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かざす花  作者: ななえ
第7章
35/68

第2幕

 一月の末、祖母から手紙が届いた。

 中には五千円分の図書券と、『少し早いですが、お誕生日おめでとうございます』という祖母直筆の手紙が入っていた。

 それで初めて、もうすぐ自分の誕生日だと気づく。

 五日後の一月二十八日、巴はやっと十七歳になる。

「わぁ、図書券だ」

 後ろから声をかけられ、芙美花だろうと思って振り向いたら、やっぱり芙美花だった。

「おはよう、芙美花」

 祖母からの手紙など、どうしたのだろうと、巴はつい廊下でそれを開いて眺めていた。

 祖母の手紙は昔ながらの巻き紙を、便箋と封筒に折るというものだ。時代劇などでよくみる形式だ。

 それに切手と消印が押してある様は、どう見ても不自然だった。

「……すごいお手紙だね」

 芙美花が呆気にとられるのも無理はない。今どき毛筆でしたためられている手紙などそうはない。

「誕生日でな……」

 この時代錯誤で大仰な手紙を見られるのが恥ずかしくて、とっさに言葉を探して口に出していた。

「お誕生日なんだ! いついつ?」

 芙美花が矢継ぎ早に聞いてくる。子供のように目がキラキラと輝いていた。

「一月二十八日」

 その日付は巴の誕生日であり、母の命日でもあった。

 写真で見る母はたおやかで、父のかたわらで控えめに微笑んでいる。けれどもまったく幸せそうに見えなかった。

 それは長年、祖母に子供ができないことについて、無言の責めを受けていたからかもしれない。

「不動くんは知ってるんだよね……?」

 芙美花がそろりと尋ねてくる。

 巴の中の勘が働いた。それ以前に、芙美花がしたいことが手にとるようにわかった。

「余計なことはするなよ」

 先回りして釘をさす。図星だったようで、芙美花は言葉をつまらせた。

「相手は壮司だぞ? 気の利いたことができるはずがない」

 これ以上ないくらいに断言をした。

 壮司はその方面で右に出る者がいないくらいに鈍い。

 今までも「おめでとう」と言うくらいで、特別なことなどやってこなかった。

 逆もまた然りだ。壮司の誕生日は八月の末、夏休み中だ。その日、巴が食事を預かっているのなら、彼の好物を作ってやるくらいだ。それすらないときもざらにある。

 別に誕生日は特別でも何でもないのだった。

「いいから、早く朝食に行こう」

 芙美花はまだつまらなそうな顔をしていたが、巴は強制的に話を打ち切った。

 芙美花が自分たちを応援してくれているのはわかる。わかるが、巴にとって歓迎すべきことではなかった。

 巴は実を言うと、壮司に近よりたくなかった。

 ここ最近、彼のそばにいてろくなことをした記憶がない。

 距離をおいて、冷静になって、そろそろ受験に本腰を入れなくてはならない。

 大学進学を機にすべての環境を一掃するつもりなのだから。

 芙美花を従えながら、階段を下る。天窓から差す朝日が目に痛い。

 久々にいい天気となりそうだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 芙美花は非常にはがゆかった。

