第4幕
暴力シーンがあります。
閲覧ご注意ください。
最初になくなったのはノートだった。
次にハンカチ。その次は生徒証で、しまいには体操服までもが忽然と消えた。
単なる紛失かと思ったが、ここまで立て続けに起こるのは不審だ。特に体操服など通常ならばなくしようがない。
巴はずいぶん探したが、とうとう見つけだすことはできなかった。
幸い、ノートやハンカチは代わりなどいくらでもある。生徒証は今のところなくても困らない。体操服は予備でもう一枚買ってあった。
妙な引っかかりは感じても、とりあえずは今まで通りに過ごしていた。
はっきりとこの一連のことが人為的だと感じたのは、寮で奇妙な呼び出しを受けるようになったからだった。
普段は各男女寮や特別寮間の行き来は禁止されている。だが、例外的に寮監室の前、特別寮一階の談話室ならば許される。
片方がそこへ赴き、もう片方を寮監に寮内放送で呼んでもらうのだ。
巴はここ一週間、三回も放送で呼ばれた。
しかしいずれも、呼び出されるような人物に心当たりはなく、巴が談話室へ行くと決まって呼び出してきた相手はいないのだ。
寮監に尋ねても『ついさっきまではいたんだが……』と首をかしげるだけで、一向に要領を得なかった。
巴はこのことと、あいついで行方不明になる持ち物とを結びつけずにはいられなかった。
悪質ないたずらなのか、それとも他の目的が伴うのか、判断がつかなかった。
何の手立てもなく過ごすうちに、今度は大量のメールが来るようになった。
そのすべてが空メールだ。アドレスは無論知らない者のだった。
すぐさまこちらのアドレスは変えたが、電話番号はたやすく変更できない。
携帯自体解約しようかと思ったが、いざというときの連絡手段がないのは心細い。不安だった。
そこをつけこまれ、ついに見知らぬ番号から電話がかかってきた。
一度かかってくると、昼夜問わずひきりなしにかかってくる。巴の携帯には膨大な着信履歴が残った。
次第に辟易だけでは済まなくなってきた。だが、こういうことは初めてで、対処法よりも困惑が先にたっていた。
真夜中、光を発する携帯に浅い眠りを破られた。
眠るとき、携帯は常に枕元に常備してある。特にここ最近は手放せなくなっていた。
着信を伝える携帯を、暗闇の中でじっと見つめる。
背面にメールを伝える表示が点滅していた。
瞬間的に背筋に怖気が走る。
数日前にアドレスを変えたばかりで、まだ家族以外、誰にも教えていないはずだ――壮司にすら。
一体どこから新しいアドレスが流失したのか。考えたくはないが誰かが携帯を盗み見しているか、最悪の場合、盗聴器などの類いか――考えるだけで血の気が引いた。
巴はそっと携帯に手を伸ばし、自らを落ち着かせるようにゆっくりとボタンを押して新着メールを開いた。
明々と点灯しているディスプレイに映し出された文字の羅列に、巴は凍りついた。
『何で電話に出てくれないんですか。何で電話に出てくれないんですか。何で電話に……』
いつもは文面などなかったのに、今回は同じ文章が繰り返し繰り返し、上限文字数まで打ち込まれている。
巴に無視されていることに、明確な怒りを表していた。
携帯を閉じることもできずに、体を起こしてベッドのふちに座る。スプリングがかすかにきしんだ。
得体の知れない、携帯の向こう側は不気味でならなかった。
顔も見えない相手とどうやって対峙すればいいかわからなかった。対峙する気にもならなかった。
だからといって、相談できる相手など誰もいない。皆、巴が深く傷つけ、遠ざけてしまった。
