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かざす花  作者: ななえ
第5章
26/68

第6幕

暴力シーンがあります。

閲覧ご注意ください。

 冷え込んだ翌朝、身支度を整えて部屋を出ると、そこに健一郎が立っていた。

「おはよう、健さん。どうしたの?」

 心なしか自分の声が弾んでいる気がする。昨日、巴と仲直りしたのだ。浮かれたくもなる。

「いや、古賀どうしたかと思ったんだけど、その様子だと大丈夫そうだな」

 健一郎は歯を見せて意地悪く笑っている。その視線は芙美花の目元に向いていた。

 とたんに顔が熱くなる。

「そんなにひどい顔してる?」

「昨日大泣きしましたって顔してる」

 健一郎のからかい混じりの言葉に、もぉ、やだなぁとつぶやいてまぶたに手をあてる。はれぼったかった。

「で、芙美花と熱いバトルがあったのはわかったから、古賀の体の方は大丈夫なわけ?」

「バトルじゃないって」と訂正を入れつつ、歩き始める。早く食堂に行かなくては朝食ラッシュにあたって面倒なことになってしまう。

「昨日は私の部屋に泊まってもらったんだけど、夜中に何度か吐いちゃって……」

 巴は夜半に微熱を出し、せっかくまともに食べた夕食も全部戻してしまった。

 殴られたところはもちろん痛むようだが、それ以上に多大な精神的ダメージを受けたのだろう。彼女にその自覚はないようで、自らの身体的な変調にただ困惑していた。

「今は?」

 健一郎に先を促され、芙美花は小さくうなずいた。

「明け方になってやっと落ち着いて、今は寝てる。どっちにしても今日は学校行けないだろうから」

 手加減なしに打たれたと思しき頬は、一晩おいてさらに赤々と腫れ上がっていた。元がきれいな顔をしているだけに、それは嫌でも他人の注目を集めるだろう。

「ねえ、古賀さ……巴をひとりで残してきて平気かな? いろいろ武器は置いてきたし、鍵もきっちりかけてきたけど……」

 心配はつきない。巴は弱ってる上に相手は男だ。どんなに彼女の身の回りを万全に固めても、まだ足りない気がした。

「昨日聞いたら、変なメールとか電話とかたくさん来てるって言ってたし、やっぱり私も一緒に――」

「芙美花。落ち着けって」

 勢いが止まらなくなっていた芙美花を、健一郎がすかさずなだめた。

 すぐに熱が冷め、芙美花は口をつぐむ。

「俺らが学校行ってる間はこの寮封鎖されてんだからそう簡単に入りこめねえって」

 夜間や授業時間中は、この特別寮と男女寮それぞれを結ぶ通路は閉ざされている。そのことは芙美花にもわかっていたはずなのに、興奮して失念していた。

「それにピッキングして古賀のいる部屋に押し入るつもりならもうとっくにやってんだろ」

 健一郎の仮定はうすら寒くなるものだったが、もっともでもあった。

「そう、だね。でも今日はなるべく早く帰ろ」

 芙美花がひとりで納得したとき、後ろから新しい足音が近づいてきた。

 反射的に振り向く。

「あ、不動くん。おはよう」

「……おはよう」

 彼に隠しごとをしているせいか、笑顔が引きつる。しかし芙美花の不自然さもかすむくらいの濃い隈が、壮司の目の下にはりついていた。

 彼は最近とりわけ忙しそうだった。

 部活も生徒会も忙しい時期ではないのに、部屋には夜遅くまで明かりが灯っていた。もっとも壮司はせっせと動き回っていないと気が済まない性分だ。

 それに高二の冬ならば、受験勉強を始めるにしても、早すぎることはない。

 壮司は明らかに寝不足の様相であるが、それでも毎朝恒例の健一郎との睨み合いは忘れない。ごく自然な流れで二人は数秒間険しい視線を交わしあい、壮司は健一郎を抜かしていった。