 芙美花をここまでじれったくさせているのは由貴也の出現だった。

 由貴也は巴と仲がいい。それは壮司に勝るとも劣らない。

 唯一の救いはその関係が姉と弟のようだということだった。

 由貴也の何がダメだというわけではない。あの気難しげな由貴也が巴にはよくなついている。

 そこから見ても、由貴也が巴を格別に、そして大切に思っているのはわかる。

 しかし、芙美花は巴が向ける、壮司へのひたむきな想いを今まで見てきた。どうしても巴が壮司と幸せになって欲しい心情を持ってしまうのだ。

「巴、もうすぐお誕生日なんだって。知ってた?」

 芙美花は壮司のすぐ後ろに仁王立ちになった。

 巴は由貴也に連れられ、早々に帰っていった。活動が終わった生徒会室には、自分と壮司と健一郎しかいない。

「……誕生日?」

 帰り支度の手を止めて、壮司が顔を上げる。彼は思いきり頭にクエスチョンマークをつけていた。

 ここ最近、芙美花が一番気を揉んでいるのは、当の壮司が“何も気にしていない”という顔をしていることだった。

 平静を装っていても、よく観察すれば壮司が少なからず動揺しているのばわかった。由貴也がきわどい発言をすると、一瞬動きが止まるのだ。

 芙美花だって、壮司にまったく脈がなければこんなおせっかいをしない。

 もしかしたらと思うから、こんなことをするのだ。

 しかし、それはあくまで許婚だった女を他の男にとられる不快感であり、恋愛感情とは違うのかもしれない。

 それでも、なんらかの反応はある。絶望的ではない。

「まさか覚えてないの……?」

 壮司の大きなクエスチョンマークに、芙美花は信じられない思いでつぶやいた。

「一月二十八日だろ?」

 よどみなく答えた壮司に安心したのもつかの間、「それがどうした」とつけ加えられ、芙美花は再び驚愕した。

 どうして壮司にも巴にも、誕生日を祝うという概念がないのか。

 誕生日といったら、カップルの一大イベントだ。

 彼らは恋人ではないが、許婚だった頃はそれに準ずる関係だったのではないか。

 それなのに、巴に『気の利いたことができるはずがない』と言わしめるとは、悲しすぎる。

「てめえは古賀にプレゼントのひとつもやったことがねえのかよ」

 呆れた声を出したのは、机に頬杖をついた健一郎だった。

「プレゼント?」

 壮司にまったくといっていいほどその考えはなかったようで、さらにいぶかしげな顔をしていた。

「そうだよ! 巴、すごくよろこぶよ!!」

 プレゼント。それは妙案だ。

 由貴也に対抗するにはそれがいい。

「いや、女のよろこぶものなんてわかんねえよ」

「大丈夫だよ、なんだって」

 巴にとって重要なのは中身ではなく、壮司が選んだということなのだ。

「買いに行こう! あさっては土曜日だし」

 自分でもこれ以上ないくらいの強引さで押し切った。

 由貴也はひとりでも充分巴に迫っていけるが、壮司は無理だ。

 おせっかいもはなはだしいとわかっている。

 芙美花は巴と壮司をくっつけることで、壮司に好意を寄せられていた過去をなかったことにしたいのかもしれない、と思った。

 すべてがすべて罪悪感からの行動だとは信じたくない。

 しかし、そう思うこと自体、罪のあがないのように思えた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 壮司は最近なぜと思うことが増えた気がする。