自業自得だ。他人の気持ちなど考えずにふるまってきたツケが回ってきたのだ。
おそらく、この異常な行動も、日頃巴がとっている尊大な態度が呼び込んだものだろう。
素足をつけているフローリングの床は氷のように冷たい。結露している窓の外では今年最初の雪が人知れず降っている。
手足の先は凍え、冷えは体の芯まで達していた。
寒さに耐えかねて、膝を抱え、そこに額をつけて体を丸めた。
もう一度温かい布団にもぐって寝ようという考えはまったくなかった。意識を手放し、無防備に眠るなどとてもできない。
怖い。相手はたいしたこともできない矮小な奴だというのに、自分は恐れをなしているのだ。
徐々に追い詰められていく。
たまらなくて、あの広い背中を思い浮かべる。
「……壮司」
助けてくれなどと虫のいいことは言わない。決して迷惑もかけない。
だから凍えて震えるこの身に、少しのぬくもりを貸し与えてくれればいい。
彼の姿を媒介にして、やっと恐怖の影を退けられるのだ。
爪が食い込むほど強く、拳を握る。
心の隙間から染み出る、甘ったれた感情に蓋をした。
またこの濃い闇の中で携帯が鳴っているような気がする。
巴はその夜、結局一睡もせずに、朝を迎えた。
―◆―◆―◆―◆―
「あの……」
学院が一面の銀世界に包まれた朝、芙美花は登校途中に見知らぬ男子生徒に呼びとめられた。
雪がちらつき、生徒たちは体を縮こまらせながら、足早に校舎に向かって歩いていく。
体の中にまで積もっていくような寒さの中で、彼が長い間芙美花を待っていたのは明らかだった。肩や頭に雪が積もっている。
「えっと、私?」
まったく面識のない男子生徒に確認をとると、小さく彼はうなづいた。
その拍子に長めの前髪が彼の目をうっすらと隠す。
清浄な雪景色の中で、その姿はひどく陰気に映った。
彼は「あの、えっと……」と何回か口ごもった後、細雪が降る音にさえかき消されてしまいそうな小さな声で言った。
「……古賀先輩はどうしてますか?」
「え……?」
いきなり巴の名前を出されて、状況の把握が追いつかない。まじまじとその顔を見つめ返せば、彼はあわてて口を開いた。
「あの、桐原先輩は古賀先輩と同じ階に住んでいるんですよね?古賀先輩にいくら電話しても出ないので……」
ああ何だ、と芙美花の肩から力が抜けた。巴の身に何かあったのかと思ってしまった。
今の彼女には、何があってもおかしくないような不安定さがあるのだ。
「古賀さんに用事があるの?」
「はい」
彼は素直に首を降った。
彼はひょろりと背が高く、芙美花は見上げなければならないほどなのに、そのしぐさは妙に子供っぽかった。
「なら、直接会いに行ったほうがいいと思うよ」
巴は壮司と違い、機会オンチではないが、携帯依存症でもない。どちらかといえば携帯の管理に無頓着な方だ。
着信に気づかなくても不思議ではなかった。
「そうですね」
彼は何か納得したようにつぶやく。
普段だったら、彼から言づてを預かって、巴に伝えてもいいのだが、彼女は最近、特に部屋にこもりがちだ。確実に伝えられるとは約束しがたかった。
「……やっぱり会わないとダメですよね」
長い前髪の奥で、彼の瞳が弧を描く。
「今日、会いにいってみます」
ありきたりな言葉に惑わされて、芙美花は彼の鈍い眼光に気づかなかった。
彼もまた狂気に踏み入れたひとりだった。
何も知らずに芙美花は「それがいいよ」と微笑んだ。
―◆―◆―◆―◆―
電子辞書を忘れてきたと気づいたのは、寮へ帰ってきてしばらくしてからだった。
