第1幕
巴は天井まである本棚から、適当にひとつの本を抜いた。
ずしりとした重さと、押しつけがましい主張がない布製の装丁は、いかにも小難しげだ。
背表紙を開くと、そこには貸し出しカードがくっついている。寄贈されたのは、二十年前。それから今に至まで、借りた人数はゼロだ。
図書館の隅で、誰にも顧みられることなく、埋もれていたその本は、巴の琴線をいたく刺激した。
難しければ何でもよかった。ただ単に退屈しのぎの本を探していた。余分なことを考えずに、秋の夜長に没頭すべきものを求めていた。
巴には、これといった趣味がない。
中学に上がるまでは、祖母によって、伝統芸能と呼ばれる類の習い事をさせられていた。
どれもこれも、その道を極めようというものではなく、ありていに言えば、花嫁修行なるものの一環だったのだ。
無論、巴が好んでやっていたわけではないので、それは趣味たりえなかった。
かといって、時代遅れなあの家に育ち、パソコンやらテレビやらとは縁遠い生活を送ってきたので、気まぐれにそれらを楽しむことは思いつきもしなかった。
だから巴が暇つぶしに、平凡でよくある読書を選んだのは、ごく当然の流れだった。
貸し出しカウンターで、図書委員に言われるままにカードへ氏名を記入する。
立志院の広大な敷地の端に、忘れたように建っているこの図書館が、巴は好きだった。
冬には野生の椿が見事に咲き乱れ、建物を囲む鬱蒼とした雰囲気を和らげる。館内の古い本の香りも、古びたあの生家を連想させ、巴を落ち着かせた。あの家など虫酸が走るほどに嫌いなのに、ここは妙な郷愁をかきたてるのだ。
「十一月十八日までになります」
委員の男子生徒が丁寧に本をさしだした。
その手が、かすかに震えている。
「……」
彼の顔に視線を向けるが、長い前髪が濃い影を落とし、表情はわからなかった。
巴はその野暮ったさに、興味を失い、本を持って背を向けた。
「あ……」
名残惜しげな声が、巴の背へかけられるが、気づかないふりを決めこんだ。
彼に少しの温情も与えることなく、巴は図書館から出た。
外はもう日が落ちていて、日暮れの早さにはっとする。宵の色をした、冷たい空気を吸って、巴はため息をついた。
最近、他人と接するのがひどく億劫で、それ以上にうんざりしていた。
公の場では、努めて壮司と自然に接してきたつもりだった。公私混同は最も嫌うところであり、他者に弱味を見せることもまた、巴の矜持が許さなかった。
それでも周囲は何かしらの変化を敏感に感じとったらしい。
生徒総会の開催がさらに噂の回りを早め、詮索好きのクラスメイトが、壮司と別れたのかと聞いてきた。
別れた、そもそもつきあっていたと言うと語弊が生じるが、下手に否定するのも馬鹿馬鹿しい。流されるままに、そのまま認めてしまった。
人の色恋沙汰の何かおもしろいんだか、と心中呆れたが、こんな辺鄙なところに閉じこめられていては、娯楽に飢えていても仕方ない。マスコミよろしく身近なゴシップに飛びつくのもわからなくはなかった。
自分たちは生徒会長と副会長でとにかく知名度だけはあるのだから。
「古賀先輩!」
寮へ向かって、人気のない道を歩く巴を、誰かが呼びとめた。
聞き覚えのない声に、少しの不審を抱く。振り向くと、外灯の頼りない光に照らされながら、男子生徒が走ってきた。
長い前髪――さっきの図書委員だった。
「何か?」
涼しい顔で返すが、やっかいなものが来たなと、直感で感じた。
彼はひどく慌てていた。決して暑くはないのに頬は上気し、息をきらしている。図書館からここまで。目と鼻先ほどの至近距離だというのに。
「あの、古賀先輩」
もそもそと口内で呟いたあと、彼はおもむろに一冊の本を突き出した。
「これっ、読んでください!」
巴は目を丸くするしかなかった。
本。何の変哲もない一冊の本だ。だが、その一冊に並々ならぬ意味が込められているように思えて、受けとるのをためらった。
されどたかが本だ。物理的には人畜無害であることには違いない。拒否する理由も特になく、それを受けとるしかなかった。
「……」
ありがとう、と答えるのもおかしいような気がして、巴は無言を貫いた。
代わりに向こうが「ありがとうございます!!」と弾んだ声で言い、大仰なまでに頭を下げてきた。
唖然としている巴を残し、彼はスキップでもしそうな勢いで図書館へ戻っていった。
巴は手元に残った本を、まじまじと眺めた。
図書館独特の、透明なカバーがかけられたそれは、黒一色の表紙がやけに不気味だった。
何なんだ、一体――。
さっぱり彼の意図がわからなかった。
彼は自分に何を求めているのか。単なる読書仲間を求めているのなら、とんだ見当違いだ。この陰気な本は、巴の嗜好からはまるっきり外れている。
