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かざす花  作者: ななえ
第5章
25/68

第5幕

 健一郎から電話を受けたのは七時少し前だった。

 部屋の壁時計を見ながら、部活が終わるのには少し早いな、と怪訝に思い電話に出る。

「もしもし、健さん。どうしたの?」

『あー、芙美花? そっちに不動、帰ってきてる?』

 健一郎の奇妙な問いに首をかしげながら、壮司の部屋の方を向いた。

 隣の部屋からは何の物音もしなかった。

「帰ってきてないと思うけど……」

 剣道部は今の時期に試合はない。それでも七時過ぎまでは練習している。片づけやら着替えやらをあわせると、寮に帰ってくるのは八時近くなるだろう。

 そもそも、健一郎は壮司と同じく剣道部の一員なのだから、こんなことはとうに把握しているはずだ。

「不動くんがどうかしたの?」

 率直に疑問をぶつけると、わずかな間があいた。芙美花は間違えなく何かがあったと確信する。

『……古賀が』

 少しの逡巡の後、出された名前に驚き半分、納得半分だ。

 あの深すぎる闇を内に抱き、今の今まで巴が普通に生活できていたことが、芙美花には不思議でならなかったのだから。

『具合悪くなって倒れたから、そっち連れて帰る。それで芙美花の部屋、貸してくんねえ?』

「それは別にいいけど……」

 彼女とはケンカ別れのようになったままだが、それでも部屋に巴を寝かせるぐらい何てことはない。

 それにしても、釈然としなかった。

 失神するほど体調が悪ければ第一、保健室に連れていくはずだ。

 それに彼女が倒れたと聞いたら確かに壮司は心配するだろうが、今現在健一郎が彼の動向を気にするのも変な話だった。

『悪ぃな。頼むわ』

 いろいろと変事を臭わせるところはあるが、それを今とりあげてもしかたがない。

 芙美花は「うん、待ってる」とだけ返事をした。

 部屋を整えてから廊下に出て待っていると、しばらくして巴をおぶった健一郎が帰ってきた。

 巴は健一郎に体を預けきり、ぴくりとも動かない。

 芙美花が絶句していると、健一郎が廊下の角をあごでしゃくった。

「そこに立ってくんね?」

「あ、うん」

 言われるままに、芙美花は示された場所に立った。

「そこに立ってもらえると監視カメラに映んねえからさ」

 健一郎が軽くつけ加えて芙美花の部屋に入っていく。

 芙美花は頭上を仰ぎ見た。

 なるほど、そこにある監視カメラの前に立つと、カメラには芙美花の背中しか映らない。

 健一郎が本来なら寮監から大目玉を食らうであろう異性の部屋に足を踏み入れる瞬間も、死角になって見えないという寸法だ。

 まもなく健一郎が巴をベッドに寝かせて、部屋から出てきた。

「ケガしてるから手当てしてやって」と言われ、入れ代わりに今度は芙美花が部屋に入る。

 治療がしやすいようにかけ布団はかけられず、巴はベッドに横たえられていた。その身にはぶかぶかの服をまとっている。

 上は今日、健一郎がブレザーの下に着ていたグレーのパーカーで、すそから制服のスカートがわずかにのぞいている。そのスカートの下には“貢”と刺繍が入っている体育ジャージをはいていた。短いスカートでおぶるのは問題があると思ったのだろう。