確かにカバンにしまってきたはずなのに、現に入っていない。机の中にでも置いてきてしまったのだろう。
外は本格的な雪になっていたが、電子辞書がないと予習も課題もできない。学院に取りに行くことにした。
放課後ですっかり人気のなくなった校舎を歩き、二年A組の教室へ入る。
雪の日のせいか、日暮れが早い。もうすでに薄暗かった。
火の気がない寒々とした室内で、巴は手早く机の中を探った。
ちょっとそこまで、という気分で出てきたので、コートも着てきてないのだ。
「探しものはこれですか?」
突然背後から聞こえた声に、弾かれたように振り向く。
巴の電子辞書を持ち、戸口に立っている人物を認め、自分の愚かさをなじった。
自分はおびき出されたのだ。電子辞書をだしにして。
「猪野 隆人……」
巴が顔をしかめてつぶやくと、隆人は何よりの称賛を受けたかのように無邪気に笑った。
すべてのことを彼が起こしているのはわかっていた。
しかし、追及するには証拠がなかった。糾弾する気もおこらなかった。
「……私を追いつめて、これで満足か?」
ゆっくりと体を向け、隆人と相対した。
暗い瞳と視線がかちあう。自分と同類の後ろめたい暗さを宿していた。
「お前の思惑通りボロボロだ。いいザマだろう」
巴は目を伏せて自虐的に笑む。
隆人の目的がこっぴどくふられたことに対する復讐なら、達成したといってもいいだろう。
こうして隆人のしかけた罠に、いともたやすくひっかかるほど余裕がなくなっているのだから。
「桐原先輩が会った方がいいと言ったんです」
隆人は巴の話など聞いてはいなかった。
恍惚とした表情を、巴に向けてくる。
「やっぱり僕自身を知ってもらうには直接会った方がいいと思って」
巴には言ってることが理解できなかった。
隆人が向けてくるのは、自らのプライドを踏みにじられた憎悪ではない。巴の瞳に映るだけで、至福とするような快い感情だ。
「不動先輩の代わりになるはやめました」
彼の暗鬱とした空気の奥に飢えが見える。
貪欲に愛情を求めている。
「先輩、僕を見てください」
隆人はいびつな笑顔を作った。
決定的に何かが不足しているのに、それで完成しているような笑みだ。
その穏やかな顔には巴に報復しようなどという負の感情は見受けられない。
「僕には先輩しかいないんです」
まるで隆人は救いの女神のように巴を崇めていた。
巴は隆人と同じ闇を持っている。だけれども、彼の孤独を癒す方法など何ひとつ知らない。
自分だって誰かにすがりつきたくなるのを必死でこらえているのだ。
同じ属性の者同士が手を取りあったところで、待っているのは破滅だけだ。
一歩一歩、隆人が重々しく距離をつめてくる。
あと一歩を残して足を止めて、薄闇をすかしてお互いに視線を交わす。
その一瞬の間を置き、何事もふっきった顔で、隆人は巴に手を伸ばす――。
「触るな」
巴は無遠慮な伸ばされる手をためらいなく打ち払った。
自分と同じく、他人のぬくもりを熱望している巴に拒絶されるとは微塵も思っていなかったようだ。隆人は固まっている。
「互いに傷をなめあうとでも言うのか。笑わせる。そんな惨めったらしい真似誰がするか!」
彼を挑発してはいけないと思いつつも、巴はありったけの侮蔑をこめて、高らかに言い放っていた。
少しの憐憫も彼には抱かなかった。あるのは同族嫌悪、それだけだ。
隆人は放心していた。
まさに今、彼の中で“古賀 巴”の理想像は音を立てて瓦解しているだろう。
呆然としている隆人の手から電子辞書を奪う。それどころではないのか、あっさりと手放してくれた。
