲き乱れていた。
紅、白、桃の椿を始め、山茶花、蝋梅が妍を競うように咲いている。夢のようにのどかで美しい景色だった。
わぁ、と歓声を上げて眺めていると、「参拝の方ですか?」と花の影から声をかけられた。
声のした方向へ首を向けると、作務衣にほうきを持った若い僧が現れた。
確かに高校生ふたりなど、この古刹にふさわしくない。不審がられて声をかけられるのも無理はない。
健一郎が「古賀さんのお宅を訪ねてきたのですが」と言うと、若僧侶の警戒心がいとも簡単に落ちた。
「壮司さんか巴さんのご友人ですか」ととたんに笑顔となり、丁寧に家の方へ通された。
喪中のせいか、家全体にほのかな線香の香りが漂っていた。
お手伝いと思われるふくよかな女性がお茶を持ってきてくれた後、緊張ぎみにふたりで客間に座っていた。
太い梁が通る客間は一体何畳あるかわからないほど広い。
玄関も廊下も、旅館かと思うほどの規模であり、芙美花たちを萎縮させるには充分な広さだった。
所在なくて、襖に描かれた菖蒲の花を見ていると、その襖が不意に横にすべった。
見事な菖蒲の代わりに巴が廊下に正座していた。
一度立ち上がり、部屋に入ってからまた座して襖を閉める。
現代人には少々面倒な行程を優雅かつ堂に入った動きでこなし、巴は自分たちの前へ座った。
「待たせて悪かった。よく来てくれたな」
薄く微笑んだ巴は着物姿だった。
時が時なので、藍色の地味な着物を身にまとっている。髪もゆるく後ろでくくっており、すっきりとした姿は巴をいくぶんか歳上に見せた。
「こちらこそ大変なときに訪ねてごめんね。それでお線香だけでも上げさせて欲しいのだけど……」
壮司の所在はあえて聞かず、やることを果たすことに専念する。
壮司は肉親を失ったばかりなのだ。会えない状態でもおかしくはない。
「わかった。案内しよう」
「古賀」
巴が立ち上がる前に、健一郎がバックから香典をとり出し、机の上に置いた。
「これ、受けとってくれ。こういうときのルールとかよくわかんねえから不作法があったらごめんな」
幸いなことに、自分も健一郎も葬式には出たことがない。図書室で葬儀に関する本を借り、付け焼き刃でここへ来ていた。
しばらく巴は香典を凝視していたが、すっと突き返された。
「気持ちだけ受けとっておこう」
そのまま異論を挟ませる余地もなく、巴は客間を後にする。
健一郎も彼女の気持ちを汲んだのか、香典をしまって部屋から出ていく。芙美花も黙ってその後ろ姿を追いかけた。
長い廊下を何度か折れると、仏間にたどりついた。
換気のためか、開かれた窓から花の香りがした。
純粋に仏壇を置くためだけの部屋なようで、家具などは置いていなかった。
ふと欄間を見上げると、遺影が何枚もかけてあった。
白黒の年季が入ったものから、カラーのものまで、古賀家の故人がこちらを見下ろしていた。
その端まだ新しい、しかし、今日昨日にかけられたものではない遺影があった。
その古さから壮司の母親ではない。消えるようにはかなげに微笑む和装の女性に芙美花に妙な既視を覚えた。
まるで、巴のはっきりとした輪郭をぼやかし、角をとったようなたおやかな女性――。
「私の母だ」
答えが後ろから示される。
芙美花の視線の先に気づいたのか、巴が問いかけられる前に答えたのだ。
「私を産んですぐに亡くなった」
地雷を踏んだと思った。あえて触れるべきところではなかったのだ。
知ってはいけないことを知ってしまった気分になる。
どんなに仲がよくても、踏み込んではいけない領分はやはりあるのだ。
気まずい沈黙に謝ろうとしたところで、襖が再び開いた。
反射的に言葉を飲み込み、襖の方へ視線を向けた。床から生えている足をたどっていくと、ジャージ、Tシャツに続く壮司の顔が見えた。
「お前らここにいたのか」
拍子抜けするほど普段通りな壮司がそこにいた。うっすらと健康的に汗をかき、首から下げたタオルでそれをぬぐっている。
