第4幕
「…………」
小雪がぱらつく帰り道、どうにも芙美花の視線がからみつく。それはこちらの首に向いていた。
芙美花の視線は軽いものではなく、どこか粘着質で、くいるように首一点を見つめていた。
「……何?」
いい加減いわくありげな視線に耐えきれず、思わず芙美花に尋ねる。
芙美花はその視線を、今度は巴の顔に向けた。
「……あのさ、巴はマフラーしなくて寒くないの」
視線と同様にじっとりした問いかけが芙美花から放たれる。それはどこか巴を責めているようだった。
冬まっただ中だというのに、巴はコートの他に防寒具をつけていない。
つい昨日の朝まで、きちんとマフラーをつけていたのだが、今はそのマフラーをつける気にならない。
だからといって、壮司からもらった方はもったいなくてつけられないのだ。
芙美花の問いかけは、どうして壮司からもらったマフラーをしないのか、なのか、ただ単に寒いのにマフラーをつけていないことに対してなのか、判断しかねた。
一歩まちがえれば、根掘り葉掘り昨日のことを聞かれそうで、迂闊な返事はできない。
こちらのとまどいを感じとってか、芙美花は微笑んで話を変えた。
「あのね、プレゼントがあるんだ! 一日遅れちゃったけど……」
はいっ、と満面の笑みとともに渡されたのは、結構大きな箱だった。
しわひとつなくきれいにラッピングしてあり、芙美花が大事に持ってきたことがうかがえた。これだけ大きな箱だ。持ち運ぶのは大変だっただろう。
「ありがとう」
こんなに人からプレゼントをもらった誕生日は初めてだ。
なんだかおもはゆい気分で芙美花から箱を受けとる。
その箱をくるむストライプの包装紙に既視感を感じた。
忘れもしない。昨日、壮司からもらったマフラーを包んでいた包装紙だ。
同時に、この前の土曜日、雑貨屋で見かけたふたりの姿が脳内にひらめいた。
「……芙美花、先週の土曜日壮司といた?」
おおむねの確信を持って聞くと、芙美花は目に見えてうろたえる。視線が忙しく動いていた。
「……あの、黙ってようと思ったんだけど……でも健さんも一緒だったんだよ!」
許しをこうような弱い瞳で見つめられる。
その様子に巴は苦笑した。
「わかっている」
巴は努めてやわらかく答えた。
芙美花が言うことは真実だろう。
情けなくも、芙美花と壮司がふたりでいる姿に衝撃を受け、彼らしか見えていなかった。
今思い返せば、芙美花の隣に健一郎らしき人影がいた気がする。
それによくよく考えれば、壮司がひとりであんなまともなものを買いにいけるはずがなかったのだ。
「でも、あのマフラーは不動くんが選んだんだよ!」
芙美花が必死に弁解し、その様子になんだか笑ってしまった。
芙美花にうながされて、あるいはうまく口車に乗せられて、壮司が自分のプレゼントを買いに行ったことに、巴は不思議と嫌な気分にならなかった。
芙美花に買いに行こうと勧められても、壮司ならますます意固地になって嫌だとつっぱねそうだと思っていたからだ。
その壮司が芙美花と健一郎の同行という状態に耐えてまで買ってきてくれたことが純粋にうれしかった。
余韻から覚めると、芙美花が何か聞きたそうな目でこちらをみていた。
何を求められいるか大体の想像がついた。昨日の首尾を聞きたいのだ。
言えるわけがなかった。
あの堅物が、あの自制心の塊が、一体何だってあんなことをしたのか。
魔がさしたとか、雰囲気に流されたとか、理由をつけようと思うならいろいろとできるだろう。
あるいは同情や憐憫からの行動なら、より納得できる。
しかし、それが壮司の鉄壁の理性を動かしたとは驚いた。信じられなかった。
壮司は恋愛ひとつままならない古賀家の跡とりだ。彼自身も痛いほどそれがわかっている。
しかし、キスはまぎれもなく恋人の行為だった。
嘘だ、ありえないという否定と、まさかと思う気持ちがせめぎあう。そのふたつがぶつかりあい、不協和音をたてていた。
気のせいだと逃げ道に走るには、あまりに近くで触れあってしまった。
どうしていいかわからない。
甘美な思いにふけるには、あまりに障害が多すぎた。
初めて壮司が古賀家に、ひいては祖母に背くような行動をとろうとしたのだ。
そう思えば未遂でよかったかもしれない。お堅い壮司なら、キスひとつで責任をとると言いかねない。
巴を娶ることは、古賀家への反逆なのだ。
おそらく壮司が一番望まぬことのはずだった。
ならば、互いに一瞬の気の迷いにしてしまった方がいいと思った。
それが互いのためでもあるのだ。
「芙美花、いろいろとありがとう」