電子辞書が手元に戻ってきたことで、当初の目的は果たされた。これ以上ここにとどまるのは時間のムダだ。
巴は隆人には目もくれず、戸口に向かって歩き出した。
そのとき、まったくもって巴は油断していたのだ。女々しいやつよ、と隆人を甘く見ていた。
教室を出る寸前のところで、隆人が奇声を上げながら、巴の背後から肉迫する。
異常な事態に、振り向いたときにはもう遅い。力任せに腕を引かれ、そのまま規則正しく並んだ机の方へ突き飛ばされる。
「――っ!!」
なすすべもなく、机の列を乱しながら床に倒れこんだ。
椅子や机がふれあい、けたたましい音が響く。
「……っう……」
机の角で脇腹を強打し、押し寄せる痛みに体を起こすことさえ難しい。
床の冷たさを頬に感じながら腹を押さえ、痛みに耐えるように体を折る。
こうして動けなくなっている間にも、隆人は机をかき分けてこちらに近づいてくる。
巴は力が入らない手で、スカートのポケットを探った。指先に固い感触――携帯電話だ。
手をポケットに入れたまま、記憶と感覚を頼りにボタンを押す。隆人に気づかれては一貫の終わりだ。
頼む、誰かにつながってくれ――そう胸中で懇願した瞬間、頭上に影が差した。
体が重い。ぼんやりと上へ視線を巡らす。
隆人が肩で息をしながら、倒れている巴を見下ろしていた。
「あなたが悪いんだっ!」
裏切られた怒りを叩きつけるように、隆人は叫んだ。
巴は痛む体を隆人に向けているのが精一杯で、何の反応も起こせない。
そんな様子に業を煮やしてか、荒々しく巴の腕をつかむと、無理やり身を起こさせた。
その反動で、ポケットから携帯がこぼれ落ちて、乾いた音をたてる。
それをすかさず隆人は蹴りとばした。深紅の携帯は机の間をぬって、教室の端まですべっていく。
携帯が巴の手に届かないところまで行ったのを確認してか、腕をつかんでいた隆人の力が緩む。
安心したのもつかの間、左肩を蹴られ、巴は再び仰向けに倒れた。
したたかに全身を打ちつけ、体中がちぎれるような心地がする。
苦悶にうめく巴の上に、すぐさま隆人がおおいかぶさった。
力の抜けた巴の両手はひとくくりにして握られ、床にぬいとめられる。
胸元のリボンをするりと抜かれれば、これから何をされるかわからないほど、世間知らずではない。
だが、抵抗しようにも、痛みは熱に変わり、頭は働かなくなってきていた。
無防備にさらした首筋へ、隆人が顔を埋める。獣が獲物の喉笛に噛みつくようだ。
湿った感覚を首に感じて、否応なしに体が跳ねた。
「……いや、だ……壮司っ!」
無意識に助けを求めてもれた名前に、巴はハッとした。
今、一番言ってはいけない名だ。
にわかにぶわりと隆人の怒気がはち切れそうに膨張する。
即座に乱暴な手つきで胸ぐらをつかまれ、上半身が宙に浮く。
次の瞬間、空を切りながら隆人の平手が飛来し、小気味いい音が室内に響いた。
たちまち血の味が口内に広がる。頬をはられたのだ。
あまりに強い衝撃に、意識が朦朧とする。
圧倒的な暴力を前に、恐怖心すら麻痺していた。
焦点の合わない瞳で茫然と虚空を眺める。
扱いやすくなった巴の襟元へ、隆人の手がかけられる。
巴が身をよじる間もなく、手荒く制服の前がひきちぎられた。
スナップが飛び、開かれた胸元が冷たい外気にさらされる。
一気に覚醒し、頭が真っ白になった。
汗をかいた手で、体をまさぐられて虫酸が走る。
自分の知っている手はこんなものではない。不器用だが、もっと大きくて、優しくて――壮司。壮司、壮司!!