いつまでも考えていても仕方がないと、歩きだそうとしたとき、本から何かが舞い落ちる。
ひらひらと少し離れたところに落ちたそれを拾おうとして、巴の動きは止まる。
薄ぼんやりとした外灯は、それが白い封筒であることを浮かび上がらせた。
神経質な字で『古賀 巴様』と表に書いてある。それを拾って、ひっくり返した。
『一年英語科 猪野 隆人』
真っ黒な本には似つかわしくない、拍子抜けするほどに普通の名前だ。異常性を指し示すものではないはずなのに、どうにもこうにも斜に構えてしまう。
「……やっかいだな」
中身は見なくてもわかる。
見なかったことにしたかったが、さすがにそういうわけにもいかない。まさしくやっかい以外の何物でもなかった。
漆黒の分厚い本に、ラブレター。そのミスマッチな組み合わせに、巴は失笑を抑えることができなかったのだった。
―◆―◆―◆―◆―
「……よぉ」
購買一人気商品であるコロッケパンをほおばる壮司の肩を、誰かが叩いた。
「貢……」
壮司はやや驚きを込めて、その名を呼ぶ。ここは文型棟の屋上であり、スポーツクラスに所属する彼のような『ブレザーのやつら』は滅多に踏み入れない棟だった。
学生服を身にまとい、エリート意識に凝り固まった普通科生は、特別科の生徒を『ブレザー』と蔑称で呼ぶこともしばしばあった。
ここは健一郎にとって居心地のいい場所ではない。その上、宿敵である自分を訪ねてくるとは天変地異の前触れか、と疑いたくなる。
「何やってんだよ、こんなとこで」
疑問を先に口にしたのは健一郎だった。
吹きさらしの屋上。にぎやかな昼休みに、輪から外れてこんなところにいれば、不審に思われるのも当然だろう。
「お前こそ何だ。俺の顔なんか見たかねえだろうよ」
すっかり冷めたウーロン茶で、コロッケパンを流しこんだ。
健一郎にとって、壮司は宿敵からさらに格上げされ、憎き仇敵となっているはずだ。愛しの芙美花に横恋慕した害虫なのだから。
「そのひでえツラ拝みにきたんだよ」
あろうことか、健一郎は壮司の頬を指さし、心底愉快そうに笑った。猛烈に腹が立つ。
「手加減なしに殴りやがって。しゃべりにくくてしかたねえ」
壮司は忌々しく吐き捨てた。
健一郎の渾身の一発により、奥歯は一本折れ、衝撃で口腔を噛んでしまったため、いまだ頬はうっすらと赤く腫れている。しばらくは剣道をやるにも激しい痛みを伴った。
健一郎の視線が患部を滑ったかと思うと、唐突にふいと顔を背けた。
「……悪かったな」
ややあって、ボソッと呟いた健一郎の言葉に、壮司は耳を疑う。
壮司に頭を下げることなど、下手をすれば命を失うことより嫌がりそうな健一郎が、謝るとは。信じられなかった。
同時に、彼にこれだけの行動をとらせる理由に、壮司は心当たりがあった。
「桐原に言われたんだろ」
図星か、健一郎が言葉につまった。
この様子だと仲直りはすっかり済んだようだ。彼らの和解に自分が一役買ったのは複雑な気分だが、安堵の方が強かった。壮司に芙美花を略奪する気は欠片もない。
彼らの仲がよければよいほど、自分が誘惑にそそのかされ、愚かな行動をとる危険性は少なくなるのだ。
あとは芙美花からきちんと振ってもらえば本望だが、正式に告白していない以上、それを望むのは虫がよすぎた。
「……俺だって一応、少しは悪いと思ってんだよ」
健一郎の消えいるような呟きに、思わず相好を崩した。こういうところがあるから、憎めないのだ。
「……あの、さ。どうすんの、古賀と」
健一郎の声音には苦いものが混じる。
彼が純然たる気遣いから言ってくれているのだとわかっている。だが、眉間にしわを寄せずにはいられなかった。
「俺にどうしろと?」
低く返すと、健一郎は押し黙った。
巴を救おうと思うことすら、壮司のおごりであったのだ。巴にははなはだ陳腐で滑稽な行動に映っただろう。
「古賀とお前って何なの?」
冬を予感させる乾いた風が、健一郎のえりをはためかせた。
「……桐原からは――?」
もうとっくに、芙美花経由で何から何まで伝わっているかと思っていた。
「何も言わねえよ、芙美花は」
意外だったが、それはそれで芙美花“らしい”な、と壮司はペットボトルに口をつけた。
彼らの互いに寄せる多大な信頼は疑うべくもないが、そこら辺の線引きはきちっとしている。自分たちの特殊な関係も、巴の疾患も、たとえ健一郎であっても知られたいことではない。
芙美花が分をわきまえ、恋人の健一郎にさえも黙っていてくれたことは、非常にありがたかった。
「ま、言いたくねえなら別にいいけど」
黙りこんだ壮司に、健一郎はごく軽い調子でつけ加えた。彼の必要以上に踏みこんでこない距離の取り方が心地よい。
「古賀もお前のどこがいいんだろうな」