 とりあえず、しわになりそうなので制服を脱がそうと、かぶせられたパーカーのフードをとる。首元までぴっちり閉められたチャックも下げた。

 そこで芙美花は手を止めた。

 強い力で引き裂かれたと思われる制服。殴られたと一目でわかる真っ赤な頬。腹には大きなあざができており、左肩は腫れ上がって熱を持っている。

 その他いたるところにあざやかすり傷があった。

 一方的な暴力にさらされたとすぐにわかる姿だった。

 健一郎の口ぶりから“具合が悪くなった”以上のことはあると思っていたが、ここまで悲惨だと一体誰が想像するだろう。

 いつまでもこのままにしておいてはかわいそうだ。芙美花は動揺をひとまず脇へ置き、もはや服として用をなしていない制服を脱がす。

 芙美花がすべきことは狼狽して、巴の目覚めを待つことではない。彼女が目を覚ます前に暴行の痕跡をできる限りぬぐいさっておくことなのだ。

 秋に肩を脱臼した際に処方されたシップが残っていたので、それを巴の左肩に貼る。パーカーの前を閉めてそっと布団をかけた。

 最後に口の端にこびりついた血を柔らかくふきとり、腫れた頬にぬれたタオルを乗せて部屋を出た。

 廊下で待っていた健一郎にタオルを渡す。

 日暮れから牡丹雪が降り始めた。傘をさせずに歩いてきた彼の頭と肩には雪が積もっている。

「……これは事前、事後?」

「未遂だ」

 問いかける自分の声も固ければ、答える健一郎の声も固い。

 当たり前だ。辱めを受けたとなれば事は重大だ。巴に一生残る傷がつく。

「何があったの?」

 未遂だということに安堵しながらも、そこまでの経緯は当然気になる。

 いくら常とは違う状態といえど巴だ。下手に手を出せば徹底的な反撃で完膚なきまでに返り討ちにされそうなのに、この崩れようはどうしたことか。

「俺もよくわかんねえけど……」

 そう前置きをして、健一郎はごく冷静に語った。

 健一郎の話を聞きながら、芙美花の頭によぎったのは今朝のことだ。

 巴に用があると言っていた下級生――。

「健さん。古賀さんを襲ったのってどんな人?」

「どんなって………」

 暗くてよく見えなかった、と答えた健一郎に、芙美花は朝のことを話して聞かせた。

 もしかしたら彼かもしれない。もしかしたら自分が彼をたきつけてしまったのかもしれない。そう思うと芙美花の声は沈んでいく。

 さすがの健一郎も、今回ばかりは気軽に気にすんなとは言えないだろう。

 しかし、話を聞き終えた健一郎が言ったのは、下手な慰めでもなければ、叱責でもなかった。

「古賀、そいつにストーカーされてたんじゃねえの?」

「ストーカー……」

 近年よく耳にする単語であるにもかかわらず、現実から一歩離れた仮想世界のように感じてしまう。

 巴は掛け値なしの美少女だ。その美しさは群を抜いている。

 それと同時に警戒心が強く、他人も寄せつけない。そんな彼女を常軌を逸した方法で手に入れようとする輩が実際にはいたのだ。

 心が所有できないとわかるやいなや、体を支配しようとする狂った男が。

「あと、芙美花。不動には言うなよ」

「え……?」

 芙美花は思わず「どうして?」と聞き返した。

 こんなことおいそれと、しかも男性には話せることではなかったが、他ならぬ彼に報告するのは当然だと思っていた。

 壮司は巴の想い人であり、いとこであり、もっとも近しい人間であり――許婚である。今は“元”をつけた方が適切かもしれないが。

 壮司に話せば必ずや怒り狂って相手を叩きのめしに行くだろうが、きっと傷ついた彼女を癒してくれるだろう。

「古賀が言わないでくれってよ」

「なんでっ……!?」

 壮司なら間違っても巴を悪いようにはしない。

 巴が壮司の存在を痛いほど望んでいるのが芙美花ですらわかるというのに。

 芙美花はいきりたった。

「古賀さんには不動くんが必要だよ!! どうして黙ってなきゃいけないの!?」

「俺だって言いてえよ!」

 健一郎の怒鳴り声が廊下の隅々まで響き渡った。

 停滞していた冷気がビリリと震える。

「だけど不動に慰めてもらってどうすんだよ! あいつは古賀の保護者じゃないだろ? せっかく離れようとしてんのをまた振り出しに戻すのかよ」

 そこで健一郎は苦しげに眉根を寄せた。

「あいつらに事情があるのぐらい俺にだってわかってんだよ……!」

 腹の底からしぼりだすような、苦々しさでてきた健一郎の声だった。

 どんなに巴が壮司のことを愛していようと、彼らは添い遂げられない。巴の子供が望めない体質は普通の結婚ですら二の足を踏ませるだろう。血の結びつきを重視する、政略結婚ならなおさらだ。

