第1幕
めったに出さない高熱を出し、寝込んでいる間に冬休みが目前まで迫っていた。
立志院の冬休みは長い。それは全寮制という特殊な体系に基づくものだ。
長期休業を利用し、帰省する生徒が多いため、休みを長くとってあるのだ。
逆にゴールデンウィークや三連休等の中途半端な休みは潰され、その分長期休業にあてられる。
今年の冬休みは十二月十八日から一月の半ばまでの一ヶ月間だった。
娯楽があふれる“外界”に出られるということで、生徒たちはいつになく浮き足立っていた。
しかし、巴にとっては憂うつの原因でしかない。
「どうしたの? 浮かない顔してるねえ」
談話室で、早くもフライングで出された冬休みの宿題を片づけていると、芙美花が顔をのぞきこんできた。
向かい側の彼女はモスグリーンのマフラーを編んでいた。ちなみに赤いハートが織りこんである。
クリスマスにそれをおくられるであろう健一郎に、巴はひそかに同情した。
「いや……」
巴は適当に否定とも肯定ともとれない返事を返した。
終業式が近くなるごとに、心が重くなっていく。
冬休みに入り、巴にもたらされるのは解放感ではない。古賀家に帰らなければいけないという気鬱だった。
隅々まで手入れの行き届いた家には、およそ生活感というものが感じられない。わけのわからない息苦しさを感じた。
なにがなんでも帰るのが嫌だというわけではないが、積極的に帰りたいとは思わなかった。
「もしかして……お家に帰りたくない、とか?」
芙美花が顔色をうかがうようなしぐさで、そろそろと尋ねてくる。
彼女までに悟られるとは、自分の家嫌いもたいしたものだ。
巴はあえて答えないことで無言の内に肯定した。
芙美花はどことなく複雑な顔をしていた。
「……じゃあさ、うちに来る?」
突飛な提案に驚いて、外していた視線を戻せば、芙美花はにこにこと笑っている。
「うち、今年はお兄ちゃんも帰ってこないし、にぎやかな方が好きだから」
「お兄さんがいるのか……」
一人っ子の巴にとって、兄弟とは未知の存在だ。たいそういいものなのだろうと、根拠のないあこがれを持っていた。
「うん。少し歳の離れてて、社会人なんだけど、仕事の関係で帰ってこれないかもしれないって言ってた」
いかにもがっくりといった芙美花の様子は兄妹仲がよいことをうかがわせる。
典型的な“幸せな家庭”である桐原家に巴は興味を抱いた。
それでも巴は好奇心にすぎないその感情を追いやり、口を開いた。
「だが、年末で忙しいし、ご家族の方にご迷惑がかかるだろう?」
行きたいのは山々だ。家へ帰らなくていいならどこへでも行く。
帰りたくない。今年は特に。
しかし、プライドやら理念やらが邪魔をして、目の前に差し出された提案に一も二もなく飛びつくほど幼くも大人にもなれなかった。
「大丈夫! ご迷惑ってほどの家庭じゃないから」
ころころと笑った芙美花には何の暗さも無理をしている様子もなかった。
「巴」
唐突に背中からかけられた声に、振り向く。
休日の半日間の部活を終えて帰ってきた壮司が立っていた。
「お前、今年はどうする?」
言葉は省略されているが、巴には彼の言わんとしていることがわかった。
この学院に進学してから五年。長の休みには必ず壮司とともに帰省していた。
たいてい巴が剣道部の稽古納めを待って二人で帰った。
しかし、今年は去年までとは事情が違う。
二人で“仲良く”帰れはしない。
家まで二時間。夏までならなんてことなかった時間も、今はひたすら苦痛だ。
「……私は先に帰る」
この前、感情の昂ぶりに任せて、心の最奥にある感情までも洗いざらい吐き出してしまった。
体調が悪く、自制心が弱まっていたにしても、巴にとっては恥ずべきことだった。
いまさら、そんなことを壮司に言って何になるのだ。壮司を立ち止まらせて、こちらを見てほしいとでも言いたいのか。
もう彼を困惑させたくなかった。しかし、長時間二人きりでいたら、守れる自信はなかった。
「そうか」
すんなり退いた壮司にほっとし、同時に寂しくも思った。