その仕草には一片のかげりも感じなかった。
「不動……何やってんだよ」
思ったより元気そうな壮司に安心してなのか、それとも肩すかしを食らった気分になったのか、健一郎はどこか脱力した様子で壮司を見た。
「何って素振りだろ。体がなまっちまうからな」
壮司も壮司で見てわからないのか、という具合に答える。
運動をしていたのは確かに見ればわかる。
しかし壮司は自分たちの思い描く遺族の姿とは大きくかけ離れていた。かける言葉に困るほど悲しみに沈んでいると思っていたのだ。
線香を上げて客間へ戻ると、まもなく着替えた壮司もやってきた。
胸元に白いラインが入った紺のセーターの下にはワイシャツを着こみ、ベージュのスラックスを履いている。壮司は寮内にいるときよりもずいぶんかっちりとした格好をしていた。
その壮司の前に、巴が慎ましく袖を押さえながらお茶を置く。その姿はどう見ても時代錯誤な光景だった。
もっとも、そういう家だからこそ、時代錯誤の最たるものである許婚という制度がまかり通ったのだろうが。
「忙しいところ何日も休んで悪かった」
壮司の声が広い客間にぽつりと落ちた。
もうすぐ芸術祭が開かれる。
六月の文化祭とは違って、芸術祭は音楽科が主体である。
文化祭よりは楽とはいえ、学内最高機関としてすべきことは結構ある。この時期にふたりになってしまうのはかなりきつかった。
「いいよ、いいよ、そんなこと。大丈夫、ふたりでやってるから」
今、壮司に余計な心労をかけてはいけない。芙美花はつとめて力強く言い切った。
こういうときのためにメンバーが四人いるのだ。
母親を弔うことは、今何をさしおいても壮司のすべきことのはずだった。
「私は週明けから学院に戻る」
芙美花の決意を遮るように、巴が静かに宣言した。
巴と壮司の母との続柄は叔母と姪であり、彼女の忌引き期間は移動を鑑みてもせいぜい三日だ。水、木、金と休み、そのまま週末に突入したので、もうすでに切れている。
それを考えれば学院に戻ってくるのも何ら不思議はない。だが、学校を休んででも巴は壮司の側にいると思っていた。
これは芙美花の勝手な期待だとわかっている。口に出せることではなかった。
「壮司、お前はどうする?」
「そうだな……俺はもう少し遺品整理してから帰るわ」
当たり前のようにやりとりをして「わかった」と巴はうなずいた。
何だか巴が薄情で、淡白に感じた。そんなことを思うのは、まったくの筋違いだ。しかし今、壮司をひとりにしておいていいのだろうか。
それは致命的な間違えのように感じた。
壮司の気持ちをわかってやれるのは、他の誰よりも巴ではないのかと思った。
―◆―◆―◆―◆―
外灯ぐらいしかない畦道をバスは進んでいく。
冬枯れの景色が闇に沈んでいく。気の早い月が淡い存在感でにじむように光っていた。
それをバスの窓ガラスに頭をつけてぼんやりと眺めていた。
「芙美花? 疲れたか?」
隣に座る健一郎が、気遣わしげな声を出した。
芙美花はわずかにほほえんで、それに応える。
「ううん。大丈夫だよ」
実際のところ、疲れていないといえば嘘だった。
学院から古賀家までの道程は遠く、朝も早かった。
それに部外者である芙美花でさえ、あの家では精根しぼりとられるようだった。
広く、人が住んでいる気配を感じない家。だんらんもなければ、ぬくもりもなかった。
それは豪奢な檻となって、ふたりを捕らえているように感じた。
「……まさか寺に住んでるとは思わなかったな」
車窓の外へ視線を投げながら、健一郎が静かにつぶやく。その目はすでに遠ざかった円恵寺の方へ向いていた。
地元民の間では、古賀家と円恵寺は同一視して考えられているのだろう。だから古賀といえば、円恵寺というのが当たり前すぎて、誰も芙美花たちに古賀家とは円恵寺だと教えてくれなかった。
その浸透具合からも由緒がある寺だとうかがえた。
「だから許婚だったんだな」
健一郎の声は固い。
