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かざす花  作者: ななえ
第6章
31/68

第3幕

 かすかに聞こえる、パチンパチンという音で目を覚ました。

 重いまぶたを持ち上げても、視界に入ってくるものは闇だけだ。ぴっちりと雨戸が閉じられているため、朝なのか夜なのか判然としない。

 壮司は手探りで枕元の羽織をとり、床から出た。

 それをはおりながら、廊下に面している方の襖を開き、廊下からさらに外へつながる戸も開く。雨戸もともに開くと、朝の陽光が遠慮なくさしこんできた。

 そのまぶしさに目がくらみながらも、壮司はすべてを開け放った。

 パチンパチンという音が、何も隔てることない明瞭な音で聞こえてくる。

 目が慣れるまで数回まばたきをすると、徐々に物の輪郭が明らかになる。

 冬の寂しげな庭で、唯一の彩りである椿がまばゆいほど鮮やかに咲き乱れていた。

 そして、深緑の着物をまとった巴が、草切ハサミで椿を切り、手にかかえていた。

 その立ち姿は優美で、絵のように周りと調和している。

 白い息を吐きながら、壮司はなんとなく視線をそらすことができずに、その光景を眺めていた。

 無意識に重心が前足にかかる。キシッと床が鳴いた。

 その音を耳がとらえたのか、巴の動きが止まり、余裕を持ってゆったりとその身をこちらへ向ける。

 振り向いた巴の輪郭を、淡い朝日がふちどっていた。

「おはよう、壮司」

 彼女の薄い微笑みは、冬の弱い太陽のようで、今にも霧散してしまいそうだった。

「……おはよう」

 答えた声は、白い吐息とともに、冷たい外気に溶けて消えた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 古賀家の食事は皆で食卓を囲むものではなく、膳だ。

