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かざす花  作者: ななえ
第7章
36/68

第3幕

「巴……なんか顔色悪い?」

 夕食の後、巴と行きあった。

 もともと彼女はそんなに血色がいい方ではないが、それを差し引いても青白い顔だった。

「ああ……うん」

 彼女らしからぬ曖昧な反応が返ってくる。

 それがますます芙美花の心配に拍車をかけた。

「ねぇ、最近ずいぶん夜遅いんだね。大丈夫?」

 夜中、芙美花が部屋から出ると、隣室からいつも細く光が漏れていた。

 ベッドサイドのランプをつけたという明るさではない。部屋の照明をつけていた。

 大きい電気をつけなければならないような作業を夜更けにやっているということだ。

 芙美花に思いあたることはひとつしかない。受験勉強だ。

「余計なことかもしれないけど、あんまりムリしないでね。体壊しちゃうよ」

「……ありがとう」

 巴はどこかはっきりとしない微笑を浮かべた。

 巴は最近このような感じだった。

 芙美花が疑いすぎているだけで、普段通りなのかもしれない。それでも薄い膜一枚で覆ったような“普段通り”なのだ。

 気丈な巴の不安定な原因はたいていただひとつだ。

 芙美花は思いきって尋ねてみることにした。

「あの……なにかあった?」

「なにかってなんだ」

 意地悪な切り返しをされて一瞬言葉につまる。

 しかし、『何もない』と返さなかったあたりに何かがありそうだった。

 芙美花はためらいつつも、切り出した。

「不動くんとか……ゆ、由貴也くんとか……」

 以前使っていた『古賀さん』という呼称が舌に馴染んでいて、由貴也を『古賀くん』と呼ぶのはどうしても違和感があった。

 由貴也に『下の名前で呼んでいい?』と聞いたら、あからさまに嫌な顔をされた。巴いわく、由貴也は他人と身内の線引きが激しいそうだ。

 巴の口が『別に』と動きそうだったので、先手を打つ。

「巴。気づいてるよね」

 気づいてないとは言わせない、という光をこめて巴を見つめる。

 しばらく視線が合わさったままだったが、巴がそっと目を伏せる。

 そのままため息が主成分のような言葉を発した。

「……気づいている。自意識過剰でなければな」

 やっぱり、と思わず声に出しそうになった。

 巴は、彼女の恋心をまったく気づかなかったどこかの誰かとは違う。人並みかそれ以上の鋭さを持っていた。

 由貴也から向けられるあからさまな好意に気づかないはずがないのだ。

「……でも由貴也は違う。ただのいとこだ」

 ややあってつぶやかれたその言葉に苦いものが混ざっているような気がした。

 そうやって強く否定すること自体、ただのいとこでない証拠なのではないか。

 芙美花は強い焦りと危機感を覚えた。

「あ、明日お誕生日だね!」

 それ以上、不安感を感じていたくなくて、芙美花はわざと話題を変えた。

 きっといいことがあるよ、と言いかけたが止めた。

 サプライズにした方が絶対にいい。壮司のプレゼントにまちがえなく感激してくれるはずだ。

 頼むから上手くきめてほしいと心の中で壮司に願った。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 卓上時計に目をやると、ニ時過ぎだった。草木も眠る丑三つ時だ。

 そろそろ寝るかな、と伸びをして、スタンドライトを消す。ずっと強い光に慣れきっていたので、目がチカチカした。

 机の上に広がった勉強道具をまとめる。

 参考書の上にペンケースを置いたとき、窓ガラスかコツンと鳴った。

 風で何かがぶつかったのかと思っていると、もうひとつコツンと鳴った。

 明らかに人為的だ。巴は警戒をしながらカーテンを細く開けた。

「お前っ……!」

 大声を上げそうになったが、真夜中だということに気づいてあわてて止める。

 代わりに窓を急いで開けた。

 ベランダに由貴也がかがみこんでいた。

 巴は驚いた気持ちを押さえきれないまま、由貴也を部屋に引き入れる。ぞんざいに彼を放り込んだ後、内側から窓をロックし、カーテンを勢いよく閉じた。

 そうして改めて、由貴也に向き直った。

 彼は相変わらずのマイペースさで、エアコンの温風を存分に浴びている。

「お前、何しに……いやどうやってここまで来た」

 巴は怒鳴りつけたくなる気持ちを押さえて、小声で問いかける。

 時間が時間な上、壁が薄いので隣に聞こえてしまう可能性があるからだ。

「ベランダをつたって。意外と来れるもんだね」

「意外と来れるもんだね、じゃない。ここを何階だと思っている」

「七階」

 由貴也に即答されるが、そういう問題ではないのだ。

 結果的にここまで無事に来れたからいいものの、一歩足をすべらせれば大惨事だ。

 個々のベランダは転落防止のため高くなっているものの、ベランダとベランダの間には何もない。当たり前だが、ベランダの間を渡るような大馬鹿者がいるようには設計されていないのだ。

