第1幕
一月の中旬。冬休みが終わった。
終了してすぐ校内テストがあり、巴は自己最高の点数を叩きだした。
受験生目前としてはまずまずのスタートだった。
巴が目指す学部は狭き門だ。その上、奨学生になろうというのだから、生半可な覚悟ではできない。
テストが終わり、年が改まってからは初めての生徒会が招集された。
久々に芙美花と健一郎と顔を合わせる。
年が明けても、彼らの仲の良さは健在であった。仲睦まじく、ふたりそろって生徒会室に姿を現した。
「あけましておめでとー。今年もよろしく」
あけまして、には少々遅いが、芙美花のほがらかなあいさつは悪い気はしない。「よろしく」と返した。
対照的なのが壮司と健一郎だ。
こちらの仲の悪さも健在である。彼らはあいさつ代わりにに睨みあっていた。
「睨みあわないで。さ、座って」
芙美花にしきられ、彼らは渋々と座る。何も言わなければ、永遠に続きそうだった。
壮司が鞄の中から一枚の書類を取り出した。それと同時に、しばらく見ていなかった“生徒会長”の顔になる。
「今日集まってもらったのは、毎年恒例の監査が入るからだ」
「監査?」
頭に疑問符をつけて聞き返したのは、芙美花だった。
監査は、企業などでは置かれることもあるが、自分たちは学生だ。まだなじみの薄い言葉であった。
立志院の場合、設置されるのは業務監査ではなく、会計監査だ。
監査委員会は学内のすべてを統括する生徒会から独立した権限を有する。生徒会の決算書や計上書、予算の申告に虚偽がないかを審査するのだ。
三月末の決算に向けて、毎年この時期に監査委員が一名派遣される。ただし、形式上のものにすぎないのだった。
それを芙美花に説明すると、へぇ、と頷いた。
「その監査委員が今日くるの?」
芙美花が回り道をした話を戻し、それに壮司が「そうだ」と答えた。
それから壮司はやや腹立たしげに、腕時計に目線を落とした。
「……四時っつうたのに、いつになったら来んだよ」
「知ってる相手なのか?」
いらだつ壮司に、巴は思わず問いかけた。
普段の壮司は荒っぽくはあるが、短気ではない。
この沸点の低さは親しさの裏返しのように思えた。
「来ればわかる」
それだけ言うと、壮司はどこか忌々しげに息をついた。
ノックもなしに、ドアが開いたのはそのときだった。
「あ、壮司さん」
開口一番、いまひとつ緊張感のない声を発した人物は由貴也だった。
「『あ、壮司さん』じゃねえよ。時間は守れ」
壮司が丸めた冊子で由貴也の頭を叩く。ポコッといい音が鳴った。
「迷ったんですよ。俺、この学校一ヶ月くらいしかいませんでしたもん」
巴や壮司のような中等部からの持ち上がり組とは違い、由貴也は高等部からの外部生だ。その上、すぐ留学に行ってしまったので、この学校には実質一ヶ月程度しかいなかったのである。
悪びれもしない由貴也は、一月なのにカーディガンをはおっただけの姿だった。
英語科の生徒であれば、紺のブレザーと藍色のネクタイが指定となっている。しかし、由貴也がそのどちらも好まないであろうことは容易に想像できた。
「……まさか由貴也、お前が監査委員なのか?」
巴は信じられなかった。
組織や型にはめられることをあんなにも嫌う由貴也が、委員会に入る。しかも、遅れはしたもののきちんと参加している。
今までではありえないことだった。
「そうだよ。こんな時期だから、ロクな委員会残ってないし」
由貴也が何を言いたいかよくわかった。
委員会か、クラス内の係活動は、クラスの一員として果たさねばならない仕事だ。
長い間不在で、加えて中途半端な時期にクラス復帰をした由貴也には、この委員会しか残されていなかったのだろう。
「……三人で話してるとこ悪いけど、俺らにも説明してくんね?」
健一郎がすまなそうに切り出したところで、我に返る。
健一郎と芙美花がなにがなんだかさっぱりわからない、という顔でこちらを見ていた。
微妙な表情で壮司が口を開く。
「古賀 由貴也。英語科の一年で今回の監査委員、それと……」
