第1幕
不思議と覚悟はしていたのかもしれない。
夜半、寮監室にかかってきた電話を、驚くぐらい冷静にとる。
電話先の祖母も、いつも通り落ちつき払っていた。
実の母の訃報を告げる電話とは思えないくらい、静かで乾いたやりとりだった。
寮監に丁寧に礼を言い、自室へ引きとる。
それから身支度を整え、由貴也に電話をしたが出なかったのでメールをして、巴の部屋に向かった。
インターフォンを押してものの三秒も経たないうちに、ドアが開いた。
時刻は午前四時半。こんな時間に誰かが訪ねてきたら何かあったと考えてしかるべきだろう。
「壮司……どうした?」
巴は当然ながら寝間着姿だった。しかし、その顔ははっきりしている。
巴の姿を非常口の青白い光が照らしていた。
「すぐに帰るぞ」
「え?」
「母が死んだ」
機械的に言葉を吐きだす。巴の方がしばし言葉をなくし、よほど驚いた反応をした。
「亡くなったってどういう……」
「交通事故だ。家から飛びだして前の通りでひかれたらしい」
いつも通り思考は回り、いつも通りよどみなく言葉は飛びだす。
悲しみも動揺もはるか遠くにあった。
「すぐに準備する」
巴がすぐさま部屋へ引っ込み、壮司は一人廊下に残される。
窓の外へ目をやる。季節は真冬。夜の帳がしっかりあたりをおおっていた。
いまだ夜明けは遠く、月が突き放すような冷たい光を放っていた。
―◆―◆―◆―◆―
「壮司さん、意外と元気だね」
火葬場からたちのぼる煙を見ながら由貴也が言った。
先ほど叔母の火葬をしたばかりなのに、もう次をしているらしい。
天にのぼる煙は同色の曇った空にまぎれて消えた。
それを巴と由貴也は駐車場から見ていた。
「まだ気が張っているんだろう」
あたりさわりのない答えを返し、巴は遺骨を抱く壮司に視線を移した。
家へついてから、壮司が泣くのはおろか、悲しんでいる様子も見たことなかった。
訃報が届いてすぐ、始発で帰った自分たちを待っていたのは、白い布に包まれた叔母の姿だった。
遺体の損傷が激しく、顔すら見れるものではなかったのだ。
その衝撃的な説明すら、壮司は少しも騒がず聞いていた。
壮司は、残された遺族としては、これ以上なく毅然として立派だった。しかし立派すぎた。
祖母に喪主としてすべきことを聞き、それを淡々とこなしていた。不自然なまでに自分の置かれた状況を理解しきっていた。
一方の実の娘を亡くした祖母もいつもと同じ態度を貫いていた。
もちろん涙ひとつ見せることもなく、あたかも死んだのは祖母と何ら関わりのない人物だと思えるほどだった。
古賀家は近しい身内を失ったにもかかわらず、その事実はどこかよそよそしくとらえられ、悲しみとなっておもてに表れることはなかった。
叔母の葬儀は密葬であった。祖母がそう決めた。
長年、精神をわずらい、死に方も死に方だ。仕方ないこととはいえ、寂しい葬式だった。
「あの人も家族に縁ないね」
由貴也には感傷というものはなく、ごく普通の口調だった。
それが返って、悲しみに沈むことを要求するこの場ではありがたかった。
十七で母親を亡くし、父親は長らく行方知らず。おそらくゆくゆくは祖母の選んだ相手と結婚し、子どもを成す。
本当に壮司は家族の愛情とは無縁だ。
「……ここ数日、壮司の様子がおかしかった気がする」
具体的にどこが変だと言えるわけではない。彼の母親の死という結果が、巴にそう思わせただけかもしれない。
「じゃあ知ってたんじゃない。自分の母親が死ぬこと」
由貴也は気のない様子でそれだけ言うと、車の車輪止めに腰かけた。
由貴也の言葉を、巴は単なる戯れ言として処理できなかった。
あの夜の不自然なまでの落ちつきようが、あり得ないことを信じこませてしまうのだ。
「まぁ……確かにおかしかったよね、壮司さん。あの人わかりやすいから」
「……お前もそう思うか」
由貴也が言うなら間違いない。
日曜日の早朝、壮司が出ていく足音が聞こえた。
足音を忍ばせてはいたが、壮司はもともと秘密事には不向きな男だ。バレないはずがない。
あれからだ。壮司の様子が変になったのは。
壮司は様々な事情を抱えているにしては、その精神はいたって健全だ。歪みがなく、屈折していないのだ。
その正常な歯車を狂わす事柄はいつもただひとつ。古賀家のことだけなのだ。
古賀家のことだけは、壮司を“壮司”ではなくする。壮司はどんな我慢を強いられても諾々としてそれに従った。そこに感情はなかった。