「遊びで馬鹿なことをするのもたいがいにしろ」

 由貴也は自分がどれだけ危ない橋を渡っているのかわかっていない。

 こんな時間に巴の部屋にいるだけでも充分にまずい。停学でことが済めばいい方だ。

「遊びじゃないし」

 思いがけず真剣な声と瞳を向けられて驚く。

 巴はさりげなく目をそらした。

 由貴也は土曜日、あんなにも厳しく巴の内側を暴こうとしたのに、週が明けた月曜日――つまり今日、いやすで昨日――には普通になっていた。由貴也のことだ。自己完結して終わったことにしてしまったのだろう。

 こちらはこんなにも、あの言葉に揺さ振られているにもかかわらずだ。

「何しに来たんだ」

 わざとそっけなく言い放つ。由貴也をなるべく早く追い出さなければならない。

 以前から由貴也の態度にもしや、と思うことはあった。それこそ彼が留学に行く前からだ。

 由貴也は由貴也で好意を隠そうとしなかった。それこそ彼の戦略だったのかもしれない。

 とにもかくにも、こうなる前に予防線を張っておくべきだったのだ。巴は由貴也にどうしても甘い。懐に入られやすいという弱点もある。

 あまりに迂闊すぎたのだ。

 こうなってからあわてて防御するとは、なんという体たらくだ。

 真正面から由貴也の視線を受けるのを拒んでいると、何の前触れもなく、彼が身をかがめる。頭上に影がさした。

 直後、頬にやわらかい感触を受けた。

「誕生日おめでとう」

 顔を寄せたまま、耳元でささやかれる。

 一瞬、思考が止まったが、すぐに現実と理解力が戻ってくる。

 由貴也は誕生日祝いの一環として、夜中に突撃訪問してきた末に、頬にキスをしたのだ。

 いきなり何をするんだ、と驚きとかすかな非難をこめて見上げると「外国帰りだから」とさらりと言われた。

 外国帰りどうこうの問題でなく、ただ単に彼がしたかったからしただけだろう。

「まぁ、口は次にとっておくよ」

「バカ。次があってたまるか」

「ケチ」

 由貴也が言うとシャレにならない。いや、実際シャレでもないのだろうが。

「ねぇ、こんな時間まで何やってたわけ?」

 相変わらず唐突に話が変わる。由貴也の視線は机の上の勉強道具に注がれていた。

「勉強。もうすぐ一応受験生だからな」

「ふぅん……」

 興味がなさそうにつぶやいたかと思うと、由貴也はその場に腰を下ろした。

「由貴也、居座るな」

 彼に居座られてはかなり困る。

 若い男女がこんな時間にふたりきりというのは決して誉められたことではない。

 由貴也を追い出そうと手を伸ばすと、その手の先をつかまれる。

 冷たい手だ。しかしそれに負けないくらいの冷たい視線が座っている由貴也から向けられた。

「そんなに勉強してどうすんの? そんなに壮司さんと離れたい?」

 そんなに勉強してどこの大学に行くの? と問いかけないあたりが由貴也らしい。

「なんでお前はそんなに無駄に勘が鋭いんだ。隠し事のひとつぐらい許してくれないのか」

 巴は思わず苦笑いした。由貴也の追及をかわそうとしたが、ますます指先を強く握られる。

 逃げられない。

「俺に隠し事をしようと思うこと自体ムダだと思うけど」

「…………いいから手を離してくれないか」

「ヤダ」

 ただっ子のような由貴也に嘆息して、同時に観念して口を開いた。

「……医者に、なりたいんだ」

「医者?」

 さすがの由貴也も隠し事の中身までは把握外だったらしい。子供っぽさの残る仕草で首をかしげた。

「医者って何科の?」

 由貴也のこの問いには、医者になりたいと切り出すよりもさらに長くの逡巡を必要とした。

「……産婦人科」

 最初はひとりで生きていくために、しっかりとした職業が得たいと思っただけだった。別に医者でなくともよかった。

 しかし、その思いが変わったのはいつからだったか。

 自分にしかできない何かをしたくなった。代わりがいない者になりたくなった。