 健一郎はこれらのことは知らないはずだが、普通の破局とは重みが違う彼らの様子に、きっと何事かを嗅ぎとったのだ。

 今、もがき苦しみながら別れを設定した彼らを見て、何かを。

「……」

 芙美花はうつむいた。

 どうあがいたって巴と壮司は生涯一緒にはいられない。

 それがわかっているから巴はすべてをひとりで処理しようとしたのだ。

 壮司との関係には先がないから、離れようとしていた努力を無に帰すことはしたくないから、彼の介入を頑なに拒んだ。

 壮司だけではなく、部屋にこもって、酷薄な表情の下にひた隠して、他の誰にも悟らせないようにしていた。

 壮司につながりかねない扉は片っ端から閉ざしていく彼女に、言いしれない孤独を感じた。

「不動じゃなくて、芙美花じゃだめなのかよ?」

「私……?」

「そっ。お前」

 見上げると、健一郎が快闊に笑っていた。

 雪に閉ざされた、この鄙びた地にはおおよそ似つかわしくない、伸びやかな笑顔だ。

「でも不動くんの代わりにはなれないよ」

 幼少の頃から交流があった壮司とは違って、芙美花と巴のつき合いはたった三ヶ月だ。期間だけでも、彼の足元に遠く及ばない。

「誰も芙美花に不動の代わりなんか求めてねえよ」

 情けない芙美花のつぶやきを、健一郎は一刀両断した。

「芙美花は女だろ? それだけでも不動より有利じゃん」

「有利って……」

 そういう問題じゃないきがする、と言いかけてた口が止まる。

 健一郎の目に優しさの中にも切実な真剣さがうかがえたからだ。

「不動がわかんないこと、わかってやれるんじゃねえの」

 なっ、と健一郎は芙美花の頭に手を乗せた。

「俺も気をつけて見てるから、何かあったら遠慮なく言えよ」と彼が言ったのを最後に、各々の部屋に戻った。

 これ以上立ち話をしていては雪まみれの健一郎が風邪をひく。壮司もいつ帰ってくるかわからない。

 音を立てないように、部屋に入った。

 巴は部屋を出たときと同じく、こんこんと眠っている。

 その表情からは、あの禍々しさが消え、代わりに憔悴の影が色濃く差していた。

 強がりの鎧が消えた、むき出しの巴はひどくはかなげだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 昼間のバスに揺られていた。

 眠気を誘うような心地よい振動。昼下がりの街自体にまどろむような空気が流れている。

 そんなけだるい空気も、隣に座る祖母にはいささかの影響も与えない。相変わらず背をピンと伸ばし、冬の朝のような冷厳さをまとっていた。

 対する十四歳の自分は、なかば放心状態でバスの揺れに身を任せていた。

 奇しくも壮司と婚約して三年目の今日、祖母に連れられて産婦人科を訪れた。

 一週間ほど前に寮に祖母からの手紙が届いた。折り入って話があるから帰ってこい。壮司には内密に、とのことだった。

 言われるがままに帰省し、祖母から聞いたのは自分を生んですぐに亡くなった母のことだった。

 あなたの母上は子供ができにくい体でした。もしかしたらあなたもその可能性があります。いつも通りの平坦な口調で言われ、事態が飲み込めないままに、産婦人科に連れてこられてしまった。

 巴にとっては屈辱以外の何物でもない検査を受け、そのショックが覚めやらぬうちに再び診察室に呼ばれた。

 そうして祖母と懇意にしている医師は言った。残念ですがお嬢さんも、と。

 たがたが中学生に子供が生めないと言われても、上手く現実と噛み合わない。自身がまだ子供なのだから。

 しかし、ひとつ決定的なことがあった。

 壮司とは結婚できない――。

 たちまち前途に暗雲がたちこめた。

 自分たちにはそれぞれ片親しかいない。だから結婚したあかつきには父親と母親になって、生まれてくる子供にはこんな寂しい思いをさせないようにしよう。子供ながらにそう思っていた。