 遠ざかっていく壮司の背中を見ながら、ふと思う。

 どうして壮司も巴も許婚という、時代錯誤かつ理不尽な取り決めに甘んじているのか、と。

 そこでは巴は単なる子供を生む機械のようだし、彼女もそれを認めているから身を引いた。

 高校生ともなれば、物事の分別は充分につく。許婚という関係がいかに世間一般から逸脱して、自分たちの人格をないがしろにしているものかわかるはずだ。

 それにもかかわらず、彼らが唯々諾々と従う意図はどこにあるのか。芙美花にはわからなかった。

「……不動のことじっと見てんなよ」

 健一郎にごく軽い力で頭を叩かれて、芙美花はとりとめのない思考から立ち返った。

 壮司の背から目線を外し、健一郎を見上げると、ぶすっとした顔をはばからずにさらしている。

 何だか子供っぽくて、かわいくて、芙美花は思わず声を上げて笑った。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 剣道部の練習拠点としている武道館は独立した建物である。

 体育館の裏手に位置し、常に日陰なので、夏は涼しい半面、冬は日中でも息が白くなるほどの寒さだった。

 かくいう健一郎もひとりで広い道場一面のモップがけをしている間に、素足がピリピリと痛んでしかたなかった。

 モップがけなど本来は一年生の仕事だ。しかし昨日は巴救出劇の果てに、無断欠席をしてしまったのだ。

 規律を何よりも尊ぶ運動部において、無断欠席は一番してはならないことだ。上級生であろうと下級生であろうと、それ相応の罰が科されるのだった。

「貢先輩、ごくろうさまです」

 次々と着衣を整えた一年生が武道館に入ってくる。その表情はモップがけを一日免除されたよろこびでうれしそうだった。

 健一郎があくせくとモップをかけるかたわらで「先輩、手伝いましょうかぁ?」と、後輩たちがちょっかいを出してくる。稽古中でなければ、健一郎と彼らの関係は気安かった。

 対照的に壮司はそうではない。

 藍の稽古着に身をつつんだ壮司が一礼して道場に入った瞬間、一年生の顔がこわばる。

 壮司が自分の前を通り過ぎるのを見計らい、彼らは口々に「こんにちはッ!」と気合いのこもったあいさつを投げかけている。

 壮司は自分にも厳しいが、他人にも厳しい。それゆえ後輩から鬼だと恐れられていた。

 健一郎としては彼が巴のことでうじうじぐだぐだ悩む姿を見ているので、壮司の鬼ぶりも恐れるに値しない。彼とケンカするたびに、その情けない姿を部内に公表しようかと、わりと本気で思っていた。

「お前……罰掃除なのか」

「まーな」

 健一郎はモップの柄の先に手を乗せた。

 絶好のからかいのチャンスだというのに、壮司はただ驚いていた。健一郎自身、無断欠席を壮司に驚かれるくらいにはまじめに部活に取り組んでいたと自負している。

 壮司は目で理由を話せ、と訴えてきた。健一郎はあえて気づかないふりをして、モップを掃除用具入れに片づける。壮司に理由を教えたらどうなるかわからないほど、考えなしではない。