しかし、壮司をもっとも揺り動かし、爆発させる要因をはらんでいるのも古賀家であった。
「……壮司はお祖母さまに……」
あの日何か言われたのだろうか、と言おうとして止めた。
日曜日に壮司はおそらく家へ帰ったのだ。しかし、それを確信していても、今言うべきことではないように思えた。
ろくに悲しむこともできず、母親の葬儀の喪主をつとめあげることすら、古賀家の跡継ぎとしての役目だと思っている壮司に、何をしてやればいいのだろう。
幼い壮司は母親を純粋に慕う気持ちを、彼女を守らねばいけないという使命に書きかえてしまったのだ。
叔母が壮司に母親らしいことをしたことなど一度もない。
それを年端もいかない子供がさびしく思わないはずがない。無垢に向ける愛情を他のものへとおきかえなければならなかったのだ。
十数年経った今、壮司はさびついた母親への感情を未消化のまま抱えているのか、あるいは他の感情――憎しみや無関心で潰してしまったのか、それか捨ててしまったのか。
いずれにしても、壮司は不器用な男だ。どれを選んでも、葛藤は避けられなかっただろう。
母親の死に直面して、壮司は彼女と向き合わざるえない。
それがどのように壮司に影響を与えるのか、想像もつかなかった。
壮司と彼の母親との関係は、巴にも未知の領域なのだ。
「ねぇ、余計なことはやめといたら。壮司さんの気持ちは壮司さんにしかわからないよ」
遠くを眺めていただけだと思っていた由貴也から、痛烈に釘をさされる。
由貴也は巴が何をしたって無駄だ。壮司を放っておけと言っているのだ。
確かに今は過度の心配や同情は壮司をわずらわしくさせるだけかもしれない。
何かできることはないのだろうか、と探る一方、壮司の深淵をのぞくのは怖かった。
今の壮司をつつくということは、彼の深層に踏み込むということに他ならないのだった。
―◆―◆―◆―◆―
欄間の透かし模様が、淡い闇の中で浮かびあがっている。
壮司は腰を下ろし、壁に背をつけてそれを見ていた。
母の部屋はいたってきれいだった。
数日前の痕跡など一切残さずに潔癖なまでに整えられていた。
あまりに整然としていて、母の残り香を否定しているように思えた。
おもてから、スピードを出した車が猛然と通り過ぎる音が聞こえる。
静かな夜だった。
昨日、今日とずっと忙しかった。忙しいと感じる余裕すらないほど忙しかった。
新聞に載せてもいないはずなのに、どこからか母の死を聞きつけた弔問客がひきりなしに訪れたからだ。
壮司は形式化された堅苦しい礼を述べ、母の友人から注がれる同情の視線を残らず受けとめた。
それは壮司の内に堆積し、罪悪感となって身をさいなんだ。
ひっそりとした暗闇を、きし、という床のきしみが邪魔をした。
規則正しい足音はためらいがちにこちらに近づいてくる。
部屋の前でその音がぴたりと止まった。
ずいぶんな間があった後、障子ごしに声が放たれた。
「壮司、入ってもいいか」
思った通り、巴の声だ。その声にはわずかな躊躇がまざっている。
壮司は答えるために口を開かなかった。
体が泥のように重く、口ひとつ動かすのさえも億劫に感じたのだ。
疲れていた。自分では自覚できないほどに。
しかし、これは悲しみからくるものではない。慣れないことをしたための気疲れだ。
何ひとつとして壮司を悲しませてはいないのだから。
襖がすべる音がした。閉じた目蓋の裏に巴の存在を色濃く感じる。
たえきれず目を開くと、毛布を広げ持った巴が、すぐ側にいた。
間近で目が合う。
「悪い、寝ているのかと……」
行き場を失った毛布はたたまれ、壮司の隣に丁寧に置かれた。
制服姿のままの巴が忙しく立ち動き、壮司の前に食事の膳を置き、黙々と給仕している。
お茶まで用意し終わったところで「食事はきちんととれ」と言われた。
意図的に抜かしていたていうわけでなく、ただ忙しくてとる暇がなかっただけだ。
壮司は箸に手を伸ばし、そこで初めて巴が室内の電気をつけようとする。今まで光源は月明かりだけだった。
巴は気を遣っていたのだ。もしかしたら自分が泣いているのかもしれないと思ったのだろう。泣き顔を見られたい男などいない。
泣いていなかったにも関わらず、気がついたときには「つけんな」と脅すような物騒な声音で言っていた。
わけもなく凶暴な気持ちがくすぶっている。
巴が悪いわけではない。しかし、巴の相手をしているほど余裕がないのだ。
