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かざす花  作者: ななえ
第5章
27/68

第7幕

 その翌日も巴は学校を休んだ。

 身体中の打撲の痛みは今日がピークであり、まだ頬が腫れている顔は他人に見せられるものではなかった。

 体調もかんばしくなく、相変わらず発熱が続いていた。

 喉に渇きを覚えてゆっくりとまぶたを上げる。

 薄手のカーテンを通した日光は、すでに淡く色づいていた。

 いったい何時間寝ていたのだろう、とだるい体を起こす。芯からわきあがってくるような頭痛にかぶりをふった。

 熱でうるんだ瞳をサイドテーブルに向ければ、たくさんのスポーツドリンクとともにおにぎりがおいてあった。

 ラップに包まれたそれは、ひどく不恰好だった。芙美花のお手製だろう。

 食欲はないが、食べなくては治るものも治らない。芙美花の部屋でいつまでも世話になっているわけにもいかない。

 巴がおにぎりのラップに手をかけたとき、かたわらの携帯に着信が入った。

 メールか、と思ったが、背面のライトは光り続けている。巴は通話ボタンを押した。

「はい」

『もしもし?』

 スピーカーからもれでる声は健一郎のものだった。

「貢? どうした」

 彼からの電話とは珍しい。何かあったのかと聞き返しても、健一郎はすぐには答えなかった。

『古賀。落ち着いて聞けよ』

「? ああ」

 巴は思わず怪訝な声をあげた。嫌な予感のする前置きだ。

 健一郎は自らを落ち着かせるためか、一拍置いてから話し始めた。

『不動が後輩に暴力を振るいやがった』

「……何かの間違えじゃないか?」

 気がついたときにはその言葉が口をついていた。

 壮司は他人を無闇に殴るほど暗愚ではないはずだ。それが下級生相手ならなおさらだ。

 壮司がえらく正義感に凝り固まった人物なのは周知の事実だ。

『嘘じゃねえ。猪野 隆人。ここまで言えばわかるだろ?』

「……」

 巴は息を飲んだ。

 猪野 隆人――。

 巴にとっては顔も見たくない男。

 壮司の正義感は隆人を成敗する方向へ向かったということだ。

「まさか話したのか。壮司に……」

 巴はかすかに非難の意を込め、問いただした。

『言ってねえよ。ただ猪野は剣道部だ。どこから知れても不思議じゃねえ』

 今はどこから漏れたかを追及するのが先決ではない。

 巴はみっともなく動揺する心を鎮めようと、深呼吸した。

「それで、壮司は?」

 健一郎まで知ってるということは、壮司の暴力行為はかなり広範囲に露見しているということだ。

 何の処分もないはずがない。

『生徒指導室に呼ばれてる』

 その返答を聞いた瞬間、電話を切った。

 すぐさまベッドから降りる。その際に生じためまいなど無視だ。

 寝間着にしている浴衣の帯を解く。布地が肌を滑って床に落ちた。

 その代わりにきちんとたたんである制服を手にとる。

 最低限の身なりを整えると、飛び出すように部屋を出た。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 勢いよく生徒会室の扉が開かれ、芙美花と健一郎は弾かれるようにそちらを見た。

 巴が珍しく息を切らし、そこに立っていた。

「巴!」

 芙美花はすばやく駆けよる。

 単に走って息が上がっただけではなく、巴は苦しそうだった。具合がよくないのに無理をしているからだ。

「大丈夫っ? とにかく座って」

 肩を抱きながら、椅子に座らせる。

 よほどあわてて出てきたのか、巴は一切防寒具はつけていなかった。

 椅子に落ち着いたその背中に、芙美花は自分のコートをはおらせる。

「……壮司は?」

 巴は荒い呼吸を繰り返しながら、健一郎に問いかける。

「……電話で言った通りだよ。生徒会室で事情聴取中」

「あの馬鹿が……」

 巴は深いため息をついた。

 壮司の立場は圧倒的に悪い。

 聞いた話によると、相手に反撃を許さず、壮司が一方的に痛めつけたそうだ。分別を失った彼は、見回りの教師によって発見され、三人がかりで押さえ込まれたというのだからすさまじい。

