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かざす花  作者: ななえ
第4章
20/68

第5幕

 昼休みのまどろんだ空気の中を、健一郎は風を切って歩いた。

 鬼気迫る勢いで歩く健一郎に、穏やかな家政科生たちが、不審な視線を投げてよこす。中には恐れも混ざっていた。だが、それを一々気にするだけの余裕はなかった。

 『二年家政科』と、カードが下がった教室の扉をためらいなく開く。

 女ばかりのクラスに入ってきた闖入者に、教室内の目が一斉に健一郎へ集中した。

 日の当たる窓際で、机を寄せあい、楽しげに昼食を食べるグループ。そこに目当ての芙美花を見つける。迷わず、そちらへ向かってくる健一郎に、回りの女子たちは口々に芙美花をからかった。

「健さん、どうしたの……?」

 健一郎がのんきに昼食の誘いにでも来たわけではないことを、芙美花もわかっているだろう。健一郎は収まりのつかない腹立ちに任せ、芙美花の腕を引っぱった。

「健さん!?」

 抗議のこもった芙美花の叫びに構うことなく、手荒に立ち上がらせた。彼女の手を引きながら、興味津々な女子たちの中をつっきる。廊下へ出ても、健一郎は歩みを止めない。

「健さん、どうしたの? 健さん!」

 ひたすら困り果てて呼びかける芙美花を無視し、階段を上る。

 一階上、特別棟四階は音楽室や化学室等の集まりだ。昼休みは人気がない。ひんやりとした空気が停滞していたが、健一郎を冷やしはしなかった。

「健一郎!!」

 芙美花がひときわ大きな声で名を呼ぶ。そこで初めて足を止めた。

「何があったの?」

 背中を越えて、芙美花の声が届く。

 怒気をまきちらす健一郎に、当惑しきっている声音だった。

「不動に何て言われたんだよ」

 声音を抑えて問いかける。

 つながった手から、ありありと芙美花の動揺が伝わってきた。しかし、彼女は口をつぐんだまま、一向に話そうとしない。その煮え切らない様子に、怒りが即座に駆け抜ける。

 体を反転させ、たぎる熱のままに、芙美花の肩をつかんだ。

「不動に好きだって言われたんだろ!? 何で俺に言わねえんだよ!!」

 憤りをすべてぶつけるように、芙美花を強く揺さぶる。乱暴な扱いにも、芙美花はうつむいて、なすがままになっていた。

「俺は何なんだよ! 彼氏じゃねえのかよ!!」

 壮司が芙美花をそういう目で見ていたかと思うと、嫉妬に心が暴れた。そして、何も知らずにのうのうと暮らしていた自分にはヘドが出そうだった。

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな芙美花の謝罪に舌打ちする。芙美花に謝られても、怒り狂った心が沈静化するきざしはなかった。

 芙美花の肩から手を離し、猛然と歩く。

 よほど健一郎が危険に見えたのか、芙美花は急いで追ってきた。

「不動くんには何もしないで!」

 腕に取りすがり、必死に芙美花が懇願するが、それは逆効果にしかならない。

「止めて。お願い!!」

 悲痛に叫ぶ芙美花を引きはがし、怒りを脳内で繰り返しながら、文系棟に向けて足を動かした。

 壮司は二年一組の教室で、次の授業の予習に取り組んでいた。何ら普段と変わりない姿に、怒りがさらにふくれあがる。もっとも、彼がどんな行動をしていても、今は激怒しただろうが。