「古賀っ!!」
扉を勢いよく開く音がして、聞き覚えのある声が耳朶を打った。
きつく閉じていた目を開くと、戸口に立っていたのは息を切らせた健一郎だった。
―◆―◆―◆―◆―
健一郎は運悪く、今月は外掃除だった。
この時期の外掃除は最悪だ。屋外は寒い上、主な仕事内容は雪かきだ。
やたらと時間がかかり、重労働なのだ。
今年初めての深雪となった今日、健一郎たちはさっそく借り出され、汗をかきながら大量の雪を通路から除いた。
身をかがめての作業に、すっかり腰が痛くなった頃には大半の生徒たちが校舎からいなくなっていた。
そうしてやっと、清掃監督の教師が外掃除の終了を申し渡した。
健一郎は一目散に教室へ荷物を取りに戻る。散々こき使わされたせいで、すっかり部活に行くのが遅くなってしまった。
暖房の名残が少しもない冷えきった教室でメッセンジャーバックを肩にかける。
何となく携帯をポケットから取り出すと、その背面が光って着信を告げていた。
携帯を開いて、ディスプレイを見ると、巴からの電話だった。
珍しいな、と思いつつ、通話ボタンを押した。
「もしもし、古賀? どうした」
『……』
向こうから応える声はない。
「古賀……?」
イタズラ電話かと思ったが、あの巴に限ってありえない。
耳をそばだてれば、何やら音がする。ガタガタと耳障りな音だ。
健一郎が連想したのは清掃時の机を運ぶ音だった。
次いで聞こえてきたのは、誰かが罵る声だった。
何と言っているかまではわからない。しかし、電話ごしでも声にこめられた明確な悪意がまざまざと伝わってくる。
決してテレビの安っぽいセリフなどではない。現実に今進行している生の声音だ。
「けんいちろー、何険しい顔してんの?」「彼女からの別れ話とか?」
健一郎よりも一歩遅れて教室に戻ってきた級友たちがくだらないことを口々に言いあい、笑っている。
だが、健一郎は今だけは彼らにとりあわず、その脇を急いで抜けた。
「けんいちろー……?」
ただならぬ自分の様子に呆気にとられている彼らを残して、健一郎は廊下を全速力で走り始めた。
これが単なる健一郎の取り越し苦労ならば何の問題もない。
けれども巴は今、簡単に境界線を越え、“向こう側”に行ってしまいそうな不安がある。ささいな異変でさえ見過ごせなかった。
健一郎が目指すのはただ一点。二のAの教室だ。
そこは巴のクラスである。普通に考えれば机と椅子があって、なおかつ巴のいる可能性が高いのはそこだ。加えて、電話の先から野球部のかけ声がほんのかすかに聞こえたのだ。
この天候ではグラウンドで練習するのはまず無理だ。
となると、考えられるのは屋内練習場である。屋内練習場は理系棟のすぐ側に立地していた。
健一郎の教室がある特別棟から、理系棟までの距離は遠い。
二年理系クラスが立ち並ぶ廊下に来たときには、すでに息が上がっていた。
こみあげる息苦しさを、早い呼吸で押さえつけながら、廊下のつきあたりまで駆ける。
他の教室はドアなど無造作に開け放たれたままだというのに、A組の教室だけはぴったりと閉まっている。
確実に中から漂う人の気配に、健一郎は迷いなく目の前のドアを引いた。
「古賀っ!!」
薄暗い教室にやけに自分の声が響き渡る。
室内を見回し、飛び込んできた光景に目をみはった。
ぐしゃぐしゃに乱れた机。その中央に折り重なる人影が見えた。
上に乗っていた人物が健一郎の登場に驚き、飛び退く。
まっしぐらに逃げ出そうとする彼を逃がさまいと、体はひとりでに動いていた。
「おとなしくしろっ!!」
健一郎に難なく捕まえられた後も、往生際悪く彼は暴れた。はがいじめにされても、何とかして拘束を解こうと手足をばたつかせる。
「いい、貢。離してやれ」
いつになく角がとれて、か細い巴の声が、健一郎の腕を緩めた。
その隙を逃さず、彼は慌ただしい足取りで、脇目もふらず走り去っていく。