 彼の怒り狂った理由を知っている芙美花にとっては、壮司の行動は至極まっとうだった。激怒せずにいられる方がおかしい。

 しかし、壮司は教師に何を聞かれても、凶行に及んだ動機はおそらく話さない。その姿は教師の目にたいそう反抗的に映るのは目に見えていた。

 生徒の見本たるべき生徒会長であること。上級生であること。武道をたしなむ者であること。相手より剣道の段位が上であること。

 すべては壮司に不利なように働いていた。

「……悪くすれば無期停で生徒会長更迭か」

 こんなときまで冷静に、巴は処罰の程度を推定した。

 平和な反面、退屈なのがこの学校の特徴だ。壮司のおこした大事件をおもしろおかしく吹聴して回る人物には事欠かない。

 この出来事はすでに今朝には爆発的な勢いで学院中に広まっていた。

 多くの生徒が知るところとなった以上、何らかの罰は与えなくてはならない。教師陣は当事者二人を放課後呼び出した。

 そうして自分たちはいてもたってもいられなくなり、生徒会室に集まった。

「悪い。もっと注意して見とくべきだったな……」

 健一郎が殊勝に詫びる。

 巴は「いや……」と首を振る。振るが、その後の言葉はなかった。誰が悪いなどと不毛な問答する気にはなれないのだろう。

 重い沈黙が落ちる。それを打破したのは、新たな人物がドアを開いた音だった。

 それは待ちわびていた人物の登場を告げるものだった。壮司にメールしておいたのだ。

 彼は教師たちから解放された後、律儀にもそのメールに従い、こうしてやってきた。

 噂は本当だったようで、壮司にはかすり傷ひとつない。

 芙美花がどうだった? と尋ねる前に、かたわらの巴が立ち上がる。

 その怒りを滲ませた横顔があまりに綺麗で、芙美花は制止するのも忘れてしまった。

 つかつかと壮司に歩みよった彼女は、迷いなく腕を振り上げる。

 直後、乾いた音が室内に響く。巴の平手が壮司の頬で炸裂した。

「誰が……誰がこんなことをしろと頼んだっ!!」

 巴の怒号が部屋の空気を一瞬にして硬質なものに変えた。

「お前はもう私の許婚でも何でもないっ! なぜ余計なことをするっ!?」

 巴の剣幕に気圧され、芙美花は動けなかった。

 彼らの事情を知らなかった健一郎は目を見開いて驚きに耐えている。

 壮司はただ巴のなすがままになっていた。

 胸ぐらをつかまれ、烈火のごとき巴の怒りを無言で享受していた。

 思えば、巴がこのように激昂するのは初めてだった。

 彼女の激怒は炎は炎でも青白く高温で、どこか冷たさを感じさせるものだった。

 しかし、今は紅蓮の炎だ。その身すら焼き尽くしそうな業火にこちらまであぶられてしまいそうだった。

「……悪かった」

 壮司の謝罪が夕刻の室内に染み入る。

 空気の強ばりがゆっくりと解けていった。

 巴の腕から力が抜けていき、壮司の胸元から手を離す。

「……お前は馬鹿だ。ここまで馬鹿だとは思わなかった」

 そうつぶやいた巴に、一瞬だけ泣きそうな顔がかいまみえて、芙美花は驚く。

 まばたきするような刹那。本当に短い間のことだった。

 巴はそれを隠すためか、うつむき加減に壮司から顔をそらした。

 再び静寂が降りおちる前に、放送のチャイムが鳴り響く。

『二年一組、不動 壮司。至急生徒指導室まで――……』

 その放送を壮司は眉ひとつ動かすことなく聞いていた。

 放送が終わるのを待って、芙美花は口を開く。

「先生たちと話が終わったわけじゃなかったの?」

「職員会議だからって一時的に解放してもらっただけだ」

 めったにない暴力沙汰だ。教師たちもとまどっているのだろう。会議に会議を重ね、慎重に処罰を下す腹づもりなのだ。

「行ってくる……迷惑をかけてすまん」

 壮司の全体に向けての謝罪に、深刻な空気がぐっと重くなる。

 壮司の処分によっては、任期半ばにしてトップが代わるという事態もありえるのだ。生徒会の危機でもあった。

 複雑な心中で壮司の背を見送っていると、ドアを開けた壮司の動きが止まった。

「………」

 見えるのは背中だけで表情はうかがい知れない。けれどもひどく驚いているようだった。

「……お祖母さま?」

 壮司の驚きを代弁したような、巴の声がドアの外へ投げかけられる。

 芙美花も目をこらした。

「ここへいると先生からおうかがいしましたので」

 そこにいたのは初老の女性だった。

 今どき珍しい和服を品よく着こなし、灰色の髪を一分の隙もなく結いあげている。

 往年の美貌が忍ばれる顔は巴とよく似ていた。

 おそらく、壮司と――いとこ同士なので、巴の祖母であろう。学校側が保護者として呼び出したのだ。

 険しい視線をぴくりとも動かさず、その老女は壮司を見据えた。

「壮司さん。下級生に暴力を振るうとは何事ですか」

 端々に厳格さがにじみ出ているような言葉だ。口調は静かなのに、一語一句が重くのしかかる。

「お祖母さま、違います! 壮司は――」

「巴さん、お控えなさい」

「――っ」

 鋭さを秘めた視線で射ぬかれ、あの巴が目に見えてひるむ。

 その威圧感に誰もが身をすくませた。

「いかなることがあっても手を出すのは愚か者のすることです」

 言い口は丁寧で端的だ。なのに、心臓を握られているような気分になる。

「……申し訳ありませんでした」

 壮司がその大きな体を折る。

 一切抗弁もしない。いさぎよいといえばそうだが、従属の方がしっくりくる。

 血がつながった肉親だというのに、巴と壮司の瞳には祖母に対する畏怖が色濃く表れていた。

 巴は生徒指導室へ歩いていく彼らの背中を凝視している。

 彼女が叱責されたわけではないのに、子供のようにしゅんとした顔を向けていた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「あの二人は許婚だったんだって」