 貴重な休みを潰し、街へ来て、なぜか芙美花と健一郎といる。

 前ふたつはいい。巴へのプレゼントを買いに来たのだから、適した場所と日時といえる。

 問題はメンバーである。なぜカップルの背後霊よろしくいなければならないのか。

「不動くん、これは?」

 芙美花がさしだしてきたのは、ゴム製の指人形だった。様々な動物の首から上を指にはめるというもので、壮司にはさらし首にしか見えなかった。

 壮司はいい加減頭が痛くなってきた。

 ここは雑貨店で、かわいいものはそれこそ山のようにあるのに、なぜさらし首を選ぶのか。

「芙美花……もっとまともなの選べよ」

 健一郎も同感のようだ。芙美花が使い道のよくわからないものを選ぶたびに、壮司とともに却下していた。

 こんな奇妙なメンバー構成になったのはおとといが発端だ。

 芙美花ははりきって「選ぶの手伝う!」と言ったものの、壮司とふたりきりででかけることを健一郎が許すはずがなかった。

 だが、壮司ひとりではどの店に入ればいいかすらわからない。しかも男ひとりで入るのには勇気のいる場所だ。

 妥協案として、健一郎がついてきたわけである。

「おい、これは?」

 健一郎が肘でつつき、目で商品を指し示してきた。

 それは花形のネックレスだった。薄い紫のストーンがきらきらと輝いている。

 健一郎は芙美花よりはるかにまともなものを選ぶのだった。

「ああ……きれいだな」

 巴のイメージからしても、デザインからしても、すごくきれいだと思う。しかし、それ以上の感想は持たない。ピンとこない。

 どうやら顔に出ていたようだ。健一郎は苦笑いをした。

「まぁアクセサリーは重いよな」

「重い?」

 女とつきあったことのない壮司には、その観念はいまいちわからない。

「もらう方からすれば重いだろ。首輪みたいじゃん。アクセサリーって」

 そう言われれば実感としては沸かなくとも、なんとなくはわかる。

 そう考えると、確かに壮司にアクセサリーは荷が重かった。

 少し離れたところにいた芙美花が駆けよってきて、「これはっ?」と見せてきた。

 自信満々の顔で突き出されたのはロボット型の目覚まし時計だった。

「「却下!!」」

 一も二もなく健一郎と即座に却下を出す。

 立場が入れ替わっている。普通、却下を出すのは女の方ではないか。

 いくら壮司といえども、芙美花が選んでくるものが巴が到底好みそうにないくらいはわかる。

 どんなものを選べばいいのかはわからない。けれど壮司は巴のよろこんだ顔が純粋に見たいと思った。

 そう思ったからこそ、壮司は不覚にも芙美花に押し切られてしまったのだ。

 こんなこと、自分の柄ではないとわかっている。

 だが、最近は由貴也の言うように泣かせてばかりだ。困った顔と泣いた顔しか見ていない。

 そういう顔ばかり見るのは、思ったよりずっとこたえた。

 笑った顔が見たいと思ってしまった。

 ウィンドウに映る自分の姿に、何をしてるんだ一体と後頭部に手をあてる。

 羞恥心に、ウィンドウから視線を外した。

 顔を反らした先にあったのは、白い一団だった。

 この季節ならではのそれを、壮司はまじまじと見つめた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 天気のいい土曜日に、由貴也と彼の日用品を買いに街へ下りた。

 やはりというか、予想通りというか、由貴也はそういう面にはとことん無頓着だった。なければならない必需品が当たり前のようになかった。

 早く身の回りの物を買いに行けと、面倒くさがる由貴也に言っていたところに、彼の母親から電話がかかってきた。

『息子はああいう性格だから……巴ちゃん、気にかけてやってくれる?』と、電話の向こうでもみ手をしているのが一目瞭然の口調で言われた。

 叔母の意図は電話ごしに透けて見えるものの、直々に頼まれては放っておくこともできない。それに由貴也は放っておくと、そのうち着るものがなくなって原始人並みの格好で登校しかねない。