 漆塗りのそれの上には小鉢に盛られた和食が上品に乗っている。

 掛け軸がかかった広い和室には、古賀家唯一のテレビがある。今どき見かけないような厚ぼったいテレビだ。しかし、あまりに出番がないため、正常につくかどうかは怪しい。

 今は空席となっている、床の間近くの上座には、父が座る。表には古賀家の主だ。

 その隣には祖母が、そして下座には自分と壮司が座る。

 居候である壮司がこの席に加われるようになったのはほんの三年前だ。自分の許婚となり、名実ともに“後継者”と認められたからだ。

 それまで壮司は居候らしく、離れに病床の彼の母親とともに押し込まれ、そこで生活の一切を行っていた。

 長いこと精神が錯乱状態にある彼の母親は、とても話し相手になる状態ではないだろう。幼い壮司がひとり寂しく食事をとったことは想像にかたくない。

 スッと襖が開き、父が姿を現す。

 僧侶としての朝の勤めを終えたばかりなので、袈裟姿だ。

「おはようございます」

 水をうったように静かだった室内に、三人分のあいさつが響きわたる。

 父はそのあいさつに「ん」と答えただけだった。

 父はいかにも僧侶という人物だ。

 ひどく寡黙であり、世間のわずらわしさも父には干渉できないような気がした。何事にも興味がない顔をして、日々を淡々とこなしていた。

 煩悩とは無縁である父は完璧な坊主だった。同時に祖母の理想的な傀儡でもあった。

 父を縛っているのは、仏徒としての戒律ではなく、祖母だ。いや、縛られているという認識すらないかもしれない。

「いただきましょう」

 祖母のその一言でまずは手をあわせる。

「いただきます」

 三人同時に唱え、箸をとる。父はいつものように無言で手をあわせただけだった。

 食事が始まっても、会話などない。かすかに食器と箸がふれあう音が響くだけだ。

「お父さま、おかわりは召し上がりますか?」

 普段は温和でふっくらとした女性を家政婦として雇っているが、もう年末だ。暇を出しているので、代わりに巴が給仕にまわる。

 無言でつきだされた父の茶碗を受け取り、巴はかたわらの櫃からご飯をよそって返した。

「巴さん」

 早くも食後のお茶を飲んでいる祖母からいきなり呼びかけられ、反射的に「はい」と答える。

「私は園の方に用が、曹玄さんは法事がおありになります。帰りは遅くなりますので、後のことをよろしく頼みます」

 曹玄とは、父の僧としての名前だ。戒名というものである。

「はい。わかりました」

 寺は基本的にお布施や葬式をやらせてもらう檀家がしっかりしていれば、生計を立てるには困らない職業だ。

 加えて祖母は、市内に点在する古賀家代々の土地を幼稚園や月極めの駐車場に変えた。

 どれもこれも抜群の立地条件を備え、古賀家に莫大な利益をもたらした。

 祖母は昔ながらの方法で寺を支えると同時に、経営者としてもその手腕をいかんなく発揮した。

 寺が幼稚園や保育園を営む例は少なくない。だが、祖母は家族葬やら共同墓地やらで確実に先細っていくこの職を見越してのことだろう。

 そう遠くない将来、円恵寺が立ち行かなくなる前に、別な収入源を作っておきたかったのだ。

「壮司さん。向こうに紀子さんの朝食が用意してあります。持っていって差し上げなさい」

 祖母の口調は丁寧だ。決して崩れることはない。

 しかし、有無を言わせぬ強さがあり、聞く者を威圧する。

「ありがとうごさいます」

 隣の壮司が軽く頭を下げる。

 壮司の母、巴にとって叔母にあたる紀子は、祖母にとって唯一の汚点であった。

 古くさいこの家と、束縛する祖母に反発して家を出たものの、ついていった男はろくでなしだった。子供を成した挙句、男には捨てられ、最後にはあんなにも嫌悪していた家を頼るはめになった。

 自身の惨めな境遇を認められなかったのか、彼女の心身は徐々に病魔に蝕まれていった。

 反抗、出戻り――祖母にとっては汚辱にまみれた娘だが、彼女をもう一度受け入れる代わりに、祖母は壮司を手に入れた。

 祖母にとっては結果オーライだったかもしれない。娘は犠牲にしても、扱いやすい後継ぎを得たのだから。

 巴は深みにはまっていきそうな思考を強制的に打ち切って、食事に集中しようとした。

 しかし、膳に並ぶのは大嫌いな野菜ばかりで、こっそりとため息をついた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「母さん、起きてますか?」

 壮司は膳を持ち、襖の前で呼びかけた。

 離れの奥まった一室に母の居室はある。この位置からも、祖母が母を疎んじているのがはっきりとわかる。

「……」

 中からの応答はない。

 しかし壮司は躊躇なく襖を開いた。独自の世界で生きる母に反応を求める方が間違っているのだ。

 母はすでに起きていた。床の中で上体を起こし、外を眺めている。あどけなさが抜けない顔を障子をすかした陽光が照らしていた。

 側まで近づくと歌を口ずさんでいるのがわかった。誰でも一度は耳にしたことがある童謡だ。

 いい大人が童謡を口ずさむ。

 壮司は強烈な違和感を感じたが、それでこそ母だという感じも受けた。

 夢見がちな少女がまさにそのまま成長したというのが母だ。ときどき正気に戻る母は天真爛漫で無邪気だった。

 だからこそ祖母の決めた枠に入れなかったのだろう。後先考えずに得体のしれない男にノコノコとついていったのだろう。

「食事、置いときます」

 業務的に言い捨てて、膳を枕元に置く。

 意志の疎通もはかれない相手にどうやって接していいかわからない。

 母親だという事実はあっても、実感としては胸に下りてこない。他人のように接することしかできない。

 世間一般で定義づけられている親とは違い、壮司は彼女を守る対象として位置づけてきた。

 その倒錯している関係に、複雑な思いを抱かずにはいられなかった。

 弱くて幼い人。自分が守らなくて誰が守るのか。

 子どもといえども壮司は甘えを許されない立場にあった。

 ただ本能のままに食事に手をつける母を視界から追い出し、きびすを返す。

 視界の端で、今朝巴がつんでいた椿が花瓶にいけられて揺れていた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 祖母と父を送り出し、巴はたすきをかけ、家事を始めた。