「それと?」
芙美花が先を急かす。その間に、壮司はちらりとこちらを見た。
「……俺らのいとこだ」
「「いとこぉ?」」
今度は健一郎と芙美花、ふたりの声が重なった。
―◆―◆―◆―◆―
監査委員会から書類が送られてきたとき、壮司は驚きを隠せなかった。
あの由貴也が委員として名前を連ねていたからだ。
監査委員会は全三名の小規模な臨時委員会だ。それでも、いくら少数といったって、由貴也が組織に属することをよしとするとは信じられなかったのだ。
それどころか、派遣人員てしてやってくるとは思わなかった。由貴也は行動的とはもっともかけはなれている。
由貴也は自らの性質を曲げてまで、巴と自分を遠ざけたいのだ。
今のところ、壮司と巴のつながりは生徒会に限られている。そこを封じれば壮司がむやみに巴に接近するのを防げると思ったのだろう。
その思惑は実に効果的かもしれない。
巴とは以前のように何の理由がなくとも一緒にいたりしない。なんとなく雑談に興じることもなければ、たまたま行きあったから一緒に帰るなんていうこともしない。
彼女とともに行動するには理由が必要だった。しかも別れていると周りに思われている以上、それは万人の認めうるものでなくてはならなかった。
それをすべて満たすのは生徒会活動だけであった。
「……いとこっていうと、巴の弟さん?」
『俺らのいとこ』と言ったにも関わらず、芙美花が巴と由貴也の顔を見比べる。
芙美花が間違っても仕方ないくらい、巴と由貴也は共通点が多かった。ふたりそろうと、精巧な西洋人形と日本人形が対になっているかのようだった。そこには壮司の入り込めない雰囲気があるように思えた。
「いや、由貴也は叔父の息子だ」
「えぇ?」
巴の説明にも、芙美花は首をかしげる。確かに余計にややこしくなっただけかもしれない。
「巴は俺の母親の一番上の兄の子供で、こいつは母親の二番目の兄の息子だ」
「ええぇ?」
巴に代わって、かみくだいて説明したが、またしても芙美花は首をかしげた。
「『の』が多すぎてますますわかんねえよ。要は兄弟じゃなくて、互いにいとこ同士なんだろ?」
健一郎が、今までの説明は何だったんだ、というくらい簡潔にまとめた。
それには間違いなかったので、不本意ながらも「そうだ」と頷いた。
当の由貴也は、我関せずとばかりに、黙々とお茶うけのクッキーを食べていた。
誰も食べていいとは言っていないのに、相変わらずのふてぶてしさだ。
「でだ。監査は監査で決算表を作るが、平行して芸術祭の準備もする」
立志院には六月と二月の二回文化祭がある。
六月は一般的な文化祭であり、二月は別名芸術祭と呼ばれる。
音楽科が主体になって開催され、コンサートや展示物が中心であった。
そうは言っても、音楽科だけでなく、生徒会もいろいろと便宜をはからないとならない。忙しくなるのは目に見えていた。
「またこの少人数かよ。キツいな」
健一郎がため息混じりにつぶやいた。まったくもって壮司も同感だ。
「いや、今回は補充人員が来てくれたじゃないか」
その巴のうれしそうな顔に、壮司は嫌な予感がする。その顔は何か悪だくみをするときの顔だ。
巴のほっそりとした指が、由貴也が食べようとしていたクッキーを先回りしてつまむ。
そのままクッキーを口に寄せて艶然と微笑んだ。
「働かざる者食うべからず。由貴也、手伝ってくれるな」
予感的中だ。巴のことに関しては、その悪事の餌食にされているので、予想するのに慣れているのだ。
いきなり名指しされた由貴也だったが、平然と他のクッキーをとって、口に運んでいる。
それをマイペースに噛み下してから、やっと口を開いた。
「めんどくさ……でもまぁいいよ」
壮司は天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。
あの由貴也が、他ならぬ巴の頼みとはいえ、こうもあっさり承諾するとは。面倒くさいものの象徴のようなこの仕事を。