 それは医者となり、困っている人々を助けたいという崇高な志ではなく、ひとりきりで生きていく孤独をまぎらわすためなのかもしれない。

「へぇ、意外だね」

 由貴也は意外に情に篤いところがあるんだねと言いたいのだろう。

 情に篤いと言われるほどご大層なものではない。子供じみてしみったれた虚栄心だ。

 ただ、産婦人科にくる女性と同じ境遇である巴なら、親身に話を聞いてやることぐらいはできるかと思ったのだ。

 誰かの役に立てれば、こんな思いをすることもない。大切なひとりに必要とされない、役立たずだという思いを。

「俺なら医者でもなんでも、好きなものにならせてあげられるよ」

 由貴也が手をとったままゆっくりと立ち上がる。

「だけど壮司さんにはムリでしょ?」

 由貴也のその言葉は、巴の胸をえぐった。

 壮司が必要としてるのは、しっかりとした職業を持ち、自立した女性ではない。寺を陰ながら支える妻だ。

 住職の妻というのは、それだけで一種の職業だ。寺の事務やら細々とした庶務やらでかなり忙しい。

 医者と兼業するのはどう考えても無理だ。もとよりそんな無謀なことは考えていない。

「早く壮司さんをあきらめてよ。俺、我慢強くないから」

 不意に耳元でささやかれる。由貴也の吐息が触れる。

 由貴也はこの間から、ついでのようにこの言葉を言うようになった。

 彼の口で言うほどに切迫していない感じが楽だった。その反面、こちらの都合はお構いなしにぶつかってきそうだとも思った。

 するりと彼の手が離れていく。壮司とは違い、剣道でできたマメがない手。

「じゃ、帰る」

 相変わらず何事もなかったかのごとく、飄々とした顔つきに戻る。巴でも、次々と切り替わる由貴也の思考についていけない。

「待て。またそこから帰るのか」

 由貴也があまりにためらいなく窓のサッシに手をかけるので、逆に巴の方が狼狽してしまった。

「うん」

 由貴也は当たり前のようにうなずく。

 確かに、たとえ巴の部屋からドアを通って出たとしても、男子寮へ続く通路は夜間封鎖されている。

 そもそも廊下には監視カメラがついている。巴の部屋から異性である由貴也が廊下に出た瞬間に退学だ。

 だからといって、またベランダを渡って帰らせては、こちらの心臓がもちそうになかった。

「嫌なら泊めて」

 由貴也はこちらの困惑を瞬時に嗅ぎとった。そして巴がもっとも困る言葉を選ぶ。

「できるわけないだろう」

 そう返しながらも、他にいい案などなかった。

「いいよ、じゃあ。壮司さんの部屋に泊まるから。隣でしょ?」

 それは妥協したというよりも、単に由貴也自身部屋まで帰るのが面倒になったのだろう。

 壮司がたいぶ気の毒だが、由貴也が誤って転落することを考えれば、この際しかたない。

「壮司にあんまり迷惑をかけるなよ」

「迷惑かけてこその壮司さんでしょ」

「…………」

 本気で壮司がかわいそうになってきた。

 部活で疲れているのだろうから、せめてぐっすり寝せてやりたい。しかし由貴也に来られては夢のまた夢になるだろう。

 由貴也が壮司のベッドを我が物顔で占領するのが目に見えていた。

 心の中で壮司に謝罪しつつ、由貴也の背中を見送る。

 窓を開いたところで、由貴也が振りかえる。

 由貴也が何事か言う前に、突然笑いがこみあげてきた。

「お前が誕生日を祝ってくれるなんて、明日は槍でも降りそうだ」

 この由貴也が人が作った暦などにとらわれるなど、思ってもみなかった。

「……あの人に先越されるわけにはいかないし」

 由貴也のつぶやきは夜風にさらわれてしまい、巴にはほとんど聞こえなかった。

 窓のサッシに手をかけたまま、最後に由貴也は言った。

「明日は槍じゃ済まないと思うよ」

 その言葉の意味を聞く前に、由貴也は出ていき、窓は閉められる。

 窓ガラス越しに外をのぞいても、由貴也の姿は闇に消えた後だった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 散々な夜だった。