 雪の降る道を二人で歩く。

 除雪された道の上に、夕方から振り出した雪が新たに積もっていた。

 今日は剣道部の活動がない水曜日だ。ひとりにして欲しいと全身で訴える巴を生徒会室に残し、二人で帰路についた。

 新雪の上に二人分の足跡が残る。

「後の詳しいことは何も知らない」

 サクサクサクサク。足と雪の間で音が鳴る。

 しばらくその音だけが響いていたが、不意に健一郎が「いいなずけ……」と反駁した。

「マジで?」

「うん」

 健一郎は彼らに事情があるのを薄々とは感じとっていながらも、信じがたいという顔をさらしていた。

無理もない。最初は芙美花だってやすやすとは信じられなかった。

 しかし、考えてみれば、彼らの関係は実によく“許婚”に当てはまった。

 恋人というには甘くなく、友人というには親しすぎた。親密なわりには変なところで遠慮をした。時折らしくないためらいが見えた。

 それは許婚という微妙な距離感がとらせた行動だったのだ。

「ちょっと待て、待てよ」 健一郎は混乱を落ち着けるように、一点を凝視していた。

「普通に許婚許婚って言うけど、おかしいだろ」

 それは芙美花も持っていた思いだった。一般的な観点でもまっとうな意見だろう。

「不動のこと好きな古賀はともかく、何で不動がそんなのに従ってんだよ」

 家の都合はあれど、壮司が従順に言いなりになっているのは異常だった。

「あの人……」

「は?」

 健一郎は要領を得ずに聞き返したが、芙美花の中では疑問が明確な答えの形をとってきていた。

「“お祖母さま”」

 そう芙美花がつぶやくと、健一郎はハッとした顔をした。

 彼らにただよう雰囲気は明らかに並みの家庭とは一線を画していた。どこか他人行儀で殺伐とさえしていた。

 抑圧の権化のような祖母の前で、二人はあまりにも無力だった。

「すると不動はおとなしく従ってんのかよ。情けねえの」

 彼らには彼らの事情がある。芙美花は「健さん」ととがめた。

 健一郎はライバルとも言える壮司に気骨がないのが悔しいようだった。

 一概に壮司が悪いとは言えないが、確かに正しいあり方だとは思えなかった。

 純粋に驚いた。あの壮司が人並みの反抗心も抱かずに服従している。巴の方がまだ理不尽な境遇に対する憤りを持っていた。

 もっと質が悪いのは、壮司が自分の置かれている状況を当然として受け入れていることだ。

 あの短いやりとりだけでも、それを察するのにはあまりあるほどだった。

「悪いけど、俺には理解できねえよ」

 健一郎が嘆息した。

 芙美花にも何が巴と壮司をそうさせるのかわからなかった。

 自我を殺して生きていくのに、何の意義があるというのだろう。

 しかし、巴の腫れた頬を見て、何も言わないような家庭に、常識を求めることは無駄なのだと思った。

 芙美花はやりきれなくなって、視線を遠くに投げる。

 雪が絶え間なく降り続き、まともな神経すら、その圧倒的な質量の中に押し込めてしまいそうだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 処分は明日以降に持ち越しとなり、ひとまず壮司は解放された。