 ただならぬ雰囲気をまとって、教室に入ってきた健一郎と、おろおろとした芙美花を見比べ、壮司はすぐに事態を察したようだ。壮司は潔く立ち上がると、教室の出口へ向かう。

 いくら怒りで我を忘れていても、教室で事を荒だてるほど愚かではない。健一郎も無言で壮司を睨みつけ、教室を出た。

 人気のないところへ移動する道すがら、芙美花は何度も健一郎を押し止め、壮司を守ろうとした。

 そのたびに、壮司が「大丈夫だ」と短く答え、むしろ芙美花に教室へ戻るように諭した。

 そのやりとりに耐えかね、生徒会室に着いたまさにその瞬間に、壮司の右頬目がけて拳を振るう。

 壮司はただ、迫りくる拳を見つめていた。ガキッ、と鈍い音が鳴って、彼がよろける。

「健一郎っ! 止めて!!」

 芙美花が悲鳴じみた声を上げ、自分の胴に腕をまきつけてくる。

 だが、健一郎には、壁にもたれかかる壮司しか見えていなかった。

「人の女にちょっかい出してんじゃねえよっ!!」

 拳に鈍痛が走る。それでも、獰猛な怒りは、一発殴ったぐらいでは満足していなかった。

「古賀はどうしたんだよ! 散々思わせぶりなことしといて、最後には捨てんのかよ!!」

 常より自虐的なその姿は浮かんだが、巴を擁護しようという、崇高な意志があったわけではない。これも壮司を責めたてる事柄のひとつに過ぎなかったのだ。

「……」

 壮司は反発も威勢もなく、唇の端ににじんだ血を、拳でぬぐった。

 反撃の意志がない彼に、本当に芙美花のことを好いていたんだな、という思いが実感として沸く。

 もし、これが壮司でなけれは、不快に思いはしたが、暴力に訴えたりはしなかった。

 だが、巴に恋人とも単なる友人ともとれない態度をとっておきながら、結局芙美花に好意を寄せたことが許せなかった。

 胸の内に秘すべきその想いを外に出したことも、著しく常識を欠いた行為に感じた。

「……否定はしねえ」

 壮司はゆっくりと壁から背を離し、しっかりと立つ。不自然な話し方は歯が折れているからかもしれない。

「だが、自分の女を他の男の前で泣かせんな。後輩の女ぐらい御せるようにしろ」

 諭すような落ち着いた言葉は、健一郎に少なからぬ焦りを与えた。

 自分が知らない芙美花のことを、壮司が知っている。わけがわからないこと、と切り捨てることはできなかった。

「お前と桐原の仲をどうこうしようとは思ってねえよ」

 真剣そのものの瞳で、壮司は健一郎の胸を軽く小突いた。

「混乱させて悪かった……桐原も」

 “桐原も”その一言と、芙美花に向けられた一瞥に、壮司の複雑な想いが凝縮されているように思えた。

 すでに腫れてきている頬を気にする様子もなく、壮司は半端に開いたドアに手をかける。

 出ていくその背中を見ても、もう壮司を罵倒する気は失せていた。

 芙美花を奪うわけでもなく、巴は失い、壮司に苦悩がないわけではないのだ。健一郎の殴打を甘んじて受けたところに、彼の悲壮さを感じた。

 壮司がいなくなり、健一郎を戒めていた芙美花の腕がそろりと離れていく。また逃げられてはたまらないと、その手をもう一度自らの胴に回させた。

「俺、ずっと芙美花に迷惑かけてたんだな」

「そんなことないよっ!」

 今に至っても、否定してくる芙美花がいじらしくて苦笑した。

 壮司が言っていた『後輩の女』健一郎には身に覚えがあった。

 部の後輩、田川 理佳が、明らかに目をそらすようになったのだ。

 それは恋愛の恥じらいなどという明るいものではない。それはそれは気まずそうに目を伏せるのだ。それが罪悪感や後ろめたさからだったとしたら、納得がいく。

「何にも気づけなくて、ごめんな」

 理佳や芙美花の一連の行動は健一郎が引き起こしたことであったのだ。芙美花を守っているようにみえて、その実守られていたのだ。

 今もこうして無言を貫くことで、芙美花は健一郎を傷つけまいとしている。

「……あの、ね」

 芙美花の語尾がしぼんで消える。次の言葉を言い淀んだ。

「観念して言っちまいな」

 腹の上に添えられた芙美花の手を、自らの手でおおう。軽く握ってやると、芙美花は健一郎の背に額をくっつけてくる。

 その口から、小さな嗚咽がもれた。

「もう、どうしていいかわからないの……」

 芙美花の手が、小刻みに震えている。声は湿り気を帯びていた。

 芙美花の苦しみは相当なものであっただろう。壮司と巴の板挟みにあい、身動きがとれなくなっていた。事が事なだけに、誰にも相談できなかったに違いない。

 何もしてやれなかった自分が悔やんでも悔やみきれなかった。

「俺も、芙美花の顔が見れないとどうしていいかわかんねえよ」

 全身の熱が顔に集まってくる。恥ずかしすぎて、悶え死にしそうだった。

「……だって私、迷惑かけてばっかりだし、弱いし」

「関係ねえよ」

「関係なくない」

 芙美花は他人に流されがちかと思いきや、意外と頑固なのだ。

 健一郎が何度折れたかわからない。

「私は健さんがいなくても強くなりたい……!」

 強くなる。それは芙美花の永遠のテーマだった。

 強くなりたい、強くなりたい、と唱え続け、その理想形は巴だったようだ。