気がついたら、口から言葉が飛び出していた。
「由貴也、お前本気か……? オーストラリアの日差しに頭やられたんじゃねえか?」
「うるさいよ、壮司さん。俺、アンタのそういうとこ嫌いなんだよね」
辛辣な言葉に、芙美花と健一郎がぎょっとするのがわかった。当の壮司はいつものことなので、あまり気にならない。
冗談はさておき、咳払いをして取り繕う。
「由貴也。やるからにはきちっとやれよ。遅刻はすんな」
驚きは横に置いといて、これだけは言わなくてはならなかった。逆に由貴也に振り回されるような事態にだけはなりたくない。
その心配は巴が請け合った。
「大丈夫だ。私が責任もって監督する。由貴也でもいないよりマシだろう」
由貴也と似たり寄ったりの辛辣さだったが、「ひどい言い草」と由貴也は返しただけだった。
「芙美花、貢、異論は?」
巴がたたみかけたが、ふたりとも反論はしなかった。
確かに四人だと、正直なところ大変なのだ。由貴也は正式な生徒会役員ではないので、表には出せないが、裏方でもやってもらえば随分助かる。
現生徒会は慢性的な人手不足に陥っていた。
「よろしく、“不動先輩”」
その秀逸な顔を“歪ませて”由貴也は戦慄するほど美しく笑んだ。
その奥に挑戦的な光が閃いたのを、壮司は見逃さなかった。
由貴也がここまででしゃばって巴と自分を引き離そうとするのもわからなくなかった。
どう考えたって巴と自分が結婚したなら、彼女が不幸になるのは明らかなのだ。
制約が多いあの家で、巴が壊れてしまうかもしれない。それこそ母のように。
由貴也が、彼にとっては破格の行動力で阻止するのも当然だった。誰が、好きな女が不幸になるとわかっていて、嫌いな男の方へ向けておくだろうか。
「不動、他は?」
思考にふけって、行動が止まっていた。健一郎に促され、再び書類に視線を落とす。
「他は……ないな。来週から芸術祭の準備に入る。今日は解散」
とたんにガタガタと椅子が触れ合う音がした。
部活へ行こうとする壮司の耳に、巴と由貴也のやりとりが入ってくる。
巴。寮までの道教えて。
何だわかんないのか。朝はどうやって来たんだ?
適当に歩いたら着いた。
まったく。仕方ないやつだな。
そんな仲が良さそうなやりとりが聞こえてくる。
巴が由貴也の好意に気づいているのかどうかはわからない。巴は鋭そうだからわかっていそうな気もするし、案外わかっていなさそうな気もした。
どちらにせよ、巴は由貴也の扱いが上手かった。
「……」
だから何だというのだ。これでは由貴也の思うつぼだ。
多少の動揺があるのは覚悟していた。
曲がりなりにも十数年間をともに一番側で過ごしてきたのだから。
それは女兄弟に男ができたのと同じ感情だと解釈していた。
ふがいない気持ちがふつふつとわきあがってくる。これしきのことで心を乱すなど――。
そこでふと思考が途切れた。
……これしき、か。
らしくない感傷に嫌気がさし、壮司は足早に生徒会室を後にした。
―◆―◆―◆―◆―
「壮司さんってあの人が好きなの?」
帰り道、強く降りしきる雪は、吹雪の一歩手前だった。
「え?」
その音に由貴也の声がかき消されてしまう。巴は思わず聞き返した。
「あの生徒会の人?」
こちらが聞こえなかったにもかかわらず、由貴也はひとりで話を進めている。しかも確信に近いくちぶりだった。
由貴也はいつもそうだ。彼の推測はおおよそ外れることがない。
しかし、そのすばらしい推測力はどうでもいい方面にしか発揮されないのだった。
「……そうだ」
何と言ったらいいのだろうか、と迷った末に絞り出せたのはたった一言だけだった。
壮司が今もまだ芙美花が好きかどうかはわからない。
わからないけれども、その他大勢とは一線を画した存在であるのだろう。何せ実質的な初恋の相手だ。
巴が一番欲しかった場所だった。
「よく……わかったな」
別に心の底から感心したわけではない。由貴也ならすぐにわかるだろうと思っていた。
ただ話を反らしたかったのだ。
