第3幕
今年最初の木枯らしが、ざっと髪を巻き上げる。
「悪いが――」
巴は夜半の空のような黒い本を差し出した。
結局、返事は書けなかった。何度も書こうとしては、真っ白な便せんだけが後に残った。
目の前の猪野 隆人は愕然とした顔でこちらを見ている。
先程、巴が図書館のカウンターに姿を見せたときの表情とはうってかわって、世界の絶望を一手に引き受けたかのような顔つきだ。
呆然とした隆人の足元で枯れ葉がカサカサと音を立てている。彼の求めに従い、やってきたのは図書館の裏手だった。
まだ放課になって一時間も経っていないのに、太陽は地平線へ隠れようとしている。冬の無慈悲な冷気が忍びよってくる。
「なん……でですか? 不動先輩とは別れたんですよね?」
驚愕をそのままぶつけた稚拙な問いに、巴は心中で嘆息した。
彼は根本的にわかっていない。別れたからといってすぐに次へ向かえれば、世の中苦労しない。
それでも、巴には人並みの罪悪感があった。隆人の率直に悲しみを訴えてくる目に、並相応の良心の呵責を覚えた。
なるべく丁寧に答える。
「今は恋愛とかする気はないんだ。だから……」
これでは失恋の傷が癒えてないから、と言っているようなものだ。それはある意味偽らざる本音なのだが、口に出してしまった自分が忌々しい。
「不動先輩のこと、まだ好きなんですか?」
ぬけぬけと尋ねられて、ほとんど変わらない表情の下で巴は驚く。
その驚きがいらだちに代わるまで、そう時間は要さなかった。
もともと隆人のやり方には最初から好感を抱けなかった。
壮司と別れたという噂に飛びつき、すぐさま告白をしてきたのが卑劣に思えた。
失恋の痛手を負った今なら、こちらが御しやすくなっていると踏んでの行動だろう。その計算高さも気に食わなかった。
しかし、今は自分自身も気持ちがささくれだっていて、物事を悪くとらえがちなのも自覚していた。
「だから何?」
もうとりあうのも面倒になってきて、開き直った。
巴の冷淡な視線に射ぬかれ、隆人は身を縮こませた。
「俺、不動先輩の代わりでも構いませんから……」
蚊の鳴くような声だったが、巴が面食らうには充分だった。充分すぎた。
ずいぶん見くびられたものだ。この自分が寂しさを紛らわそうとして他の男が必要だと思われたのだ。
屈辱だった。
「あいにく壮司のような男はなかなか見つからなくてな」
言外に、貴様など壮司の代わりにもならない、という意を込める。身代わりにされて満足するような気骨のない男など、こちらから願い下げだ。
そう思うと、いっそ残酷になれた。
巴は毒を隠して微笑む。
「告白ありがとう。うれしかった」
心にもない言葉で、一方的に畳みかけ、巴は固まっている隆人に背を向けた。
いい退屈しのぎにはなったさ、と胸中でつけくわえた。
「あっ……」
隆人があわてた声を上げたが、巴は振り向かずに歩みを進める。
告白自体は風変わりでおもしろかったが、隆人本人からは陳腐な台詞しか聞けなかった。
急速に自分の中で彼への興味が冷めていき、なけなしの同情すら跡形もなくなっていた。
枯れ葉を踏みしめる歩調を崩さないように努めながらも、静かな怒りが巴の中で沸き上がっていた。
――つけいる隙があるなどと思うなよ。
こちらが弱っているなどと決めてかかるのは、大間違いだ。
巴を支配するのは失恋の悲しみなどではない。凶暴で生々しい感情が飢えを満たそうと、常に噛みつく相手を探していた。
聞けば壮司は最近、勉強に部活に一層精を出しているらしい。彼なりに抱える行き場のない思いを昇華しているのだろう。
自分は彼とは違い、そういう正の方向へベクトルは向かない。正常とも異常ともつかない狭間に属し、ときに冷酷にも残忍にもなれた。
人を人とも思っていなかったのだ。
今の自分を壮司が見たら何と言うだろう。お説教が好きなやつだから、くどくどと正論すぎるほどの正論を並べ立てるだろう。それで最後にはしっかりしろと喝を入れるのだ。
切なさよりも小さな笑いがこみあげてきた。
こんな愚にもつかない考えを慰めにして日々を過ごしているなど、滑稽で笑うしかないのだ。
そして笑みの後にはざらついた悪意だけが残った。……少しの虚しさとともに。
巴は晩秋のもの寂しさと、初冬の静謐さの混じり合う中を、脇目もふらずに突き進んだ。