 健一郎にしてみれば、無理な話だった。巴には巴の、芙美花には芙美花の強さがある。それに巴だって、芙美花が思うほど完全無欠で強いわけではないのだ。

 健一郎は芙美花の腕を解かせ、彼女と向き合った。

「ひでえ顔」

 向き合った芙美花の顔は、涙でぐしょぐしょに乱れている。

 小さく笑って、カーディガンの袖でぬぐってやった。

「芙美花は弱くねえよ」

 健一郎は芙美花をただ一方的に支えていたわけではなかった。

 最初は不安がっていた巴と打ち解けたのだって、芙美花自身の力であるし、ときには健一郎と壮司のケンカをなだめてくれた。

 それは、彼女が憧れるような苛烈な強さではなかったかもしれない。しかし、芙美花の中に確かに息づく、やわらかな強さであった。

「嘘」

「嘘じゃないから。俺だって何度も助けられてんだ」

 ほがらかに笑う姿に何度救われただろう。無理をしないで、がんばって。その無垢な声援に、身を奮い立たせたのは、一度や二度ではない。

「俺は芙美花に頼られるほど強くねえよ。落ち込んでるとこ見せたくなくて、逃げ回ってたんだからな」

「私に言っても何の役にたたないから、黙ってたんじゃないの?」

 理佳はあますとこなく話したようだ。

 対戦相手にケガをさせた精神的ダメージから、いじけていた自分が、みっともなくて、穴があったら入りたい気分だった。

「そんなわけないに決まってんだろ。かっこつけたいだけなんだよ」

 弱い自分をさらけだして、芙美花に幻滅されるのが恐ろしかった。

 健一郎は盛大なため息をついた。

「二人とも、弱くてダメだな、俺ら」

 互いに弱い弱い言い合っている状況がおかしくて、苦笑う。芙美花もつられて笑った。

 その泣きぬれた頬に手を添わせる。ふっくらとしたそれを、両手で包みこんだ。芙美花がくすぐったそうに身動ぎする。そのささいな仕草にさえ、とろけそうな幸せを感じた。

「二人で、強くなろう」

 いつも自然体でいられるように。お互いがお互いを思いやる気持ちを忘れないように。健一郎は願いを込めて呟いた。

 返事をもらう代わりに、口づけを交わした。

 芙美花の感触を思い出すように、長く長く触れあう。

 久々のキスは涙の味がした。

 健一郎は飽きることなく、ただ味わい続けた。

 幸せの味に、心が満たされていった。

 

  ―◆―◆―◆―◆―

 

 私を救おうとなど思わないことだ――。

 頭の中で、巴の声が反響する。

 意識が覚醒すると、徐々に四肢の感覚が戻ってきた。

 まぶたを開いて、壮司が最初に見えたものは天井だった。白い壁の中心で、同じく白い光の照明が目に痛い。

 晩秋の冷気で強ばった体をいたわるように身を起こした。

 フローリングの床には、教科書やら、参考書が散乱している。がむしゃらに勉強しているうちに、眠気にいざなわれ、意識を手放したらしい。

 ――本当に目覚めが悪いな。

 壮司は、膝を曲げ、その上に肘をついた。手を組み、そこへ額をつける。

「……」

 涙が一筋、流れ落ちた。

 ――俺は、貢の言うとおり、巴を捨てた。

 誰が何と言おうと、奈落の底へと突き落とした。

 それでも、自分は巴を選べない。子供の生めない巴を、伴侶には選べはしない。

 子をなし、古賀家を次代へつないでいくために、壮司の存在価値はある。

 その意義に背くことは、自分自身を否定することだった。

 三歳のときから十四年間刷り込まれた思いは、壮司をあがらいようのない力で押さえつけた。

 たとえ、芙美花や他の誰かを妻としても、突きつめていえば家は継げる。だが、他の誰でもない巴だけは、その道を断つのだ。

 何という皮肉。

 恋人と友人の間でたゆたうことは永遠にできなくなってしまった。今や、一緒にいることは、どちらにとっても不幸になってしまった。

「……いや、」

 気休めだ。言いわけだ。

 壮司はただ、彼女が重くなったのだ。

 一途に向けられる想いに、尻込みした。無条件の愛を享受することに恐れをなした。壮司が彼女を愛するには様々なしがらみが多すぎて、自由な芙美花を欲したのだ。

 芙美花が言うように、ずっと前から巴は熱を持って壮司に接していた。その声が、瞳が、指先が抑えきれない恋を語っていた。

 壮司は、彼女から与えられる、快い感情を傲慢に受け取るだけだった。家族だから当たり前だと思い込み、防御線をはっていた。都合の悪いことには目をそらし、耳をふさいでいたのだ。

 壮司は頭を抱え、膝に額をつけた。そして、こいねがう。

 願わくは、巴に新しい幸いを。

 自分は家と巴を天秤にかけたら、家を取るだろう。

 家という名の檻から出た彼女に、優しい世界が待っていればいい。

 壮司はそちら側へは行けない。だから、せめて彼女が安らげる一画があればいい。

 巴を不確かなものへ託す、無責任な思いだ。それでも、望まずにはいられなかった。

 どうか、自分と離れたその先に明るい未来を。

 月並みな言葉で、壮司は声もなく祈った。


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