 洗濯物を干し、玄関を掃き、廊下には雑巾をかける。

 ある程度の年齢になったとき、家事全般は祖母にたたきこまれた。むしろ勉強よりそちらの方面の方が熱心だったくらいだ。

 祖母は古い人であるので、女の本分は家を守ることだと信じているのだ。

 廊下を雑巾がけしているときに、壮司が遠慮がちに姿を見せた。

「何か手伝うことはあるか?」

 それだけの言葉なのに、彼はひどく言いづらそうだった。

 この自分とは対照的に、壮司は包丁ひとつ持ったことがない。

 すべてやってもらうのは居候として居心地が悪いのか、彼はしょっちゅう手伝いを申し出る。

 その申し出を祖母によってすげなく断られるのも毎回のことだった。

「いや……特にないな」

 祖母はひとえに壮司が男だから“女”の領分に踏み込ませないだけだろうが、巴は違う。自分がやったほうが明らかに早いからだ。

 何もわからない壮司に任せたら、それこそ大変なことになってしまう。余計な仕事を増やすだけだ。

「そうか……」

 心なしか壮司が肩を落とす。

 少しかわいそうになるが、今日は忙しいのだ。壮司にかまっている暇はない。

 巴は雑巾がけを再開する。

 没頭しようと意識を傾けるが、ついついちらりと壮司を見てしまう。

 ずこずこと引き下がっていく壮司の背中に嘆息する。壮司の家事能力は幼稚園児以下だというのに。

「壮司、ごみを捨ててきてくれないか。勝手口にまとめてあるから」

 後で自分が苦労するとわかりながらも、どうして頼んでしまうのか。

 しょうもない自分にも、胸の中で嘆息した。

「わかった」

 役目を与えられて、壮司は幼い子どものように嬉々として勝手口に向かって行った。

 剣道部では鬼の先輩がこれでは聞いてあきれる。

 壮司を行かせ、雑巾がけを終えてから、今日の食事をどうしようかと考える。

 昼は祖母が用意していったのでいいが、夕飯は自分がつくらなければならない。

 壮司の母はいるものの、食卓につくのは二人だけだ。

 手軽で、おいしい料理。なおかつ野菜も少ない……と考えていると、巴の頭に何かかすめるものがあった。

 たちこめる湯気と楽しげな話声。桐原家で食べた鍋が頭に浮かんだ。

 鍋か――。

 野菜だらけだが、そちらは壮司に任せればいいことだ。

 なにより、二人きりで膳に並べられた食事をとるには、部屋は広すぎて静かすぎた。

 今晩は鍋にしようと決めて、台所へ向かう。

 鍋につかえるような土鍋があるかどうかを確かめるためだ。

 納戸から木製の踏み台を持ち出し、とりあえず台所へ向かった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 意気込んでごみ捨てに行ったものの、壮司はごみの収集場所がどこかすらも知らなかった。