手放しでいい関係とはいえなくとも、芙美花と壮司と自分は一応均衡を保っている。
そこに触れられたくはなかった。由貴也の言葉はとにかく手厳しい。
「簡単だよ。壮司さんは何か用がないと女の人に話しかけられないから。あの人、そういう方面に免疫ないからコロッときちゃったんでしょ」
随分な言い方だ。それでは壮司がただのアホに聞こえる。
「ていうか壮司さんってああいう人がタイプだったんだね。巴と正反対じゃん」
由貴也の言葉が耳に痛い。「そうだな」としか返せない。
許婚うんぬんの問題の前に、芙美花にはかわいげがある。ふわふわとした雰囲気がある。
あれは自分とは縁遠いものだとわかっていた。
それが壮司の好みだとすれば、自分は最も外れている存在であった。
「……巴、寒いんだけど」
次はどんなことを言ってくるのかと思いきや、寒いと来たものだ。
「我慢しろ」
巴はそっけなく返した。
寒いのは巴も変わらない。由貴也が傘を持ってこなかったせいで、ひとつの傘をふたりでさしている。いわゆる相合傘だ。
でかくなった由貴也とではどうしても狭い。肩に雪が降り積もっていた。
やっとの思いで寮まできたときには、ひどい有様だった。髪は乱れ、スカートのプリーツは消えかけていた。
それでも、室内の暖かさに息をつく。
由貴也が病院の待合室にあるような、ソファーに身を勢いよく預ける。
「由貴也、あともう少しだから立て」
自分は由貴也につくづく甘いと思う。この行動をしたのが他の誰かだったら、即座に無視して置いていっただろう。
「由貴也」
再び呼びかけても、由貴也はまったく反応を示さない。
うなだれたような姿勢で深くソファーに腰かけていた。
「由貴也……?」
さすがに不審に思って、彼の肩に触れてみる。
由貴也が呼吸をするたびに肩が揺れる。その間隔は短かった。
「お前……」
スカートに気をつけながらしゃがみこみ、由貴也を下から覗きこむように見上げる。
雪で濡れた手をハンカチでふき、そのまま彼の額に手を当てた。
零下にもほど近い屋外から帰ってきたばかりだというのに、燃えるように熱かった。
どうして気がつかなかったのだろう。
由貴也は昔から環境の変化を何よりも嫌う。進級したときや、上の学校に上がったときもよく体調を崩していた。
今回もオーストラリアとの寒暖の差もあれど、環境の変化が具合を悪くした一番の要因だろう。
「由貴也、立てるか?」
外よりはマシとはいっても、ここも底冷えしそうなほど寒い。とにかく早く温かいところで休ませるのが先決だった。
「……」
由貴也からの返事はない。
辺りを見回しても、下校時間には遅く、部活が終わる時間には早いためか誰もいない。
この事態にはさすがの巴も動揺した。巴ひとりではどう考えても由貴也は運べない。そもそも彼の部屋がある男子寮には入れない。
とりあえず立ち上がり、誰かを呼ぼうと携帯電話が入っているポケットに手をつっこむ。携帯を取り出すより早く、手首を由貴也につかまれた。
やけどしそうなほどに熱い手だった。
「……大丈夫だから」
さしもの由貴也も声がかすれて苦しそうだった。
病人の大丈夫はあてにならない。やっぱり誰かを呼ぼうと携帯電話を取り出した。
次の瞬間、携帯を取り落としそうになった。
由貴也の熱い体が前に倒れ、巴にもたれかかってきた。
そのまま、拘束するかのごとく胴に腕を回される。
「……いいから、ここにいてよ」
回された腕の力が強まる。
由貴也の荒い息以外は何も聞こえない。
それから、永遠かと思える時間が過ぎた。
―◆―◆―◆―◆―
またしても、壮司は自分がなぜこの状況に置かれているかわからなかった。
なぜか由貴也の部屋にいて、なぜか由貴也の世話をかいがいしく焼いている。 壮司は何が何だか自分でもわからないまま、ベットのサイドテーブルにスポーツドリンクを置いた。
そのついでにベットで横になっている由貴也に目をやると、ばっちり目があった。
「……何だよ」
彼からあまりにも不満たらたらの視線を向けられて、どうも居心地が悪い。