ただひとりになりたかった。
壮司のわけのわからないいらだちの矛先にされても、巴は静かに従った。
電気をつけるのをあきらめ、代わりに薄闇の中手探りでストーブをつけた。
マッチの香りが漂った後、ストーブの芯が燃える音がする。
赤々としたストーブの炎が巴の姿を照らした。
「……風邪をひくぞ」
輪郭を赤く染めながら、巴が自分の肩に毛布をかけてくる。
何を思ったか、自分は最後の訪問者が帰った後、喪服代わりの学生服を脱ぎ捨ててしまったのだ。
今はワイシャツにスラックスという、真冬にしては狂気の沙汰な格好だった。
毛布は不思議と温かかった。しかし、そのぬくもりも今の壮司には逆に作用する。
罪悪感や申し訳なさ。もどかしさやはがゆさ。怒りといらだちに胸がはぜた。
「……お前、いい加減俺のこと見限れよ」
低い声に闇がビリビリと震えた。
ストーブが燃える音が室内を満たしている。その頼りない光の中で、巴はただただこちらを見ていた。
壁に映るその何倍もの影が、次の言葉を催促しているかのようだった。
「俺は結局、世間体が一番大事なんだよ」
母の部屋にこれば、少しは感慨も沸いてくるかと思った。
しかし、沸いてきたのは苦々しい思いだけだった。
悲しみの欠けらもない。死を悼む気持ちすら持てない。その証拠に涙のひとつも出ない。
「俺は母親をただの道具にしか見てなかった」
何かに追い立てられるように、言葉を継いだ。
「けど、あの人も俺に何を残した? 厄介事だけじゃねえか」
言葉が止まらない。
今まで子供らしいわがままひとつ許されない立場にいた。それに不満をもたなかったといえば嘘だった。
今、よりによってこの日にそれがあふれでる。
母親が死んだ日にこんな乾いた思いを持つなんて間違っている。
その正しくない思いが壮司をまた苦しめた。
壮司は母親を守る正しい息子でいたかった。母がこの家で犯した“罪”をあがなう正しさをもちたかった。
それで自分の存在を正当化したかった。
母のために行っていたことすべてが自分のためだったのだ。
母の死によって、その矛盾が浮き彫りになった。
「……壮司」
巴の手が頬に触れる。
この手に甘えてはいけない。
ひとりでいたい。それは裏返せば巴に甘えてしまうからだ。
ずるずると巴に寄りかかって、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだった。
側にいてくれ――その言葉をやっとの思いで喉の奥に押しやった。
「……俺は古賀家とお前を切り離して考えられない」
虚勢で固め、乱暴なつぶやきを巴へ吐き捨てた。
「肩書きがないと安心できない。自分の存在が見える形でないと生きていけねえ」
それは小さい頃、生きるために身につけた術だ。
そうして自分の存在意義を確かめた。人に必要とされていることに安堵した。
無償の愛など、この世に存在しない。常に何かを差し出さなければならないとずっと思ってきた。
どこの誰とも知れない男を父親に持ち、母親は普通に生活もできない。
利用価値がなければ、こんなやっかいな生いたちを持つ自分を誰が引き取ろうか。
「俺には古賀家の後継ぎしかないんだよ……!!」
床をにらみつけながら、言葉を叩きつけた。
こんな、許しを乞うような声音で、巴に何を言いたいのだろう。
古賀家の後継ぎにしがみつき、それ以外の道を見いだせない。
それゆえ、巴に惹かれていく自分が怖かった。
すべてを捨てて、お前が欲しいと言ってしまいそうな自分を認めたくなかった。
役目を捨てた自分など、自分でない気がした。
祖母の言いなりで、ろくに自分で考えたこともないから、こういうときに揺らぐのだ。
自分には根底がない。ルーツがない。確固たる主張がない。
だからいつまでも存在が不確かで、目に見えるものしか信用できないのだ。
しょせん、そういう矮小な人間にしかなれない。
「壮司」
暗闇の中で、巴の白い手が動く。
両手で包みこむように頬に触れられた。
壮司は顔を上げられなかった。
せいぜい幻滅してくれればいい。
巴のような人間が、いつまでも自分の側にいてくれるのはおかしいのだ。
壮司に愛想をつかして、由貴也でも他の誰とでも、幸せになってくれればそれでいい。
古賀家に囚われるのは自分ひとりで充分だ。
「俺を見限れ。お前が思うような男じゃない」
とどめとばかりに言葉を吐いた。
自分は内面よりも外ばかり気にする、度量の小さい男だ。