 壮司は何を聞かれても、たとえ祖母に促されても、貝のように口を閉ざし続けた。

 教師陣は頑なな壮司に辟易し、とりあえず今日は散会となったのだ。

『正義を暴力にすげかえた時点で、あなたの行為は間違っています』

 別れ際、いつになくはっきりと祖母は非難の言葉を向けた。

 おそらく祖母は巴のケガから、おおよそのことは推測済みだろう。祖母は怪物じみた洞察力を持っているのだ。

 その言葉は、壮司を深く貫いた。

 頭に血が上って、後先を考えていなかった。暴力を暴力で返す、誤った方法をとってしまった。

 しかし、もしあの場面に戻ったとしても、自分は同じことをするだろう。むしろもっと苛烈な暴力を与えるかもしれない。

 巴の腫れ上がった頬を見た瞬間、壮司は血が逆流するのを感じた。女に手を上げる男など最低だ。

 それが巴に向けられたものならなおさらだ。半殺しにしても飽き足らない。

 彼女の意志に反して、体を手に入れようとしたこと。そして――壮司の推測に過ぎないが、抵抗した彼女を暴力でねじ伏せたこと。

 許せなかった。今でもまだはらわたが煮えくりかえっている。

 行き場のない思いを持てあましながら、生徒会室のドアを開ける。自分の荷物をとりにきたのだ。

 室内の人影に、壮司は瞠目した。

「巴……?」

 暖房も電気もつけないで、巴が椅子に座っていた。

 室内は薄暗くて寒く、息が白くなりそうだった。

「お前、暖房くらいつけろ。風邪ひいたらどうする」

 先ほど怒鳴られてビンタをされ、多少の気まずさはある。それ以前に自分たちは決裂状態にある。

 決まり悪さを払拭するように、壮司は普段通りを心がけた。

 壮司が証明と暖房をつけても、巴は無反応だった。床を睨みつけている。

 壮司は息をつき、巴と向かいあうように座った。

 こうして顔をつきあわせるのは久々だ。

 壮司はほぼ無意識に、痛々しく腫れた巴の頬に手を伸ばした。

「――っ」

 指先が触れる寸前で、巴がびくりと体を震わせて、身を退く。

 その目には怯えの色が走っていた。しかし、即座に後悔がそれを打ち消す。

「……ごめん」

 巴がばつの悪そうにうつむく。壮司は「いや……」と言葉を濁した。

 男に襲われて殴られては、さわられるのを恐がっても仕方ない。隆人とひとくくりにされるのは不本意だが、壮司も男という意味では同類だ。

「痛むか?」

 壮司はなるべく静かな声で尋ねた。本当はもっと優しくしたいが、どうしたらいいかわからない。

 巴の柳眉がぎゅっと寄る。不器用な壮司にいらついているのかと思ったが、発せられた言葉はそうではなかった。

「私にもう一切構うな」

 絶句している壮司をよそに、巴は強い調子で続けた。

「私ももうこのようなことはないように気をつける。だからお前も私のことは何も気にしなくていい」

 ずいぶん無茶な要求だった。

 これからのことを考えれば、その方がいいのはわかっている。彼女から離れるべきだ。

 だが、自分たちの間には十四年の歳月が鎮座している。

 それをいきなり無に帰すことはできなかった。

「お前が気をつけることじゃない! 男の方が悪いんだ!!」

 いきりたった壮司に、巴は首を振って否定する。

「私が彼をむやみに挑発した。今回はこれで済んだが……」

「これでって、お前猪野に――」

 どこがこれでなのか。隆人にむりやり抱かれたのではないのか。

 合点がいかない壮司に、巴は訝しげに首をひねった。

「猪野から何を聞いた?」

「……その、お前を抱いた、と……」

 ひどく言いづらくて、視線が宙をさまよう。