 真夜中、由貴也がいきなりやってきて、ベッドから壮司を蹴落とし、自分がそこにもぐりこんだ。

 せっかく眠りかけたところを強制的に起こされ、すっかり目は冴えてしまった。

 余分な寝具があるはずなく、壮司は結局横になれなかった。

「あの野郎……」

 階段を下りながら、首裏に手をあてる。机につっぷして寝ていたため、節々が痛い。

 布団をかけなくとも風邪をひくほどやわな体じゃなかったのが幸いだ。

 食堂に行くと、入口の小さな黒板に今朝のメニューが書かれていた。

 その上部に書かれた一月二十八日の日付が嫌でも目につく。

 自慢ではないが、壮司は誰かにプレゼントをあげたことなど一度もない。

 保育園や幼稚園で作る、母の日や父の日のプレゼントも、壮司には渡す対象がいなかった。

 正真正銘、巴が最初で――最後かもしれない。

「壮司さん、食券買ってきて」

 いつのまにか後ろから低血圧ぎみの由貴也がぼさっとついてくる。

 壮司の部屋で起きたままの姿だ。由貴也は容易には起きず、布団をひっぺ返し、窓を全開にして冷気をあびせ、やっと目を覚ました。

 筋金入りの寝起きの悪さだ。

「甘えんな。自分で買ってこい」

 そう言うと、由貴也は心底めんどくさそうな顔を券売機に向けた。

 由貴也を起こすのに手間取ったため、もろに朝食ラッシュの時間にあたってしまった。

 なんとか和風定食を確保して席に戻ってくると、由貴也が半分寝ているような顔で、ジャムパンを頬張っていた。

「お前、ジャムパンひとつか」

「壮司さんとは違うからね」

 壮司と違って繊細だと言いたいのだろう。事実、顔の造りからして繊細度合いが違う。

「壮司さん、いつ渡すの。プレゼント」

 壮司の和風定食についている玉子焼きをつまみ食いながら、由貴也が尋ねてきた。

 きなりのことで、壮司は口に含んでいた水を噴きそうになった。

「なんで知ってんだよ」

 由貴也の観察眼は並大抵のものではない。それは祖母譲りのものかも知れない。

 だが、由貴也は今日壮司の部屋で休んだが、それをうかがわせる痕跡は何一つ残してなかったはずだ。何しろプレゼントは昨夜の内に通学カバンの奥に入っていたのだから。

「俺が知らないと思った?」

 由貴也はまたしても和風定食についていたデザートのヨーグルトを奪う。由貴也の辞書に遠慮の二文字は間違いなく存在しない。

「早く渡したら? 壮司さん」

 ヨーグルトをスプーンでつつきながら、由貴也は頬杖をついていた。

 いつもと変わらない、無関心で歳の割に達観した表情。

 しかし、鈍く光る瞳の奥に、いつもと違う色彩が見えた。

「……ずいぶんと余裕だな」

 壮司が巴にプレゼントを渡すのを高みの見物どころか、促す。余裕綽々だと言わざるえない。

「だって俺はもうあげてきましたもん」

 なんでもないような口調で言い、由貴也はぺろりとヨーグルトを平らげた。

 そのまま「あげる」と空のヨーグルトの容器を押しつけられた。

 おいっ、と抗議をしようとしたところで、由貴也が席を立つ。

「俺のあげたモノ、気になる?」

 これが由貴也の揺さぶりだとわかっている。彼の常套手段だ。こちらを崩し、そこにつけいる気満々なのだ。

 しかし、正直なところ気にならないわけがない。壮司はせめてもの抵抗で、答えずにいたが、それを由貴也が意に介すはずなかった。

「アンタには絶対あげられないだろうね」

 不敵さと冷徹さが由貴也の目に閃く。

 見えない自信がその支柱としてあった。

「せいぜいがんばって、壮司さん」

 嫌みたっぷりの捨て台詞を残し、由貴也は足を出口へ向けた。

 由貴也の嫌みは無自覚だから恐ろしい。壮司に対してだけ、嫌みのスキルが生まれながらについているのではないかと思う。

 それにしても、と苦々しい気持ちで箸を進める。

 由貴也に反撃もできない。それが歯がゆくてならない。

 今までの経緯を考えれば、壮司に許されるのは奥歯を噛んでただ耐えることだけだった。

 由貴也に露骨に悪意を向けられてもしかたないとも思うし、当然の報いだとも思う。

 しかし、心のどこかで対抗心を持っている自分がいる。

 自身の思わぬ心境の変化は徐々に顕著になっていく。

 ――わかっていますね、壮司さん。

 戒めのように、祖母の咎めるような視線が脳内によみがえる。

 いつもはわかっている、と即答できるはずなのに、やけにその言葉が重かった。

 