周りの景色も見えてなければ、隆人のことも積み重なる日常に押し退けられ、薄情にもすぐに忘れてしまうのだった。
―◆―◆―◆―◆―
会って何を言うつもりかはわからなかった。
ただ会わなければ、顔を見て話さなくてはと思っていた。
「あっ……!」
チャンスは突然に訪れた。
教室移動の最中、廊下を歩く巴を見つけたのだ。
十一月の下旬だというのに、真冬のように寒い一日で、重くたれこめる曇天からはいつ雪が舞い降りてきてもおかしくない状況だった。
そのせいか、寒々しい廊下には人が少なかった。
「ごめんねっ。先に行ってて!」
行動をともにしている友人にぞんざいに言い置いて、走りだす。彼女たちが驚いているとか、授業開始時刻が迫っているなどと考える余裕はなかった。
予想外の邂逅。巴ですら予測不可能だったこの遭遇を逃しては、次にいつ機会が巡ってくるかわからない。
何せ巴は、芙美花の行動パターンをすべて知りつくしているかのように避けていたのだから。
「古賀さん、待って!」
なりふり構っていられなかった。
対照的に巴はあんなにも遠ざけていた相手に会ったというのに、特に取り乱す様子もなかった。
芙美花に無感動な一瞥を与えただけで、何事もなかったかのように理系棟へ歩みを再開する。その姿は煩雑な現実との関わりを断っているように見えた。
芙美花はその背をひたすらに追いかける。
「古賀さんっ、話がしたいの!」
この千載一遇の契機を逃すわけにはいかないと、芙美花は必死だった。彼女の腕に取りすがり、その顔を見上げる。
「放せ」
冷酷なまでの視線が、上から注がれる。知らない者を見るかのように、少しの温度も宿らない無慈悲な声。すくんで動けなくなりそうだ。
「嫌っ……!」
少し触れただけでも伝わる、切れ味のよい刃物のような鋭さ。本能的な恐怖を禁じえない。
それでも腕を離してはいけないと思った。
巴は狂気すらその内に飼っているような気がした。凄烈でいて、相反するような脆い繊細さを内包しているように思えた。
そして質の悪いことに、それを自覚しているのにもかかわらず、甘んじているように見えた。むしろ闇に身を浸すことに愉悦すら感じているようだった。
今の古賀に話しに行ったって、メタメタに――。
健一郎の言ったことはこのことだったのだ。
痛み分けどころか、太刀打ちすらできないだろう。
「古賀さん……」
二の句が継げない。
ほの暗い享楽に沈む巴はあまりに遠くて、今までの彼女ではなかった。
油断するとその深淵に引きずりこまれてしまいそうだった。
「どうしちゃったの……?」
呆然と呟く。
こんな巴は知らない。有能さに裏打ちされた自信を持ち、常に冷静で堂々とした彼女はどこへ行ったのか。
芙美花の怯えを嘲笑うかのように、巴は口の端をつりあげた。
「どうしたもこうしたも私はいたって普通さ」
芙美花はその微笑にゾッとした。
この笑みは異質だ。
負の属性をありありと示しながらも、人を惹きつけてやまない。
少なくとも、健全な高校生の笑顔ではなかった。
「どこが普通なの。そんな顔してどこが普通だっていうのっ!?」
周りの生徒たちが興味本位の目を向けてくる。
それが欝陶しくて、無理やり巴の手を引いて、目立たない廊下の門に移動した。
巴を壁側に立たせ、相対する。
「その様子じゃ、ろくにご飯も食べてないんでしょ? あんまり寝てもいないんでしょ?」
間髪容れずに、芙美花は巴の両肩をつかみ、詰問した。
巴は痩せた。もともと薄い体が一層細くなった。
だが、やつれたという風情ではなく、そのかげりは生来の美貌にますますの磨きをかけた。
眼光だけが冴えわたり、狂おしいまでの魅力を発していた。
「しっかりしてよ。自分を取り戻してよ!」
逃げだしそうになる自分を叱咤して芙美花は言い放つ。情けなくも足は震えていた。
争いを好まない芙美花にとって、同性に怒鳴り声を上げるのは初めてのことだった。
「……」
重い沈黙が落ちる。
巴の表情は一分たりとも動かなかった。ゆったりとした動きで、自分の肩から芙美花の両手を外させる。
「……私にこれ以上何を望む?」
巴の目がスッと細められた。
芙美花は身構えた。いよいよ巴を怒らせたのかもしれない。
「私は公私混同はしていない。このことで桐原に迷惑をかけたことはないはずだ」