 危惧した通り、由貴也は待ち合わせ場所の寮一階エントランスに、よれよれのスウェット姿で現れた。

 親の目がない寮生活で、自堕落しきっているのが目に見えるようだった。いや、由貴也はもともとこういうやつだ。

 彼がどんな服を持っているか知らないので、制服に着替えてこいと命じる。彼から不満が出る前に、有無を言わせず再度命じた。

 しばらくして、制服にパーカーというまともな格好の由貴也が現れた。

 うっとうしいのか、さかんに襟に手をやり、くつろげている。それでもスウェットよりは見られる。

 街行きのバスに乗りながら、服も買ってやらなければ、と思考をめぐらせた。

 男物の見立てなど自信はなかったが、要は由貴也の気に入るものを選んでやればいいのだ。彼は気に入らないものは絶対に着ない。

 しかし、楽だったり、着心地がよかったりすると、その限りでない。いい例がスウェットだ。

 そこが由貴也が由貴也たる所以である。

 バスの座席に腰を落ち着けるやいなや、由貴也はごろんと横になった。その頭は巴の太ももに乗っている。

「……何やってるんだ、お前は」

 早々に寝る態勢に入った由貴也に巴は呆れた目線を送る。

 周囲からも驚きの視線やら、逆に気恥ずかしさから目をそらされたりされた。

「いいじゃん。減るもんじゃないし」

「私はよくない」

「俺はいいよ」

 問答するのが馬鹿馬鹿しくなってきた。

 変な噂の種をまくのは遠慮したいところだが、由貴也の無防備な寝顔を見たら何も言えなくなってしまった。

 整った寝顔は一級の美術品のようだ。頭を軽くなでれば、するりと手触りのいい髪がこぼれる。

 由貴也はどことなく中性的だが、骨ばった手や喉仏がさりげなく男を主張している。

 起きているときは起きているときで、時折見せる鋭い眼光が女々しさなど跡形もなく打ち消す。

 その眼光を時に恐ろしく思ってしまうのは、心の奥底を容赦なく暴かれそうだからかもしれない。

 とりとめもなく、そんなことを思っているうちに、少しうとうとしてしまった。

 気がついたら終点のバスターミナルにいた。

「由貴也、着いたぞ。由貴也!」

 寝ぼけ眼の由貴也の体を押し、急いでバスから降りる。

 街の喧騒が身を包んだ。

 相変わらず由貴也は「ねむ……」と、きれいな顔を台なしに歪めている。

 まだ眠りの世界に片足を入れたままの由貴也を引っ張り、目的地に向かった。

 まず駅前のセレクトショップで服を買った。由貴也は無駄に育ちがよく、量販店の服を着ないのだ。どうも着心地がよくないらしい。

 巴が選ぶ服はことごとく彼には小さく、改めて彼の成長ぶりを実感した。

 しかたなく由貴也に選ばせたら、スウェットを三枚、色違いで買おうとするので止めた。色違いというのが由貴也なりのおしゃれなのかもしれない。

 最終的に店員に見立ててもらうことになった。選びがいがあるのか、店員は嬉々として様々な服を持ってきたが、由貴也が気に入ったのはかなり少なかった。

 店から出ると昼食時だった。そこでも巴はまた困ることになる。

 互いに好き嫌いの多さが尋常でないからだ。

 巴は野菜が嫌いであり、由貴也は魚介類が嫌いだ。

 このふたつをとりそろえていない飲食店などまずなかった。

 結局、コンビニでそれぞれ食べられるものを買い、公園で食べることにした。

 ベンチに並んで腰かけ、スパゲッティの容器を開ける。

 風が冷たかったが、そこそこに温かい日だった。噴水が日に照らされてキラキラと輝いていた。

 こうして二人で出かけるのは何年ぶりだろう、とぼんやり思った。

「巴、半分ちょうだい」

 由貴也が隣にいたのでは、おちおち思い出にふけることもできない。

 彼は先ほどまで、胸やけしそうなほどにホイップクリームがのった菓子パンと、ココアがまぶしてある揚げパンを食べていたはずだ。だが、それはきれいになくなっていた。

 かなり重い組み合わせなはずなのに、由貴也の目は食べ足りないと訴えていた。

「これをやるからおとなしくしてろ」

 コンビニのビニール袋からデザートのプリンを取り出す。それを由貴也の手の上に乗せてやった。

 由貴也はここ最近、見るたびに背が伸びているような気がする。急激な成長に追いつかず、体は細かった。

 これでは確かに食べても食べても足りないだろう。

 巴の記憶にある、小さな由貴也が消えていく。

 昔はそこら辺の女の子など目じゃないくらいかわいかったのに、今ではすっかりいっぱしの男だ。

 ただし、中身はあまり成長していないが。

 無心にプリンを食べる由貴也に目をやる。

 こうやって巴が甘やかしてしまうからダメなのかもしれない。

 思わずまたため息をつきそうになって止める。その代わりにスパゲッティの残りを口に運んだ。

「行こう」

 空になった容器を近くのゴミ箱に捨てて、立ち上がる。

 足元に置いてあった紙袋をとる。由貴也の服を買ったついでに、自分の服も買ったのだ。

 持ち手を握る巴の手の横に由貴也の手が添えられる。

 そのまま紙袋は由貴也に持っていかれた。

 由貴也の意図がつかめなくて、疑問を張りつけて彼の顔を見上げると、「俺、持つ」といつもの調子で言われた。

 巴は驚いた。あの由貴也がこんな気をまわせるようになるとは。

 前言撤回。中身も少し成長したかもしれない。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 午後は身の回りの物を買いに薬局に行った。