 ―◆―◆―◆―◆―

 

 運がいいのか悪いのか、今日は生徒会がある曜日だった。

 ついでに『せいぜいがんばって』の嫌み、もとい気持ちを行動で表したのか、由貴也は来なかった。

 芙美花と健一郎は活動が終わるやいなや、そそくさと帰っていった。芙美花はがんばって! という無言の激励を残し、健一郎はあからさまに楽しんでいた。

 この後、部活に行ったら健一郎に何を言われるかと思うと、壮司は憂うつになった。

「なんだ。今日は芙美花も貢もやけに早いな」

 隣の給湯室から、カップを洗い終えた巴が出てくる。

「……そうだな」

 こちらの曖昧な相づちにも、巴は疑問を抱かず納得している。

 壮司は尻が張りついたように、相変わらず椅子にどっかりと座っていた。

 座っているだけでプレゼントはカバンの底からはい出て、巴のところへ行くわけではないとわかっている。

 壮司は意を決して、カバンからそれを取り出した。

 ラッピングは少しよれていたが、充分にプレゼントとしての演出をしていた。

 意気込んでいざ渡そうと巴に目を向けると、彼女は窓ガラスに軽く手をついて、外を眺めていた。

 ここ数日、乾燥した晴れの日が続いていた。

「……由貴也が今日は槍が降るだけじゃ済まないと言っていたんだ」

 巴が小さく罪のない笑顔をこぼした。

「確かに槍じゃ済まねえな」

 その笑顔の前に、紙袋をつきだした。

 由貴也と巴がどんな話をしたのかは知らない。だが、由貴也はどういうわけたか壮司がプレゼントを買って、渡すつもりだと知っていた。そこを指して槍が降ると言ったのだろう。