 うろうろとさまよい、やっと無事にごみを捨てて帰る。慣れないことをしたせいか嫌な汗を全身にかいていた。

 なんだかどっと疲れて帰った壮司を迎えたのは、耳を覆いたくなるような音がだった。

 壮司は音のした方へ進み、台所ののれんをくぐった。

「……」

 飛び込んできた光景にしばらく理解が追いつかない。

 床に乾物や、めったに使わない調理器具がばらまかれている。上の戸棚から落ちたものだろう。

 その中心には木製の踏み台があり、深緑の着物をまとった体が伸びていた。

「壮司! 見てないで助けろっ!!」

 珍しく、巴が切羽つまった声をもらした。

 その腕と戸棚の間で、大きな箱が今にも落ちそうな危うい均衡を保っている。「あ、ああ……」

 ずいぶん巴らしからぬ失態だ。

 壮司は踏み台に乗り、巴の後ろから箱を支えようとする。

「壮司! ちょっと……!!」

 待て。巴はそう言いたかったのだろうが、その言葉が発せられることはなかった。

 壮司が乗ったことで、後方に行きすぎた負荷がかかり、踏み台がぐらりと倒れる。

 ヤバいっ。そう思った一瞬後には世界が回り、巴の体をひっとらえていた。

 腕の中で彼女が息をつめるのを感じた直後、背中に強い衝撃を受ける。後方に倒れたのだ。

 しびれたような痛みに顔をしかめながら、目を開いた。

「大丈夫か……?」

 胸に確かな重みを感じる。視線を下に向けると、顔を伏せている巴の黒髪が流れていた。

 自分は仰向けに倒れ、その上に巴がうつぶせに倒れている。はたからみると床の上で抱き合っているような、奇妙な体勢だ。

「……大丈夫」

 巴も顔を歪めながら、身を起こす。

 その馬乗りの状態のままで、巴は辺りに視線をめぐらせていた。

 落ちる寸前まで持っていた箱を探しているのだろう。

 キョロキョロとせわしく瞳を動かすその途上で、不意に目が合う。

 視線がつながり、互いしか見えなくなる。

 まずい、と思ったときにはもう遅い。果てが見えない巴の瞳に引き込まれる。

 一瞬にして空気が音を立てて凍りついたかのような錯覚に陥った。

 家の中はささいな物音さえもしない。それゆえに、巴が立てる衣擦れの音がやけに大きく響いた。

 氷のように冷たい手が、壮司の首筋に触れる。

 一度なでるように触れたとたんに彼女の瞳の色が変わった。

 深い赤――紅がその漆黒の瞳に灯った気がした。それはまぎれもない狂気の色だった。

 初めて人の“魔が差す”瞬間を見た。

 とてつもなく長い時間をかけ、巴の両手は壮司の首に添えられる。

 普通の人が見たならば、血相を変える場面であろうとも、壮司はただ静かに受け入れた。

 その細腕で絞め殺すには無理があるだとか、そんなことは考えなかった。

 ただ、目をそらさずにいた。

 巴の手に一向に力はこもらない。なのに、力の限りを出しているように震えていた。

「巴」

 声を発すると同時に、流しの蛇口から、水滴が垂れた。

 余韻を引きずり、その音は幾重にも広がる。

 張りつめた空気にひびが入る。狂気の影が遠ざかる。

 みるみるうちに巴の瞳が正気に戻った。彼女は恥じ入るように顔を背けた。

