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かざす花  作者: ななえ
第5章
22/68

第2幕

 後期第二回考査は惨憺たるありさまだった。

 ある程度は覚悟していたことだ。試験前だというのに、勉強らしい勉強などしなかった。テキストを開くと集中力が散り散りになり、結果読書に現実逃避していた。

 著名な哲学家や、評論家の文章を好んで読みあさり、その難解な文章を飲み下すことに全神経を傾けた。

 それがおもしろいか否かは問題ではなかった。一時的でも思考を埋めてくれるならば、手段も中身も厭わなかった。

「失礼します」

 巴は本館二階、職員室に隣接する生徒指導室の戸を引いた。

 模範的な優等生だった巴には、まったく縁のない場所だったが、今日担任から呼び出しを食らい、初めて足を踏み入れることになった。

「あぁ、古賀。とりあえず座れ」

 すでに中で待っていた担任が、鷹揚に椅子を勧めた。

「はい」

 言葉に従い、スカートを押さえつつ、粗末なパイプ椅子に腰かけた。

 巴が姿勢を正したところで、彼は目の前のテーブルに今回のテストの個表を広げた。

「どうした? 今までにないくらい点数が落ちているじゃないか」

 詰問口調ながらも、その声色に巴を責める響きはない。むしろ労りに満ちている。

 彼が咎めより、心配で巴に接するのは教師として当然のあり方だった。ちょっと勉強を怠ったという下がり方ではない。

 数日前、廊下に貼りだされた順位表に、定位置である左端に巴の名前はなかった。それどころか、B組が大半を占める三十位代も後半の三十七位に急落していた。

 これでは教師が異変を疑うのも無理からぬことだ。自分の弱さを見せつけられた気がしてひたすら情けなかった。

「何があったんだ? よかったら話してみろ」

 教師の親身な申し出にも巴は心中で知ってるくせに、と悪態をつく。教師というものは、生徒が思うよりずっと、こちらの内情を把握しているものだ。今さら『何があったんだ』とは白々しさに笑いたくなる。

「いいえ、ただ私の勉強不足です。先生にお話しするようなことは何もありません」

 頼まれても教師に相談する気などさらさらなかった。

 いろいろと複雑な事情はあるものの、端的に言ってしまえば、たかが失恋なのだ。誰もが一度くらいは経験する、掃いて捨てるほどよくあることだ。

 巴は古賀家から近い将来縁を切ってもらうつもりだ。加えて生涯結婚する気もない。

 これからひとりきりで生きていくのに、これしきのことが処理できないとあっては、到底やっていけない。

 巴の取りつく島もない物言いに、教師もひとまず閉口し、再び散々な個表に目を落とした。

「……あまり言いたくないが、この次もこの成績を取れば、A組残留は危ないぞ」

「肝に命じておきます」

 祖母から勘当してもらうにあたって、もっとも差し迫った問題であるのが大学の授業料だ。

 アルバイトで稼ぐのはもちろんのこと、生活費も捻出しなくではならない。なるべくなら返還義務のない奨学金を獲得したいと思っていた。

 校内選考には成績も吟味される。上位を維持するのは絶対条件で最低条件だった。

 自分が今、何をすべきであるかなど教師に言われずともわかっていた。どの奨学金に応募し、どの大学に進学すれば壮司や家と関わりを持たずに済むのか――すべて事前に綿密な計画を練ってあった。

 ただ、今の自分の状態だけが予想外だった。

 覚悟はとうにできていたはずなのに、思った以上に動揺している。現実から目を背けなければ、日々の重さに押しつぶされそうだった。

 壮司を失ったことを、今でもまだ真正面から受け止めきれずにいたのだ。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。次は必ず調子を取り戻しますので」