「気をつけて帰れよ」
「ん……」
壮司からかけられた言葉は決して儀礼的なものではなかったのに、巴は生返事を返した。
壮司が自室へ戻ったのを確認すると、芙美花へ視線を戻した。
「芙美花、世話になってもいいか?」
巴が申し出ると、芙美花はどこかほうけていた顔を戻した。
「あ、うん。もちろんだよ」
とってつけた笑顔だったが、巴は了承の意を得られたことに安心した。
壮司がいないあの家は広くて寒すぎた。
―◆―◆―◆―◆―
学院から一時間。桐原家はよくある若い家族向けの新興住宅地にある。
ステレオタイプの家々が立ち並ぶ一角に、無個性な築十年の家はある。
終業式が終わったのは四日前だ。
立志院の帰省ラッシュを避け、バスと電車を乗り継いで帰ってきた。
いつもと違うのは巴がともにいることだった。
「ここだよ」
慣れない場所のためか巴は一歩後ろを歩いている。
芙美花が自宅の前で足を止めると巴はまじまじと家を見上げた。
そんなに凝視するほど価値がある家ではない。無難な色合いの、とりたてて大きくもない家だ。
芙美花は小さな門をくぐり、たてつけの悪い玄関を開いた。
「ただいまー」
ギギィと年季の入った音がして扉が開く。
小さい頃、芙美花と兄がこのドアでよく遊んでいたため、至るところに傷がついていた。
「お帰り、芙美ちゃん」
パタパタと軽快なスリッパの足音を鳴らし、母がキッチンから駆けてくる。栗色の巻毛が、忙しく肩で跳ねていた。
四十を過ぎてなお、十代の自分と変わらぬプロポーションを持つ母は、芙美花の自慢でもあった。
「こっちが古賀さんだよ」
帰る前に電話で話は通してあったが、芙美花は改めて巴を紹介した。
巴は流れるような動作で軽くお辞儀した。
「ご迷惑をおかけします。古賀 巴と申します。芙美花さんにはいつもお世話になっています」
折り目正しく巴があいさつしても、母は固まっていた。
芙美花もそんな母の様子を不審に思ったが、ほどなくその理由に行き当たる。
まるで自分が初めて巴を見たときのようだった。その整った容貌に圧倒され、こうして言葉を失ったのだ。
「お母さん」
芙美花が呼びかけると、夢から覚めたように、母の瞳に光が戻る。
「あ、古賀さんね。どうぞ上がって」
努めてにこやかなに母は言い、スリッパを巴に勧めた。
ちょっとしゃれた客用のスリッパの横には、長年はき慣れた、芙美花のスリッパもあった。
つま先ににんじんを持ったうさぎがついているスリッパは、少々子供っぽく恥ずかしかったが、家に帰ってきたという実感がこみあげてきた。
「ねぇ、芙美ちゃん。古賀さんってすごくきれいな子ね。お母さんびっくりしちゃった」
巴を先に部屋のある二階へ上がらせ、芙美花もそれに続いていると、母親から耳打ちされた。
音大卒の母の声は、いまだ鈴を振るようだ。残念ながら彼女の音楽的センスは受け継がれなかった。
「でしょ。学校でもすごいよ」
芙美花は少し誇らしげに答える。自分の友だちが誉められるのはうれしいものだ。
しかし、そのまばゆいばかりの美貌が彼女に益ばかりをもたらしたわけではなかったが。
「芙美花」
階段の上から巴が顔をのぞかせている。どれが芙美花の部屋だかわからなくて困っているのだろう。
「はーい。今行く」
芙美花は階段を一気に駆け上がった。
―◆―◆―◆―◆―
夜は鍋だった。
山奥の立志院では珍しくなかったが、芙美花の家がある平地では珍しい雪が降った。
今日のような冷え込んだ日に鍋はもってこいだ。
「古賀さん、遠慮せずにどうぞ」
いつもより小綺麗な母がにこにこと巴に鍋を勧める。
「はい、いただきます」
巴の顔にも心なしか微笑が浮かんでいた。
十二畳のリビングダイニング。四人がけのテーブルとソファーとテレビを置いてしまえば、もういっぱいだ。
広くはないが、家族の団らんにはちょうどいいと大きさだと思っていた。
「いやー、古賀さんみたいな美人がお友だちで、お父さんうれしいなぁ」
巴の向かい側に座る父は、鼻の下を伸ばしてデレデレしている。