 どうやら齟齬が生じていたようだ。巴が呆れた顔をする。

「抱かれてなどいない。押し倒されはしたが、すんでのところで貢に助けてもらった」

 まったく。口車に乗せられおって、と巴が苦々しげにつけたした。

 安心した。よかったと脱力した。

 見当違いで突っ走った自分が急に恥ずかしくなり「あー……」と頭をかく。もっとも壮司にとっては、未遂でも万死に値したが。

「もう大丈夫か? あれから何もされてないか?」

 ごまかすように言葉を継ぐが、まんざらその場しのぎの言葉というわけではない。

 心配はしている。とても、すごく。

 しかし、それを口に出すのははばかられるのだ。

 あんなひどい振り方をしておいて、いまさらという気がしてならない。

 償いに急ごしらえの優しさをとってつけているようで嫌だった。

「……帰る」

 巴がおもむろに立ちあがり、一直線にドアへ歩く。

「おい!? 巴!」

 壮司も立ち、あわててその手首をつかんだ。その瞬間に制服がずれて、手首のあざがあらわになる。

 巴がハッとして瞬時に手を引いた。壮司も捕まえておくような真似はしなかった。

 おそらく隆人につけられたのだろう。腹は立つが、それより驚いたのはその細さだった。

「……お前、ちゃんと食ってんのか?」

 壮司の手にはあまるほどの細い腕。

 巴は痩せた。それは隆人のせいばかりではないだろう。

「……さい」

「あ?」

「うるさいと言っている!」

 体は弱っても、元来の烈しさは健在だった。

 背を向けていた体をひるがえし、思いきり罵倒してくる。

 その勢いに気圧され、壮司は目をまたたいた。

 巴は口角を上げ、不敵に微笑んでくる。

「壮司、教えてやろうか! お前はかわいそうだと同情している女はな――」

 歪んだ愉悦を解き放ち、巴が敢然と言い放つ。

「私のためにお前が怒るのを喜んでいる! お前の純粋な心配をどうしようもなくうれしく思っている!!」

 漆黒の瞳には濡れたような輝きが宿っていた。

 困惑、罪悪感、抗いようのない快感。それらをごちゃまぜにして、巴は見つめてくる。

 感情の奔流に飲まれないように、彼女が奥歯を噛んだのがわかった。

「……そんな、汚い女だ。私は……」

 肩を落とした巴は泣き出しそうだった。

「……お前の感情をもてあそぶ、どうしようもない女だ」

 こんな弱気の巴は初めて見た。

 壮司は巴を逆光すらはね返すような強靭な精神を持っていると思っていた。

 しかし、そんな面影は今、どこにもない。

 壮司の前にいるのは、ひどく脆く、繊細な少女だった。

「……医者は子供を望める可能性は五パーセントだと言った」

 罪を告白するかのように、巴は話し始める。

 突拍子のない話にも、壮司は黙って耳を傾けた。そうするしかできなかった。

「私はその五パーセントにかける気概もなかった」

 拳を握り、床をにらみつけながらも、巴の瞳は揺れた。

 ついに涙がこぼれ、床へ落ちていく。

「お前を愛していると思いながらも、自分が苦痛に耐えるのは嫌だった。お前とともにがんばっていこうとは思えなかった!」

 大粒の涙がとめどなく流れ、頬に幾筋もの跡をつける。

 それに伴い、巴の口調は熱を帯びた。

「お前にすべてを押しつけて、私ひとり……っ」

 胸をつく荒い息に耐えきれなくなり、巴が強制的に言葉を切る。

 先に動いたのは、思考か体か。

「もういい!」

 壮司は手荒く巴を引き寄せ、その身をかき抱く。

 加減もせずに、きつく細い体を抱きしめた。

「もういい……」