「……冗談だ。本気にとるな」

 巴の手が退く。

 その肩が細かく震えていた。

「悪かった。俺が悪かった。だから――」

 どうして謝っているのかわからなかった。ただ、いてもたってもいられなかった。

「そんな泣きそうな顔をしないでくれ。頼むから」

 どこか冗談だというのか。

 そんな思いつめた顔をして、そんなつらそうな顔をして、どこか冗談だというのか。

 壮司にはその顔が何より一番こたえるのだ。

「そんな顔、してないっ……」

 しぼりだした巴の声がよけいに壮司をいたたまれなくさせる。

「そうだな」

 唇を噛んで、涙をこらえているその表情を、これ以上、一秒たりとも見ていられなくて、巴の頭を抱く。

 そのままやわらかく引きよせた。

 巴は抵抗もせず、壮司の胸に頭を預けてくる。

 巴のぬくもりとは違う熱が衣服にしみこんだ。

 壮司は救いを求めるように天井を仰ぐ。

 何も知らずに許婚でいた頃、壮司は巴に“家族”を求めていた。すべての過程をすっとばし、恋人ではなく妻でもなく、家族が欲しかった。

 いつだって自身の手のひらにはない存在を切望し、相手に望む役割を押しつけた。

 その中で、巴の性別などあやふやだった。

 誰より、女として意識するには近くにいたのに、誰よりも遠かった。

 母がたどった愚かな恋の末路。

 恋愛が結婚に直結する自らの身の上。

 前者は壮司にとってのトラウマでもあり、後者は壮司を恋愛に対し慎重にさせた。

 そのせいで、恋愛を無意識に忌避していたのかもしれない。家族の中にこそ安定した関係を求めたのかもしれない。

「……何で……」

 かすれた声が胸元から聞こえる。

 目だけ動かして下を見やる。

 見えるのは巴のつむじと、壮司の衣服を握りこんだ手だけだ。

「何でお前なんだろう……」

 握る手がさらに強まる。感情の高ぶりを表すように、大きく震えていた。

「何でお前じゃなきゃダメなんだろう……!」

 叩きつけるかのような巴の声は、壮司の脳内で何倍にもなって響いた。

 何もしてやれないということがここまできついとは思わなかった。

 壮司にできるのは抱きしめて、泣きやむまで側にいるくらいだ。それが壮司のボーダーラインだった。

 想いに応えるつもりがない以上、踏み越えてはならない一線があるのだ。

 それでも、巴が泣くのは見ていられない。

 誰よりもかけがえがなく、大切な存在に目の前で泣かれて平静でいられるはずがない。

 視界に入るのは天井。聞こえるのは巴の嗚咽だけ。

 どんなに巴が大事でも、好きなだけ泣かせてやるしかできることはないのだ。どんな慰めも優しさも、巴の強い想いの前では、安っぽいものにしか思えなかった。

 壮司はやるせなさに瞳をつむる。

 ずいぶん長いときがたってから、泣き疲れた巴の寝息が聞こえてきた。

 しかし、壮司にはまだ、巴の泣き声が聞こえるような気がしてならなかった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 目を覚ますより先に働きだしたのは、嗅覚かもしれない。