彼は巴と壮司が許婚だったということしか知らない。
壮司が巴がらみで部活の後輩、猪野 隆人を殴りつけ、それが大問題となったあの日、どこまで話していいものかと悩んだ挙句、健一郎には最低限のことしか話せなかった。
ベタつかない男同士だ。壮司がそのへんの事情を話しているとも思えない。となると当然健一郎は何も知らないのだ。壮司が後継ぎだということも、巴が子供を望めない体だということも。
しかし、今回古賀家を訪ねたことで、健一郎にも彼らの関係性が見えたのだ。
巴の母はなく、多分他に兄弟もいない。だからこそ壮司を許婚とし、将来の婿としたのだ。
壮司はいずれ大きなあの家の主人となるのだ。
健一郎にもここまでは充分予想がついただろう。
「不動くんって……」
大変だよね、と続けようとして、口をつぐんだ。大変という安易な言葉でくくってしまうことに、抵抗を感じたからだ。
壮司が背負っていくものは、今日芙美花が見てきたものそのものなのだ。
大きくて重くて堅苦しい。現実的でない甘い絵空事ばかりを将来の夢として抱いている自分とは何という違いだろうか。
「……なぁ、不動、坊さんになんのかな」
重たい思考を払拭するように、健一郎が素朴な疑問を口に出した。
あの家に生まれたからには、当然そうなのだろう。
しばらく壮司の坊主姿を想像してみる。
あきらかに既存のアニメやら物語に影響をうけた坊主像が描きだされた。木魚がバックミュージックで鳴っている。
「……なんか想像できないね」
想像の中の壮司はリズムもめちゃくちゃに木魚を叩き、読経の最中にむずむずとして、結局「こんなことできるか!」と丸投げしてしまった。
健一郎も同感のようで、「だよな」と答えた。
―◆―◆―◆―◆―
健一郎と芙美花がこんな田舎くんだりまで来てくれるとは、正直驚きだった。
立志院から古賀家までは二時間強かかる。距離にするとたいしたことはないが、交通網が発達していないゆえだ。
彼らは朝も早くに出てきたのだろう。
巴は自室で明日学院に帰る支度を整えていた。
準備といっても、大がかりなものではない。荷物などほとんど持ってきていないのだ。
故人の姪にすぎない巴に、叔母の死に関して別段やることがあるわけではない。本当は芙美花たちとともに学院に帰ってもよかったのだ。
しかし、あえて家に残ったのは、叔母の死とは関係なくすべきことがあったからだ。
荷物をまてめ終えると、巴は祖母の部屋へ向かった。
風が強い夜だった。廊下を歩いていると、雨戸がガタガタと揺れ、内側のガラス戸さえも揺らしていた。
電車が止まっていないといいが、と今頃私鉄内の芙美花たちに思いを馳せた。
夕食もとうに済んだ母屋は静まり返っている。灯りのない暗い廊下に、祖母の部屋からもれる光が細い筋を作っていた。
持ち運び式の灯りを消し、巴は襖の前に座した。
「お祖母さま、巴です。お話がありますので、入ってもよろしいでしょうか」
自分の発した声が、廊下の奥にすいこまれていく。
一拍の間があった後「お入りなさい」という声が返った。
襖ごしだというのに、祖母の言葉の鋭さは少しもやわらいでいなかった。
奥歯を噛み、緊張を押し殺す。
「失礼いたします」
なめらかに襖をすべらすと、程よく温められた空気が巴を包んだ。
文机の前で、祖母が書き物をする手を休めて、こちらを向いて座っていた。
昼間と何ら変わりない整った服装で、背筋をピンと伸ばした祖母に一分の隙もなかった。
乱れという言葉とはつくづく無縁な人だ。古い桐の家具で統一した部屋には、何ひとつとして贅をこらしたものはない。
古賀家の権力を一身に集めているにもかかわらず、祖母の生活は清貧といえるものだった。
「お話とは何です」
戸口近くに巴が腰を下ろしたのをみはからって、祖母の言葉がこちらに向いた。
その無機質な双眸にひるむ。
これから巴が口に出すことは、喪色に包まれた今の古賀家にはふさわしくないだろう。本来ならば後回しにするべきことだ。