この前会ったときより下腹部が張り出して、髪が薄くなったのは芙美花の気のせいだと思いたい。
「お父さん! 巴はお父さんのお友だちじゃないの」
芙美花はじとりとした視線を向け、父をたしなめた。
しょうもない父だが、巴に軽蔑されるのは、やはり悲しい。
おそるおそる巴の表情をうかがうと、巴は困ったように笑っていた。
母が客用の茶碗によそったご飯を巴の前に置く。
「いただきます」と礼儀正しく巴は手を合わせたものの、その後が続かない。巴は一向に鍋に箸をつけようとしなかった。
「もしかして鍋は嫌いだった?」
思わず不安になって尋ねる。同じく母も不安げな顔で巴を見つめている。
巴はわずかな間、視線をさまよわせた後、恥じ入るように小声で言った。
「……鍋を食べたことがなくて……」
父も母も驚きを隠せずにいたが、芙美花だけは妙に納得していた。
誰もが一度ぐらいは食べたことのある、冬の定番メニューである鍋だが、あれは和気あいあいと食べるのがふさわしい。
巴の家がどういう家族構成かは知らない。が、仮にあの厳格な祖母が同居しているのなら、なごやかさとは無縁だろう。
「普通にお箸つけて、好きなやつとってもらって大丈夫だよ」
食べ方がわからない巴に助け船を出して、自分も食べて見せる。
やがて巴もおずおずと箸を伸ばし始めた。
前々から思っていたが、巴の食べ方はきれいだ。豆腐も絶妙な箸使いで難なくとる。
改めて芙美花も、そして両親もその優雅な所作に見とれた。
「……何か?」
三人の視線を受けて、巴が居心地の悪そうに顔を上げる。初めて食べる鍋に、何か不作法でもあったのかと、瞳が揺れている。
「何でもないよ。どんどん食べよ」
明るさを装い、自分の取り皿にどんどん具を追加する。
寮生活の身に鍋は久しぶりだ。どんどん箸が進む。
ほどなく鍋は空っぽになった。
巴には沸きたての風呂に入ってもらうことにして、芙美花は両親と三人で家族水入らずの時間を過ごすことにした。
「なぁ、芙美。お前古賀さんに迷惑とかかけてんじゃないか?」
缶ビールをちびちびと飲みながら、父が思案げな顔をして尋ねてきた。
テレビからはお笑い番組の笑い声が流れている。
「……うん、かけてると思う」
事実なので、芙美花はためらいつつもおとなしく認めた。
「だよなぁ。いかにも優秀そうなお嬢さんだよなぁ」
父はひとりでに納得して、腕を組みうんうんとうなずいている。
「ねぇ、芙美ちゃん。健一郎くんは元気?」
洗い物を終えた母が、エプロンで手をぬぐいながらリビングの方へやってくる。
その母に芙美花は笑顔を返した。
「元気だよ。一緒に生徒会やってる」
健一郎と芙美花の仲は家族公認だ。いや、家族のみならずご近所までにも知れ渡っている。
貢家はここから徒歩三分ぐらいのところにあるのだ。
「あら、芙美ちゃん。生徒会なんてやってたの」
「あれ? 話してなかったっけ」
そういえば、ここしばらく忙しさにかまけて電話もろくにかけてなかった気がする。前にかけたのがいつだが思い出せない。
「古賀さんは生徒会のお友だちかしら?」
「そうだよ。副会長やってるの」
母がハーブティーを芙美花と自身の二人分を机に置いた。
多趣味な母のことだ。このハーブティーのハーブも自家栽培のものだろう。
「頭もいいし、仕事もできるよ」
芙美花が巴を褒め称えると、父が「おまけに美人だし」とつけ加えた。
「芙美。昔はお母さんもなぁ」
そしてお決まりの昔話に突入する。
父はこの歳になっても母にぞっこんだ。
母がどんなに高嶺の花だったか、どんなにもてたかを切々と語るのだ。
この話は長い。しかも終えた後には何ともいえない甘い空気がただよい、芙美花は居場所に困るのだ。
「えっと、宿題やらなくちゃ!」
久々の再会だ。最後まで聞いてやりたい気もするが、芙美花は逃げることを選んだ。
母が「もう少し芙美ちゃんとお話したいわ」と言っているのが聞こえたが、芙美花は構わず、リビングを後にした。
話など、この長い休みの間にいくらでもできる。
それより芙美花にとって、あのいたたまれない空気の中にいることこそ、回避すべき問題だった。