 由貴也のみならず、壮司自身でさえ、槍が降るほどの青天の霹靂だと思っていた。

「やる。誕生日だろう」

 巴の顔から笑顔が消える。あからさまに驚かれて、壮司はいたたまれない気分になる。

「女が好きなもんなんてわかんねえから……気にいらなければ捨ててくれ」

 気恥ずかしさと居心地の悪さに耐えきれず、言い訳がましいことが口をつく。

 巴はしばらくしげしげとプレゼントを眺めていたが、やがてそっと手にとった。

 壊れものを扱うようなその手つきに、壮司の照れくささは絶頂に達していた。

「……捨てたりなんかしない」

 巴がぎゅっとプレゼントを抱えこむ。

 たった数千円の、とりたててすばらしいものでもなんでもないのに、そんな大事そうにされては困惑してしまう。

「開けてもいいか?」

「ああ」

 巴は丁寧に丁寧に包装紙をはがしていく。その包装紙すら大切だという態度がどうにもこうにも照れくさい。

 巴が包装紙をめくっていくたびに白いそれがあらわになっていく。

 それが半分くらい姿を現したところで、壮司は巴のてから包装紙ごととる。そうでもしないと、この雰囲気に耐えられそうになかった。

 真っ白なファーのマフラー――どこにでもある、安物のそれを包装紙から引き抜き、巴の首にかけた。

「……十七歳、おめでとう」

 怒っているわけではない。素直に祝いたいのに、出てくるのはぶっきらぼうな声だけだ。

 巴はマフラーの感触を確かめるように慎重にさわっていく。

 その手が、マフラーの端を握ったままだった壮司の手に触れた。

 つながった手の上に雫がぽたりと落ちた。

 驚いて顔を上げると、声もなく巴が涙を流していた。

「おい、どうした」

 何が悪くて巴が泣いているのかさっぱりわからない。なんだこんなものか、とプレゼントに失望したのかもしれない。

「気にいらないなら捨ててもいい!」

 壮司は必死になって巴の涙を止めようとしていた。

 結局、何をしても壮司は巴を泣かせている。

 おろおろと取り乱す壮司を「違う」という声がさえぎった。

「違う、壮司」

 触れていた手が、一層強く握られる。いつも冷たい巴の手が今だけは熱かった。

「うれしい。すごく……」

 壮司の手さえも宝物のように巴の両手で包まれる。

 こんなに泣くほどよろこんでもらえるとは思わなかった。

 たったプレゼントひとつでこんなにもよろこんでくれるのに、なぜ自分は今までしてやらなかったのか。そうしようと考えたことすらなかった。

 許婚だった十四年間、一体何をしていたのだろう。

「こんなことで泣くな」

 壮司にとっては並はずれた行動力で巴の涙をぬぐう。

 巴のぬれた瞳が壮司に向いた。

 ただ濡れている以上の光がその目で爛々と輝いていた。

「壮司! 壮司っ!!」

 心ごと吐き出しているような声で壮司の名が呼ばれる。

 なだめる暇も、どうしたと尋ねる暇もなく、巴の口は再び開いた。

「お前が好きだ! 誰になんと言われようとこれは私の気持ちだ!! 作られたものなんかじゃないっ!!」

 “誰に何を”言われたのか壮司にはわからない。

 わからないが、巴が唇を強く噛みしめ、何かに抵抗してるのはわかった。

「お祖母さまに作られた気持ちなんかじゃない……!」

 巴の目から、大粒の涙がこぼれる。煌めく双眸は痛いほどまっすぐ壮司に向いていた。

 だいたい話が読めた。

 こういう風に祖母のことまで持ち出して、根底から揺さぶりをかけるのは由貴也しかいない。

 さすがの巴でも由貴也に巧みに痛いところを突かれて、混乱したのだろう。

 ちょうど気持ちも弱っていたのかもしれない。冬休みに巴の泣き顔を見たのは、記憶に新しい。

 巴が壮司の胸に拳をつく。この場に不釣り合いな笑いに体を震わせた。

「……こんなこと言って何になるんだろうな。お前を困らせるだけなのに……」

 巴から自嘲気味の声が漏れる。こんなことを言ったって無駄なのに、暗にそう言っていた。

 強く噛みすぎて、彼女の唇には血がにじんでいた。

 うつむく巴に何と言ったらいいかわからなくて、ただ唇の赤が目につく。

 それが痛々しくて、思わず指をそわせた。

 巴が何か言いたそうに唇を震わす。それを封じるように、親指の腹で彼女の下唇をなぞった。

 獣のようだと思った。血の臭いで理性が麻痺する獣。

 頭の中で誰の声も聞こえなかった。挑発する由貴也の声も、壮司を絶えず戒める祖母の声も、何も聞こえなかった。

 しかし、どこか頭の隅で考えていた。もし自分たちを取り巻く環境がなければ、ただの高校生だったなら、と。

 唇にあてていた手を頬に動かし、そのまま髪に手を差し入れる。指の間から、巴のつややかな髪がこぼれ落ちた。

 巴がとまどったように目を伏せる。

 一瞬でも自分から視線が外れたのが許せなくて、残されたわずかな距離をつめ――。

 唇と唇がふれあう寸前に、机の上に置いてあったカバンが乱暴な音をたて、床に落ちた。

 どこか夢うつつだった頭に、その音は大きく響き渡る。

 はっきりと我に返った。

 一体何を、何をしようとしていたのだろう。

 何を望んで、何に背こうとしていたのか。

「……悪かった」

 それだけを言い残して、ひったくるようにカバンをとって生徒会室から出る。

 巴の顔はわざと見なかった。

 後ろ手で生徒会室のドアを閉めた瞬間、背徳感に襲われる。

 頭がぐらつく感覚に、無意識に額に手をあてた。

 生まれて初めて、自分の生い立ちを、立場を疎ましく思っている。

 そう思う自分を、他ならぬ壮司自身が許せない。

 古賀家の役にたつことが最高で最上のよろこびだったはずなのだ。

「……わかっている」

 朝、即答できなかった言葉を、今あえて口に出す。

 自分の役割を立場を、自分に言い聞かせるためだ。

 重しをつけて、感情を奥底まで沈める。

 幼い頃からやってきたことだ。さほど苦にもならないはずなのに、やけに暴れる。

「くそっ!」

 思い通りにならない感情に、拳を強くにぎる。

 わかっている、わかっている。

 呪文のように心の中で唱えては、感情をつぶしていく。

 なにがなんでも、そうしなければならなかった。

 ここで道をふみはずしてはならないのだった。

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