 甘い戯れ言が盛大に崩れていった。

 不意に昔の記憶がよみがえる。まだ大きすぎるランドセルに背負われているような小学一年生の頃。

『おまえによめのきてはないだろうから、しかたない。わたしがおまえとケッコンしてやろう』

 満面の笑みで、不遜に言ってのけたあの日が遠ざかっていく

 許婚の肩書きを得たことで、初恋が成就したと信じこんでいた自分は、なんと愚かしいことか。

 肩書きがなくなったらこんなにも脆い。壮司はそういう意味ではこの自分を真実愛してはいないのだから。

 祖母と医者は熱心に話し込んでいたが、自分は完全に蚊帳の外だった。祖母が当事者である自分を置き去りにするのは今に始まったことではない。

 医師はお嬢さんはまだお若い。悲観するには早すぎます、と言い、気がついたときには定期的に治療に通うことが決まっていた。

 どうせ気休めに過ぎないと知っていた。治療したところで壮司とは引き離されるのだ。

 二代に渡っての石女を祖母が許すはずないのだから。

 医師の詳しい治療内容を右から左に聞き流して、帰路についた。

「お祖母さま」

「何ですか」

 巴はぶしつけなほど、隣にいる祖母を凝視した。

 やはり祖母の顔色から巴ごときが感情を推し量ることは、到底不可能だった。

 バスの中でそこだけが別世界だ。

「これからどうすればいいのでしょうか」

 受けとめるにはあまりに重い事実に、あれほど憎んでいた祖母に判断を委ねた。

 自らの道標を、他人に託すなど初めてだった。

 壮司の求婚を受諾したことも、側にいることも、すべては自分自身で決断したことだ。他人の思惑など関係ない。己の人生はこの手で切り開くと信じてきた。

 だが、努力も誠意も何もかも通用しない事態を前に、巴は静かに失望した。

 何の根拠もなく、祖母ならどうにかしてくれるかもしれない、と一縷の希望を抱いた。

「……」

 祖母は答えなかった。どんなに待っても何の答えも与えてはくれなかった。

 深夜に雪が降るように、音もなく絶望が募っていった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 驚くほど深く眠っていた。