「……別に。何も」
いつもよりもさらに平坦な返事とともに、由貴也は寝返りをうった。見えるのは由貴也の背中だけになる。
「お前、素直に礼くらい言えねえのかよ」
その背中に、壮司は呆れ眼を送った。
礼のひとつもなく、文句を言いたいのは壮司の方だ。
壮司が部室で剣道着に着替えていると、巴から電話があった。
由貴也が具合が悪くて動けない。手を貸して欲しい、と常より少しうわずった声が通話口から流れていた。
何とか適当な理由をつけて部活を抜け出し、急いで寮にかけつけた壮司を待っていたのは、巴に抱きつく由貴也の姿だった。
巴との間に気まずい沈黙が流れたのは言うまでもない。
由貴也の体調が悪いのは本当だったので、壮司は肩を貸し、彼の部屋まで運んだのだった。
そう、保健室に運ぼうとしたら、保健室はヤダとわがままを言われ、文句を言いたいのは壮司の方なのだ。
「……アンタが来なければ、巴とずっとあのままだったのに」
ボソリと由貴也がつぶやく。そのつぶやきは近しい者にしかわからないくらいの不機嫌さがこめられていた。
「お前なぁ。巴をあんまり困らせる真似してんじゃねえよ」
「壮司さんなんて、何回巴を泣かせれば気が済むんですか?」
すばやく返され、この減らず口が、と叫びたくなる。
壮司は歳上のプライドでぐっとこらえた。
「とにかく、俺は帰るぞ。必要なものは全部そこだ」
冷却シートにスポーツドリンク。解熱剤と氷枕まで壮司が用意した。
由貴也は小憎らしいやつだが、相手は病人だ。
こちらにその気はあっても、向こうに一時休戦という概念はないようで、相変わらずの憎まれ口だ。
「お大事にな」
一応心からの言葉をかけ、壮司はドアノブに手をかけた。
「壮司さん」
背中に幾分しっかりした声がかけられる。まだ何かあるのかと振り向いても、由貴也は背中を向けている。
「人間ってバカだから、好意を寄せられるとすぐ傾くもんだよ」
巴はバカじゃねえよ。そう言いかけて押しとどめた。
いっそのことバカの方が幸せかもしれない。由貴也に骨抜きにされて、つらい恋から離れた方が幸せかもしれない。
「病人はおとなしく寝てろ」
壮司は今度こそ由貴也の部屋から出た。
男子寮から壮司の住まう特別寮に帰るには、一階エントランスに戻らないといけない。
これでもか、というほど憑きものを落とされて、壮司は無性に腹が立つのを押さえられなかった。
いちいち見せつけられては悪態もつきたくなる。
「壮司」
エントランスに戻ると、巴がそこで待っていた。
出入りが激しいエントランスには暖房はついていない。
こんな寒いところでずっと待っていたのかと、苦々しく思った。
「由貴也は大丈夫だったか……?」
心配そうな顔がそこにある。
そこに由貴也の顔が重なる。
好意を寄せられるとすぐ傾く――。
こんなところまで由貴也の存在が浸透していて嫌になった。
「心配ねえよ。多分な」
多分じゃなくて、おそらく大丈夫だろう。あれだけ壮司に嫌みを言えるのだ。何の心配もない。
巴はそうか、とあからさまにほっとした顔をした。
「お前にも迷惑をかけた」
殊勝なことを言われて、壮司は驚く。
巴は今までなら当たり前のように壮司をあごで使った。
だからこの言葉にはみずくささすら感じるのだ。
それに由貴也のことで巴が謝る。
それは由貴也は身内のようで、壮司は他人のようだった。
「別にいいから。気にすんな」
つまるところ、自分は巴に頼って欲しいのだ。彼女が困ったときに一番先に思い浮かべるのは自分の顔であって欲しいのだ。
こんなこと考えたこともなかった。
どれだけ巴との変化のない関係に、安穏とあぐらをかいていたかを思い知らされる。
“当たり前”がなくなる。
前に一度覚悟したはずだ。芙美花が好きだと打ち明けたときに巴がいなくなることは覚悟していた。
あのときとは違い、今それを実感として感じている。
砂が手からこぼれ落ちていくような感覚に、壮司はどうしようもない不快感を覚える。
それが“焦り”だとも知らなかった。