―◆―◆―◆―◆―
帰省の疲れか、芙美花の部屋に布団を敷き、早く床についた。
芙美花は自身のベッドに横たわり、巴は客用の上等な布団にもぐる。
「おやすみ〜」と芙美花に言われ、「おやすみ」と返す。ほどなく照明が消え、室内は暗くなった。
桐原家では闇すらやわらかく感じる。
芙美花を育んできたこの家。予想通り、彼女の両親はおひとよしを体現したかのような好人物であった。
巴はこの家で驚きの連続だった。
皆でひとつの料理をつつきあい、食事中も楽しげに会話をする。
それまで巴は家庭内の食事は無言で粛々と進むものだとばかり思っていた。古賀家の基準で考えていた。
作法的には古賀家の方が正しいのかもしれない。しかし、くだけた雰囲気でとる食事はいつもより数段おいしかった。
作物を育てる土壌のように、桐原家の温かさが、芙美花に大きな影響を与えている。
この家が彼女そのもののようだった。
「……巴」
少し上のベッドから芙美花の声が降りてくる。
「何?」
巴は即座に返事を返した。
体は疲れているが、初めての環境に興奮して、目は冴えていた。
外の雪はいつのまにか雨になっていた。
「立ち入ったこと聞くけど……許婚でなくなることはできないの?」
雨が一瞬止んだかのように雨音が遠くなり、芙美花の問いかけだけが強調される。
「無理だな」
決して芙美花が興味本位で聞いてきたわけでないとわかっている。
それでも巴は反論の余地もないほどきっぱりと断じた。
芙美花の言っていることは、単に許婚を止めるということではない。
許婚を止め、家もしがらみも取り払ったありのままの二人に戻るということなのだ。
「壮司にはできない」
古賀家の後を継ぐ。
恋をしても彼の根幹をなす部分は変わらなかった。
仮に恋と家の二択を迫られたなら、彼は恋を捨てるだろう。
それは芙美花にそれだけの魅力がないというわけではない。他の誰に恋をしようとも、壮司は揺るがない。
「許婚はやめる。やめるしかないからな。だがそれによって壮司が自由になるわけではない」
すらすらとセリフが口をつく。
ここまでわかっているのに、どうしてあきらめきれないのか。
中途半端に逃げているだけで、何の決着もつけていない。
甘えてすがって、同情してくださいといわんばかりの態度で壮司にすりより――媚びているようで、そんな自分に嫌悪感を禁じえなかった。
芙美花との間に沈黙が降りる。不意に雨の音が大きくなる。
布団から出る顔に、冷気がつきささった。
「……これからも不動くんだけなの?」
雨に溶けてしまいそうな小さな問いかけに、巴は淀みなく答えた。
「たぶんな」
たぶんという不明瞭な言葉を選んでも、どうしようもなくなっていた。
届きそうなところに壮司の背中がある。
他人の力によるものでも、かつてはその背中をつかんでいた。
彼の心は伴わずとも、その隣は自分の場所だった。
一度、手に入れてしまっただけに、他の誰かがその隣に収まるのは我慢できなかった。そこは自分の居場所だと、声を上げて主張したくなった。
そんな資格はないのに、彼をとどめておくためなら手段をいとわないかもしれない自分はどうしようもない。
先のない恋におかしくなりそうだった。
いっそのこと、おかしくなって、狂って、壮司を困らせて、許婚のきっちりした枠を粉々に砕いて、一線を越えてしまいたいとも思った。
それでも、自立したい――理性と欲望が相克し、結局いつも理性が少しだけ勝つ。
いつまでもつだろうか。不安定なまま、どこまで歩いていけるだろう。
熱くなった思考を冷ますように、深く息を吐く。
ふと、顔の真横に気配を感じた。視線だけ動かすとベッドのへりから芙美花の腕がぶらさがっていた。
苦笑しながらその手を握る。かなり不自然な体勢だが、芙美花はすぐに握り返してきた。
体温が低い自分と、冬でも熱いくらいの芙美花の手でちょうどよい温かさになる。
煮つまっていた考えが嘘のように引いていく。
巴はゆっくり目を閉じ、忍びよる睡魔に身を委ねた。