 ぬるま湯の中にひたっているような安心感。久しくなかったものだ。

 ここ最近ろくに睡眠をとっていない。目覚めかけている感覚を封じて、巴は再び寝ようとした。

 しかし、痛覚が呼び覚まされ、腹や頬が激しく痛みを訴え始める。

 こうなればもうまぶたを上げるしかなかった。

 白い天井が視界に飛び込んできた瞬間、気絶する前にあったことが一気に脳内に押しよせる。

 巴は跳ね起きた。

 勢いよく起きたはいいが、全身に痛みが駆けめぐり小さくうめく。

 満身創痍でまともに動けない体は自分ながら無様だった。

「古賀さんっ!? 大丈夫? 痛むの?」

 芙美花が飛んできて、気づかわしげな瞳を向けてくる。

 痛みをやり過ごしながら辺りをうかがうと、どうやら彼女の部屋らしい。

 保健室に運ばなかった健一郎に感謝した。

「気分は?」

 芙美花の声は心配に満ちていた。

 巴は呆れ返る。どこまでお人好しなら気が済むのか。数日前のやりとりを忘れたわけではないだろう。

「お水飲む? 持ってくるね」

 巴の内心など知るよしもなく、芙美花は変わらない気配りを発揮している。「ちょっと待ってて」と言い残し、談話室にある冷蔵庫へ飲み物をとりに行った。

 ひとりになり、室内を見回す。かわいらしい小物に彩られた暖かな部屋。殺風景な巴の自室とは大違いだ。

 アイボリーのカーペットがひかれた床には、裁縫箱とともに巴の制服が広がっていた。

 どこにも破れた跡など見当たらないくらい、きれいに修繕されている。芙美花はセンスはともかくとして、裁縫の腕は確かなのだ。

 巴は舌打ちでもしたい気分だった。健一郎といい、芙美花といい、どうしてこうもおめでたい頭の構造をしているのか。

 巴は自らのすさんだ心に任せて、彼らの関係をひっかきまわしにかかったのだ。

 健一郎を煽り、壮司に向かわせた。自分はといえば高みの見物を決め込んでいた。

 芙美花と健一郎の関係がどうなろうとどうでもよかった。自分のまわりのものをすべて残らず壊してしまいたかった。

 彼らは巴を恨みこそすれ、助けるいわれはない。

 大きな情けをかけられた気がした。

 巴がため息をつくと同時に、ドアノブが回る。ほのかに芙美花の香りがするベッドから下り、立ち上がった。

「古賀さん、お茶でいいー?」

 能天気な声を上げながら、芙美花がドアを開く。

 しかし、ベッドから抜け出ている巴をみて、その明るさが消えた。

「……何をしてるの?」

「部屋に戻る。面倒をかけた」

 頬に圧迫感と痛みがあり、しゃべりにくい。確実に腫れている。

 巴は制服を手にとり、ドアへ向かった。

 巴の部屋は鍵がかかっていて入れないので、健一郎はとりあえずここに運んだだけだ。目覚めた以上、とどまり続ける理由はない。

「……その真っ青な顔でどこに戻るっていうの」

 “友達の義務”として、芙美花はきゃんきゃんわめきたてると思っていた。だが、巴の背にかけられた声は、存外に落ち着いている。

 何よりいつもふわふわと花が飛んでいそうな芙美花の陽気さは、ひと欠片もなかった。

「どうせひとりの部屋では眠れないんでしょう? その顔見ればすぐにわかるよ」

 図星だ。睡眠はもちろん、あまり食べてもいない。だから肝心なときに力がでなくて、隆人に何の抵抗もできず、いいようにされてしまったのだ。

 芙美花の追及から逃れようと、ドアノブに手をかける。

 逃げるのは癪だ。癪だが、こんな状態ではまともに応戦もできない。すぐにでも横になりたい気分だった。

「待って。ダメ、帰さない」

 びっくりするほど冷静な声で制止された。芙美花は前に回り込み、ドアノブを回そうとする巴の手に自らの手を重ねる。

 温かい手。巴の冷たい手にじわりとその体温が染み込む。

「ずっとそのままでいるつもり? 古賀さんひとりじゃもうどうにもできないんじゃないの?」

 芙美花は事実を淡々とつきつけた。

 その通りで巴は何も言えない。

 巴は身を守るすべを持たない。武道やら護身術やらはからきしだ。

 もしも隆人が次向かってきて、また暴力に訴えられたらどうしようもない。それを怯えてる自分もいた。

 精神的な面でも抱えきれなくなっていたのだ。

 それでも――。

「……いい」

「えっ?」

 低くつぶやいた巴に、芙美花が聞き返す。

「誰に抱かれたって別にいい」

 重ねられた芙美花の手に力がこもる。彼女は言葉を失っていた。

 巴にとって男など、壮司とそれ以外だ。しかも出来損ないのこの身では、みごもる心配もない。

 ならば何の問題もないように思えた。