健一郎はただちに床に倒れている巴に駆けよった。
「古賀! 大丈夫か」
ぐったりと四肢を投げだすその姿に、息を飲んだ。
無残にくつろげられた胸元からのぞく白い肌が暮色の中で浮かび上がっている。口の端から流れる血はぞっとするほど赤く、腫れあがった頬は見るにたえない。
巴が暴行されそうになったのは明らかであり、こういうとき男の自分は何と声をかけていいかわからない。
とりあえず、自分のブレザーを脱ぎ、そっと彼女にかけようとしたそのとき、目にもとまらぬ早さで巴の手が伸びた。
その細腕のどこにそんな力があるんだと、問いかけたくなるような強さで、胸ぐらをひっつかまれる。彼女の顔が息のかかりそうなほど間近にあった。
「壮司には言うなっ……!」
こちらを射る巴の目には、強烈な光が爛々と輝いていた。
否、と言うことを許さない、燃え尽きる前の炎のようなきらめき。
「言わねえよ」
そう答えるしかなかった。
おおげさかもしれないが、ここで拒絶したならば殺されそうなほどに彼女は極限まで張りつめていた。
こんな口先だけの約束を、必死になってとりつける彼女が痛々しかった。
望む答えが得られると、巴は何事もなかったかのように立ち上がって帰ろうとする。
それでも、殴られた箇所が痛むのか、はたまた恐怖の余韻か、細い体は時折ふらついた。
「古賀、待てよ。無理すんな」
今ひとりで帰らせては危険だ。
健一郎は急いで巴の肩をつかみ、引きとめようとする。
肩に置いた手には少ししか力をこめていないのに、巴の体は均衡を失って傾いだ。
「うわっ」
糸が切れたかのように、巴の意思を少しも感じさせず、彼女の体は床へ崩れる。
その体が地面に叩きつけられる前に、健一郎は死に物狂いで巴を引き寄せる。
彼女を庇うようにすっぽりと抱き込み、固い床に思いきりしりもちをついた。
「ってー……」
一時の衝撃が過ぎ去ると、尻へ痛みと冷たさが同時に押しよせる。
それらに顔をしかめながら、慎重に巴の顔をのぞきこむ。思った通り、健一郎の腕の中で、巴は完全に気を失っていた。
血の気のない造りものめいた顔は、いつもの巴と同一人物には思えないほど弱々しかった。
無意識下の行動だろうが、巴は緩く健一郎の制服を握っていた。
丁寧にその手をほどく。よりどころを失って、華奢な手がかすかな音を立て、床に落ちた。
穏やかでない、その寝顔を眺めつつ、健一郎は思う。本当は不動に来てほしかっただろうに、と。
ここへ来る最中、耳にあてた携帯電話からもれた巴の声。
『嫌だ、壮司』と声をしぼりだし、助けを呼んだのだ。
細く息をつき、巴の乱れて顔にかかった髪を直してやる。まぶたがわずかに震え、涙が流れた。
意識がないまま、弱りきった姿をさらす巴に、やるせなくなった。
巴は普段が非の打ちどころがないだけに、その落差に驚かずにはいられないのだ。
しかし、彼女が求める壮司は巴の彼氏でもなければ、庇護者でも肉親ですらない。負い目はあっても、巴に対して何の責任もないのだ。
それでも、つぶやかずにはいられない。
「不動、早く来いよ……」
お前の大事な巴が、お前の知らないところで身も心も傷だらけになって泣いている。
それこそ壮司は掌中の珠のように、巴を大切に大切にしてきた。それはおそらく、芙美花に恋をしても変わらないだろう。
その女を他の男に踏みにじられていいのかよ。そう声を大にして言ってしまいたかった。
「……」
かすかな声がした気がして、視線を下に下ろす。
「そう……じ……」
巴の唇がほとんどわからないくらいに動き、もっとも愛しい者の名を紡ぐ。
また一筋、閉じられたまぶたから透明なしずくが滑り落ちた。
どうしていいかわからなくて、健一郎は拍子をとって巴の背を軽く叩く。
次第に強ばりが抜けていき、巴はやっと深い眠りに落ちた。
せめて夢の中では安らかであるように、と健一郎はひそかに願った。