巴の含みがある礼を、芙美花はプレゼントに対してだと思ったらしい。顔中の笑みで「どういたしまして」と答えられた。
芙美花、いろいろとありがとうの後にごめんと続くことを彼女は知らない。
どんなに芙美花が応援してくれても、後押ししてくれても、どうにもならないのだ。
それは巴ももう痛いほどに認識していたことだった。
なにも知らずに笑う芙美花に形容しがたい痛みがこみあげた。
寮へ帰ってから、芙美花のプレゼントをあけてみた。
予想通りと言うべきか、予想外と言うべきか、ロボット型の目覚まし時計が入っていた。
その赤、青、黄色の信号機カラーのボディを見た瞬間、激しく脱力した。
ふと、箱の底に健一郎からのバースデーカードがはりついていることに気づく。
しかし、書かれていたのはただ一言、『古賀、ごめん』だけだった。
何に対しての謝罪かといえば、芙美花がこの無用の長物を選ぶのを阻止できなかったことへだろう。
あまりに律儀すぎて、彼らしくて、知らないうちに笑みがこぼれた。
ついでに、このマフラーは壮司が選んだものだと確信した。
何せ芙美花のセンスはロボット型目覚まし時計なのだから。
―◆―◆―◆―◆―
巴の誕生日から二日、祖母から手紙が届いた。
祖母は多くを語らず、ただ壮司に今週末帰ってくるように命じた。
ただし、巴には言わないようにという一文がつけ加えられていた。
そのタイミングのよさにもしかしたらと思う。巴に手を出そうとしたことが露見したのかと穿った見方をしてしまった。
冷静に考えて、それはありえないのだ。古賀家から立志院まで郵便は三日はかかる。立志院がかなりの僻地ゆえだ。
なにより消印が巴の誕生日の前日になっていた。
巴に秘密とは一体何なのか、と怪訝に思いつつ、円恵寺の石段を上がる。
半月足らずにして、壮司は古賀家の敷居を再びまたぐこととなってしまった。
家政婦の女性に案内され、居間に通される。
木目を生かした座卓の前に祖母が微動だにせず座っていた。
「ただいま帰りました」と壮司が頭を下げ、祖母が「おかえりなさいませ」と答える。一連の流れを済ませ、壮司は座った。
座布団を勧められ、それに座る。
ただちに家政婦の女性がお茶を運んできた。
互いに口を湿らせたところで、祖母が壮司に目を向けた。
おちくぼんだ三白眼が壮司を見すえていた。
空気が変わる。しぼられたように無駄なものがなくなる。
「巴さんと別れなさい」
瞬間、矢に射ぬかれたように、衝撃が走る。
よく晴れた庭で、場違いなほど平和にししおどしがカコンッと鳴った。
想定外な言葉に絶句した。祖母がこんなところに干渉してくるとは思わなかったのだ。
祖母は自ら手を下さない。
自らの意のままにするために布石は惜しみなく打つが、最終的な判断は当人に委ねた。
実に巧みな手法だった。
当人に判断を預けることで、反抗心を防いだのだ。
しかも、祖母の望む道以外はいつだって八方ふさがりになっていた。
その祖母が巴と壮司の関係に口を出す。
今までにないことだった。
「壮司さん。あなたは巴さんの体のことをすでにご存知でしょう」
祖母は少しのためらいもなく、壮司の目を見ていた。
臆面もなく、視線をあわせていられる。そこが祖母の最大の強みかもしれない。
目をとらえられていては、真実を言う以外何もできないからだ。
「……知っています」
「ならば、お分かりになるでしょう。子が成せない嫁など古賀の家にはいりません」
座卓の下で握った拳が震えた。
そんなこと、言われなくとも巴自身が一番わかっている。
本人の前でないとはいえ、それを言われるのは我慢ならなかった。
「巴さんのことを思えば、あなたから引導を渡すべきではありませんか」
引導――つまり巴を振れということだ。
壮司はすぐに答えることができなかった。言葉につまることは一番犯してはならないミスだった。
ここで是と答え、先日のようなことがないように自制心を張り直した方が賢明だろう。
今ならまだ引き返せる。巴と手をつなぎ、行ける先はどこだというのか。
望まれず、祝福もされないとわかっているのに、答えるための声が出なかった。
黙る壮司を見る祖母の瞳はこれ以上なく冷ややかだった。
「それができないとおっしゃるなら、そんな後継ぎも必要ありません」
刃のような鋭さで放たれた言葉に、おそらく自分は顔色をなくした。
盲目なまでに、後継ぎになることが自分の使命だと思ってきた。
それが壮司のすべてなのだ。壮司にはそれしか返せないのだ。大きすぎる恩を返して初めて、壮司は始まりに立てるのだ。