 強い焦燥を押し隠して、巴は強く言いきった。

「わかった。だが無理はするなよ」

「……はい」

 今、無理しなくていつするというのか。巴は自らを偽ってでも、ごまかしてでも、普通を取り戻さなければいけなかった。

 スカートの上で、両の拳を握る。

 惨めさとみっともなさに埋もれて朽ちていくのは耐えがたかった。どんな手段を使っても、壮司と別れた後の人生を――これからを意義あるものにしなくてはならなかった。

 たとえそれが虚勢であっても、一向に構わなかった。

 壮司がいなくては自分が保てないなど、決して認めるわけにはいかないのだ。

 それが許婚としては不能である自分の最後の意地だった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

「今日も会えなかった……」

 芙美花は抱えた足の間に顔を埋めた。高い天井で、声が反響する。

「……そっか」

 隣で応じる健一郎は、自分に合わせて、やや沈んだ声で答える。

 巴と話がしたくて、追いかけ始めて何日が経っただろう。いまだめぼしい収穫はなかった。

 同時に、こうして一日の終わりに、寮の階段で健一郎に報告するのも日課になっていた。

 二人で並んで腰かける階段は冷たく、床と接した部分の熱が奪われていく。

 それでも、暖房がきいた談話室で話すわけにはいかない。

 巴と壮司がああいう状態なのに、彼らに見える場所で健一郎と話すことははばかられた。

「どうすればいいんだろう……」

 一向にこの重苦しい状態を打破する方法が見つからず、思わず弱音が口をついた。

 巴は頭がいいだけあって避け方も徹底している。普通に生活しているように見せかけて、次々と接点を断っていった。

 現に今も、消灯までの時間を寮内の学習室で過ごし、こちらがたやすく話かけられない状況を作り出していた。

「なぁ、芙美花。もうそっとしておいた方がいいんじゃねえの?」

「え……?」

 思わぬ言葉に、健一郎を振り仰いだ。

 ずいぶん薄情だと思い、憤慨気味の視線を送ろうとして、止めた。健一郎は思いのほか、真剣な顔つきをしていた。

「悪いけど、俺には芙美花が出てったところでどうにかなるとは思わねえ。それに……」

 健一郎はそこでらしくなく言い淀んだ。

「それに?」

 じれったくなり、言葉を急かす。彼の表情からしていいことでないのは明らかだ。

「……それに芙美花が古賀と話したいのは、本当に古賀を思ってのことなのか? 罪悪感を紛らわしたいだけじゃねえの?」

 冷水を浴びせかけられたかのようだった。

「……」

 唇を強く噛む。また、自分本位で突っ走ろうとしていたのだ。

 行きどころのない感情をこめて、足を抱える手の力をこめた。

「……わり、言い過ぎたわ」

 言葉をなくしたこちらを気づかうように、健一郎は芙美花の頭をひとつなでた。

 健一郎の言っていることは正しい。しかし、それを認めてしまえば、芙美花に打つ手はなくなるのだった。

「芙美花がさ、古賀を心配してんのはわかるよ。だけど、下手に今の古賀に話しに行ったって、メタメタにされるだけだぞ」

 巴の気持ちを考えれば、芙美花のしようとしていることは酷だ。巴が芙美花との会話を頑なに拒絶しているのは火を見るより明らかなのに、それを強いるのだから。

 それでも、今の巴の姿が完全に自分たちの前から姿を消そうとする、その助走期間のように思えてならないのだ。

 やりきれない想いを抱える巴が、壮司の影を懸命に振り切ろうとしているのが見えるのだ。

 巴に留まって欲しいと願うのは、芙美花の身勝手な欲望でしかない。

「……でも、話さないと取り返しがつかなくなる気がする」

 巴の大部分を占めていただろう壮司の存在を失って、からっぽの心で一体どうやって生きていくというのか。

 巴が問題を乗り越えて、前へ進んでいるとはとても思えない。

 だからといって、彼女の――彼らの問題は深刻で、芙美花はどうしていいかわからなかった。

 健一郎がはぁ、と息をつく。

「話してどうする。古賀が芙美花に対して冷静かどうかも怪しいだろ」

 何の進展もない痛み分け。健一郎はその可能性を示唆しているのだ。

 巴が普段いくら理性的であろうとも、それはこの際問題ではない。

 壮司のことが絡んだ彼女は、別人な可能性だってなきにしもあらず、嫉妬に狂い理不尽な怒りをぶつけてくることだってないとは言いきれない。

 それはある意味女として当然のあり方であり、友情とは相容れない。結果、傷を深め合うだけかもしれない。

「だけどこのままじゃ……」

 誰も彼もが救われないままだ。

 芙美花に策を弄する頭はない。ならば体当たりでぶつかっていくしかない。

 生半可な覚悟では、その閉ざされた心の奥へは入れないだろう。

「私、あきらめられないよ」

 身勝手でも罪悪感を拭うためでも、今動かなければならないのだ。他ならぬ今でなければ。

「今話さなくていつ話すの?」

 声が震えた。泣きそうだ。もう一度顔を足の間に埋めた。