 健一郎に話す気がないとわかると、壮司は聞こえよがしにため息をついて、防具をつけ始めた。

 その姿を見ながら、健一郎もひそかに息を吐きだした。

 少し前までは壮司にも、道場から出れば、後輩の冗談ひとつぐらいは入る余地があった。しかし今では終始固い顔をしている。

 もちろん壮司は不機嫌さを態度に出すようなことはしないが、その顔だけで一年生たちは萎縮してしまっていた。

「……ごくろうさまです」

 ぼそりと覇気のない声をかけられ、健一郎は振り向く。

 猪野 隆人が通りすぎていくところだった。

 背だけが高い、その頼りなげな体を健一郎は無言で見つめた。

 似ているのだ。昨日薄暗い教室で捕らえた男と。

 しかし疑念の一方で、隆人が巴に害をなすなど大それたことができるとは思えなかった。

 隆人はよく言えば控えめでおとなしく、悪く言えば存在感が薄く、いてもいなくてもわからなかった。

 そんな調子なので剣道の方もいまいちぱっとしない地味な男だった。

 しかし――。

『不動先輩は古賀先輩とつきあっているんですか?』

 過去の記憶が健一郎の脳内に舞い降りる。隆人のセリフだ。

 彼が入部してまもない春先、隆人は臆面もなく壮司に尋ねてきた。

 誰もが気にはなっていたが聞けなかった質問だ。

 巴はそうそうお目にかかれない美少女だ。高校生活に夢をふくらます新入生にとって、入学式に生徒会役員として立ち回っていた彼女は理想像として映るだろう。彼女の動静は当然気になるところだ。

 だが、その頃からすでに、壮司は“怖そうな先輩”として遠巻きにされており、表立って聞けるような強者はいなかったのだ。

 それを破ったのが目立たない隆人だったのだから、驚きも人一倍であった。

 壮司は不意討ちのような質問をぶつけられ、煮え切らない答えを返していた。

 そちらの方面にうとい壮司が知るはずもなかったが、隆人が巴に恋しているのは明らかだった。いや、恋というよりは心酔していた。

 いつもは談笑にも加わらないのに、巴の話になった矢先にあからさまに興味を示すのだ。

 剣道部の面々はその様子を苦笑いして見ていた。いつか不動にしめられるんじゃね? などと揶揄まじりに話していた。

「始めるぞー!」

 部長が号令をかけ、バタバタと部員が動き始める。

 健一郎も急いで竹刀を持ち、輪の中に加わる。

 とりあえず健一郎のできることは、隆人の動きに注意していることしかない。はなから彼を犯人に決めつけてかかるわけにはいかないのだ。

 これが本当に最善なのか、ともうひとりの自分が問いかけたが、無理やり押し込めて準備運動に意識を集中したのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 壮司はかかとにつけるサポーターを忘れ、休憩時間に部室へ取りに戻った。

 壮司は打撃を出すときの踏み込み方がどうも悪く、サポーターをつけないとすぐにかかとを痛めてしまうのだった。

 武道館がある方とは逆側の体育館の裏手に部室はある。一見するとアパートのような造りをしていた。

 二階の最奥が剣道部の部室だ。部長から借りた鍵を差し込み、ドアを開いた。

 冬だからまだマシだが、部室内は男くさかった。一応芳香剤は置いてあるが、それでは補いきれないほどのむさくるしさがここにはある。

 それに耐えつつ、自分のロッカーからサポーターをとりだす。

 ふと、近くのロッカーから白いリボンがはみ出しているのに気づく。

 白いリボン――普通科女子のリボンタイだ。あわてて押し込んだようだった。

 壮司はほぼ無意識にそれをひっぱり出した。普通に考えて男子部室に女子の制服の一部があること自体おかしいのだ。

 反動でロッカーの扉が開く。すると足元に何か白いものが落っこちてきた。

 やべっ、とあわててそれをひろいあげる。ただの白いTシャツかと思いきや、学校指定の体操服だった。

 私物を暴いてしまった罪悪感を抱きながら、壮司はそれをたたんで、ロッカーの中へ戻そうとする。

 そこで壮司は目をむいた。

 体操服を手に立ちすくむ。

 体操服の胸元に刺繍された、見覚えのある名前。こんな珍しい名前はそこらへんに転がっているものではない。

 男には小さいそれは、“古賀”とネームが入った体操服であった。

 衝撃を受け、棒立ちになっている壮司に、再び何かがロッカーから落ちてきて爪先に当たる。

 黒い定期入れのような冊子は生徒手帳だった。まさかと思いつつ、それをめくる。

 最後のページには在学証明書が綴じられている。壮司の手の中で、証明写真の巴が睨むような顔つきでこちらを見ていた。

 壮司は落ち着くために、こめかみに手をあてた。

 巴の体操服に生徒手帳。それに制服のリボン。それがここにあるということ。壮司が導き出した答えは間違っていないはずだ。

 壮司はかえって冷静に、そのロッカーの所有者を確かめた。

『猪野 隆人』その文字がロッカーのプレートに書きこまれている。

 たいして目立たない後輩だ。

何度か足の運び方が悪いと注意した以外は、ろくに言葉を交わしたこともない。

 壮司はそのプレートに手をついた。

 急速に自分の中で隆人の存在が輪郭を持ち始める。

 怒りが焔のようにゆらりと揺れた。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 辺りは静まり返っていた。