それを奪われては行き先を失ったも同然だった。
「あなたが愚かな方でないことを願いますよ、壮司さん」
入ってきたときとまったく同じ足どりで、まったく同じように祖母が出ていく。祖母の生活は変わらぬものを踏襲するようだった。
祖母の足音が遠ざかり、張りつめた空気が消えた。
いまだ湯気がたちのぼるお茶も、どこからか聞こえる子どもの声も、うららかな日ざしも、穏やかな休日そのものだった。
壮司の周りだけが切りとられ、闇の底へ落ちたようだった。
――壮司、お前が好きだ。
沼のような重い思考の奥で、巴の声がする。
巴と手をつなぎ、行ける先。
壮司にはまったくそのビジョンが浮かばなかった。
「壮司さん。考え事の最中に申し訳ありません」
襖がそろりと開かれる。
そのわずかな隙間から、家政婦の女性が、こころなしか困惑した顔を出した。
「大奥さまが、壮司さんに紀子さんとお会いになって欲しいと……」
「母と?」
壮司が返すと、彼女は「ええ……」と気まずげに答える。
大奥さま、すなわち祖母が母と会うことを強制するなど珍しいことだった。
寂しい母を息子と会わせて慰めるという人並みの慈悲が祖母にあるとは思えない。
となると、母に何かの異変が起きたということだ。
「わかりました」と応じ、離れへ向かった。
「母さん、壮司です。入ります」
繚乱と牡丹が咲き誇る襖を開け、中へ踏み込む。
眼前に広がっていた光景に目をみはった。
桐だんすは引き出しを抜かれ、中の洋服はばらまかれていた。
一輪挿しは原型を留めぬほど粉々に割れ、障子は見るも無惨に破れている。
その尋常でない部屋の中央で、母が呆然と座っていた。
髪は乱れ、白い寝間着は肩がずり落ち、さながら幽女のようだった。
「あなたは一体何を……」
「壮司!」
突如、母が生気をとり戻したように、壮司の名を呼ぶ。
「壮司! 壮司!」
白い浴衣から手が伸び、母は膝立ちになって立っている壮司の腕をつかんだ。
鶏がらのような細い腕だった。
「壮司、あなたのお父さまはどこへ行ったの? 私を置いてどこへ行ってしまわれたの!?」
――記憶が進んでいる。
今まで、母の記憶は逆行していた。
少女時代へ、父と会った頃へと戻り、幸せだった頃を懐古していた。
父と別れた後の記憶は完全になかった。
しかし、目の前の母は、父に捨てられたことを嘆いていた。
「あの人に会わせて!」
顔にかかる幾筋もの髪の間から、涙が流れた。
その涙が畳へ落ちるさまを、壮司はあっけにとられて眺めていた。
母の爪が、壮司の腕に食い込む。
伸びすぎた爪が別の生きもののようで、気持ち悪かった。
壮司が腕を外させようとすると、何かがはじけたように、母は呆然と壮司を見つめた。
濁りがない瞳に、あるひとつの答えが灯る。
「来てくださったのね!」
突如、母の顔に喜色が浮かんだ。
「待っていたの! あなたが迎えに来てくださると信じていたわ!!」
今までとはうってかわって、声を弾ませて、熱っぽい瞳でこちらを見つめる。
壮司を誰と勘違いしてるかは明白だった。
「行かないで、もうどこにも行かないで……」
切なげに声を震わせて、熱に浮かされたように母はつぶやく。
次の瞬間、折れそうに細い腕が壮司に巻きついた。
冷たい手が壮司の首裏に触れる。寒気が走る。体が強ばる。
母はそのまま、壮司へ顔を近づけた。
壮司を“あの人”だと信じてやまない目がそこにはあった。
かさついた唇を押しあてられる寸前に、母の体を突き飛ばしていた。
紙でできているかと思うくらい頼りない体が床に倒れこむ。
母はそれきり動かなかった。糸が切れたように気を失っていた。
母が横たわるすぐ隣で、壮司は肩で息をつきながら床に座り込んでいた。
自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。脈打つたびに吐き気がこみあげた。
何度か息をつき、不快感をやりすごした。
壁に手をついてなんとか立ち上がり、障子を開いて廊下へ出た。
障子を閉めるだけの余裕はなく、そのまま足を進める。
少し離れたところに、家政婦の女性が控えていた。母が今、普通の状態でないため、様子をうかがいにきてくれたのだろう。
「壮司さん……」
心配そうに、いたわるように、彼女の瞳は大丈夫かと訴えていた。
「帰ります。後を頼みます」
彼女の視線にとりあうだけの余地はなく、足を前に出すだけが精一杯だった。
その後、一体どうやって立志院まで帰ったのか覚えていない。
母の訃報が届いたのはその三日後だった。