「……わかったよ」

 また健一郎がため息をついて、立ち上がった。その呼気には、少しの呆れとそれを大いに上回る優しさがこめられている。

「芙美花の思うようにやれよ」

 健一郎がこちらの二の腕を取り、立たせた。芙美花は一段高い場所に立っているので、健一郎と同じ位置で視線を交わす。

「古賀に思いが伝わるといいな」

「うん……」

 芙美花は神妙に頷いた。

 はからずも彼らの事情を知ってしまった芙美花は、最大の理解者に転じるきっかけを得たのだ。

 逆に理解者たれなければ、壮司も巴も秘密を知られてしまった芙美花を遠ざけにかかるかもしれない。理解者如何にかかわらず、問答無用でそうするかもしれない。

 特に壮司は巴を守るためにその可能性が高い。それに、彼には芙美花を避ける理由が余りあるほど存在するのだ。

 そう考えると、チャンスを得た以上に、芙美花の立ち位置は不安定だった。

「不安そうな顔すんな。古賀の友達だろ?」

 健一郎が勇気づけるように、芙美花の背を軽く叩いた。

 友達――。芙美花は目を見開く。

 それはこの上なく、自分を後押しする言葉に思えた。

「うん、友達」

 驚くほどすとんと胸に言葉が落ちてきた。そして、そこでほのかな光を発している。

 この思いが一番大切だ。きっと勝るものは何もない。

 芙美花は目を伏せ、その灯火をそっと確認したのだった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 それは本を含めて、ひとつの告白となっていた。

 闇の底のような黒い表紙を開くと、希代の美女に振り回される憐れな男の人生がつづられていた。奔放な彼女に振り回され、疲れ果てた男の無理心中によって幕を閉じている。救いがなく、後味が悪い物語だった。

 彼からの手紙もこの調子で書いてあるのかと思いきや、対照的にこちらが恥ずかしくなるような熱っぽさで、切々と自身の想いの丈をぶつけてきた。あまりの熱烈さに何度か読むのをやめようかと思ったほどだ。

 それだけならまだいい。自分と例の美女を重ね合わせて見ているのは明白で、ますます頭が痛くなった。

 自分はいくらなんでもここまで悪女ではない、と思いつつも、どう返事をするべきか思い悩んだ。

 彼――猪野 隆人は巴本人を見ているのではない。自分が傾倒する世界のフィルターをかけて、巴に理想を投影しているのだ。巴は見た目が彼好みの、単なる入れ物でしかない。

 断るのは大前提としても、どう断るか迷いどころだった。

 今までは壮司がいるからで済んだが、今回はそうもいかない。自分たちが破局したのは、すでに周知の事実だ。

 こちらも手紙で済ませようかと、便せんを出しては見たが、いざ書こうとすると煩わしさにペンを置いた。

 そのまま、机に頬をつけた。

 何となく面倒で、疎ましい。

 机の上で無造作に流れる髪をぼんやりと眺めた。白熱灯で、それ自体が呼吸しているかのように艶めいている。

 その果てのない黒さにうんざりして、視線を上にずらす。机の端に財布とカードケースが几帳面に並べてあった。手探りでカードケースの方を取る。

 怠惰な姿勢のまま、カードケースからピンクの診察券を抜いた。コウノトリが描かれている産婦人科の診察券だ。

 それを焦点の合わない瞳の中にただ映し続けた。

 祖母に言われるがままに産婦人科で治療を受けてきたが、せいぜい薬で月経の周期を整えるぐらいだった。

 それでも、産婦人科で場違いな巴に向けられる視線は俗な好奇心ばかりで、居心地が悪かった。幸せそうに腹をふくらませた妊婦を見て、まったく傷つかないといえば嘘だった。

 まだ“子供”の側である高校生にとって、自身の子を望む意識は希薄だ。それでも人生に影を落とすには十分すぎた。

 現にこうして、人生は変わった。

 巴は机の上に投げ出された手で拳を作る。

 ――負けてたまるか。

 悲嘆に暮れるなど、あってはならない。

 自分は祖母の人形でもないし、ましてや壮司に憐れみを向けられるほど落ちぶれてもいない。

 自分を卑下する必要などどこにもないのだ。

 なのに、この身をさいなむのは劣等感ばかりだ。

 穏やか顔立ち。自らよりも他人を顧みる性質。やわらかい雰囲気。そして何より愛する男の子供を生んでやれる体。

 芙美花にはそれがあった。かたや自分には何ひとつとしてなかった。

「……馬鹿なことを……」

 不毛な思いに沈むのはまっぴらだと、ふんぎりをつけるように産婦人科の診察券をゴミ箱へ落とした。

 ゴミ箱を視界から追い出すように、机の上で寝返りをうつ。

 今度はラブレターと真っ黒の本が目に入ってきてげんなりした。

 嫌になってまぶたの重さに任せて目を閉じてしまった。

 眠たいのに、妙に頭が冴々として、いつまでも心地よい眠りは訪れなかった。

 結局その夜、巴は一文字として返事を書けずに明かしたのだった。

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