 さすがにどの部でも活動を終えたらしく、部室棟は夜の静寂に包まれている。

 壮司は部室でただひとつのパイプ椅子に座り、窓のサッシに肘をついていた。

 少し離れたところに隆人が座っている。すぐにでも胸ぐらをつかんで問いつめたいところをグッとこらえ、部活終了後にひとり残らせたのだ。

 腹立ちを抑圧している壮司と違い、隆人は無表情だった。壮司に今から追及されるのはわかっているだろうに、いつもの欝屈とした面持ちを崩さなかった。

 それが余計に癪にさわる。悪びれもしない。

 壮司はぞんざいな手つきで隆人の前に体操服を放った。ついでに生徒手帳とリボンタイも投げた。

「それは何だ」

 自分から発せられた声は、獣の咆哮のように低い。

 壮司の根底には押さえ込んだ憤りが漂っていた。

 隆人は体操服と壮司の顔を淡々と見比べる。

「……さぁ。知りません」

 蚊の鳴くような返答を聞いた瞬間、壮司の腰は浮き上がっていた。

 ぬけぬけと言いやがって――!!

 そのまま隆人のすぐ後ろの壁を蹴る。部室全体が揺れ、ハンガーにかかっていた袴が落ちた。

「何だって聞いてんだよ」

 凄んで隆人を見下げると、彼の顔に怯えの色が走った。思った通り、とるに足らないちっぽけな男だ。

「あいつのこと、こそこそと嗅ぎまわる真似してんじゃねえよ」

 体操服と生徒手帳とリボンタイ。これだけなければ巴はずいぶん不自由しただろう。

「……せ、先輩には関係ないことです」

 壮司は目を見開いた。まさか反論が返ってくるとは思わなかった。

 それでも壮司にとっては痛くもかゆくもない。

「確かに関係ねえな」

 今の壮司は隆人と対等だ。婚約は事実上解消され、巴との間柄はただのいとこになってしまった。巴に対して干渉する権利などどこにもない。

 壮司はゆっくりと足を動かし右足の先で床に座っている隆人の肩を軽く押す。

「……だがな、ストーカーごときに言われたくねえよ」

 軽蔑を隠さずにに壮司は言った。

 隆人は一瞬きょとんとし、ついでカッと顔を赤らめた。ストーカーには自覚がないというが、その通りであった。

「なんでっ……古賀先輩はあなたのような人をっ……!」

 隆人は噛みつかんばかりの勢いでわめきたてたが、子犬がキャンキャンと吠えているぐらいにしか感じない。

「自分の胸に手を当てて聞いてみろよ」

 壮司は嘆息した。馬鹿らしくなってきて怒りも冷める。

 壮司とて女の扱いを心得ているとはとても言いがたいが、隆人はそれ以前の問題だ。

「あなたは来なかったくせにっ!」

 彼が何事かを叫びながら実際に飛びかかってきた。

 壮司は半身になってそれをかわす。物静かな彼のこの豹変ぶりには少なからず驚いた。

「俺が何に来なかったっつうんだよ?」

 聞き返しながら、次々と隆人から繰り出される拳を避ける。もはや彼の行動も言動も支離滅裂だ。

 自分の思い通りにならないとすぐ手が出る。隆人は子供だ。感情の表現方法がひどく幼い。

 両拳とも壮司につかまれると、隆人はキッと睨みつけてきた。

「古賀先輩は先輩の名前を呼んでたけど、結局あなたは助けに来なかったっ!!」

 隆人は親の仇のように壮司を見つめ、枯れそうなほどの声で罵倒した。すべては壮司のせいだとその鋭い目つきは言っていた。

「……どういうことだ」

 めまいがしそうだった。

 助けを呼ぶとは一体――。

「てめえ、巴に何しやがった」

「……」

 隆人の口は固く引き結ばれていた。挑むような瞳が壮司を映している。

 所詮、壮司は“先輩”だ。荒々しい手段など用いれないとたかをくくっているのだ。