しかし、それでも巴は今を選んだ。
時間をおいて、決断が揺らぐことがあってはならないのだ。
言葉を押し出すために、息を吸った。
「高校を卒業したら、家から出ていきます」
畳に手をつき、ゆっくりと頭を下げた。
髪が肩からこぼれ落ちる。
「私は育てていただいた恩を仇で返します。勘当してください。好き勝手に生きていくことをどうかお許しください」
好き勝手に生きていく――暗に結婚しないと言ったのだ。
頭を下げたままで、沈黙が祖母の部屋をめぐった。
いつまでも自分の感情だけで動くわけにはいかない。壮司の側にいては、どうしても断ち切れない想いが彼を苦しめる。
壮司はこの家の後継ぎとして求められることが自身を保つために必要だと言った。
巴の想いに応えることは、それを壊すことなのだ。彼の望みと対立することなのだ。
だから逃げなくてはならない。卑怯と言われようとも、壮司の前から消えるのだ。
「顔をお上げなさい」
その声に顔を上げ、祖母の顔を目にとりこむ。何の動揺もなく、銅像のような姿だった。
功績を称え、権威だけをふりまく銅像。人間くささなど、その質量に押しつぶされ、決して外へ出ることはない。祖母は例えるならそうだった。
「ずいぶん性急なお話だこと」
巴の並々ならぬ覚悟をこめた申し出を、祖母はその一言で片づけた。
「大学はどうなさるつもりです。高校を出て働くのですか?」
祖母の切り返しは冷静だ。傍から見れば突飛な巴の言葉も、あやまたず問題点を指摘する。
「奨学金を借りて行きます。そうしている学生は珍しくありません」
用意していた理論ですぐに言葉を返す。言葉につまる愚を犯すわけにはいけない。
「巴さん。あなたは将来どのようにして身を立てていくおつもりです」
祖母の直接的な問いに、巴は一旦目を伏せ、心を落ち着かせる。
それからより強く、よりまっすぐに祖母を見つめ返す。その眼光を押し返した。
「医者です。私は医者になります」
きっぱりと迷いなく断言する。
しばし祖母と視線を重ね続ける。何の感情も流れこんではこなかった。
「では医学部に進まれるとおっしゃるのですか」
「はい」
祖母の問いかけに答えるたびに、心が萎縮する。見かけだけは強気をつくろっているが、鼓動の早さはごまかせない。
壮司も自分も、本能として祖母には逆らえない。そういう風にできているのだ。
明確な序列。上と下。下はもちろん自分だ。変えられない永遠のことわりだった。
「女だてらに医者など……あなたはもう少し理性的にものを考えられる方だと思っておりました」
ばかばかしいと言わんばかりに祖母が吐き捨てた。“理性”の塊である祖母がここまで感情をあらわにすることは珍しかった。
医学という、男の領分に巴が踏み込むことは、祖母にとってこの上なくはしたなく感じられるのだろう。
「お祖母さま。私は女だから医者になるのです」
こんなことを言っても、祖母は何を今更と思っているだろう。
祖母はすべてをわかっていて、女だてらにと言っているのだ。
巴がなぜ医者になりたいなどと言い出したかも、産婦人科医になりたいということも、この人がわからないはずがないのだ。
それをわかってこその古賀家の主だ。すべてを把握しているからこそ万事を意のままにあやつれるのだ。
「少し冷静になられるといいでしょう。卒業まではまだ一年以上あります」
祖母に畳みかけられているのがわかった。
今、終わらせられては、次に話をするときは祖母のいいようにされている。
「いいえ」
巴は焦りを隠して、静かに否定する。
生まれてから一度も祖母に反抗などしたことはなかった。逆らうべきではないと本能が言っていた。
今、それをくつがえす。
心臓は相変わらず高鳴り、手には嫌な汗をかいていた。
「お許しいただけなくとも、出ていきます」
祖母の瞳を一直線に見つめ、巴は重々しく宣言した。
そのとき、ひときわ強い風が吹き、家中の戸が鳴った。