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かざす花  作者: ななえ
第5章
28/68

幕間

 壮司が訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。

 夜、部屋で課題を片づけていると、彼からメールが入った。

 部屋の前にいる。話したいことがあるから時間をくれないか、と几帳面な文体が芙美花の携帯画面に並んでいた。

 芙美花はベッドで浅い息を繰り返す巴に目を向けた。

 壮司とともに帰ってきたあの日の夜から、巴は高熱を出して動くこともままならない状態だ。依然として芙美花の部屋で彼女を預かっている。

 なので、彼女の容態を聞きにきたのかと思えばそうではなかった。

「不動くん、どうしたの?」

 メールの内容通り、壮司が部屋を出たところで待っていた。

「急に呼び出して悪かったな」

 どういう心境の変化があったのかは知らないが、あの日を境に壮司は落ち着いた。あるべきものがあるべきところへ戻ったかのような気がした。

 彼は今も軽く微笑んですらいる。少し前までは見られなかった大人びた顔で。

 壮司は廊下での立ち話をよしとせず、芙美花を談話室へ誘った。

 自身はコーヒーを買い、芙美花にはココアをおごってくれた。

 紙コップから立ち上る湯気を間に挟みながら、向かい合って座る。

「……」

 しばらく無言の時間が流れる。

 ただ、気づまりなものではなかった。何故か必要なものに思えた。

「……桐原」

 プラスチックのスプーンでコーヒーをかき混ぜていた手が止まる。

 波立つ黒い水面から、壮司の瞳が芙美花へ向いた。

「お前が好きだ」

 気後れするような強い視線に芙美花は動けなくなる。呼吸すら止まりそうだった。

「……どうして?」

 野暮だとわかりつつも、率直な感想を言った。

 飾らないストレートな告白は何を求めてのことなのか。この期に及んで壮司が恋の成就を望んでいるとは思えなかった。

 現に以前、健一郎と芙美花の仲をどうこうする気はないと宣言していた。

 何故今になって、という疑問が芙美花の首をもたげた。

「けじめを、つけたいのかもしれない」

「けじめ……?」

 芙美花の反復に、壮司は静かにうなずいた。

 何のためか、と問う前に、芙美花の脳裏に巴の残像がよぎる。

「巴のため?」

 壮司は少しの逡巡もなく「いや、己のためだ」と重々しく否定した。

 壮司は朴訥としていて、多くを語らないが、何となく芙美花にも彼の意図がわかってきた。

 壮司は巴と本気で向き合うつもりなのだ。

 そのために芙美花への恋心を断ち切っておく必要があったのだ。

 だから玉砕を承知の上、想いを伝えるのに踏み切ったのだろう。

 いかにもまじめな彼らしい。

「俺の身勝手な感情につきあわせて悪いな」

 そのまま壮司が頭を下げそうな勢いだったので「いいよ、いいから!」とあわててわめいた。

 傾けた頭を上げた壮司の目に、思いの外真剣な色が見てとれて、芙美花は息を飲む。

「返事を聞かせてくれ」

 射とめるような眼光と、受け流すことも、はぐらかすことも許されないまっすぐな声。

 真摯な姿勢には真摯な態度で返さねばならないと思った。

「ごめんなさい」

 視線をそらしたい衝動にかられるが、芙美花はそのまま壮司と目を合わせ続けた。

 それが芙美花にできる、せめてもの誠意の表し方だった。

 短い間、視線を交差させ、先に外したのは壮司だった。

「……そうか。いろいろと迷惑をかけた」

 息をつきつつ、壮司が仕方ないなという具合に笑んだ。

 言葉にも、表情にも諦観が見てとれる。

 やはり芙美花の思った通りだった。壮司はあっさりと引き下がり、未練も何もなさそうであった。

 壮司が求めたのは、恋愛が突出した心を、なだらかにならすことだったのだ。

「それと、こんなときに悪いんだが……」

 壮司はひどく言いづらそうに口を動かした。

 そしてガサガサと音を立てて取り出したのは、ビニール袋だった。適度な膨らみがあり、中にはパンやら菓子やらジュースやらが入っているようだ。購買で買ったのだろう。

「これ、巴に渡してくれねえか? あいつ、好きだから……」

 一世一代の告白の場面に他の女へあげるものを持ってくる。

 決して誉められた行いではないが、無神経だと罵る気持ちはわいてこなかった。

 むしろ壮司らしいと苦笑した。

「うん、いいよ」

 袋を受け取るために、手を伸ばす。沸き上がる感情のままに芙美花は薄く笑った。

 壮司はわかっているのだろうか。

 彼は巴の好物は知っていても、芙美花の好物は知らない。おそらく知る気もないのだろうと。

 好きなものを知っている。それがどれほど大切だということを。

 ビニール袋が壮司の手から芙美花に渡る。

 そうして奇妙な愛の告白は幕を閉じた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「不動 壮司。停学一週間を言い渡す」