 妙な臭いが巴の眠りを妨げた。

 それよりまず、自分が寝ていたことが信じられなかった。

 頭も重いし、目もはれぼったい。当たり前だが、この歳になれば泣くことなどめったにない。加えて泣くというのは結構体力を消費する行為だ。

 スポーツなど、学校の体育止まりである巴にとって、体力は並かそれ以下しかない。

 慣れないことをしたということも相まって、泣いた後は急激な眠気に襲われるのだ。

 どうやら、普段食事をとる部屋に寝かされているようだった。座布団を枕に、どこからか調達したらしい掛け布団もかかっていた。

 戸は開けっ放しにしてあり、台所までよく見える。

 流しの前に立っているのは、あろうことか壮司だった。コンロでは奇妙な臭いの元である鍋が煮えている。

 家庭科の教科書片手に、悪戦苦闘しながら、壮司が夕食を作るさまを、あまりよく働かない頭で見ていた。

 起き上がることも、声をかけることも億劫で、夕食ができるまで横になったままでいた。

 その日の夕食は壮司作の何だかよくわからない煮物だった。

 切って煮こむだけなのに、どうしてここまでひどいのかと問いかけたくなる味だった。

 片づけをしている間も、ときどき送られる壮司の気づかわしげな瞳は感じていた。

 最初は片づけを手伝おうかと申し出てきたが、こちらが断ると、普段は見ないテレビを見て、居間に居座った。

 壮司がそういう態度をとるのも無理はない。今の自分は不安定極まりない。言動も行動も無茶苦茶だ。

 この恐ろしく醜悪で歪んだ想いは、いつか壮司を食い潰す。

 恋心などという生易しい言葉では到底言い表せない。執着と独占欲がからまって、壮司を捕らえようとしている。

 本当の“終わり”――婚約破棄を前に暴れだしたのだ。

 片づけを終えて、風呂を終えても、巴は自室に引きとらず居間に座っていた。

 夕食後、壮司はこちらには絶対に来ない。自室のある離れから出ることはない。

 それは祖母の行きすぎた危惧によるものだ。年頃になった壮司が母屋の自分の部屋に忍び込み、不貞を働くかもしれないと、ばかげた妄執に囚われている。

 今まで壮司のどこを見てきたのかと問いかけたくなるほど、むだな心配だ。

 あの堅物なら、自分と密室に閉じ込められてもそんなことはしない。

 しかし、壮司自身はそうではなかった。

 祖母に信頼されていないと感じとると、夜も早々に自室にひきとるようになった。居候の性か、彼はそういうことに敏感だ。

 自分しかいない母屋は静かだった。時折風で家中の梁が鳴った。

 その静けさは心を鎮めるのにちょうどよかった。

 言うべきことだけで思考を埋め、余分なことは胸の奥底へ沈めた。

 そうして何百回もくり返したとき、玄関が開く音がした。

 心臓が高鳴る。身体中の血が一旦停止したような衝撃が走った。

 出迎えなどさらさら期待してなかった祖母が家へ上がり、廊下を歩いてくる。足音がほとんどしないような完璧なすり足。間違えなく祖母だ。

 居間の前の廊下に姿を現した祖母は、珍しく疲れた顔をしていた。

「お祖母さま」

 思わぬところから呼びかけられて、祖母は一瞬動きが止まるが、すぐにやや緩慢な動きでこちらに体を向けた。

 その余裕を持った動作が、祖母に言いしれぬ優美さを与えていた。

「巴さん。どうなさったのです。そんな格好で」

 今の巴は寝間着の白い単衣に、ショールを羽織っただけの姿だ。この格好は自室の中だけで許される格好であり、家の中をうろつくにはふさわしくない。

 この出立ちも、壮司に感づかれないためには必要だった。

 祖母に婚約破棄を申し出ると壮司に気づかれたならば、彼は自分がやると言いだしかねない。

 そしたら壮司は自身が悪いように脚色するのは目に見えている。

 祖母にそんな御託は必要ないのだ。たった一言でいい。それだけでいい。

「お祖母さま、あの……」

 ただ一言、遠回しな言葉でもいい。それだけで祖母はわかってくれる。

「私は……」

 歯切れの悪い巴の言葉も、祖母は根気よく待っていてくれる。祖母は厳しくはあるが、せっかちではない。

 何より祖母は無言の使い方をよく心得ていた。言葉で催促するよりも、ただ待たれる方がはるかに人を落ち着かなくさせるのだ。

 現に巴も心拍数が上がり、喉はからからに乾いていた。

「壮司と――」

 何とか名前を口に乗せると、脳内に壮司の残像が浮かんだ。

 今までともに過ごしてきた時間がよみがえる。

 あきらめるのか。こんな形で。ちゃんと好きだとも伝えないまま、壮司の口から決定的な言葉ももらわないまま、彼を飛び越えて、祖母に破婚を申し出るのか――。

 言え、言うな。巴の中で目まぐるしく回転する。

 巴はたえきれず、視線を落とした。

「……何でもありません」

 そのまま、荒い動きで居間を後にした。祖母の鋭い詮索を受けたくなかった。

 言えなかった。

 部屋に戻ると脱力感にへたりこんだ。

 言えなかった、言えなかった。意気地なし、意気地なし。どんなに己をなじっても飽き足らない。

 未練がましいことこの上ない。自分の中にこんなみっともない部分があるとは思わなかった。

 頭の中がぐしゃぐしゃだった。

 やるべきことはわかっているのに、感情がそれをはばむ。

 こんなにも弱い自分を知りたくなかった。認めたくなかった。

 涙腺が緩んでいるのか、涙がにじみ出た。

 今日の自分はおかしい。心と体、思考と現実がうまく噛み合わない。バランスがとれない。その差異を涙で埋めることしかできない。

 この世の果てのように暗い部屋で、巴は声もなく涙を流した。

 自分を突き動かすのは何の感情なのか、なぜ涙を流しているのかもわからないまま、苦しさだけが胸を蝕んだ。

 この家の闇は暗すぎて、重すぎて、歯を喰いしばらなければ押しつぶされてしまいそうだった。


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