怒鳴り声ではなかった。
その言い草は実に淡々としていて、当初心配していたような“女”の部分が先行しているということはない。
そこは腐っても巴なのだ。
「迷惑とかそういう話じゃないの!」
普段なら一を聞いて十を察する巴だが、今回ばかりは話が通じない。自分との間にズレが生じる。
彼女はもはや芙美花との間に温かな感情が通い合うことがないと決めつけている。あるものは生徒会のメンバーだという事務的なつながりだけだと思っているのだ。
「生徒会の仕事を完璧にやるってことじゃないの」
そこで芙美花は一拍おく。顔が歪むのを抑えられない。
「……あんまり心配かけないでよ」
やっとの思いで、言葉を絞りだした。
自分がこんなことを言うなんて、何ておこがましいことだろう。彼女の幸せそのものである壮司を奪った張本人だというのに。
だが、今の巴が尋常でないのは、平生から彼女とつきあいがある者ならすぐにわかる。その上、急落した試験の結果などで外的にも表れているのだ。
自分が普通だと思っているのは巴しかいない。
「理解者きどりか」
鼻で笑われ、あっさりと一蹴される。巴はこの期に及んで自分の不安定さを認めたがらなかった。
「っ……」
どうしようもなく心がひるむ。
芙美花とて巴が一筋縄でいくとは思っていなかった。
しかし、今の巴は予想以上だった。芙美花を傷つけることに何の抵抗もない。
傷つけあうことを望む、倒錯的な精神のあり方だ。
「偽善者が。親切の押し売りなら他でやれ」
巴の言葉は容赦ない。
醜い本心を、ごてごてとした虚飾で耳触りよく固めがちな人々とは違う。
芙美花は腹に力を込めた。
「偽善者に見えても仕方ないよ。私のこと嫌いでも構わないから……!」
なおも言い募ろうとした芙美花を、巴は笑みで封じた。こちらを馬鹿にした表情を妖艶さで覆った、何とも言えない微笑だった。
そして、そのまま身を寄せてくる。
「……迷惑だと言っているんだ」
今までとはうってかわって柔らかな口調。
とっておきの秘密でも教えるような、こちらの心をとらえて離さない物言いだった。
それにもかかわらず、冷気が芙美花の背をなでる。鋭い刃物を首に当てられたような錯覚に陥った。
怖い――。
刃の無機質な冷たさが、直に伝わってくるかのようだった。
何か言わねばと思えば思うほど、体は萎縮して動けない。
ちょうどそのとき、早鐘を打つ芙美花の鼓動より、ずいぶんテンポの遅い本鈴が鳴り響く。
バタバタと生徒が教室へ駆け込んでいく。
最後の音階が上がって下がっても、巴は動かなかった。
芙美花も恐れをどうすることもできずに、ただ立ちすくんでいた。
やがて余韻が幾重にも反響し、辺りは静けさを取り戻していく。
廊下には誰もいなくなり、しん、と冷気が重くなる。
芙美花の耳の側で、巴の髪が透明な音を奏でる。
気がついたときには巴が芙美花の横を通りすぎていた。
すれ違う瞬間、甘い香りが鼻をかすめた。彼女が愛用している水仙の香水だ。
いつもは甘くて癖がなくていい香りだと思うそれも、今日ばかりは人を堕落へと誘いこむ、禁断で甘美な芳香にしか思えなかった。あでやかな毒が馥郁と香っていた。
授業中の廊下に巴の遠ざかっていく足音だけが響く。
芙美花にもたらされたのは、巴とわかりあえなかった落胆ではなく、とてつもない安堵だった。
今さらながらに手の震えに気づく。
その手を眺め、固く握った。
自分はまったく巴に必要とされていなかった。それこそ欠片ほども。
彼女は安易な共感など、少しも求めていない。
よどんだ瞳の中にはギラギラした野心がある。それはさながら飢餓を満たそうとする獣のようだった。
芙美花はその格好の獲物だった。
彼女の欲はいつまでも満たされないままだったので、芙美花を傷つけることによって一時的にでも解消したかったのだろう。
そんな感情のはけ口でしかない自分が、巴の助けになりたいなどとはうぬぼれもいいところだ。
許婚、不妊――それらの単語が頭を巡る。
自分は無力だ。
手の震えは恐怖から、無力感にうちひしがれたものへと変わる。
悔しくて、もどかしかった。
授業中にもかかわらず、廊下にいるのを不審がった教師に声をかけられるまで、芙美花はその場から動けなかった。
手にありったけのどうしようもできない苦々しさを抱えて。