 壁には風景画が飾られ、足裏には毛足の長い絨毯の存在を感じる。

 磨き上げられた机の前に立ち、壮司はその宣告を聞いた。

 その机の上に組んだ手を置いて座るのは校長だ。

 いつもはしまりのない、平和ボケした顔をしているが、今日ばかりは意義を正していた。

「はい」

 それ以外に答えようがなくて、神妙に答える。

 素直な壮司の返事に満足してか、濁った眼球が隣の隆人へ向いた。

「猪野 隆人。同じく停学二日を言い渡す」

「……はい」

 顔中にあざやらすり傷やらを作った隆人が、消え入りそうな声で応じる。

 どう見ても隆人が一方的にやられたという様相だが、高校は基本的に喧嘩両成敗の理念を掲げている。隆人も手を出したという事実がある以上、何らかの処分は与えねばならない。

 壮司にとっては停学でありがたかった。反省文よりはずっといい。

「二度とこのようなことは起こさないように」

 常套句である戒めの言葉で釘をさされ、壮司も厳粛な気分でそれを受けとめた。

 今回、問題を起こしたことで、立志院から支給される奨学金はもちろん取り消された。

 壮司の成績では施設費の免除くらいであったが、それでもないよりはマシだ。

 自分の愚行で古賀家に余計な負担をかけるのは避けたかった。

 去り際の祖母の瞳は“立場をわきまえろ”と訴えていた。壮司は憑きものを落とされたかのようだった。

 壮司はこの人並みに穏やかな生活で、自らの立ち位置を忘れかけていた。

 立志院の中では、自分はありふれた一生徒に過ぎなかった。そこには“古賀家の居候”だという肩書きはなかった。何の差別もなかった。すべては対等であった。

 いつしかこのぬるま湯のような平穏に飼い馴らされていたのだ。

 祖母と久々に会い、壮司は改めて認識しなおした。

 自分は高校に行かせてもらっているのだと。古賀家に養ってもらっているのだと。

 それ以上でもそれ以下でもない、それだけの存在。

 母は長く病床におり、精神を病んで過去ばかりを回顧している。今を生きる息子のことなど、逆走する彼女の世界には存在していなかった。母を捨てた父の存在など、もはやおぼろげだ。

 壮司には幸せを願ってくれる絶対的な存在はいない。

 ――壮司。

 耳によくなじんだ声がよみがえる。

 整然とはしているが、温度がない古賀家の中で巴だけが色を持っていた。

 救われていたのかもしれない、と思う。無論物理的にではない、精神的にだ。

 壮司は拳を固めた。

「すみませんでした。以後このようなことがなきよう努めます」

 理由は何であれ、奨学生の身で恩を仇で返すまねをしてしまった。

 壮司はそのことに対し、謝罪した。

 壮司をたいそう反抗的な生徒だと想像していたのか、校長はたじろいだ。

 おかけで小言を食らわずに済み、そのまま隆人とともに解放された。

「……いいんですか?」

 校長室を出たところで隆人が唐突に尋ねてくる。

「何だよ」

 壮司は隆人への悪感情を隠しもせずに返した。

 隆人は相変わらず覇気のない瞳で見上げてくる。

「……僕のやったことを言わなくていいんですか?」

 彼の瞳に宿る弱い光が、どうして言わなかったのか、と訴えていた。

 壮司は隆人に暴力を振るった理由についてとうとう口を割らなかった。言えば情状酌量の余地が生まれるのはわかっていた。

 しかし、あえてしなかった。

「勘違いすんな。お前のためじゃねえよ」

 理由を話せば、隆人は間違えなく退学だろう。壮司にも彼がそうなって当然だと思う気持ちはある。

 しかし、理由を話すということは巴が受けた行為も話すということだ。

 壮司はこれ以上、巴が下世話な噂話や、好奇の目にさらされるのは耐え難かった。

「……僕がまた古賀先輩に手を出したらどうするつもりなんですか」

 傷だらけで、見るも無残な隆人の顔は変わらず無表情だった。

 何を考えているか読みにくいったらない。変に怖いもの知らずなのだ。

「やってみろよ」

 壮司は剣呑な光を目の奥にちらつかせた。

 やれるものならやってみればいい。二度目はないと思え――。

 無言で圧力をかけ、隆人に背を向けて、その場を去った。

 次はどんなことをしてでも巴の前から消す。

 上辺は暴発しそうなほど熱いのに、心の奥底は冴々としている。

 壮司は自分にこんなにも凶暴な感情が眠っているとは知らなかった。

 雪を含んだ風が窓ガラスにあたり、ガタガタと音をたてていた。

 足を止めて、ガラスごしに空を仰ぐ。

 過ぎていく雲の動きは早かった。


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