 巴が適当に選んでカゴに入れていると、「歯ブラシは固めがいい」だの何だの言われて大変だった。由貴也はさりげなく俺様気質なのだ。

 とにかく思いつく限りの日用品を買った。

 カゴいっぱいの商品を持って、レジに並んでいるときだった。

 合計の表示が上がっていくのを横目に、何気なく外へ目を向ける。

「――……」

 視線がある一点で止まる。

 こんなところにいるはずのない姿に、白昼夢を見ているようだった。それもとびきりの悪夢だ。

 隣の雑貨屋で、壮司と芙美花が並んで商品を見ていた。

 芙美花が壮司になびくはずがない。いや、芙美花がなびいたとしても自分に芙美花も壮司も責める資格などない。

自分だって由貴也とふたりで外出している。

 彼がどこで誰と何をしよいとも、彼の自由だ。

 わかっているが、目が離せない。

 芙美花が選んだものにあきれた顔をして、だけれど、少し笑って――そのくつろいだ表情にどうしようもなく打ちのめされた。

「行こ」

 いつのまにか会計は済んでいて、袋を持っていない方の手で、由貴也に手を引かれた。

「ゆ、由貴也……」

 グイグイと手を引かれて、巴はためらいがちな抗議の声を上げる。

 由貴也の歩調は速くて、巴はついていくので精一杯だった。

 店の外へ出て、通りをしばらく不安定な体勢のまま歩いた。

「由貴――」

「巴はさ」

 もう一度抗議の声を上げようとしたところで、由貴也に遮られる。

 手をつかまれたままで、由貴也の足がピタリと止まった。

「昔からあのバアさんに壮司さんが許婚だって言われたから好きなんじゃないの」

 肩ごしに由貴也が顔だけを向ける。

 あの目だ。すべてを見透かす鋭利な瞳。

「洗脳されてるんだよ」

 ――洗脳。

 とっさに言葉が返せないのは、ありえないことでないと思ってしまったからだ。

 壮司の祖母への服従はもはや洗脳に近い。

 自分だって、あの家で何年も過ごしてきたのだ。何を洗脳されていたっておかしくない。

「壮司さんのどこが好きなの? どこを好きになったの? きっかけは? 理由は?」

 矢継ぎ早に問いかけられ、答えられない。

 いや、答えられないのは答えがないから――?

「……違う」

 違う。私は壮司がちゃんと好きだ。そう言いたかったのに、出てきたのは弱い否定だけだった。

 由貴也の手が離れていく。

 あからさまにほっとしてしまう。由貴也が怖い。どうしようもなく怖い。

「そんなことどうでもいいや」

 混乱に視線を落としていると、由貴也が身をかがめてぞきこんできた。

「俺が言いたいのは、他の男にも視線を向けたらってこと」

 ゆっくりと顔を上げる。間近に由貴也の顔があった。

「由貴也、私は誰とも結婚する気は……」

「そんなのわかってるよ。だけど別に恋人イコール結婚じゃないでしょ? そういう時代でもないし」

 俺は結婚とか子供とかどうでもいいし、と由貴也はごく自然につけ加えた。

 結婚とか子供とか――壮司とふたり、長い間それに振り回され続けていた。

 それは自分たちの“中身”のことではない。世間体など外のことだ。

 由貴也はずっと巴のネックだった外を取り払い、中を望んでくれている。

「壮司さんなんかやめなよ」

 その言葉は魔法のような不思議な響きがあった。理性を溶かしてしまいそうな甘く、邪悪な響きだ。

「俺を見てよ、巴」

 雫が水面に落ちたように、巴の中で波紋が幾重にも広がった。

 周りの時間が止まったかのように感じた。

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