 雪の降りしきる音まで聞こえそうな静寂に、自分のつぶやきだけがしみ渡る。

 どうして自分はこうも巴を傷つけることしかできないのか。

 自分は古賀家のためにある。それは動かしようのない事実だ。

 しかし、巴を犠牲にしたいわけではなかった。不幸にしたいわけではなかった。

 こんなふうに自身を傷つけるような言動をとらせたいわけでは決してなかった。

 ――折れそうだ。

 渾身の力で抱いていた巴の体は不安になるほど細くて、壮司は少し力を緩めた。

 すると、逆に巴が壮司の背に手を回し、しがみついてきた。

 それに応えるように、壮司は彼女の頭に片手を添える。

 抱擁は恋人のそれであるのに、不思議なほど生々しい男女の感情は芽生えなかった。

 ただただお互いの心情を理解するために必要なことだった。

 心音が重なり、体温が溶け合って相手の存在がより確かになる。

 心地よいぬくもりの中、壮司は認めざるえなかった。

 巴が大事だと。どうあがいても離れられないのだと。

 恋ではない。飲み込まれそうな熱情を伴うものではない。沸き上がってきたのは穏やかで優しい情愛だった。

 しゃくりあげる巴の背をぎこちなくさする。

 自分は許婚だったというのに本当にそれらしいことひとつもできやしない。

 巴が泣き止むまでずっと背中をなで続けた。馬鹿のひとつ覚えのように、それしかできなかったのだ。

 それでも、壮司は彼女が自分の胸の中にいることに、これ以上ない安堵を抱いた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「……巴、お前熱くねえか」

 どれほどの時間がたっただろう。

 壮司の腕の中で、その声を聞いた。

 涙が枯れた目で彼を仰ぎ見る。その胸に手をつきながら身を離した。壮司はそっと腕を解いてくれた。

「泣いたからだと……」

 弱い口調でごまかしてみるが、そんな理由でないことは自身が一番わかっている。熱が上がり、頭がぐらぐらとしてきていた。

 泣きじゃくってひどいありさまの顔を見られたくなくて、とりあえず視線を反らす。

「すぐわかる嘘つくんじゃねえよ」

 壮司はあっさりと看破した。長年側にいれば、嘘くらいお見通しなのだ。

 至近距離で視線を向けられれば、巴にはぐらかすすべなどない。

 観念して口を開く。

「少し熱があって……たいしたことはないんだが……」

「そういうことは早く言え!」

 壮司はとたんに狼狽し、彼のコートをかぶせてくる。

 マフラーをぐるぐると巻かれる寸前に、壮司は何かを思い出したようにポケットをさぐった。

 出てきたのは白いリボンだった。隆人にとられたままだった巴のリボンタイだ。

 それを壮司は巴のセーラーカラーに通し、たどたどしい手つきで結んでいく。

 やがてできた不恰好極まりない蝶結びに、巴は笑ってしまった。

「笑うな! 帰るぞ」

 頬を赤く染めつつ、壮司は唐突に手をさし出してきた。

 巴はためらいつつ、その大きな手に自らのそれを重ねる。

 隆人に襲われたとき、あんなにも熱望した壮司の手はやはり温かくて、泣きたくなるぐらいの安心を巴にもたらした。

 こっそりと壮司を見上げれば、照れ隠しかいつも以上に仏頂面であった。

 雪の道、ぶかぶかのコートを着ながら手をつなぎ、寮まで歩いた。

 発熱と、泣いた後の倦怠感の中で巴はいいようもなく幸福だった。

 たとえかりそめの幸せだとわかっていても。

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