 しかし、壮司は実力行使に出た。足払いをかけ、隆人の体勢を崩す。

 床に仰向けに倒れた隆人の左肩を、即座に足で踏む。逃がす気はない。じっくりと話を聞かせてもらう。

 今日、巴は学校を欠席していた。

 芙美花と健一郎は体調不良だと、どことなくそらぞらしい説明をしたが、巴はあれで頑健なのだ。滅多なことでは体調を崩さない。

 しかも巴は弱った姿を他人にさらせるような性分ではない。それなのに、健一郎と芙美花が知っているのも腑に落ちなかった。

 だてに巴と十四年間過ごしてきたわけではない。示される事象から、異変を感じとることなとたやすいのだ。

「言えよ。殴られてえのか」

 右足に体重をかける。足の下で骨がきしむ感覚がした。

「うあっ!」

 隆人がうめくのもお構いなしに、徐々にかける力を増していく。

 まるで理性が麻痺したように、壮司は冷酷になれた。

「言え。骨ヘシ折るぞ」

 なけなしの自制心がギリギリのところで足を止めさせる。返答いかんによっては、このまま折ってしまうかもしれない。

 壮司の本気を感じとって、隆人は小刻みに震えていた。

「……こっ、古賀先輩を」

「巴をどうした?」

 怖いぐらい冷静だった。

 隆人の言葉を反復したのは先を急かすためではない。言いやすくするために土台を作ってやったのだ。

 そんなことができるほど余裕があるのに、現実は膜一枚隔てているように希薄だった。

 隆人は最後の抵抗か、苦しげに睨みつけてくる。案外骨があるな、と頭の片隅で考えた。

「――っ。古賀先輩を抱きました」

 壮司が反応を起こす前に、隆人は間髪容れずに言葉を継ぐ。

「残念ですね。あの人はもう僕のものだっ!」

 隆人の哄笑が響き渡り、壮司の目の前が朱に染まる。

 そして黒に暗転した。

「そうか」

 怖いぐらい冷静だった。

 隆人を圧迫していた足を外す。すばやく彼は後ずさり、自らを安全な場所へ置いた。

「待てよ。覚悟はできてんだろ?」

 壁に手をつき、隆人の退路をふさぐ。

 まごついた彼の胸ぐらへ手を伸ばした。

 余分な感情を削ぎ落とした純然たる怒りが壮司を突き動かす。

「殺す……ブッ殺してやるッ!!」

 壮司は吠えた。

 何も考えずに拳を振るう。

 もはや隆人は守るべき後輩ではない。男の風上にも置けない下種だ。

 隆人の反撃を正確に見切り、その頬に拳を見舞った。無様に転倒した彼の腹に蹴りを入れる。

 隆人は鼻血で顔を赤く染めながら、許しを請うたが、壮司は一切聞き入れなかった。

「許してやるよ。二度と巴に近づけなくした後にな」

 獣の目をして、壮司は言った。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「何読んでるの?」

 芙美花が共同浴場から部屋に帰ってくると、巴がベッドの中で雑誌を呼んでいた。

 談話室のキャビネットからひっぱってきたのか、それは格闘技の雑誌だった。

「いや、護身術でも習おうかと思ってな」

「ごしんじゅつ〜?」

 今回のことで、身を守る必要性を痛感したのだろうが、巴は学院随一の美少女だ。バッタバッタと人をなぎ倒す姿などこちらが見たくない。

「巴はスポーツの経験はないの?」

 芙美花は髪をふきながらベッドのへりに腰かけた。

 巴は帰宅部だ。それは勉学に心血を注ぐ特進クラス生ならば別段珍しくない。

「まったくない。それ以前に他の習いごとしていたからな」

「何の?」

「華道と日舞と箏」

 高尚な習いごとに、芙美花は「はぁー……」とまぬけな声を上げた。芙美花のような小市民にはあまりない志向だ。