ふと、近くに存在を感じる。健一郎が隣で柵に寄りかかっていた。
何気なく失礼なことを言われた気がするが、壮司が気になったのはそこではなかった。
「……お前までそういうのか」
「は? 何が?」
「だから、その、巴が俺のこと好き……だとか」
口の中でもそもそと呟いた壮司を、珍妙なものでも見るかのように、健一郎は視線を向けてくる。それから、奈落の底まで落ちるような深いため息をついた。
「お前さぁ、鈍いにもほどがあるだろ」
脱力したような健一郎に、やはりそうなのか、と疑念を確信に変える。芙美花に言われてから、そうかもしれないとは思っていたが、いざ他人から断言されると戸惑った。
「お前、何年古賀の側にいんだよ」
逆だ。近すぎてわからなかったのだ。彼女のことを何でも知っているような気でいて、実際は重要なことほど何ひとつ把握していなかった。
「しかたないだろ。巴は家族みたいなもんなんだよ」
「そう思ってんのは、てめえだけ」
現実を突きつけられ、壮司はうなだれた。
頭をよぎる場面場面で、巴はどんな気持ちで、言葉を吐き出したのだろう。妊娠できない体を抱え、どんな気分で、許婚を“演じて”きたのか。
いまさらに自分がしたことが、ひどく残酷に思えた。
「情けねえの。いっそのこと、その姿を古賀に見てもらって幻滅してもらえよ」
「うるせえ。黙ってろ」
健一郎の言い草はいちいちむかつくが、一種の気安さがあった。おかげであまり深刻にならずに済んでいる。
「黙ってて欲しかったらしっかりしろよ」
だが、その調子が不意に固く真剣なものへ変質した。
「芙美花が心配してる。話がしたくてもつかまらないんだとよ」
『誰が』それがなくとも、芙美花の案じる先がわからないはずなかった。
巴は、おおむね普段通りに過ごしていた。今までのように他愛ない雑談こそないが、用事があれば話しかけてくることもあるし、仕事もぬかりなく行っている。
一方で、それが表層的なものに過ぎないともわかっていた。
帰寮時刻がギリギリまでずれこんだり、食事をしばしば抜かしたりもする。明らかに壮司や芙美花と共有する時間を減らしているのだった。
万事、そつなくこなしているように見えて、やはり無理をしている分、しわ寄せが来たようだ。彼女のテストの順位はガタ落ちだった。
失恋で身を持ち崩す自分をふがいなく思い、さらに虚勢を張って無茶を重ねていくのは目に見えていた。
下劣な噂をはねのけるように凛と立ち、孤立を深めていく巴に、芙美花のみならず壮司も胸を痛めていた。
「芙美花は何とかすっから、お前も土下座でもしてさっさと許してもらえよ」
健一郎の中では、壮司は浮気に近いことをした最低な男という格づけがなされている。事実はもっとタチが悪い。元の鞘に戻るということは永劫不可能だ。
「俺が何しても火に油を注ぐだけだろ」
「じゃあ注げばいいだろ」
無責任なことを、と腹立たしく思い、健一郎を睨みつける。だが、こちらの鋭い視線をものともせず、彼はカラリと笑った。
「一度、爆発した方がすっきりすんじゃねえの」
ざっくりとしたアドバイスを残し、健一郎は壮司に背を向けた。
巴を刺激しないように、早く自分のことなど忘れるように、とそればかり考えていた壮司には、思わぬ切り口だった。
しかし、真実必要なのは、腹を割って話すことなのかもしれない。
今まで自分たちはあまりにも心の内をさらすことも、相手をどう思っているかかを明かすことも避けてきた。許婚では、相手が嫌いになったからといって、おいそれとは別れられない。本心を隠すことで、争いの種を遠ざける防衛策だったのだ。
皮肉なことに今ならば響くものは何もない。すでに関係は破綻してしまったのだから。
ぼんやりと中庭に視線を落とした。
すっかり落葉して寂しげな木々の間を、藍色のジャージを着こんだ生徒たちがパラパラと歩いているのが見える。五時間目の体育に向かうのだろう。
壮司の目は自然と、長い髪のすらりとした肢体を持つ少女に向かう。ここからでは人の顔を判別するのも難しいが、それでもわかる。巴だ。
毅然と歩くその姿は、馴れ合いを拒んでいた。痛みに耐えることに意義を見いだしているようだった。
誇り高い彼女は落ち込んだ様子など意地でも見せないだろうが、それが返って壮司の目には痛ましく映るのだ。
苦々しく瞳を外して、腕時計に目を走らせると、もうすぐ予鈴だった。ずっと体を預けていた柵から離れた瞬間、チャイムが鳴った。
次の授業は、と考えて、はたとまずい可能性に行き当たる。
体育は男女比の関係上、一・A組合同だ。すなわち巴が体育なら――。
「俺もか!!」
大変よくない状況だ。あと五分しかないのに、まだ着替えてすらいない。
壮司は猛スピードで屋上を後にした。