到底巴にふさわしいとは思えなかった。
このまま頑なに巴を拒み続けていれば、彼女は離れていくと思った。
実際、その通りに手は離れていき――次の瞬間、視界が暗くなった。
巴の香りが胸に広がる。
頭を抱えられ、抱きよせられていた。
ひっそりとした夜の中で巴の存在だけがはっきりと際立つ。
甘えてはいけない。だけれども巴の胸の中で、自分がひどく疲れていたことに気がついた。
果てのない徒労感に襲われた。
今は立ち上がることはおろか、巴を拒むことさえできない。
壮司は観念して流れに身を任せた。
「ごめん」
声が上から降ってくる。巴が話すたびに心地よい振動が伝わってきた。
「ごめん、壮司。ごめん……」
謝るのはこちらだというのに、巴はひたすら謝り続けた。
「もうお前を困らせたりしないから……」
巴の声に涙の色はなかった。
それだけに何かを決意したようで、別れの足音がすぐ側まで聞こえてくるようだった。
どこにも行くな。そう言えたらどんなにいいだろう。
巴がかけがえのない存在だと気づいたときには、もうどうしようもなく古賀家の闇にはまっていた。
胸が軋む。
朝が来て、この暗闇が晴れたら、巴は離れていくだろう。
壮司は巴を拒絶した。巴はそれを受け入れた。
関係を変えるのにこれ以上の理由がどこにあるだろうか。
しかし、今このときだけは――。
この一夜だけはまだこのままでいいだろうか。
誰にともなく問いかけ、壮司は巴の腕の中でゆっくりと目を閉じた。
―◆―◆―◆―◆―
巴は正体もなく眠る壮司の髪をすいた。
固い髪はおそらく父親似なのだろう。叔母にはない特徴だった。
自分の膝で眠る壮司は重責をとりはらった隙だらけの姿だった。
初めて壮司を十七歳だとはっきり意識した。
たった十七で跡継ぎとしての重荷に耐え、出生とそれに関わる誹謗中傷にひたすら耐えている。
大人たちの世界の中で、壮司は常に孤立無援だった。
戦っていくだけでも精一杯だろうに、恋愛まで望むのは酷というものだった。
自分の想いが壮司を苦しめている。彼を惑わせている。
巴はいつのまにか自分本位な想いを壮司にぶつけていたのだ。
強迫のように、壮司を追いつめていた。
好きだからで許されることではない。好きだからこそ、一歩引かなければならないのだ。
まじめゆえに苦しむ愛しい男。
壮司にあんなにもつらそうな顔をさせているのは、他ならぬ自分だった。
壮司の頭を太ももからそっと畳に下ろし、押し入れから掛け布団を出した。
それを壮司の上にかける。その寝顔には色濃い疲労が漂っていた。
壮司は律儀な男だ。母親の死を悲しまねばと思っていたのだろう。この部屋にきたのが何よりの証拠だ。
古賀家という鎖でがんじがらめにしただけでは飽き足らず、叔母は死後までも壮司を苦しめる。
悲しめないことがまた、壮司を苦しめている。正しくないことだと自分を責めている。
そう思う壮司が痛ましかった。
極力音をたてないようにストーブを消して部屋から出た。
母屋へ戻る暗い廊下を歩きながら、ふと庭から足音がした。
石だたみを踏む草履の音だ。巴は息をつめ、庭先をうかがった。
目をこらせば黒無地の紋付きが見えた。夜陰にまぎれ、どこかへ行こうとしているのは祖母だった。
少しのためらいの後、巴は近くにあった靴をつっかけて後を追った。
もう夜更けといってもいい時間帯だ。こんな時間に祖母が何も言わずに出かけるなど、初めてだった。
祖母の足どりにはまったくといっていいほど迷いがなかった。行く先が決まっているようだった。
家の門を出て、石段を下る。
しばらくいくと『円恵寺前』というバス停があり、大きな国道が通っている。
祖母はそこの歩道に立っていた。
その足元には花が備えられていた。
叔母の――言いかえれば娘の事故現場だった。
祖母は手を合わせるでもなく、ただそこにたたずんでいた。
祖母の目には何が映り、何を思っているのか。
肉親の情とは無縁かと思えた祖母にも、娘の死には思うところがあったのか。
夜の厳しい外気を切るように車が走りすぎていく。そのヘッドライトが祖母の体を照らした。
決して大柄でない祖母は無限の闇の中でさらに小さく見えた。
古賀家の支配者、自分たちを押さえつけるもの。
今の祖母はそのどれにも当てはまらないように思えた。
邪魔をしてはいけない気がして、巴はきびすを返した。
祖母が家へ戻ってきた物音がしたのは、すいぶん後のことだった。