「今はやってないの?」

「ここに来たときに全部やめたよ……何の役にもたたない」

 心底忌々しく吐棄した巴に、芙美花は驚きの視線を向けた。それに気づくと、巴は繕うように微笑む。

 その顔はすでに平生の色だった。

 芙美花が授業を終え、わき目もふらず帰ってきたときには、巴はまだ青白い顔で眠っていた。サイドテーブルに置かれた軽食にもまったく手がつけられてなかった。

 しかし、日が落ちて、意識を取り戻した後は“いつもの彼女”だった。

 理知的で聡明な巴だ。感情的なところはひとつもなく、あんなにもつきまとっていた深い闇も消え失せていた。

 身体面でも顔色はよくなり――そこではた、と芙美花は気づいた。

 おもむろに巴の額に手を当てる。

「……熱い」

 巴は普段、あまり血色のいい方ではない。それなのに今日は頬が上気している。

 夜になって熱が上がったのだ。

「何で言わないのっ」

 高熱とまではいかないが、平熱とはほど遠い。

 巴は気まずげに目をそらした。

「……いや、たいしたことはない。それにそろそろ自分の部屋に戻らなくてはならないし――」

「そんなことはどうでもいいの」

 ぴしゃりと遮り、「ほら、早く休んで」と巴を追いたてる。彼女はしぶしぶと布団に潜った。

 その姿にふぅ、と息を吐く。

 いつだか壮司が体調を崩し無茶をしたが、巴も大差ない。

「飲み物買ってくるね。チャイムは三回だから。それ以外は開けちゃだめだよ」

 財布を机の引き出しからとりだし、念を押した。芙美花はなにがなんでも巴を守らなくてはと気負っていた。

 談話室の自販機に、スポーツドリンクはあったかな、と考えながらドアノブを回す。発熱には水分補給が欠かせない。

「……芙美花」

 巴からのその呼ばれ方はまだ慣れなくて、反応が遅れた。

「なぁに?」

 振り返ってベッドの方を見やると、巴は相変わらず頭から布団をかぶって背を向けていた。

「……私はどうすればいいのだろうな」

 間があってぽつりとつぶやかれた、巴の心中。

 心の大部分を占める恋心を捨てきれずにもてあましている。それを複雑に思う気持ちがありありと示されていた。

「どうかしようと思わないで。今はゆっくり休んで体を治して」

 ずいぶん酷なことを言っていると思う。

 もしも普段の巴だったなら、きっとこんな気弱なことは言わなかった。体の弱りが心にまで伝わったのだろう。

 その彼女に、今まで通り壮司を愛し続けろと暗に言ったのだ。これ以上残酷なことはない。

 巴に壮司をあきらめて欲しくないというエゴから、苦しむ彼女にムチを打つ真似をしたのだ。

「桐原」

 呼び方が元に戻っている。芙美花は表情を固くした。

「……ありがとう」

 照れ隠しなのか、ぶっきらぼうな声が芙美花の背にかけられた。呼称が戻ったのは、とっさに舌になじんだ方を選んだからだろう。

 芙美花はあえてその言葉には答えず、静かに部屋を出た。

 お礼を言われるようなことなんて何にもできてない、と唇を噛んだ。

 冷たいドアに背を預けながら、隣のドアを見つめる。

 いまだ主の帰らないその部屋は壮司のものだった。

 不動 壮司――巴の最愛の男。

 それは不変のようで、それだけに呪縛のようで、芙美花は切なくなった。

 その業ともいえる宿命に芙美花は密かに涙ぐんだ。



 早くもその夜遅くには、生徒会長・不動 壮司が下級生に暴力を振るったとの報は寮内に広く知れ渡ることとなる。

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