 今のうちに芙美花から逃れようと、ノブを回す。

 しかし芙美花が我に返る方が先だった。彼女に押しとどめられれば、今の巴に勝ち目はない。

 巴はそのまま後ろによろけ、尻もちをついた。床についた手から衝撃が伝わり、左肩に激痛が走る。隆人に蹴られたところだ。

 痛みに顔を歪める巴を、芙美花は怒りの形相で見下ろしていた。

「バカっ!! 古賀さんなんてそのままずっといじけてればいいんだ!」

 決して広くはない室内に、芙美花の怒声が反響する。

 あまりの剣幕に、巴は呆気にとられていた。

 ここまでストレートに女子に怒りをぶつけられるのは生まれて初めてだ。

 一番はあの芙美花だということが、驚愕を助長させる。

「誰にも構われたくないんだったら、こんなふうにケガして帰ってこないでよ! 自分の感情くらいコントロールしてよ! どれだけまわりに心配かけてるかわかってるの!?」

 呆然と見上げる巴の頬に、生あたたかい水滴が落ちてくる。

 芙美花の涙だった。

「自分をもっと大事にしてよっ……!」

 ふわりと芙美花の体が降りてくる。

「もうひとりで立ち向かってったりしないで」

 芙美花の腕が、巴の首に回っていた。そこでやっと抱きしめられているのだと気づく。

「……桐原?」

 巴はただただこの事態が理解できなかった。

 今は二人きりだ。その上プライベートな空間であり、他人の目もない。芙美花が世間体を気にする必要はどこにもない。

 なのに彼女は泣いていた。

 巴のうぬぼれでなければ、自分のために。

 何もかもめちゃくちゃにしようともくろんでいたこの自分のために芙美花は泣いていた。

「この……お人好しが……!!」

 巴はやっとの思いで言葉を吐き出して、行き場を失っていた手を芙美花の背に回した。

 冷たくはねつけ、自分に愛想をつかして離れていけばいいと思っていた。

 だが、芙美花はしぶとかった。巴の予想を裏切り、共倒れも辞さない覚悟でぶつかってきた。

 降参だ。巴は胸の中でつぶやいた。

「……桐原、ごめん」

 これは、偶然が重なった結果ではない。どんなことがあっても、きっと芙美花はいずれ巴の心を溶かすところまでたどり着いただろう。

「……ごめんなさい……」

 巴は幼子ように詫びて、芙美花の胸に頭を預けた。

 他人に頼ったら負けだと思っていたが、そう悪いものではなかった。

 隆人や巴に決定的に足りていなかったのはこれだったのだ。

 慈雨のように降りそそぐ芙美花の涙が、ひび割れた心を潤していく。抱きしめられているのは照れくさかったが、巴は黙って甘えていた。

「……芙美花」

 初めて名字ではなく、名前を呼ぶ。

 しゃくりあげていた芙美花の動きが止まり、そろそろと巴から体を離した。その顔にはありありと信じられないと書いてある。

「何だ、私が名前で呼んではいけないのか」

 芙美花の表情に、微妙な気まずさを感じる。巴は憮然と顔をそらした。

「……巴」

 芙美花は向き合って、その名を唇に乗せると、再び顔をくしゃくしゃにした。

「巴! 巴っ!!」

そのままこちらの方が後ろに倒れそうになるほど勢いよく抱きつかれる。巴は笑ってそれを受けとめる。

「ごめんね。ごめんねえ……」

 あらんかぎりの感情をこめ、芙美花は何度も何度も謝る。その謝罪の意がどこにあるか、巴はわかっていた。

「お前が壮司をたぶらかしたなんてこれっぽっちも思ってないよ」

 自分にも言い聞かせるように、ゆっくりと言葉にした。

 巴が誰彼構わずに傷つけている間も、罪悪感がずっと芙美花をさいなんでいた。巴は愚かにも苦しんでいるのは自分だけだと思っていた。

「私はこういう体だから……壮司といつか離れることは覚悟していたんだ」

 覚悟してたつもりだった。しかし、表面的なものに過ぎず、傷は大きかった。

 それでも、それは芙美花のせいなどではない。責められるべきは三年弱もの間に別れをきりだせなかった自分の優柔不断さなのだ。

「初恋の相手がお前だったのは、壮司にしてはまぁよくやったんじゃないか?」

 巴は冗談めかして笑ってみせた。

 芙美花はこの自分を怒鳴りつけたときの迫力はどこにいったのか、巴を強く抱きしめて泣きじゃくっていた。

「お前がもっと嫌なやつだったらよかったのに……」

 言ってる本人ですら、そのつぶやきが嘘とも本当ともとれなかった。

 少なくとも今このとき、彼女があまりに泣くので、自分が涙を流すタイミングを奪われたのは確かだった。

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